「市民のゼロリスク要求」という神話

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2年半ぶりの更新。
今日、TL上で佐々木俊尚さんのこのツイートが話題になっていた。

原発の安全神話を生みだしたのは電力会社と政府だけではなく、ゼロリスクを求めた市民の側にも責任があるということを自覚しましょう。

これについて、tweetしたのをもとにFacebookに書きなぐったのを、こちらにも転記しておく。
ここで佐々木さんが言ってるような「市民がゼロリスクを求めたのも安全神話が生み出された一因」みたいなのを見かけたら、まず考えなければならないのは、そういう見方は、「市民はゼロリスクを求めている」という専門家等が抱く根拠レスな信念(=「ゼロリスク神話」)である可能性だ。

たとえば原発反対・脱原発派が実際に求めてきたのは「ゼロリスク」ではないだろう。それはあくまで表面的な見かけで、主張の本義は「一発過酷事故が起きたら大変な被害が出るようなもの(ゼロリスクにできない限りは容認できないようなもの)は要らん」ということであり、ゼロリスクが達成不可能なのは大前提である。

それに対して「ゼロリスク(絶対安全)」を装ってきたのが、とくに1990年代半ばまでの政府や電力会社の立場だ。


この件で思い出すのは、90年代末に旧科技庁で行われた浜岡原発震災リスクに関する討論会。浜岡の住民グループと地震学者の石橋克彦氏、この件で質問主意書を出した国会議員と、科技庁側の専門家らによるもの。

その討論会で最も印象深かったのは、科技庁側の専門家がこう述べた時のやりとり。

「皆さん、この世にリスクのないものなどありません。橋だって飛行機だって何だって事故のリスクがあります。原発も同じです。ゼロリスクを求めていたら何も動かせません。まずはそのことを前提に話をしましょう。」

これに対して浜岡住民側はこう切り返した。

「ゼロリスクはないというのは私たちが言ってきたことです。それをずっと否定して絶対安全と言ってきたのは国や電力会社ではないですか!」

浜岡住民側はゼロリスクはありえないことを前提に、そのリスク(具体的には発生しうる被害の程度)の受忍(不)可能性を問題にしているのに対し、科技庁側の専門家は、被害の受忍性は度外視して、単に確率の大小だけで考え、たとえば「航空機事故よりリスク(確率)は低いのだから原発のリスクを受け入れないのは不合理だと」と受忍を迫ったり、リスクの存在は認めつつも「リスクは管理・制御可能だ」という事実上の絶対安全論を唱えるという構図。
このように、原発推進のためのPA(Public Acceptance)のレトリックが、「絶対安全論」から、リスクの存在を認めつつも、確率の大小だけで受忍を断じたり、リスク管理の万全性を強調したりする「素朴リスク受忍論」に転化した一番のきっかけは95年のもんじゅ事故であり、その考え方・やり方は、3.11後の放射線リスクに関するリスコミにも継承されている。
ちなみに佐々木さんのような主張は、あちこち、とくに原子力界隈からはよく聞く話で、おそらく、原子力の中の人的には、そういう状況理解もあるんだろうと思う。つまり、「反対派・脱原発派の市民が『絶対安全でない限り動かすな』とうるさいから、リスクについて公けに合理的に議論できなくなった」「ちょっとした不具合でも公表すると反対派やマスコミが騒ぐので公表が遅れたり情報隠しが行われた」「規制も不必要に厳しくなって定期点検の手続きや作業が煩雑になった」等々というのはよく聞かれる。(※この点についてこの文末に「追記」あり。)
その挙句、たとえば2006 年に当時の鈴木篤之・原子力安全委員長が、原子力防災体制を、IAEA の深層防護の考え方に沿って、過酷事故時の避難等の防災計画整備まで含めたもの(五重の壁)に改める作業を開始したら、広瀬研吉・原子力安全保安院長が「寝た子を起こすな」と言ってその作業を中止させることになったりもした(その結果、311の事故の際の避難の混乱がもたらされたといえる)。
その背後にある心理も、要は、「防護体制を強化したら、原発は危ないという印象が強まり、反対派を勢いづかせ、世論の不安も広がる(寝た子を起こす)から大人しくしてろ」というもの。

でも、ここにある対立は、「ゼロリスクを求める不合理な市民」と「合理的なリスクの評価と管理を行おうとする(けれども不合理な市民のゼロリスク要求に翻弄される)政府・電力会社」という対立ではないだろう。
根本にあるのは、国民がゼロリスクを求めてるということではなくて、国・電力会社としては何が何でも原発を続けたいという立場と、ひとたび過酷事故が起きれば受忍不能な被害が生じるがゆえに原発は要らんという立場の対立ではないか。

そして何が何でも原発を続けたいがゆえに国や電力会社は、かつては絶対安全をいい、もんじゅ事故以降は、上述の素朴リスク受忍論で、「リスク(発生確率)は低いんだから受忍しろ」「より大きな確率の他のリスクは受け入れてるくせに何で原発は受け入れないんだ」という説得レトリックを続ける。あるいは絶対安全というよりは、リスクの存在を認めたうえで「リスクは管理・制御可能」というイメージを装って寝た子を起こさないようにする。

そのうえで出てくるのが、「我々はちゃんとリスクの存在を認め、合理的に管理しようとしているのに、反対派の市民が非現実的なゼロリスクを要求する。そのためリスク管理が混乱するし、科学的・合理的なリスク評価に基づいたリスクコミュニケーションもうまくいかない」という「ゼロリスクを求める国民が悪い」論。

けれど、根本で、過酷事故時の被害は受け入れられないがゆえに原発そのものを不要だと考える立場に対しては、いくらリスクは低くて管理・制御もできると言っても、「ゼロリスクにはならない」という現実ゆえに、話は通じない。問われているのは原発は要るのか要らないのかであり、「どこまでリスクを下げ安全にするか」ではない。問題の「フレーミング」という根本で話がすれ違っている。国・電力会社の目線からいえば、議論がこじれるのは「市民がゼロリスクを求めているから」ではなく「我々が推進・維持であるのに対し、市民が原発推進・維持を反対するから」と見るべき問題なのだ。

つまり考えるべきは、へたすれば国土の広範な部分が長期にわたって居住不能となり、数多の人々の生活やその基盤であるコミュニティ、生業を破壊し、賠償や復興、廃炉のために数十兆円もかかるような過酷事故のリスクをもつ発電方式を我々の社会は(どこまで・いつまで)受けいれ続けるのかどうか、受け入れ続けるとしたら、その必要性は何かという話であって、その際、「推進ありき」は一旦棚上げしなければならない。(ちなみにドイツはこの検討を「倫理委員会」で行い、「受け入れられない」と判断したわけだ。)
「原発のリスクはどれくらいか、どこまで下げるべきか」ではなく、そもそも、ここまでの犠牲を払うリスクと引き換えにしてまで原発を推進・維持する必要はあるのか、必要があるとすれば、その理由は何か、そしてその理由を我々は正当なものとして、被害の受忍性に照らして、同意することができるかどうかという問題こそが、一番問われなきゃならないはず。
もちろん政府も電力会社も原発の必要性については、これまでにもたくさん広報・説明してきている。けれど、それが本当に必要なのかについて異なる立場・見解の人々と正面から議論するということはなかった。必要性は議論の余地のないものとして扱われ、それに挑戦すること、被害の受忍可能性や、それに照らしたうえで必要性を議論することはずっと拒まれてきた。
そしてもしも、本当に原発がこれからも日本社会に必要だと言うなら、原子力防災や被害賠償の制度はどうあるべきかという問題をちゃんと議論しないといけない。せめて福島第一原発事故の被害者に対しては誠実に十分な賠償・補償を行い、今後起きうる事故に備えて、そうした賠償とその資金調達の制度の整備(風向き次第では現行の原賠法の大幅バージョンアップ)、実行可能な避難計画策定を含むIAEAの深層防護体系の完全導入くらいはやらないといけないのではないか。それくらいの道理は尽くすべきなのではないか。
もちろんここで備えるべき「今後起きうる事故」の被害規模は、福島第一原発事故で「ありえた」被害を基準に考えるべきだろう。311の事故では放出された放射性物質のかなり多くが風で海洋に流れたために、被害が現状の程度――それでも十分に甚大――に留まった。風向き次第ではもっと広範囲に高濃度で汚染されたかもしれない。4号機の使用済み核燃料プールだって、もしも予定通りに工事が完了してたら、冷却水喪失でとんでもないことになり、3月下旬に近藤原子力委員会委員長が作成した「最悪シナリオ」のように東京だって避難する必要があったかもしれない。そういう「ありえた311」の可能性を忘れないという道理も大事。
さらには、必要性そのものの検証も必要。大きな電力が必要だとして、原発に代わってそれを供給する代替電源は技術的・経済的にありえないのか。そういう合理性を尽くすことも必要だろう。
要は、ドイツのメルケル政権が設置した倫理委員会がやったのと同じ理路で、これからの原発・エネルギー政策を判断するということだ。その結果、ドイツは「原発の残余リスクは受忍し難いうえに、代替手段は利用可能と判断されるために、脱原発する」と決めたわけだ。もちろん、道理と合理を尽くした上で日本がこれとは反対の結論を選ぶことはありうる。

「市民がゼロリスクを求めてるから云々」というのは、そういう議論からの逃避を続け、とにかく推進で突っ走るための問題のすり替えでしかないように思う。

だいたい、原発の推進や建設に関しては市民の声を聴かないのに、「ゼロリスク要求」は聴き入れて規制を厳しくしましたというのも、ずいぶんと都合のいい言い分。推進・建設ありきだから、それを認めてもらうために規制も厳しくするし、さらにいえば「騒ぐ子を寝かせる」ための火消し(ときには「もみ消し」も)をやってるのが本当のところだろうに。

ちなみに「市民はありもしないゼロリスクを求めている」という見方は、専門家等が根拠なく抱きがちな「神話」(ゼロリスク神話)であり、一見ゼロリスク要求に見える市民の態度はもっと複雑な理由によるものだという話は、リスクの心理学や社会学の研究ではよく知られた話。

そのあたりの話は、むかーし、ブログに書いたことがあり、3.11の事故のあとはずいぶんと読まれたようだ。SNSや直接の話として、「これ読んで、事故のあと、政府や東電、専門家の話に対してずっともやもや感じてたものがやっと明確になった、言語化できた」という声をよく見聞きした。

「リスクをめぐる専門家たちの”神話”」(2002.10.14)

それと、これの「後日談」。

ある村の長老の世迷言

とりあえず、こんなところで。
<追記>(2016.12.16 12:46)
上述の「原子力の中の人の状況理解」について追記です。
「反対派の市民やマスコミがゼロリスクを求めるからXXX」というのは、より精確には次のような悪循環の構造のことであり、それを「ゼロリスクがー」の一言で単純化して表現してるというのが実態なのだろうと思う。

  1. 「技術的には安全性に影響しない(=安全マージンの範囲内の)軽微な故障や、部品等の経年劣化でも、反対派やマスコミが大きく騒ぎ、それに対応するのが大変なので、規制を必要以上に厳しくしたり、場合によっては虚偽報告・情報隠蔽をしたりしてしまう(過度に厳しくなった規制基準に対応するのが大変だという理由でのものも含む)」
  2. 「虚偽報告・・情報隠蔽をした場合には、余計に反対派やマスコミに叩かれ、規制が厳しくなったり、虚偽報告・情報隠蔽の動機づけが強化されたりする」
  3. 「その結果、ますます事業者(電力会社)は信用されなくなる」
  4. 以下ループ

そしてこのような構造は、別に事業主を擁護するとか同情するとかではなく、ちゃんと考えないといけない不幸な問題なんだと思う。
もちろん虚偽報告等は法令違反でもあるからなくさないといけないし、その原因を「反対派やマスコミが煩いから」とするのは責任転嫁なのだけど、こういう構造があるままでは、結局同じことが繰り返されそうである。原発継続の是非については不一致のままであっても、たとえば、せめて「技術安全」とはどういうことか、現実的な感覚や認識を関係者(事業者、マスコミ、反対派市民など)のあいだで共有できるようにはならないものかとは、常々思う。
ただ、そういうミクロな関係性はそれなりに改善できるし、これまでもそういう取り組みがなかったわけでもないが、他方で、東電の経営責任を十分に問わずに「賠償費用の財源は新電力からも」「国民負担で」とかいう政府方針なんかが出てくると、とたんに不信・対立の構図が強化されてしまう。そもそもこれまでの虚偽報告等で累積した不信も重たいわけで。やはりミニマムな関係性すら改善は難しいだろうし、仮にそこが改善したからといって、より大きな政府や電力会社の問題の解決・解消には関係ないだろうという虚しさもある。
そもそも原子力行政や電力会社の問題は、原発利用を続けるかどうかも含めて、反対派やマスコミとの関係性の中で生じるものばかりではないし、むしろより構造的・体質的・行政文化的・企業文化的なものや、核政策(安全保障問題含む)の問題も絡んでる問題が圧倒的に大きいだろう。ミクロな関係性とは全くレイヤーが違う問題なのであり、それがミクロな関係性、そこでの信頼にも深く影を落としているというのが、実際のところなのだろう。ミクロな関係性だけ切り出して改善してみても、問題状況はほとんど変わらないのだろう。もちろん、ミクロには無意味ではないだろうけども。

 

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