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STS News & Remarks

2002年9月-10月

科学・技術と社会に関わるトピックを中心に、ニュースの紹介や寸評、思いつき、覚書きを綴るコーナーです。内容について御意見、ご教示、情報の御提供、お問い合わせがありましたら、ぜひメールをお寄せください。

もくじ

「リスクをめぐる専門家たちの"神話"」(2002.10.15)
「有機農〜地域の自立か、世界貿易か〜」(2002.9.22)

「リスクをめぐる専門家たちの"神話"」(2002.10.14)

先々週末(10月5日)、原子力安全委員会が開いたパネル討論会「リスク社会で安全を得る−原子力は特別なのか−」に行ってきた。会場は自宅からチャリで10分ちょっとの京都リサーチパーク。7月に東京で開かれたパネル討論会「リスクと、どうつきあうか−原子力安全委員会は語りあいたい」に続く二回目の討論会だ。ファシリテーター役の小林傳司さん(南山大学)からの誘いで、会場からの質疑応答でいろいろツッコミしてくれという半分「サクラ」としての参加だった。

討論会の中身だが、午前中は統計学者の竹内啓先生(明治学院大学国際学部教授)の講演。1時間ちょっとの時間、歯切れのよい調子でトントンと話を進める竹内さんの要点として、特に拾っておきたいのは以下の点だ。

  1. (リスクに関する)確率や期待値の計算は、人と人との間の社会的な関係のなかでは全面的には通用しない。たとえば人は、「その確率は本来小さかった」ことを理由に、ある行為の責任を逃れることはできない。たとえそれが非常に低い確率の出来事―「不運」―であっても、その「不運の分配」(不運な出来事に対する責任の分配)は、被害にあった人だけに負わせてはならず、個人よりは企業、弱者よりは強者の側により多く振り分けられなければならない。
  2. 原子力発電所の安全性について少なくとも危惧があり、他方で国民全体に対するエネルギー供給を確保するという課題がある中でどのような政策を決定するかは、根本的に「政治的決断」の問題であり、行政担当部局や、責任主体のはっきりしない技術専門家たちの「科学的判断」だけで行なわれてはならない。
  3. 社会的に大きな影響をもつ可能性のある事象について、「その確率は0.001」だというような計算をするのは技術専門家の役割だとしても、それを「十分小さいから無視してよい」とか「無視できない大きさだから再検討しよう」と判断するのは、一つの「政治的決定」であって、その結果については政治的に責任がとられなければならない。その点で、リスクのように不確実なことについての意思決定では、誰がどのような手続きで決定し、その責任を誰が取るのかを明確に定めたルールが必要である。
  4. リスクを含む社会的行為の決定について完全に「合理的な」あるいはどのような立場・意見・信条等々とも無関係な「中立的な科学的判断」というものはありえないことを前提にし、その上で一人一人が真剣により多くの専門家の意見を聞き、主体的に判断して決定を下すプロセスに加わることができることが、民主的社会におけるリスク問題にかかわる合意形成のルールであり、人々に対して責任を持って具体的な行動計画を提示し、人々の賛成を求めることが政治的指導者の義務である。

竹内さんがこのように言い、ここで特にそれをピックアップしているのは、現実のリスク問題をめぐる専門家たちの言説が、これとは違う方向に向いているからだ。ご存知の人も多いかと思うが、1995年の高速増殖炉もんじゅの事故を初めとして、1999年のJCO臨界事故など、原子力事故が相次ぐなかで、この国の原子力業界は、政府も専門家も一様に「原子力にもリスクはある」ということを盛んに強調するようになってきた。遺伝子組み換え食品など、他の分野でも同様だ。下のグラフは、日外アソシエーツのデータベースMAGAZINE PLUSで調べた1990年から2001年までの11年間の雑誌記事タイトルにおける「リスク(risk)」、「リスク評価またはリスクアセスメント(risk assessment)」、「リスクコミュニケーション(risk communication)」の3語――リスク単語――の登場頻度の変化だ。5月にベルリンであったワークショップ「科学と民主主義: 科学、技術、政治」で小生が報告した"The Recent Rise of Risk Analysis in Japan: Tension between Technocratization and Democratization in the Governance of Science and Technology (PDF70KB)"で、余興で作ったみたものである。「リスク」のなかには経済的・経営的な意味でのリスクも含まれていると考えられるが、いずれの単語も、もんじゅ事故のあった1995年を境に登場頻度が急増しているのが分かるだろう(「リスクコミュニケーション」は登場回数が全体として少ないのだが)。

和雑誌記事タイトルにおけるリスク単語の登場頻度

こうした変化は、以前は「原子力発電所は安全です」の一点張りで、市民の前ではリスクの「リ」の字も口にしなかったことから考えれば、ある意味大きな進歩といえるのだが、大きな問題点を抱えているのも事実である。

とくに問題なのが、「××が起きる確率は10-6です」とか、あるいは「原子力発電所の事故よりも自動車事故の方がずっと確率(リスク)が大きい」というような「確率論的リスク論」の言い回しに潜む、偏狭な「技術主義的リスク論」というべき傾向だ。偏狭だというのは、それを持ち出すことによって、確率計算には収まらないリスク概念の広がりや、技術の評価に関わるさまざまな政治的・倫理的・経済的・文化的な「社会的要素」がそっくりそぎ落とされ、隠されてしまうからだ。もちろん確率計算をする技術的専門家の役割としては、まさに確率計算をすることが本務だし、それなしには規制政策は成り立たないのだが、困ったことにそれがそのまま行政における政策決定全体を覆い尽くし、その背後にある(原子力産業界などの)政治的・経済的な利害さえも隠されてしまう傾向があるのだ。

ちなみにこのような技術主義的リスク論の問題点は、原子力に限らず、遺伝子組換え生物(GMO)や化学物質のリスクをめぐってもいたるところで現れている。そして、この点で興味深いのが、欧州のイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン五カ国の科学技術論(STS)の研究者たちの共同研究プロジェクト「欧州における農業バイオテクノロジーに関する一般市民の認知」(Public Perceptions of Agricultural Biotechnologies in Europe: PABE)の報告書Public Perceptions of Agricultural Biotechnologies in Europe: Final Report of the PABE research projectである。あまりに日本のリスク談義にもあてはまるところが多い結果なので、週末を利用してその抜粋要約「GMOに対する一般市民の認知に関する10の神話」を作ってみた。

この報告書で特に興味深いのは、政策立案者や科学者などが抱く「GMOに対する一般市民の認知」についての見方には、実は経験的事実の裏づけの無い「神話」がたくさんあるという分析結果だ。「一般市民の認知(public perceptions)」というと普通は、一般市民は科学技術について無知なので、その認知は間違っていると専門家が主張するのがお約束なのだが、PABEの結果はその反対なのである。以下は、PABEが指摘している専門家たちの「10の神話」のリストである。

神話1

根本的な問題は、一般市民が科学的事実に無知であるということである。

神話2

人々は、GMOに対して「賛成」か「反対」かのどちらかである。

神話3

消費者は医療用のGMOは受け入れているが、食品・農業に利用されるGMOは拒絶している。

神話4

欧州の消費者は、貧しい第三世界に対して利己的に振る舞っている。

神話5

消費者は、選択の権利を行使するために遺伝子組換え表示を欲している。

神話6

一般市民は、誤って、GMOは不自然なものだと考えている。

神話7

市民が規制機関を信用しなくなってしまったのは、BSE(狂牛病)危機の失策が原因である。

神話8

一般市民は「ゼロリスク」を要求しているが、これは不合理である。

神話9

GMOに対する一般市民の反対は、倫理的または政治的な、「他の」要因によるものである。

神話10

一般市民は、事実を歪曲する扇情主義的なメディアの従順な犠牲者である。

先にも言ったように、これらのなかにはGMOだけでなく原子力の場合でもよく言われることがたくさんある。一番典型的なのは「神話1」だろう。つまり、一般市民がGMOや原子力に反対するのは、彼らが科学技術に無知だからであり、反対は単なる感情的反応に過ぎず、したがって、ちゃんと科学的事実を理解してもらえばみんな賛成するはずだ、というものだ。その結果、推進されるのが、「リスクコミュニケーション」の名のもとに進められる「国民の皆様にご理解いただく」キャンペーン――専門家や役人が定義した「リスク」や「安全性」についての科学的・技術的な情報や知識の一方的な啓蒙活動――であったり、さまざまな科学教育政策の振興策だ。しかしPABEは、このような考え方は、一般の人々がなぜ反対するのかの理由を完全に見誤っていると批判している。

というのも、PABEの調査結果によれば、一般市民は、確かに科学的・技術的なことには無知かもしれないが、科学技術の専門的知識とは全く種類が異なる別の知識や疑問をもとに、賛否を判断しているのであり、感情的に反発しているわけではないからである。下のリストは、PABEがフォーカスグループという調査手法で「一般市民」のサンプルとした人々が、GMOの評価をする際に重視していた疑問点である。(フォーカスグループとは、ある共通項をもつ10名前後の人々を集め、そのグループに対して質問をして、ディスカッションをしてもらうのを調査員が観察することによって調査をする手法である。ある特定の人々の考え方などを知りたい場合に用いられる。)

このリストから明らかなとおり、フォーカスグループの参加者たちが重視していたのは、GMOやそのリスクの科学的詳細に関する問題ではなく、その開発・利用・評価・規制・意思決定のされ方やその主体、利害関係や責任関係など、実に「社会的」な問題だったのであり、それらに関する判断は、企業や専門家、規制当局などの振る舞い(行状)に関する経験から導かれていたのである。要するに、GMOを推進する専門家や政策立案者と、それに反対する一般市民の間にあるのは、GMOやリスクに関する科学的・技術的知識の「量的格差」ではなく、知識の種類と問題枠組みの「質的なすれ違い」なのであり、いくら一般市民に科学的知識を啓蒙しても、上記の問題群に対する答が否定的なものである限り――たとえば意思決定が不透明だったり不正や虚偽が相変わらず行われつづけていれば――反対論が消え去ることは無いし、そもそもこれらの広範な問題群に正面から答えず、狭い科学的・技術的なことばかりを言い立てつづけること自体が、専門家や行政に対する不満と不信を増殖させるのである。

神話1に続いて、第二にここで取り上げたいのは「一般市民はゼロリスクを要求しているが、これは不合理である」という神話8だ。これは日本でもしょっちゅう見聞きされるもので、人によっては「ゼロリスク症候群」などと「病気扱い」した侮蔑的表現までしていることもある。まぁ、確かにどんなものであれ多かれ少なかれリスクはあるのは当り前であり、もしも本当に人々がゼロリスクを望んでいるとすれば、この非難は的を得ているといえるだろう。しかしPABEの調査結果では、人々はゼロリスクなど要求していないのだという。いいかえれば政策立案者や専門家の方が、「一般市民はゼロリスクを求めている」という「ゼロリスク神話」に囚われているというわけだ。

まず第一に、フォーカスグループの参加者たちは、「自分たちの人生がリスクに満ちており、リスク同士、あるいはリスクと便益とのあいだで釣り合いをとらねばならないということを完全に分かっていた」し、さらにいえば何事にも「不確実性」があるということ――たとえば科学的なリスクの評価結果にも不確実性はあるということ――も彼らにとっては至極当り前のことだったのだという。そんな彼らが求めていたのは、ゼロリスクではなくて、行政や専門家が、「リスクは無い」と言い切ったり、その基盤にある科学的判断の不確実性をちゃんと認めようとしない傲慢な態度を改め、意思決定のなかでもっと真剣に不確実性を考慮することだったのである。

このようなすれ違いは筆者もあちこちで見聞きしているが、一つとても印象に残っているのは、数年前に、東海大地震の震源域の真っ只中にある原子力発電所をかかえ、いわゆる「原発震災」を懸念している静岡県の浜岡の住民グループと、当時の科技庁の原子力安全委員(?)との討論会の一場面だ。さっきも書いたように、95年のもんじゅ事故以来、原子力業界も「原子力にもリスクはある」ということを公言するようになってきているわけだが、この討論会でもそうだった。科技庁の専門家曰く、「皆さん、どんなものにもリスクはあるんです。それを認めないことには対話は成り立ちません。」傍聴していた筆者は、「何、今更、寝ぼけたこというとんねん?それこそ運動側がずーっと言ってきたことやないかい」と内心ツッコンでいたら、案の定住民グループから「それこそわれわれが言い続けてきたことであり、『絶対安全だ』と言いつづけてきたのはあんたらじゃないか」というツッコミ。ものの見事にその専門家は「ボケ役」をやってくれたわけだ。

ちなみにさっきも書いたように、リスクの存在を認めるようになったこと自体は大きな進歩であり、ようやく同じ土俵で対話ができるようになったといえるかもしれないが、話はそう簡単ではないだろう。一般の人々と専門家とでは、その「リスク」の捉え方はずいぶんと違うはずだからだ。専門家にとってリスクといったら、"10-6"というような「ある望ましくない事象が発生する確率」であり、科学的に評価可能なものだったりするのに対し、普通の人の感覚でのリスクの概念では、科学的評価自体がもつ「不確実性」――現時点での最良の科学を用いても予見できない未知のことが起こりうるという「科学の無知」や、今正しいとされていることがいずれ誤りだと分ったり、正しいリスク管理の方法があっても人が間違ったり機械が誤作動するかもしれないという「可謬性(fallibility)」も含めた不確実性――がけっこう大きなウェイトを占めているのではないだろうか。もちろん専門家による科学的なリスク評価でも、不確実性の程度を吟味することは必須なのだが、普通の感覚から考えるものと比べればずっと狭い。となれば、「リスク」といいながらも、そこに含まれる広い意味での不確実性を専門家や行政が十分に考慮していない――少なくとも、していないように見える――限りは、相変わらず彼らの態度は「絶対安全です」というのと同じくらい傲慢に見え、不信を育てるばかりで対話は成り立たないに違いない。

ところで「専門家のゼロリスク神話」については、もう二点付け加えるべきことがある。一つは、「フォーカスグループの参加者たちは、不確実性は避けられないという現実を考えれば、長期的には予見せざる影響がありうると考えていたため、技術開発を進める理由が善いものであることを要求していた」というPABEの結果である。つまり参加者たちは、絶えず「一体何のために開発しているのか」「どんな必要性があるのか」「その目的は何なのか」という疑問に立ち戻っていたが、それは彼らが、想定されているその技術の目的が、自分たちを不確実性に曝すのに十分なほど重要なものかどうかを疑い、ちゃんと吟味するための手段を求めていることを示しているのだという。いいかえれば彼らにとってGMOの評価で重要だったのは、専門家たちが重視する「リスクと便益のつりあい(リスク-ベネフィット分析)」――この場合には、リスクも便益も定量的に計算され比較される――ではなく、「不確実性と必要性・目的とのつりあい」なのであり、しかも、その評価は、専門家にお任せではなく自分たち自身でしたいというわけだ。ついでにいえば、私見では、そうしたつりあいを重視する裏には、「そもそもいろんなリスクに満ちた現状に、なにゆえ新たにリスクや不確実性をわざわざ付け加えたりするのか」という疑念もあるんじゃないかと考えられる。つまり「ゼロリスク」ではなく、「これ以上のリスク増加ゼロ」を人々は求めていて、仮に増加させるなら、それに見合うだけの「理由(便益・必要性・目的)」を納得のいくかたちで示せ、というわけである。

もう一つ、これはPABEの報告書では直接触れられていないことだが、技術を評価するときには、不確実性と「責任」のつりあいも重要だと考えられる。つまり、さっき引用しておいた「フォーカスグループの参加者たちの主要な疑問」にもあるような「万が一何か被害が生じたときには誰がどんな責任を取るのか?」「そもそもそれは誰かが責任を取りきれるものなのか?」という結果責任(liability)や、そのような被害が生じないように、開発者や規制当局がきちんとリスクを調べ管理する遂行責任(respondibility)とその能力(capacity)の問題である。技術に対して人々が否定的になる理由には、このような責任問題について、これまで開発者や規制当局がきちんと対応してこなかったし、また過去の失敗から学んでもいないように見えるということも含まれていると考えられるだろう。

いうまでもなく、このようなPABEの分析は、日本の原子力をめぐる論争にもそのまま当てはまる。この点で、先の討論会で竹内さんの話に並んで興味深かったのは、午後の土屋智子さん((財)電力中央研究所経済社会研究所主任研究員)の報告。彼女は社会心理学の立場からリスク問題を精力的に研究している方で、しばしば技術の「推進派」の人たちが持ち出す「科学的に正しい専門家の『客観的リスク』」と「素人の個人的主観でしかない『リスク認知』」という区別を捨てて、専門家の側の「リスク認知」のバイアスについても分析した研究を発表している。

そんな土屋さんの報告には、面白い論点がたくさんあってとても勉強になったのだけど、ここでは質疑応答のときに小生がした質問に関連して、次の二点を取り上げておく。一つは、科学技術一般について、それを評価するときにどういう点を重視するかを、原子力の専門家、バイオテクノロジーの専門家、電力会社の社員、一般市民(=科学技術の非専門家)の4者に尋ねた結果だ。そこにはいろいろな側面があるのだが、なかでも際立っていたのは、原子力とバイオの専門家、電力会社の社員の3者は、数ある項目のなかで技術の「社会的必要性」を重視する割合が、一般市民と比べて非常に高いという結果だ。で、直ちに思いついたのが、「この社会的必要性の重視は、『評価』の局面ではなく、その技術を社会に向けて『正当化』する局面――世間を『説得』する局面――で重視されているのではないか」、そして「必要性を重視するといいつつも、実はその必要性が本当に世の中にとって必要なことなのかは吟味されていないじゃないか」という疑問である。そこで早速、土屋さんにこの疑問をぶつけ、評価の文脈と正当化の文脈を区別できるような調査結果はありませんか、と尋ねたところ、そうした調査はまだ無いとのこと。「うー、それは残念」と思ったら、土屋さんの横に座られていた竹内さんから、「科学者や技術者は、自分は社会に役立つことをやっているというが、そのことと、本当にそれが社会に役立つかどうかは別のこと」という主旨のナイスフォロー。これには、おもわず心の中で拍手喝采!

ちなみにコンセンサス会議など市民参加型のテクノロジーアセスメント(参加型テクノロジーアセスメント:Participatory Technology Assessment)の老舗、デンマーク技術委員会(Danish Board of Technology)"Communication about risk: Let laymen lay the foundations"(リスクのコミュニケーション―素人に土台を任せよ)で、参加型テクノロジーアセスメントのエッセンスを次のように定めている。

今日、技術に関係するリスクの評価と規制は、逆立ちしたやり方で行われており、このやり方をひっくり返す必要がある。専門家によるリスクの分析から出発する代わりに、まず素人が専門家のために問題を定式化してやることから始めるべきである。そして、評価対象になっている技術の有用性を、リスクの分析と評価の語られざる前提としてしまう代わりに、有用性そのものの価値に関する議論をリスクに関する議論と結びつけるべきなのである。

それから、もう一つ土屋さんの報告で面白かったのは、「原子力で専門家や行政は『予防』にばかり全力投球し、万が一の対策への関心が薄い」という指摘で、実はこれは見事に、午後のパネル討論の議論にも表れていた(竹内さん、土屋さん以外のパネラーには、日本原子力研究所原子炉安全工学部長の阿部清治さん、東京大学大学院工学系研究科教授で原子力案全員会安全目標専門部会部会長の近藤駿介さんという原子力の専門家がいたが、二方の話はやはり予防面に偏っていた)。で、その点を指摘しつつ小生が質問したのは、先の「不確実性と責任のつりあい」という論点にもつながるもので、「大事故が万が一起きたとき、晩発性の障害が出たときの補償の可能性はどうなっているか」ということだった。つまり、即発性の障害なら、因果関係の証明はわりと簡単で補償が得られる可能性は高いが、何年、何十年もたってからの障害の発生はそうはいかないだろうという懸念だ。なにしろ「ガン」のような病気の原因は、放射性被曝以外にもたくさんあり、事故から長年経った後では、裁判に持ち込んでも「事故による被曝が原因であるとはいえない」といわれて敗訴する可能性大アリだからだ。これに対する近藤さんからの回答は、「被曝線量が推定できれば、そこから因果確率で因果関係を主張できる」というものだった。

ちなみに、時間の関係もあって、この件についての質疑応答はこの回答をもらったところで切れてしまったのだけど、小生としては、この回答はまったく不十分で、被害を被る可能性のある人々を安心させるものは何もないと思っている。まず第一に疑問なのは、被曝線量の推定は、誰が、誰の採ったデータに基づいて行うのかだ。1999年のJCO臨界事故の時だって、少なくとも国のウラン加工工場臨界事故調査委員会(以下、事故調)議事録)が発表した線量データは、国とは独立に推定した市民運動側(JCO臨界事故総合評価会議)のデータと食い違っており、(当然ながら)国側のデータの方が線量が小さかったりする。総合評価会議のメンバーの弁護士・伊東良徳氏の『世界』2002年11月号掲載の「置き去りにされた地域住民、安全性 ―― JCO事故から三年」によれば、核分裂で発生した放射性物質――それは周辺住民によって吸引され体内被曝を起こしているかもしれない――の放出量を行政も事故調も特定しておらず、特定のための努力も十分されていないのだという。放出量の特定には、臨界に至ったウラン溶液の分析が一番有効だが、それは非常に不完全な仕方でたった一回しか行われず、しかも、JCO臨界事故総合評価会議が再分析を再三要請したのにもかかわらず、事故調はウラン溶液を旧動燃に再処理させてしまったのだというからとんでもない。それじゃただの証拠隠滅じゃん、と誰もが疑うのは明白だろう。

さらにもっとひどい話は、賠償に対する事故の当事者JCOの態度だ。JCOは、「風評被害」を受けた企業に対しては計147億円あまりの賠償金を支払っている一方で、周辺住民に対しては一切賠償を拒否しているのだという。住民には、居住者5万円、勤務者3万円の「見舞金」のほかには休業損害2日分、健康診断費用1回分、事故により汚染されたとして廃棄した衣服代のみを、他の一切の請求をせず、しかも示談内容をマスコミなどに公表しないことを条件に支払うというのだそうだ。実に「ありがち」のこととはいえ、なんともエゲツない所業である。そして、JCOが賠償を拒む理由というのが、これまた公害問題などではおなじみの「住民の健康被害と被曝との因果関係が明確でないから」だという。(ついでにいえば、事故後、当時の科技庁は、住民の健康被害と被曝との因果関係の立証責任は住民側に課し、かつその基準は厳しくしろという「御ふれ」を出したといわれているが本当だろうか?)

しかしながら、伊藤弁護士が指摘しているように、「賠償すべき損害は、被曝と相当因果関係にある損害ではなく、事故と相当因果関係のある損害である」はずだ。なにしろ147億円もの賠償金が払われている企業の損害は、「風評被害」という、被曝したかどうかは無関係の「事故の発生という出来事そのものによる損害」なのだから、住民に対してだけ被曝との因果関係を持ち出すのは、明らかにアンフェアなダブルスタンダードである。企業の風評被害を賠償対象と見るなら、放射線被曝の生物学的影響としての健康被害だけでなく、事故の発生そのものによる「被曝したかもしれない、将来ガンになるかもしれない」という不安やストレス、PTSD(心的外傷後ストレス障害)など心理的障害はもちろんのこと、心理的なものから来る身体症状だって賠償対象とすべきだろう(普通の交通事故では、事故によるうつ病や自殺も相当因果関係がすでに認められているそうです)。さらにいえば、たとえば「婚姻差別」(被曝しているかもしれないからという理由で結婚できなくなるということ)という「人間に対する風評被害」だってそうだろう。「被曝線量が推定できれば、そこから因果確率で因果関係を主張できる」という回答がいかに不十分なものか、それが決して人々を安心させるものではないかが、このJCO事故への国や企業の対応を見るだけでもよく分るだろう。

ついでにいえば、「被曝と健康被害」のように因果関係の範囲をおもっいっきり狭く生物学的なもの、あるいは「自然科学的なもの」に絞ってしまい、「社会的因果性」を無視してしまう傾向は、「技術主義的リスク論」の根本的問題の1つでもある。リスク論では一般に、「望ましくない事象が生起する確率」としてのリスクを定義する際に、「望ましくない事象」として「人の死」が使われている。しかし、被害を被る側からすれば、望ましくない事象には、「生きた心地のしない」底無しの不安や、「死んだほうがまし」なPTSDや差別の苦しみなども入る筈だ。ところが、不安やPTSDのような心的障害や差別のような社会的事象は、当然ながら客観的な定量化がとても難しいか不可能であり、定量的なリスク評価には乗らず、定量性を金科玉条とする技術主義的リスク論に縛られている限りは、そのための事前対策がたてられることもない。

そのような定量的リスク論の土俵をはみ出た(広い意味での)リスクに対処するのに必要なのは、まさしく竹内さんが指摘しているような、民主的な「政治的決定」を通じた「不運の分配」という正義の行使しかないはずだ。弱い者、傷つけられた者が泣きを見るのではなく、自然科学的因果関係があろうとなかろうと、それが証明できようとできまいと、強い者、傷を負わせる原因を作りだした者がより多くの責任をとるということ、そうしたことの法的・道義的ルールがなければならないのである。昨今、たとえばBSE(狂牛病)の発生以降、原子力だけでなく食品部門でも「科学的なリスク評価」の重要性が説かれ、業界政治的な力関係に事実が歪められてきた今までの規制政策の恣意的運営を改める意識が高まってきている。それはそれで大いに歓迎すべきことなのだが、しかしその一方で、科学的リスク論ばかりが先走り、「正義論」が忘れられたままになってしまうのではいかという不安は、このJCO事故に対する国や企業の対応を見ると、ますます募るばかりである。

最後に、今回の討論会のような原子力安全委員会の姿勢について言っておくと、少なくともかつての不透明で権威主義的な態度からすれば、その姿勢は明らかに前向きのものとして評価したい。もんじゅ事故以降、確かに原子力行政は学習しているし、まともに未来を考えている役人もいるのも確かだ。ただ、それは、原子力の安全性、さらにはそもそも国のエネルギー政策全体のなかでの原子力の位置付けや「必要性」の論議まで視野に入れた視点――市民運動側の視点はまさにそれだ――から見れば、あまりに歩みがのろい。今回の討論会が、そうしたより根本的な議論の場の創出につながっていくことを強く期待するし、科学技術論(STS)として自分もその責任を負う大きな義務があるな、と思う次第である。

 
※ 下記の拙文もご参考に。
「ある村の長老の世迷言」(2005年5月21日)〜Mangiare!Cantare!Pensare!

「有機農〜地域の自立か、世界貿易か〜」(2002.9.22)

昨日はATTAC京都の月例学習会で、「有機農〜地域の自立か、世界貿易か〜」という話を聞いてきました。講師はNGO手づくり企画「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」の平賀緑さん。明後日から始まる演習2のゼミは、「食と農のグローバリゼーション」がテーマなので、ゼミ生予定者には「予習としてぜひ参加してね」と声をかけてあったのだけど、まだ授業開始前ということもあってか、ゼミ生参加者は2人でちょっと残念(お二人、ぜひゼミのときに報告してね)。

レクチャーのなかですごく興味をそそられたのは、「有機の意味」と、「有機のモノカルチャー」と「フードマイル」という二つの言葉。「有機(organic)」の意味については、「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」では、「水、土その他、農に必要なあらゆる要素を適切にオーガナイズ(organize)して生産・流通・消費することが、有機的(organic)ということが本当の意味である」としているそうで、たとえ自然農薬を使ったとしても、それは有機じゃないんだそうです。つまり、土壌が健全だったり、必要な要素がうまくオーガナイズされていれば、野菜が強くなったり、生態系の食物連鎖でうまくバランスされて、害虫はそれほど大きな問題にならないのだから、たとえ自然農薬であってもわざわざ農薬を使うあたりがすでに「歪んだ有機」というわけ(このあたりは「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」のHPを見てみてください)。

次に「有機のモノカルチャー」というのは、結局、有機農業っていっても、商社その他の大資本が手を出すと大規模化して、広大な農地に単一の作物をつくること(=モノカルチャー)になっちゃって、農薬をいっぱい使ったり、農地の生態系にとってかなり無理を強いる「歪んだ有機」になってしまうということ。要は、今までどおりの利益優先・効率優先の大量生産・大量消費システムを前提にした市場経済システムの「内側」に留まっているということです。

そして、農産物が生産されてから消費者のところに来るまでにどれくらい長い経路を通じてやってくるかを表わす「フードマイル」というのもそれと同じで、たとえば大規模生産してるアメリカとか、あるいは生産コストの安い第三世界で有機野菜を生産して、それを複雑で長大な経路を通じて先進国に運ぶというのがどんどん増えているんだそうです。そしてそれは、歪んだ有機である「有機のモノカルチャー」を拡大したり、途上国では、現地の人たちが自分たちの食べ物を作る自給用農地が、先進国の商社やアグリビジネスとの契約で先進国向けの有機農産物の生産用に転換され、現地の人たちが飢えに追いやられるという有機以前の構造がそのまま引き継がれていくことでもあるわけです(しかも途上国には、まだ化学肥料や化学農薬で汚染されていない「きれいな農地」がたくさんあるので、「有機ビジネス」にとっては格好の餌食となっている)。さらに別の面では、フードマイルが長くなるにつれて、その分、輸送に伴う二酸化炭素の排出量も増大して地球温暖化の加速に寄与したり、燃料資源の浪費にもつながってしまうという「環境負荷」もどんどん大きくなっているそうで、工業製品ではすでに普及し始めてる「ライフサイクルアセスメント(LCA)」を、有機農業にも適用しないといけないということなんですね。

とにかく昨日は勉強になりました。後期のゼミでは、とりあえず、自分のとこの食卓にのぼる食べ物の「フードマイル」を調べさせることから始めてみようかな。

ところで「食と農のグローバリゼーション」ということでは、来月10月29日(火)に京都市左京区の法然院で、「もう一つの世界は可能だ!〜ジョゼ・ボベ・トークライブ in Kyoto」という催しがあります。主催は京都精華大学で、ATTAC京都ジュビリー関西ネットワークなど京都界隈のNGOによる「ジョゼ・ボベ・トークライブ in Kyoto 実行委員会」が協力という形態で開かれます。

ジョゼ・ボベ氏は、フランスの中小農家の組織であるフランス農民連盟(Confederation Paysanne)の代表で、食と農の工業化、新自由主義的なグローバル化に異を唱え、いまやフランスだけでなく世界的に活躍している「反(新自由主義的)グローバリゼーション運動」のリーダー的存在です。5月7日放送のNHKの「クローズアップ現代」の「ヨーロッパの新しい風(1)揺れる食大国フランス」にも登場してました。今年前半には、パレスチナ議長府で人間の盾となりイスラエル軍に捕えられたりするということもあったりしましたが、彼の名を世界にとどろかせたのは、フランスの小都市ミヨーでの「マクドナルド解体事件」。これは、EU(欧州連合)がアメリカ産のホルモン剤肥育牛を食の安全の観点から輸入禁止にしたことに対し、アメリカがWTO(世界貿易機関)協定違反の制裁として、EU からの輸入食品に100%という報復関税をかけ、ボベの地元ラルザック地方の特産ロックフォール・チーズも、この報復関税の対象となったことがきっかけに起きた「事件」でした。ボベをはじめとする羊乳農家や市民ら約300 人が抗議のため、ミヨーに建設中のマクドナルド店舗のパネルや壁を取り外し、フランス国内では当時の与党議員までが賛意を示したというものでしたが、そんな行為をした理由は、マクドナルドは、食の安全を脅かし、食文化・農業文化を画一化し、世界に貧困と環境破壊を広げつづける食と農のグローバル化、“la Malbouffe”(=悪しき食)の象徴だったからで、ボベの裁判には世界中から2万人の人々が応援に駆けつけたそうです(このあたりのことも「クローズアップ現代」では映像つきで紹介されてました)。

ボヴェのこと、農民連盟のこと、イベントのことは、同実行委員会のウェブサイトにいろいろ情報を載せてるので、そちらを見たり、彼と彼の友人のフランソワ・デュフールのインタビュー本『地球は売り物じゃない!―ジャンクフードと闘う農民たち』Amazon.co.jp, bk1は書評つきの紹介)を読んでみてください。日本でも問題になってる遺伝子組換え作物や狂牛病問題、あるいはその他のさまざまな食品会社の不正行為の問題を、効率・利益優先の新自由主義グローバリゼーションという広い視野で捕えなおしてみる良いきっかけになると思います。(もちろんトークライブに参加して、疑問があれば何でもボベ本人にいろいろ聞いてみるのが一番でしょう。)

ちなみにボベ氏の来日は、ATTAC Japanの招聘によるもので、次のようなスケジュールで全国行脚をする予定です。お近くの方はぜひご参加ください。(※ ボベ氏と農民連盟の都合により、当初の予定が大幅に変更になりました。

【ジョゼ・ボベさん来日日程】

10/27(日) 成田着
28(月)  「ジョゼ・ボベ大いに語る―食・農・環境・平和」(大阪)
29(火)  「もう一つの世界は可能だ〜ジョゼ・ボベ・トークライブ in Kyoto」(午前。夕方Bove's Cafe)
     「ジョゼ・ボベさんと大いに語る東京集会」
30(水)  新潟集会(午前)      福岡集会(夕方)

最後にもう一つ。今日、買い物の帰りに寄った四条のジュンク堂で、ふと岩波の『世界』10月号を見たら、ちょうど特集が「『安全な食べ物』は得られるか」でした。目次は以下のとおりですが、大野さんの論文はとくに必読!

[農と食の現状] グローバリゼーションの中の食の安全と農業
 大野和興(農業ジャーナリスト)
 
[遺伝子組換え食品] 遺伝子組換え作物 ―― 深まる健康と環境に対する影響の懸念
 河田昌東(名古屋大学)
 
[BSE] 狂牛病危機をどう乗り越えるか ―― 安全な牛肉の供給のために
 中嶋康博(東京大学)
 
[食品安全行政] 食品安全行政はどうあるべきか ―― 消費者の立場から見た食品安全委員会・食品安全法整備への提言
 神山美智子(弁護士)
 
[インタビュー] 国、企業、そして私たちの責任
 日和佐信子(全国消費者団体連絡会)
 
[地域からの回答] 地産地消・旬産旬消が日本の食を救う
 篠原 孝(農林水産省)
 
[学校給食] 地場産給食が地域を変える ―― ローカルな経済・文化・思想を育てるために
 中村 修(長崎大学)