遅ればせながらBuon Anno! 2011

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慌しくしているうちに、12月があっという間に過ぎ、気づいたらもう大晦日・・・・を過ぎて新年となり、早くも5日が過ぎてしまった今回の年末年始。

遅ればせながら、関係者の皆様、このプログ読者(いるのか?)の皆様、今年もよろしくお願いいたします。

写真は、妻のらら美プロデュースの御節料理。例年より数品少ないながらも、食べ応えはたっぷりで、元旦の夕食は、これとアゴ出汁の雑煮で、すっかり満腹に。

とはいいつつ、その後でTVで観ていたのがイタリア料理の番組だったものだから、2時間後には食欲復活。異様にイタリアンな味が食べたくなってしまった。

結局、ポルチーニと玉ねぎ、ブロッコリ、キャベツを炒めて、バルサミコ酢で味付けしたのを具にして、「餅ピザ」を作ってしまった。(ほんとはポルチーニ+トリュフのクリームソースでフェットチーネを作りたかったのだが、麺のストックがなくて断念。)

その後の日々も同様の有様で。。

(実は、年末から禁煙中で、おそらくは「禁断症状」の一つとして、食欲が異様に高まっているのです。)

そんなわけで食欲に振り回されている新年最初の記事は、ほんとは「一年を振り返って」というつもりで大晦日に書く予定だったもの。遅ればせながら、これはちゃんと書いておかないと、年を越した気になれないので、やはりアップしておくことにする。


2010年の個人的一大事――初単著『科学は誰のものか』の出版

2010年を振り返って一番大きかった出来事は、拙著『科学は誰のものか―社会の側から問い直す』(NHK生活人新書)の出版。新書とはいえ、初の単著。これについては、本に書けなかったことも含めて、やはりいろいろ書いておかねばならない。

新聞等の書評でもいくつか取り上げていただいた。たとえば11月14日の日経「今を読み解く」では北大の杉山滋郎さん、11月21日の信濃毎日新聞では東大の鬼頭秀一さん、12月16日には朝日新聞のasParaクラブの「めざせ文理両道!本読みナビ」で、同紙編集委員の尾関章さんの評。本書で紹介した市民科学研究室(旧・科学と社会を考える土曜講座)のニュースレターでも、同講座に出入りしていた頃、大変お世話になった猪野修治さんから心温まる評を頂いた。年末(12月23日深夜)には、TBSラジオ「Dig」のコラムコーナーで荻上チキさんに紹介していただいたり。また個人のプログでも、けっこう多くの方に好意的に紹介していただき、著者冥利に尽きる思いです。皆様、本当に有難うございます。

最初に編集者のFさん@NHK出版より、お声がけいただいたのが2008年の秋。それから出版まで2年近くも経ってしまって、ずいぶんと迷惑をおかけしてしまったのだけど、チャンスを頂けて、本当に有り難く思っております。(またその間、とくにクライマックス状態に突入した去年春以降、研究プロジェクトのメンバーにもいろいろ迷惑をかけてしまったこと、お詫びとともに深く感謝申し上げます。)

拙著でこだわったこと

さて、「チャンス」という点で、実際あの本は、自分的にはある種の「区切り」をつけるために書いたところがある。大学に就職して10年経ち、そろそろ次の10年の仕事にテーマを移さねばならないと考えていた時期でもあったし。そのための執筆は、まだもう一冊残っているのだけど、とりあえずその第一段は『科学は誰のものか』でけっこう書けたんじゃないかなと思っている。
そういうものとして、この本でとくにこだわったのは、科学技術と社会、科学者と一般市民のコミュニケーションなんてことではなく、「社会のガバナンス」やデモクラシーの問題系――要するに、多種多様な人々に関わる公共的な物事を誰がどうやって決めるかに関する問題系――の一つとして、科学技術を、徹頭徹尾ソーシャルな視点から捉えるということ。

さらにいえば、科学技術がかかわる現代社会の問題で根本的に大事なのは、実は科学的・技術的(=理科系的)な問題ではない、ということまで示すこと――少なくとも作業仮説として、そのような見方が必要だと示すこと。これにはいくつかの意味がある。

人文・社会科学の視点、ソーシャルな視線で科学技術を見るということ

一つは、科学技術は、「社会問題」という点で、年金や福祉、雇用、景気、教育など他の社会問題と同じであるだけでなく、「社会的な事象」としても同じだということ、したがって政治学や経済学、法学、社会学、文化人類学、歴史学、倫理学、哲学など、人文・社会科学の道具立てによって分析し理解することができるし、そうされなければならないということだ。

ありていにいえば、「文系」の中の人たち、もっと科学技術について、遠慮せずに手出し口出ししませんか?ってことだ。(とくに研究者の人!)

もちろん科学技術が関連する問題について理解するには、自然科学など理工系の専門性が必要なこと(=自然科学なしでは解けない問題)はたくさんある。それは当然すぎるほど当たり前の前提だ。しかし、だからといって文系には手が出せないというわけではない。理科系的な内容は、必要に応じて、自分でもある程度分かるようになっているといいだろう(少なくとも、初歩的な誤解をしたり単なる妄想に走ったりしないくらいの基礎的な知識は必要だろう)。しかし、素人では歯が立たないより専門的なところは、詳しい人に噛み砕いてポイントを教えてもらったり、そっくり分業してもらえばいいだけのこと。

そのうえで「文系」が果たすべき独自の役割は、そのままではついつい理系的コンテンツばかりに眼が向いてしまい、文系は「お客さん」あるいは「門外漢」的な位置づけになりがちな科学技術に対して、あえてソーシャルな視線を向け、その視線でなければ見えてこない問題系に焦点をあててみることにあるはずだ。しかしその役割は、今のところ本来期待されるほどには発揮されていない。とくに政治学、社会学、経済学、法学など社会科学からの研究は、少しずつ増えてきたとはいえ、日本ではまだまだ人手も足りないし蓄積も少ない。

世間向けでは、ここ5年くらいのあいだに徐々に盛んになってきた――といっても世の中一般から見れば超マイナーだが――いわゆる「科学技術コミュニケーション」「サイエンスコミュニケーション」というムーブメントがある。しかしその主眼は、理系的コンテンツとしての科学そのもの・技術そのものについて、いかにわかりやすく世間に伝えるかとか、いかに興味を持ってもらうかであり、「社会問題/社会的事象としての科学技術」というソーシャルな(そしてポリティカルな)視点がどれだけテーマ化されているかは大変心もとない。もちろん、そういう取り組みを続けているサイエンスカフェなどの実践者もいらっしゃるのだが(たとえばこちらの科学ひろばなど)、数の上ではまだまだとてもマイナーなのではないだろうか。(この状況は”コミュニケーション・ブーム”の始まりの頃に「科学コミュニケーションとシチズンシップ―日欧の違い」に書いたのと基本的には変わっていない。あと途中までしか書けてない「「科学技術と社会」をめぐる科学技術政策―ゼロ年代から10年代へ(1)」も参照。)

だからこそ拙著では、「社会(問題)の中の科学技術」を取り上げながら、その非理系的コンテンツとして、「<社会の中の科学技術>に内在する<社会>」――科学技術は社会と相互作用しながら形成されるため、技術の構成や科学知識の論理構成に政治・経済関係や社会的価値観などが反映されるということ――にこそ焦点を当ててみたわけだ。それを理解するには、必ずしも専門的な理系の知識が要るわけではないし、ましてや科学を特別「好きになる」必要なんかもない。ただただソーシャルな興味・関心の赴くまま、分析・理解の必要が求めるままに、社会問題・社会的事象としての科学技術を見ていけばいい。それが、とくに第7章で指摘した「科学が問わない/問えない問いを問う」ということの意味でもあるし、第2章で、英国のサイエンスカフェ運動の草分けの一人、トム・シェークスピアの次の言葉を引用した意図でもある。

重要なのは、専門家の話題提供がカフェの中心になるのではなく、議論と意見交換が中心となることである。参加者は研究者や学生ではなく、一般市民である必要がある。サイエンスカフェの目的は、科学的事実を伝えることではなく、問いを提示することであるべきだ。たとえば、「この研究は私たちにとってどんな意味があるのか?」、「影響をこうむるのは誰なのか?」、「私たちにはいかなる変化がもたらされるのか?」、「なぜわざわざそんなことに注意を向けなければならないのか?」といった問いである。すなわち、本物のカフェの中核に据えられるべきなのは、社会的・倫理的・文化的・政治的な問題であり、場合によっては宗教的な問題なのであって、たんなる技術的な問題ではないのである。(中村征樹「サイエンスカフェ―現状と課題」、『科学技術社会論研究』第5号、2008年、31-42頁より引用。)

「科学技術がかかわる現代社会の問題で根本的に大事なのは、実は科学的・技術的な問題ではない」というのは、一つには、このような意味においてである。

さらにいえば、そうした社会的・倫理的・文化的・政治的・宗教的な問題を考えるときに利用する「知識」について理系・文系という区別をすることは、現代ではそもそも無意味だろう。科学技術は現代社会の構成素であり、それを理解することは現代社会を理解することの一部である。要するに、科学の理論内容やテクノロジーの技術的詳細など理系的コンテンツもまた、何らかの社会的・政治的・文化的意味や影響をもつ限りは人文・社会科学の対象である。理系的な知識は、現代に求められる人文・社会科学の知の一部だともいえるだろう。

ついでにいえば、第3章でフォーカスした「不確実性」の話などは、あれは実は、理工系に限らず経験的(empirical)な学問全般に多かれ少なかれ当てはまることだったりする。たとえば経済学を例にしても、同じような議論が成り立つだろう。拙著(とくに3章と5章)で焦点をあてた「科学」は、天文学のような純粋科学や基礎科学ではなく、地震予知や有害化学物質規制、地球温暖化対策など、公共政策の立案・決定の「根拠(エビデンス)」に利用される科学ばかりだった。つまり、遺伝子組換え生物など科学技術のプロダクトや政策内容の「品質」を保証する科学だ。科学技術の研究開発や利用に関して、多様なアクターが関与する「公共的ガバナンス」が求められるようになったのは、いわゆる「政府の失敗」(そして「市場の失敗」)に加えて、政策の根拠を与えるはずの科学の不確実性・可謬性が大きな問題となり、「科学の失敗」が顕著になったことが原因になっている。英国のBSE問題はその好例であり、同じような事例は日本にもたくさんある。そして「政策の根拠に使われる科学」という点では経済学も同様であり、不確実性以外のことも含めて、経済学的な知についても、拙著のようなことが書けるんじゃないかと思っている。

「コミット」すべき問題としての科学技術問題

科学技術をソーシャルな視点から捉えること、そして「根本的に大事なのは科学的・技術的な問題ではない」ということのもう一つの意味は、現代の社会における科学技術の問題は、ぼくたち自身の社会的・政治的コミットメントを必要とする「ぼくらの問題」だということだ。

たとえば、科学で答えが出せるように思われる問題(たとえば今後100年間の気候変動予測)でさえも、知識の不確実性ゆえに、確たる答えが出せないことが多い。事前警戒原則(予防原則)による厳しい規制が「当たり」なのか「はずれ」なのかは、多かれ少なかれ賭けである。価値観や利害の問題がからむため、根本的にはぼくたちが何を諦め、何を選ぶのか、何を譲り、何を護るのか、どのような社会に生きたいか、どういう人生を生きたいかという選択の問題にも帰着する。その意味で科学やテクノロジーの問題は、根本的には科学的・技術的問題ではなく、ぼくたち自身のコミットメントの問題なのだ。

その点で今回、自分自身にとっても「目からウロコ」だったのは、第4章で書いた「善い科学技術」というコンセプト。実はこれ、妻のらら美の発案なのだ。ちょっと本文から引いておく。

 科学技術と社会の共生成の中身、さまざまな科学的・技術的要素と社会的要素が絡みあうその「合流点」にメスを入れ、そこで何が起きているかをつぶさに見ていくこと。科学技術に社会のどんな――あるいは誰の――価値観やニーズ、利害が反映されているのか。そしてそれは、そもそも反映されるべきものなのかどうかを考えることだ。
 ありもしない「価値中立的な科学技術」ではなく、「善い科学技術」(あるいは、少なくとも「より悪くない科学技術」)とは何か、「誰にとって善いのか」を探ること。それこそ、科学技術のガバナンスの一番の目的だと僕は思う。
 もちろん「何が善いか」は十人十色、千差万別で、一概に答えが出せる問題では決してない。しかし、だからこそそれは、一部の専門家や政策立案者だけでなく、万人に開かれた問いであるべきだし、利害や価値観が異なる者たちが意見をぶつけ合う公共的なガバナンスの問題として扱わなくてはならないはずだ。
 「価値中立的な科学技術」から「善い科学技術」へのコンセプトの転換は、価値中立というベールで覆われた科学技術の問題を、公共性の明るみのなかに引き出し、「誰にとって、何が善い科学技術なのか」を共に考えるための転換なのである。

この部分、最初はどんなふうに考えていたかというと、いわば無色透明な「価値中立性」に対して、多様な価値のあいだのバランス=公正さが重要だという意味で「価値公正性」「価値公正な科学技術」という表現を使おうとしていた。

それに対して妻が一言。「『善い科学』じゃダメなの?」

つまり、「価値公正」なんて概念は、意味は分かるが、社会的な「コミットメント」、その主体性や責任を引き受ける含意を欠いた無味乾燥な言葉だ。それより、あからさまに、価値への――というよりは、異なる価値・意見との「討議/闘議」への――コミットメント、それを通じた「善い科学」や「善い技術」の実現に向けたアクションへのコミットメントを含意する「善い(good)」という言葉をなぜ使わないのか。本書のテーマには、そういう言葉こそ必要なのではないか。コミットメント性のない概念を使うのは、まさに価値中立を装う学者としての逃げではないか。そういう問いかけだった。

それは些細なことのように見えるけど、自分的にはまさに目からウロコが落ちる一言で、実際、そのおかげで、本書で書くべきことの骨太の筋道がすっきり見通せるようになったのだった。(書評サイトで、「善い科学」のコンセプトに「納得!」と書いてくださった評者の方もいらしたが、その一言は、まさに妻のおかげなんです。) 拙著の「おわりに」の謝辞で、妻のことを「自分にとって最も厳しい批評者」と書いたのだけど、これは本当にそうで、「善い科学」の指摘に限らず、文章構成・表現の修正なども含めて、いっぱいツッコミをいれてもらった。考えてみれば、「一番大事なのは科学的・技術的問題ではない」というポイントも、妻との議論で明確になったものだった。彼女には日頃いろいろ迷惑・心労をかけっぱなしで、去年はとくにそうだったのだが、そんなときに、最大のギフトを送ってくれたと深く感謝している。

ちなみに科学に関して「善い(good)」という表現を使うと、”sound science”、”bad science”、”junk science”という表現との関係が、ポリティカルなレトリックの関係として面白かったりするのだけど、「善い科学」という言葉を使おうと決めたときにすぐ連想したのは、ロバート・N・ベラーの名著『善い社会―道徳的エコロジーの制度論』。この本の原著は1992年刊行で、ちょうど出た直後くらいに、妻も一緒だった大学院の授業で読んだのだった(なので我が家には原著が2冊ある)。

同書のテーマは、Amazonの紹介にもあるけど、前著『心の習慣』で示された「責任ある政治的・倫理的実践をともなう〈個人〉のヴィジョン」に続いて、そうした善き意思をもつ「個人」が生きられる「社会」を築くには、どうすればよいか、そのための行動様式の型としての「制度」について考察することだった。実は書いてる間は意識してなかったのだが、拙著でも、とくに「一人一人主義」批判から始まる最後の2つの章で考察したのは、善い科学技術、そして善い社会を築くために、個人が「一人一人の心がけ」を超えて、ソーシャルに何ができるか、そのための実践の型・制度のことだった。まあ、それはあくまで序の口までしか書けず、本格的なことは書けなかったのだけど。(「市民参加」の方法論に焦点をあてた最近の文献では、若松征男さんの『科学技術政策に市民の声をどう届けるか』(東京電機大学出版局、2010)が必読。)

それと、いうまでもないけど、「善い科学技術を!」というのは「善い社会を!」ということの一部にほかならない。「科学技術の発展が未来を創る」なんていう素朴な技術決定論史観は、廃れ果てたフィクションだが、社会の行く末にとって、科学技術が大きな影響力を持つのは事実。それは、現代の社会にとって非常にクリティカルな構成素や力であり、その舵取り(=ガバナンス)は、経済や他の社会問題の舵取りと同じくらい重要になっている。

そして「善い社会」を求めて科学技術の舵を取るとき、場合によっては社会と科学技術のあいだで対立や軋轢をあえて作り出すことも大事なんではないかと僕は考えている。科学技術コミュニケーションとかいうと、それによってなにやら科学技術と社会の間の紛争解決ができそうな期待がしばしば寄せられるのだけど、むしろ維持しておくべき対立もあるだろうし、仮に「コンセンサス」が必要だとしても、それは「分かり合えない」「同意できない」ということに対する「メタ・コンセンサス」だろうと思うのだ。おそらくそうした対立は、どんどん進んでいく科学技術に対して人々が抱く、なんとはなしの「不安」や「違和感」「不気味さ」「不自然さ」といった曖昧な言葉で表現する情念のなかには、たくさん潜んでいるはずだ。それは科学技術の「進歩」(そして経済の「成長」)の前では、「感情的」とか「非合理的」「非効率的」とされ、理性的・合理的思考によって無化すべきことのように扱われてきた。しかし、いつでもそういう扱いでいいのかどうか。
今後は、そういうことも含めて、「科学・技術・資本主義経済による世界の意味論的変容とそれに対する抵抗の可能性」なんてテーマを(非本質主義的に)追いかけてみたいと考えているのだが、その話はまたいずれ。(関連エントリー: 「科学的物語による意味の平板化」(2005.3.10))

今年の抱負(?)

締めくくりに、自分宛のTo Do Listとして、今年の課題をいくつかメモ。

その1。経済学のお勉強。

去年11月頃から妻と二人で、経済学の勉強をスタートさせた。テキストはスティグリッツの『入門経済学』。一番の動機は、一昨年秋にも書いたけど、ちょうど20年前に物理から文転して以来の「モダニティ(近代性)を理解したい」という理論的欲求。科学やテクノロジーと並ぶ近代社会の駆動因としての資本主義経済、そして「世界理解」の方法論・認識論としての経済学。その両面で経済学は興味深い。

また経済学は、現代の科学技術あるいはイノベーションのガバナンス(その可能性と不可能性)を考えるための道具立てとしても必須のはずだし、公共政策で経済学が果たす役割という点で(食品や化学物質の規制に用いられるリスクの科学と同様に)科学論の対象になりうる。

これらいずれの面でも、今後研究するには経済学の勉強は必須。学生時代の初心を取り戻すつもりで、鋭意勉強に励む!

その2。科学技術ガバナンスの「政治学」についての暫定まとめ。

これは、この10年間の「区切り」第2段として書く予定(いえ、必ず書きます。某編集様!)の本ですべきことで、課題は大きく分けて二つ。

一つは、科学技術問題への市民参加に関する熟議民主主義/闘技民主主義論に基づく理論的整理と、実践的制度・アーキテクチャの概観。その観点から、とくにテノロジーアセスメント(TA)や「政策のための科学」(「科学」と呼んでいいかどうかも踏めて)の政治学的および認識論的な基礎論の整理も必要。TAと政策のための科学は、今年から始まる第4期科学技術基本計画で推進課題の一つになっているが、霞ヶ関界隈では、どうも素朴な実証主義的な理解が根強いらしい。そのような理解に根ざした「期待」は結局のところ満たされることがなく、ヘタすると失望に転化してしまい、たいへん有害。もちろんエビデンスに基づくということ自体は大事だし、これまで足りなかったことだから、推進すべきなんだけど、幻想に基づいた期待は禁物ということだ。そのあたりを政策研究(policy studies)における研究史などもレヴューしつつ、整理せねば。
もう一つは、ゼロ年代の科学技術政策、「科学技術コミュニケーション・ブーム」、そして科学技術ガバナンスへの動きを生んだ政治的・経済的背景・経緯や、言説(主導的なイデオロギーやレトリックなど)の分析。これは、部分的には、ここ数年、木原英逸さん(国士舘大学)が続けている「科学技術コミュニケーション論/新しい市民社会論と新自由主義の親和性・相補性」についての問題提起(たとえばこれ参照)に対する自分なりの応答でもある。

その3。中高生向けの科学論の本

『科学は誰のものか』の執筆が佳境に入ってた頃に妻が提案したアイデア。大人と子どもの問答集みたいな。あるいは物語的なものにできるんだったら、『ソフィーの世界』の科学論版といったイメージか(この本自体は、哲学的には最後のところで決定的に失敗してると思ってるんだが)。まぁ、今年すぐには無理だけど。

・・・と、とりあえずこんなところだろうか

あとは不言実行ということで。

最後に一冊、新刊の紹介。

拙著で「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題(科学なし/だけ問題)」と呼んだ問題は、第2章の注19で指摘したように、科学論では「トランスサイエンス(trans-science)」とか「ポスト・ノーマル・サイエンス(Post-Normal Science)」の問題と呼ばれている。このうち、ポスト・ノーマル・サイエンスに関する翻訳書が年末に出ています。

『ラベッツ博士の科学論―科学神話の崩壊とポスト・ノーマル・サイエンス」
ジェローム・ラベッツ著
御代川貴久夫訳
こぶし書房 (2010年12月25日)

著者のラベッツ氏は、70年代に『批判的科学―産業化科学の批判のために』で、科学論で世界的に名を馳せた研究者。ポスト・ノーマル・サイエンスという概念は、90年代初頭に彼が仲間の研究者たちと考えたもので、NUSAP.netというウェブサイトも運営されている。

1929年生まれで、もう80過ぎなのだが、大変精力的で元気な老紳士である。何年か前にバンクーバーで開かれた学会でお会いしたことがあり、そのときに「これ、私の新刊だから買うように」と薦められた(その場で著者サインつきで押し売りされたw)のが、この本の原著The No-Nonsense Guide to Scienceだった。

とっても面白いです。ぜひ読んでみてください。

追記: Twitter再開しました

元旦よりtwitterの公開アカウントを再開しました。以前使っていた公開アカウントのログは消滅してるので、これまで業務用に非公開で使ってたアカウントの使い回しです(アカウント名は@hirakawa_workから@hirakawahに変更)。

 

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