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科学コミュニケーションとシチズンシップ―日欧の違い

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先週の火曜日、23日のことだが、PCST-9 協賛国際シンポジウム「科学を語り合う ―サイエンスコミュニケーションの方法と実践」というイベントに行ってきた。会場は、お茶の水の日大カザルスホール。

PCSTというのは、"Public Communication of Sciecne and Technology"という2年おきに行われる科学技術コミュニケーションの国際会議で、今年は、つい先日、5月17日から19日まで韓国・ソウルで開催されたばかり。(ソウルで近いこともあって、小生も参加してきました。)

今回のイベントは、その協賛企画で、文部科学省科学技術政策研究所ブリティッシュ・カウンシルの共催で開かれたもの。講演者は日本から4名、欧州(英国、ベルギー)から3名で、そのスピーチの概要は、上記のリンク先にあるとおり。

で、その内容なんだけど、ある意味、日欧間の科学技術コミュニケーションをめぐる「政治的地図」の違いが際立つ興味深いものだった。

欧州、とくに英国では、すでに80年代半ばにロイヤルソサエティが科学コミュニケーションに関する報告書を発表し、「科学の公衆理解(Public Understanding of Science: PUS)」という啓蒙活動や研究調査がスタートし、科学コミュニケーションの取り組みが盛んであった。しかしそれは、「一般市民は科学や技術の知識が欠如しており、専門家が正しい知識をわかりやすく伝えることが重要だ」と考えるいわゆる「欠如モデル(deficit model)」にもとづくものだった。いいかえれば、原発や遺伝子組換え作物などに人々が不安を感じたり反対したりするのは、彼らが科学や技術に無知だからであり、正しい知識を授ければ不安や反発はなくなり、スムーズに受け入れてくれるだろうという考え方である。

ところが、こうした欠如モデルは、あてはまる場面は多々あり、重要ではあるとしても、現実の科学・技術に対する人々の見方、考え方、態度を理解するにはあまりに単純で偏っているということで、90年代半ば頃から強い批判を浴びるようになる。96年3月には、それまで人にとっては安全だとされてきたBSEが人にも感染する可能性があることを英国政府が認めたことにより、科学や専門家、政府に対する英国民や欧州市民の信頼が大きく揺さぶられることにもなった。いいかえると人々は、科学(者)も誤りうるということ、最善の科学をもってしても予見できないことがあるという、(本来は当たり前の)科学の姿を目の当たりにしたのである。

そして、折り悪くというか、その同じ年に米国から欧州に入ってきたのが遺伝子組換え作物である。これに対し、BSEショックを経験した人々は、「いくら科学者が安全だといっても、それは現在わかる範囲のことであり、将来、くつがえされることだってあるんじゃないのか」と考えたり、「一部の企業利益のために自分たちの健康やいのちが犠牲にされているのではないか」と考えた。また、自分たちが何を食べているのか、食べさせられようとしているのかを「知る権利」、何を食べるかを自分たちで決めたいという「選択の権利」、さらには社会がどんな科学技術を推進すべきかという政策決定や研究開発の意思決定の場への「市民参加の権利」など、科学技術にまつわる政治的問題がテーマ化されるようになってきたのが90年代終わり頃からである。

その結果、2000年代になると、英国その他の欧州各国、そして欧州連合(EU)レベルでも、「双方向的な対話」、「コミュニケーション」が重視され、先の"PUS"から"Public Participation in Science and Technology"だとか"Public Engagement with Science and Technology"の促進に重点を移し変えるようになる。2000年の英国上院科学技術特別委員会の報告書Science and Society - Third Report、2001年の英国議会科学技術局(POST)の報告書 OPEN CHANNELS: Public dialogue in science and technology [PDF356KB]は、この変化を告げる重要な政策文書である。民間の助成団体ウェルカムトラストの2000年の報告書Science and the Public: A Review of Science Communication and Public Attitudes to Science in Britianも重要だ。

また、80年代後半にデンマークで生まれた「コンセンサス会議」などの参加型テクノロジーアセスメントのさまざまな手法が、各国・各地で試行的に、あるいは実際の政策決定の一部として実践されるようになってきたことや、2003年に、遺伝子組換え作物の商業栽培認可をめぐって、全国で同時多発的に公開討論会が開かれた英国政府のGM nation?の取り組みも、双方向的なコミュニケーション実践の好例だろう。

しかしながら遺伝子組換え作物をめぐる社会的紛争は、科学技術への参加や関与、対話、コミュニケーションは、組換え作物のように技術が実用化され、社会に出回るようになってからでは遅すぎる――そのため、賛成か反対かという二項対立も解きほぐすのが非常に困難になる――という反省ももたらした。その結果、実用化よりもずっと前、研究開発の初期の段階から、多様な人々が関与するテクノロジーアセスメントやコミュニケーションを進め、研究開発に反映させようという「上流からの関与(upstream engagement)」の考え方や、そのための方法論が議論されるようになっており、その試行的試みとして、現在、ナノテクノロジーを題材に、さまざまな試行的実践や研究が行われている。たとえば、英国のNanojury、オランダのNanoNed、欧州ワイドのNanologueNanoDialogueといったプロジェクトや、米国の研究者や、小生も含めた日本人研究者も参加している国際ネットワークInternational Nanotechnology and Society Network (INSN)が、その好例だ。(2007.4.18追記: オランダのNanoNedについては、文科省ナノテクノロジーネットワークセンターのメルマガJapan Nanonet Bulletin 第130号掲載のトゥエンテ大学の科学論の教授Arie Rip氏の「ナノテクノロジーのテクノロジー・アセスメントと社会的側面」 を参照。)

また「上流からの関与」については、ナノテクに関する2004年の英国王立協会(Royal Socielty)と王立工学アカデミーの報告書Nanoscience and Nanotechnologies: opportunities and uncertaintiesや、同じく英国のNPOシンクタンクDEMOSの2004年の報告書See-through Science: Why public engagement needs to move upstreamがある。

このように非常に政治的・社会的な次元のふくらみをもった欧州の科学技術コミュニケーションの現状と比べると、日本の現状は、あえていえば5年から10年は遅れている。よくいえば「牧歌的」、わるく言えば、実に「没政治的」なのだ。(ただし、平成16年度科学技術白書や今年度からスタートした第3期科学技術基本計画の内容はとても先進的である。)そして、この対比こそ、シンポの講演内容に見られた日・欧間の決定的な違いだったのである。(予め述べておくと、日本人講演者のうち、最初に喋った小林傳司さんの話の内容は、実に「政治的」であった。)

実をいえば、上に書いた欧州の科学技術コミュニケーションの経緯は、概ね、講演者のパトリック・ヴィッテ・フィリップ氏 (欧州委員会研究総局広報担当官) やリチャード・ホリマン氏(英国オープンユニバーシティ講師)が、話した内容でもある。

政治性の有無という日欧間の違いを、別の言葉で表すならばそれは、様々な科学技術コミュニケーションの実践における「目的」として、「シチズンシップ(市民権、市民性)の高揚」が明確に位置づけられているか否かの違いだといえる。

これは、EUの科学コミュニケーション政策について述べたフィリップ氏や、市民協同型研究活動であるサイエンスショップも含めた英国など欧州諸国の対話型・市民関与型実践について話されたホリマン氏だけでなく、児童・生徒を対象にしたジュニア・サイエンスカフェについて話されたアン・グランドさん(英国ジュニア・サイエンスカフェ副代表)についても当てはまることだった。彼女らの試みは、明らかに、「市民性教育(citizenship education)」の一環として、現代社会で個々人の生活にも大きな影響力をもつ科学・技術について、子供たちが正面から向き合い、自分たちの生活も含めたその社会的帰結について討論する場をもたらし、議論を促進することを目的にしている。(シンポジウムのプログラムにあるグランドさんの講演概要にも、これは明らか。)

これに対し、講演で紹介された日本の事例はというと、原理的には市民性教育につながる重要な試みであるのは間違いないのだが、残念ながら、シチズンシップというテーマがはるか後方の背景に退いてしまっている(あるいは退いたまま)という印象が強かった。「科学・技術を楽しくわかりやすく」という目的ははっきりしていても、その上にある「シチズンシップの醸成」というメタ目的がかすんでしまっているのだ。

ちなみに「科学・技術をわかりやすく語ること」の問題性については、ジャーナリストの武田徹さんが、自身の日記で秀逸な一文を書いている。キーワードは「科学の原罪性」である。以下、全文引用させていただく。(12月31日の日記も参照。)

ヒロシマ後 投稿者: 武田徹  投稿日:11月 3日(木)00時11分48秒
「アウシュビッツの後で詩を書くのは野蛮である」というアドルノの言葉に倣って言うなら「ヒロシマの後に科学を分かりやすく語るのは野蛮である」とでもなるのだろうか。自分自身が理科が大好きで、理科年報をそら覚えできるほど読み返すような子供だったからこそ、理科の面白さは分かるが、面白さだけしか知らずに自然科学系の仕事に就いてしまう大人の危うさもまたよく分かる。でんじろう先生が象徴的なように科学実験は楽しい。しかし電子レンジにいれられた電球がプラズマ発光で青白く光る驚き、面白さはトリニティの実験を前にした科学者たちの興奮と明らかに地続きなのだ。
 もちろん科学技術が道具に過ぎず、それを善用するのも悪用するのも人間であり、悪用を防げれば良いのだという論理は理解出来る。しかし理解できるが、それと同時に科学技術そのものの持つ原罪性のようなものに意識を及ぼす必要もあるだろう。善用、悪用の区別を越えて地球を蒸発させられる力を人間が使えること自体の原罪性。
 手元に資料がないので記憶で書くが、核兵器を作る技術だけでなく、物理学そのものの否定を唐木順三は望んだはずだ。そんな唐木の姿勢を科学音痴の文学者ゆえの単なる科学嫌いだと片づけている限り、科学は何度でも地球を蒸発させ続けるのではないか。
 先に引いた仲正の表現が、科学技術という文明についても見事に適合することに驚きに近い印象を覚える。「常識的に考えれば、人が「文明化」し、「人間性」を発展させてゆくにつれて野蛮は衰退して行くということになりそうだ。しかし、アドルノに言わせれば、もともと"野蛮なる自然の一部"であった「人間」という動物がそこからあえて身を引き離し、自らの手で「文明」世界を構築しょうとすれば、必然的に、自分の母体とも言うべき「野蛮なる自然」に対して、それよりも"さらに野蛮な"暴力を行使せざるを得なくなる」
 「ヒロシマの後に科学を分かりやすく語るのがいかに、そしてなぜ野蛮なのか」。そのことを真摯に考え抜くことを経由せずにヒロシマ以後の科学はありえないように思う。もちろん「そうかといって、「科学を語るのは野蛮だから止めろ」と"野蛮"に叫ぶわけにもゆかない」。そう叫ぶことは単純な排除でしかなく、余計に野蛮化してしまう。どっちの方向に向かおうとと、最終的に「野蛮」への危険を免れることができないという袋小路に陥ったときにどう科学を語ればいいのか。
 むしろ権力にすりより、権力を持てば使いたがるような人たちが、科学技術を分かりやすく伝えることで、あえて科学の原罪性を見ない習慣を作ってその進歩にブレーキを掛けないようにしているのではないかという気配を感じるとき、それが杞憂であることを望みつつも、元理科少年は、かつての自分だったら科学を愛するが故にその全てをありのままに見たがったはずだと思う。

このような武田さんの感覚――おそらくこれは、論理というより、もって生まれた、あるいは様々な紆余曲折の経験から生じた「感覚」、「直観」なんじゃないかと思う――は、同じく元はバリバリの理科少年で、修士課程までは物理を勉強していた自分にとって、痛いほどよく分かるものである。小2の秋、オヤジに起こされ、夜中に見上げた星空があまりに美しかった衝撃から、その晩のうちに天文少年となり、家にあった百科事典を読み漁り、市立図書館で開かれていた中学生向けの天文講座の常連となり、また、小3の夏にとある病気で入院したときは、売店で買った医学雑誌にのってた心臓手術の記事に夢中になったり、血液検査室に入り浸って検査技師のお姉さんたちに検査法などいろいろな話を聞きまくったりしていたものだ。放課後の遊びで、カエルの解剖に夢中になった時期もあった。百科事典の付録にあった数学の本で、二次関数や連立方程式の解き方をおぼえたのは3年生のとき。5年生では、天文計算に興味を持ち、三角関数やら微積分の本も読み漁ったりしたものだ。ブルーバックスで相対論や、ホーキングのブラックホール理論について知ったのもその頃のこと。

そんな絵に描いたような理科少年だった自分にとっては、科学が楽しくないはずがない。だからたとえば、今回のシンポのあとにオプショナルセッションとして開かれた「サイエンスキャバレー:楽しき哉、数学」での桜井進さん(サイエンスナビゲーター)の話なんてのは、元の専門が近いこともあって、メチャクチャ楽しめてしまう。

でもね、「オイラーの公式はいたるところで働いている。皆さんの携帯電話が動いているのもそのおかげです」なんていわれると、「うんうん、そうそう」とうなづきつつも、次の刹那には「でも、原爆や、イラクの市民の命を奪い続ける最新鋭の戦闘機や精密爆撃もそうなんだよね」と思ってしまうのも、自分にとっては自然なことだったりする。これはもう条件反射みたいなものであり、「...元理科少年は、かつての自分だったら科学を愛するが故にその全てをありのままに見たがったはずだ」という上記の武田さんの言葉に強くうなづいてしまうのである。

もちろん、こう言ったからといって、それは、日本人講演者が報告されたさまざまな試みは「間違っている」とか「価値がない」なんてことを言いたいわけじゃない。それらには、各々、固有の役割や価値があるのはいうまでもない。問題としているのは、さまざまな実践が描く科学技術コミュニケーションの布置全体のアンバランスさである。日本人講演者の中で、おひとりだけ「政治的」な話題を提供された小林さんが訴えたことだが、「科学・技術の批判的友人としての科学コミュニケーション」が、「楽しく分かりやすく」に加えて必要なのであり、あれかこれかの二者択一の問題ではない。

実際、シンポの最後のまとめで、科学技術政策研究所の渡辺さんが指摘されたことだが、「楽しく分かりやすく」というかたちで、科学・技術に対する人々の関心を高めたり、苦手意識を取り除いていくことは、科学コミュニケーションの「すそ野」を拡大し、ひいては、より積極的な関心や問題意識を持って科学・技術と社会の問題について語り、問題解決に取り組む人たち――いわば「科学的市民性(scientific citizenship)」を備えた「科学的市民(scientific citizen)」――を増やすことにつながるはずだ。また「楽しみ」ながら科学や技術について自由に語りあう経験は、ありがちな「賛成か反対か」の対立を超えて、そうした二分法では解けない複雑な問題を考え、議論しあう下地にもなるだろう。(あえていえば、そういう実際的な問題を論じる場面でも、議論すること、自分とは異なる意見を聞き、異質な立場に思いをはせることに伴うある種の「楽しさ」を味わえるようになるかもしれない。)

とはいえ、あまりに「科学・技術の批判的友人としての科学コミュニケーション」が欠落しているのが日本の現状であり、それは、意識的に努力しなければ埋めることのできない穴だと思われる。自分自身も含めて、そのためのさまざまな仕掛けや方法論、場を作り出していく必要がある。

ちなみに、『平成16年版 科学技術白書』「第1部 これからの科学技術と社会/第3章 社会とのコミュニケーションのあり方/第3節 科学技術と社会の新たな関係」には、次のような記述がある。とくに最後のパラグラフに注目されたい。

このような状況の中で, 国全体のシステムの調和を確保しながら, 社会における各主体の利益を最大化するためには, それぞれの意見を踏まえた意思形成, 社会的合意の確保が必要となってきている。特に, 政府や企業等にとっては, 国民からの支持が存立のための基盤であるため, 国民の意思を尊重し, その充足感を最大化できるような仕組みが必要になってきており, 実際, 「科学技術と社会に関する世論調査(平成16年2月)」においても国民の多くが科学技術政策形成に対する参画が必要であるという意見を持っている。

科学技術と社会との調和のためには, 政府, 科学者コミュニティ, 企業, 地域社会, 国民等のそれぞれの主体間の対話と意思疎通を前提として, 各主体から能動的に発せられる意思を政策形成等の議論の中に受け入れられるような, いわゆる科学技術ガバナンスの確立が重要であろう。

なお, これまでに述べてきた, 科学技術コミュニケータの養成や科学者等によるアウトリーチ活動, そして科学者コミュニティによる社会貢献活動等も, 科学技術ガバナンスが有効に機能するための基盤として求められよう。


最後に(...といいつつ長くなるが)、ひとつ、シンポの総合討論の質疑応答で見られた興味深いやりとりについて。

それは、講演のなかで小林さんが、科学技術は専門家だけに任せておくにはあまりに重大な社会問題であるがゆえに、「批判的友人」としての科学技術コミュニケーションを通じた「科学技術の文民統制(シヴィリアン・コントロール)」が必要だ、と述べたことに対する質問で、「それは要するに、科学技術のアマチュアによる統制を認めるということか?」というもの。

これに対してまず小林さんは、「それが、そもそも民主主義というものではないか」と答え、さらにフィリップ氏も、「政策決定において、NGOはとてもとてもとても重要な役割を果たしている。たとえばグリーンピースは、しばしば会議をハイジャックしたりしているが、そうやって、議論のアジェンダ(議題設定)を作り変えたりする役割はとても重要である」ということを付け加えた。これは、単なる「ハンターイ!」に留まらず、政策の専門的分析や提言を行うアドボカシーの力量と、それを支える人材や財政基盤を備えた大小多数のNGOが、政府やEUの政策決定で大きな影響力をもっている欧州の経験を踏まえた発言だろう。実際、たとえば先にふれた英国のNanojuryのプロジェクトは、ナノテクの研究者だけでなく、グリーンピースも加わった共催企画になっている。

しかしながら、このような回答は、事柄の半面に過ぎないのも確かである。小林さんも改めて強調したことだが、シヴィリアンコントロールの本質がアマチュアによる統治(ガバナンス)だとしても、それは専門家の働きがあってはじめて可能になるものでもある。これは、欧州の科学技術政策のキーワードでは、「専門性の民主化/民主制の専門化(Democratising Expertise/Expertising Democracy)」と表現されるガバナンスの本質的な二面性である。今まで専門家や政策決定者に閉じられてきた科学技術にかかわる意思決定を、他のさまざまな立場の人々に開くとともに、そうした民主的決定そのものにおける専門性(専門知識や技能)を向上させることが必要なのである。

そして、この「民主制の専門化」には、大きく分けて二つの課題が重要だと考えられる。ひとつは、政策決定における専門家集団の役割を強化することであり、実際、EU連合や欧州の研究者の間では、科学的助言システム(Scientific Advisory System)の改善や研究が進められている(欧州委員会の動向についてはこちらのページを参照)。ボトムアップには、以前の記事「CER2005終了」で紹介したGreenFactsのような取り組みもある。もちろんガバナンスの基本原則には、開放性(openness)や説明責任、利害関係者・市民の参加など「専門性の民主化」の要素が並べられている。

もうひとつ重要な課題は、市民社会、とくにNGOなど市民社会組織(Civil Society Organizations: CSO)の専門的能力や、それに基づく社会提言や分析、問題解決の能力の強化、そして、市民参加のための仕組み作りである。この点でも欧州では、市民参加に関する多数の調査研究や社会実験のプロジェクトが行われており、欧州委員会研究総局も多額の助成をしている。講演のなかでホリマン氏も紹介していたサイエンスショップに対しても、その運営方法や教育ノウハウ、実態に関する研究調査や教育プロジェクトが、欧州委員会から助成されている。(詳しくは、国際サイエンスショップ・ネットワークLiving KnowledgeのHPを参照。)

もちろん市民社会の専門化という課題には、サイエンスショップやNGOのような市民社会組織の専門的能力向上だけでなく、一般市民の科学技術に対する関心の喚起(Public Awareness of Sciecne and Technology)や、いわゆる科学技術リテラシーの向上も必要であり、そのための政策や取り組みも、欧州では盛んである。しかし、当たり前のことだが、そのような「一人一人」が科学技術に関心を持ったり、知識や技能を身につけることには自ずから限界がある。誰もが自分の仕事や生活、趣味をかかえており、みんながみんな、科学技術について情報を集めたり考えたり勉強したりできる余裕があるわけではない。ましてや、政策決定や研究開発の動向について、有意義な貢献ができるほどに能力を高めるなんてことは、よほどの時間的・資金的余裕や覚悟がなければ不可能だ。科学技術やその関連政策に対して意見できる「科学的市民」になる(なれる)のは、社会のなかで圧倒的に少数派なのである。

そこで必要となるのが、サイエンスショップやNGOなど専門的な市民社会組織による市民と専門家の協働である。ちょうど司法の世界で、法律の素人である一般市民が、法律相談所や弁護士に協力してもらって、法的な問題の解決をはかるように、これら組織が科学技術の分野で同じような専門的サポートをするのである。こうした社会的連帯なしには、社会は、専門家集団も含めた一部の科学的市民とそれ以外の大多数の人々に二極化し、「科学技術のことで損したとすれば、科学技術リテラシーを身につけないあなた自身の自己責任ですよ」という冷たいネオリベ的世界になってしまうだろう。とりわけ、洋の東西を問わず、国家財政が逼迫し、ますます国家がガバナンスに十分な力を発揮できなくなっている昨今では、「小さな政府」化が進められるいっぽうで、市民社会組織による社会的連帯を強化させていく必要は、科学技術の分野に限られない社会全体の課題だろう。

そして、ひるがえって、こうした「民主制の専門化」の課題について日本の現状は、かなりしんどい状況だといわざるをえない。もちろん、ここ数年、たとえば食品安全の分野で食品安全委員会ができたことなどは、大きな前進だといえるが、まだまだ課題は多い。また日本学術会議を改革し、政府に対する助言機関としての機能を強化させようとしているが、これもまだまだこれからの努力次第だろう。ここしばらく、食品安全委員会の遺伝子組換え食品の専門調査会と農水・環境省の生物多様性影響評価検討委員会の議事録分析をやってるのだが、これらのような扱う議題が専門的に絞り込まれているものでは、「さすが専門家!」と思えるようなしっかりした議論が行われている。データの信頼性とか、推論の妥当性とか、かなり突っ込んで議論してて、一つの案件について、申請企業に何度も追加資料を要求したりすることも多い。けれど、もう少し、広い範囲の専門家が集まって、もっと広い話題になってくると、ほとんど居酒屋談義というか、「専門家とは、自分の分野に詳しいだけの特殊な素人」というのがよーくわかる構図になってくる。「専門性の民主化」以前に、まず政策決定における専門性の強化が必要なのである。

他方、市民社会組織の能力の強化と社会的連帯の促進に関しても、日本は、かなりお寒い状況だといわざるをえない。とくに日本のNGOの財政的基盤の貧弱さは、へたをすると、欧米の財団や大きなNGOから支援されている開発途上国の一部のNGOよりひどかったりする。以前にインドの環境運動家の女性から聞いた話だが、かつて来日したとき、インドでも高名な日本の活動家に案内されて訪ねた部屋が、あまりに狭くゴチャゴチャしていたため、「ここは何の部屋?」と尋ねたところ、「自宅兼事務所だ」と聞いて、「何でこんな豊かな国で、世界的にも有名な日本の運動家がこんな生活をしているのか」とたいそう驚いたそうである。

科学カフェの広がりなど、市民一般に対する「すそ野」は、徐々に広がり始め、またそれに取り組む人や組織も増え、お金も回り始めていることは、先にも述べた意味で重要な前進である。けれど、それと同時に、科学技術の批判的友人としてのコミュニケーションを担う「科学的市民」の組織や活動も、どんどん増やさなければならない。もちろん、税制の改革なども含めて、乗り越えなくてはならない障害は山ほどある。しかしそれは、「追いつけ追い越せ」のキャッチアップの時代は今は昔、世界をリードする科学技術のトップランナーとなった日本社会が、世界に対して背負うべき責任なんじゃないかと思うのである。

<追記>

もうひとつ、総合討論での質疑で興味深かったのは、遺伝子組換え作物の研究者がフィリップ氏やホリマン氏にした次のような質問だ:「欧州では、対話が重要ということで、さまざまな試みが進められていているとのことだが、自分の場合、国策である遺伝子組換え作物の研究開発を進めることについて、市民を説得しなくてはならない立場にある。そのような場合にはどうしたらよいのか?」。

これに対するフィリップ氏の答えは、一言でいえば「そんな頭ごなしの態度ではかえって逆効果(counter-productive)だ」ということだった。至極、当然の回答だろう。

この研究者の質問内容で、一番問題だと考えられるのは「組換え作物の開発は『国策だから』市民を説得しなくてはならない」という前提である。「国策だから文句を言うな」、「黙って従え」といわんばかりのその態度こそ、原子力やその他の公共事業で、反対派の人々が一番カチンとくるものではないのか?そして、高速増殖炉もんじゅの事故をはじめとする1990年代後半の事故の連鎖を通じて原子力業界が学んだのは、「そういう態度こそアカンのだ」ということであり、「国民との対話」とか「合意形成」ということを原子力安全白書やその他の政策文書でもアピールするようになってきたのではないだろうか(原子力の批判派・反対派から見ればまだまだ不十分だろうし、全っ然反省してない人も多そうだけどw)。そのあたりのことを、この研究者はどう考えておられるのだろう?

また、形式論的にいえば、日本が民主主義国家であるかぎりは、「国策」とは国民の総意であり、民意によって変えうるものだ。もちろん民意が間違うことは多々あるから、何が何でも、事情に通じた専門家や政策決定者が「説得」しなければならないことがあるのはいうまでもない。しかし、だからといって、国民・市民は常に説得を受け入れなければならないということにはならない。正直、「国策だから・・・」という物言いには、かなり唖然としてしまった。

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