「この仕事終わったら、この本読むんだ」(フラグじゃないよ)

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9月も半ばになって、まだ暑さはあるとはいえ、空の色も朝夕の空気も秋になりつつある今日この頃。
そんな気配も手伝ってか、はたまた拙著出版の解放感(?)からか、ここしばらく、3日に一度くらいのペースでアマポチしてしまい、積読状態の読みたい本が急増中。
とはいえ、来週末に開催する再生医療をテーマにしたテクノロジーアセスメントの社会実験が終わらないことには、ちょっと手がつけられない。
とりあえず、それが終わったら直ちに読みたい本は次の三冊。


まず手をつけたいのは、やはり一冊目のハーバーマス&ラッツィンガーの対話本。中山元さんの書評を読んで、ほとんど反射的にポチッとなしてしまった。
ラッツィンガーは、いわずと知れた現在のローマ教皇ベネディクト一六世(対話当時は枢機卿)。その彼と、「未完の近代」の哲学者ハーバーマスの対話となれば、面白くないはずがない。
テーマになっているのは、「世俗化した自由な近代国家における政治以前の道徳的基盤」であり、「世俗化された自由な国家は、その国家自身がもはや支えることのできない規範的前提に依拠しているのではないか」(p.2)というベッケンフュルデ・テーゼの問題。いうまでもなく、この国家の外なる規範的前提とは、ヨーロッパ世界では、カソリックに代表されるキリスト教の伝統である。
世俗化によって宗教的規範から自律・独立したリベラルな国家は、その代価として、社会の道徳的基盤を喪失することとなった。これについてハーバーマスは、近代のデモクラティックな国家の正統性は、討議合理性(コミュニケーション合理性)によって、いわば自給自足的に、支えられうるという目論見を抱いて、ずっとやってきたわけだが、どうやらそれだけに留まらないようでもある。
二人の議論は、どのように交わり、どのように平行線を辿るのか。読んでみないと予想がつかないが、とにかく読むのが楽しみ。
ちなみに最近は、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』がベストセラーになっている。
この本がウケている理由は、一つは、NHKで放映された講義の見事さなんだろうが、もしかしたら、あのように堂々と「正義」について正面から議論していることのある種の「清々しさ」も、理由の一つかもしれない。「正義について語るなんて、なんか気恥ずかしいしカッコ悪い~」というありふれた感覚やら、「何が正義かなんて、人それぞれ、主観的な価値観の問題だよ」なんていう俗流相対主義はもちろんのこと、マジメな哲学的・倫理学的議論としても、正義を語るのが極度に難しくなっているのが現代も含めた「近代」という時代の「病理」である(ヘタに正義を持ち出すと、ブッシュ政権下のイラク=アフガン戦争で顕著になったような米国キリスト教右派――”Foundy”――のような非寛容的な独善になっちゃうし)。
日本とヨーロッパ・米国では、精神的伝統や歴史が違うので、簡単にひとくくりにはできないが、現代が、社会の道徳的な規範的基盤が失われていること、そして、「普遍妥当的に依拠しうる確固たる規範的基盤など、実はないのだ」ということに人々が気づいてしまっているという意味で「社会の底が抜けてしまっている時代」(宮台真司)であるという点は、洋の東西を問わず共通しているといえるだろうし、たぶん日本のほうが状況は酷いかもしれない。そういう鬱積感を吹き飛ばすような風を、「正義について我々はまさに議論できる」ことを訴えるサンデルの講義は感じさせたのかもしれない。
そして、このような社会の規範的基盤の喪失と相対主義の支配という問題は、オイラが研究対象にしている「科学」の話とも直結している。『科学は誰のものか』でも(第3章注4で)少し書いたけど、たとえば「水からの伝言」などの「ニセ科学」の問題の一番の根っこは、「一般の人たちは科学について無知・無理解だから騙される」といったいわゆる「科学リテラシー」の欠如問題では決してないだろう(もちろん、それも大きな要因ではあるが)。あるいは、科学が「権威化」しているから、科学の装いを施すだけで、簡単にみんな騙されてしまうといった問題でもない。社会に権威は必要であり、われわれが依拠すべき権威ある知だからこそ、科学は科学でありうる。科学は権威でなければならない。
問題なのは、現代では、科学のみ、とくに自然科学のみが、知的規範だけでなく、道徳的な規範の基盤としての権威となってしまっていること、いいかえれば、科学を除く他の一切の権威が脱落してしまっているという事態こそが問題の根っこなのだと思うのだ。その意味で病巣は根深く、科学の知識や思考を世に広めれば治癒できるようなものではない。(つーか、そういう啓蒙路線には実行性/実効性の点で限界がありすぎる。)
他方、その唯一権威化した科学自体は、「価値中立性」という観念のヴェールによって政治的に脱色され、価値判断的あるいは政治的な批判を寄せつけないように防御もされている。
ちなみに最近目にした現役科学者の言葉にこんなようなものがあった。

科学技術に伴う倫理的な問題があったとしても、そんなことは個人の主観の問題であり、それに対して国がルールを定めたり、研究に規制をかけるのはナンセンスである。

極論ではあろうが、日々、生き馬の目を抜くような競争的な研究環境に置かれている科学者の考えとしては、ある意味、とっても正直だといえるこの発言には、上に書いたような現代の科学と規範、権威の問題が凝縮されている。
たとえば、倫理の問題を「単なる主観の問題」だと言い切り、その問題の「公共的次元」を完全に無視している点。
そうやって、科学や技術に関する公共的な政治的・倫理的討議の可能性を否定することで、科学技術を価値中立化=政治的脱色することにも直結している。
拙著のあとがきにも書いたけど、そういう科学技術を公共的な政治的・倫理的討議の場に引き入れ、「価値中立的な科学技術」ではなく、科学技術の「善さ」(”良さ”ではない)について公に語れるようにしたいというのが、自分の研究動機であり、拙著に込めようとしたことでもあったんだけど、それがうまく書けたかというと、自己採点では30点くらいかなぁ。。
もっと勉強して考えて、次(というより、その次くらい?)に書く本では、60点くらいは書けるようにしたいものだ。
そのためにも、上に挙げた3冊はさっさと読みたいのだが、とりあえずは来週の会議が終わってからだな。。(ハーバーマスXラッツィンガーのは、妻が先に読み始めている。)
ちなみに、「底がないことに気づいてしまった」という意味での規範喪失の経験については、何年か前に放映されたアニメ『シムーン』のストーリーが面白いところに触れてる感じだったのだが、途中見逃してるうちに終わってしまって、どうなったのかよくわからないままになっている。そのうち、これもShowTimeかどこかで探して観てみねば。
あと、現在連載中のものでは、『パンプキン・シザーズ』Wikipediaの原作解説)での「カウプラン機関批判」の話が、技術特許に関する「アンチコモンズの悲劇」の話や、さらに深読みすると、中世までと比べた近現代のテクノロジーの歴史的特異性・異常性――すんごく簡単にいうと、「必要は発明の母」から「発明は必要の母」への転倒――にも触れるような展開になってて、今後楽しみなところ。

 

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