「べ、べつに、買って欲しいわけじゃないんだからね!」(新著出ます)

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だーいぶ前に企画をいただいて、ようやく出ます。
これまで共著はいくつか書いてきましたが、今度のは(ようやく)初単著です。

平川秀幸 『科学は誰のものか―社会の側から問い直す』
NHK出版 生活人新書 328
2010年9月10日発売

Amazonその他では9月8日発売となってますが、出版社では10日発売となっています。編集さんによると、大手書店では7日から並ぶところもあるとのこと。(2010/9/8追記:Amazonでは8日から発売になっています。)
帯には「科学は専門家に任せるな」などとカゲキなことも書いてますが、それはアオリ文句で、実際のところは、「科学は専門家だけに任せるな」――もっといってしまえば、「未来を科学技術だけに任せるな」――っていう話を、(しばしば政治的に脱色されたものとして語られがちな)「科学技術コミュニケーション」ではなく、ソーシャルでポリティカルな「科学技術ガバナンス」という枠組みのもとで書いてみたものです。(ちなみに「科学技術コミュニケーション」という単語は全体で11箇所しか使われてない。類語の「サイエンスコミュニケーション」はゼロ。)
副題が「社会の側から問い直す」となっているのも、この観点を反映していて、科学技術を、政治や経済など社会とのディープな結びつきのなかでとらえ、科学のロジックやテクノロジーの構成そのものに浸透し、内在している「政治性」に焦点を当てるのを基本にしているためです。
新書ゆえに、だいぶ割愛した話やポイントもあり、専門的な観点からは(そうでなくても?)ツッコミどころ満載ではありますが、ぜひお手にとって読んでいただければ!
書き足りなかったポイントなどは、次の単著で書くつもりですが、このブログでも、そのうちに。


ちなみに、本書を校了し終えたころに発見したのだけど、博論の指導教員でもあった村上陽一郎先生が、6月に次の本を出してました。

村上陽一郎『人間にとって科学とは何か』 (新潮選書)

読んでみて驚いたのは、かなりカブる話が多いこと。取り上げたエピソードでも同じネタがあったり。(ま、これは、昔、共訳させていただいた本のなかの話でもあるんだが。)
もちろん大きな違いもあり、その一つは、焦点を当てている「科学」の違い。
村上先生のほうは、「スパコン問題」をめぐる昨年の民主党の事業仕分けのことなんかも背景にあって、科学の価値が実利的な有用性や経済性ばかりを基準に測られてしまうことに警鐘をならす意図が根底にあり、「社会のための科学」(ネオタイプの科学)とは別に、「科学のための科学(知識のための知識)」(プロトタイプの科学)の独自の価値を大事にしようということを訴えられている。
これに対しぼくのほうは、プロトタイプのほうについては、あえてバッサリ割愛して、ネオタイプの科学が、本当に「社会のため」になるようになるにはどうしたらいいのか、ってことに焦点を当ててる。だから、プロトタイプ気質のアカデミックな研究者(とくに理学系)には、もしかしたら、たいへん不満を感じる内容になっているかもしれない。
元理学系(しかも理論物理)のオイラとしては、もちろん、学問の「非実利的価値」というものを擁護したい気持ちは大いにあるのだが、その辺は、今回は省いてしまいました。それに、そういう価値を擁護すべきは、自然科学だけなく、人文社会科学もだし、とくに今のご時世では、人文系のほうがより危機的だろうとも思ってもいたり。あと、村上史学として、聖俗革命を経て、自己目的化しちゃった「プロトタイプの科学」の価値を、無批判に擁護しちゃうのはどうなんだろう?という気もしていて、今度お会いしたときには、そのあたりを伺ってみたいと思ってます。
それと、いわゆる「科学リテラシー」ということについて、ぼくは、一種の社会関係資本として、ソーシャルな問題として捉えているのに対し、村上先生のほうは、個人個人が身につけるべき教養として語ってらっしゃるところも大きな違いかも。
ほかにも異同は多々あるので、たいへん僭越ながら、拙著と比較して読んでいただけると、物事が多重的に見えてきて、面白いかもしれません。
以下、目次詳細です。

はじめに
アポロと万博、人類の進歩と調和/2010年の僕たちと科学技術/誰が科学技術の舵を取るのか/僕たちが主役になる未来に向けて

第1章 輝かしく陰鬱な1970年代という曲がり角
懐かしい未来へようこそ!/科学技術と社会を考えるSTS/社会の側から科学技術にアプローチする/1970年代というターニングポイント/科学技術が光り輝いていた60 年代/輝かしくも陰鬱な70年代のリアリティ/時代を覆う核の恐怖/公害・環境問題の深刻化/ノストラダムスの大予言とミクロイドS/科学技術至上主義の終わり/新しい文化の胎動/環境政策の幕開け

第2章 「統治」から「ガバナンス」へ
「科学技術」、「科学」と「技術」/「統治」から「ガバナンス」へ/なぜ今ガバナンスなのか/市民社会の台頭/科学技術ガバナンスの登場/日本の転機・1995年/双方向的なコミュニケーションへ/参加型テクノロジーアセスメントの誕生/市民が参加するコンセンサス会議/市民陪審とシナリオワークショップ/BSE問題が引き起こした「信頼の危機」/「理解」から「対話・参加」へ/「アウェー」としてのサイエンスカフェ/「公共空間」で議論する/日本の課題は「脱・上から目線」/なぜ公共的ガバナンスが求められるのか

第3章 科学は「完全無欠」か
「完全無欠の科学」という幻想/「地震予知は困難」と認めた学者たち/水俣病を悪化させた完ぺき主義/実験室の科学はまだ「途半ば」/知識の品質管理/「ファイナルアンサー」までのさらなる道のり/それでも残る科学の不確実性/不確実性における二つの「無知」/科学知識の制約/測定につきまとう不正確さ/「理想化」による不確実性/日常空間では成り立たない落下の法則/誠実な科学者は、白黒つけられない!/理想系と現実系のギャップ

第4章 科学技術と社会のディープな関係
科学技術と社会の関わりをどう見るか/「共生成」という捉え方/科学の純潔主義/研究開発の国家総動員体制/「価値中立的な科学技術」から「善い科学技術」へ/人工物に埋め込まれた政治性/世界の実験室化/「緑の革命」の光と影/作動条件の不適合/技術の囲い込み症候群/利益構造の不平等/構造的問題としての市場の力/医薬品の南北問題

第5章 科学の不確実性とどう付き合うか
リスク論争で問われるものは/調べる人が変わればデータも変わる/価値基準をどこに置くか/挙証責任が映し出す利害の対立/遺伝子組換え作物の環境影響/挙証責任の「逆転」/リスクの受け容れ基準をどこに置くか/評価基準を変えた政治的・社会的理由/事前警戒原則/欧州組換え作物規制が示唆するもの/問いのフレーミングと答えの解釈/価値中立性を再定義する/「問題」としての事前警戒原則/とるべきリスク、避けるべきリスク/「賭け」を「実験」に変える知恵

第6章 知ること、つながること
どうやって科学技術の問題に関わるのか/次の一歩が踏み出せない/「一人一人の心がけ」は社会を変えるか/不自然な省略/知的協働のアクション・チャート/信頼できる資料の探し方

第7章 知を力にするために
エイズ患者に課された治験/動き出した当事者たち/専門家はだしの素人たち/「善い科学」とは何か/科学が問えない問いを問う/公共空間は、人間の自由な問いの場/「問いの倍音」のなかの科学技術/「疑問派」であるということ/公共空間は一緒に成長する場/知ることの協働化/サイエンスショップという仕掛け/日本にもあるサイエンスショップ/これからの社会に求められる「知」とは/町衆の知と力を社会のイノベーションに

おわりに

 

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