仙台満腹ツアー(2)―市民性教育と学習資本主義社会の話

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仙台ツアー2日目、23日金曜日は、8時半に起床、シャワーを浴びて、朝10時半から日本学術振興会人社プロの公開シンポジウム・フィールドワークショップ「長寿化・少子化社会における知の継承と創造~何を・誰が・どのように~」に参加。
シンポのプログラムは、昼休みをはさんだ前半11時から14時20分まではパネル・セッション、その後14時半から16時半まで、パネルの議論を踏まえて、三つのグループに分かれてのテーブルセッション。その後18時過ぎまでが、テーブル・セッションの報告と総括討論という構成。


「学校教育と企業内人材育成の連携を探る」、「市民という担い手をつくる」、「社会における教育の役割分担を考える」という三つのサブセッションからなるパネル・セッションは、6名の報告者の話はどれも興味深かったが、なかでも特に印象に残ったのが次の二つの話。
一つは、「グローバル化時代における市民性の教育」プロジェクト代表の佐藤学さん(東大教育)の「21世紀を生きる市民を育てる=市民性の教育の課題」。佐藤さんによれば、「市民性の教育(citizenship education/civic education)」というのは、グローバル化の進展とともにEUをはじめ欧米諸国では、教育改革の中心テーマとして浮上し、各国で「市民性」を主題とするカリキュラムのガイドラインの策定とその実践化が推進されているのだそうだ。日本では「学力低下」の関連でしばしば話題となる国際数学・理科教育動向調査などを実施しているIEA(国際教育到達度評価学会)でも、IEA Civic Education Study旧サイト)という各国の市民性教育に関する国際比較調査を行っている(日本は対象外)。背景には、グローバル化による政治・経済の急激な変動と、地球環境の危機、局地戦争と文化や宗教の衝突、移民の拡大、人種差別や性差別による人権の危機、貧富の拡大や青少年犯罪の急増、公共的モラルの崩壊など、民主主義社会の根幹に関わる危機に対する認識があるんだそうだ。
これに対し日本では、市民性の教育は、環境学習や国際教育、地域への奉仕活動などの総合学習、社会科の「公民」、道徳などの科目で、部分的・断片的にしか実施されていないのだという(小生もこの言葉は佐藤さんらのプロジェクトで始めて知った)。佐藤さんたちのプロジェクトは、このグローバルスタンダード化しつつある市民性教育をなんとか日本にも根付かせるべく、それを「主権者の教育」、「公共倫理の教育」、「葛藤解決の教育」の三つに分けて研究し、小・中・高校のカリキュラムに具体化するための理論的枠組みとプログラムの指針を開発することを目指している。
で、シンポでの佐藤さんの話で興味深かったのが、以下のこと。

  • 子供の生育環境の劣化。「大阪府では高校生の24%が学費減免措置を受けている。また(全国的には?)年収400万以下の低所得者層では、支出の60%を教育費が占めている。」―― 要するに、収入の水準と比して学費が高すぎってこと。
    • ※関連情報「高等教育無償化」条項留保撤回を国連が勧告、私大教連・2006年問題資料コーナー。教育無償化というのは、国際人権規約「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第13条2(b)および(c)が求めている中等教育と高等教育の漸進的な無償化のことで、同規約の締約国151ヶ国のうち、日本、マダカスカル、ルワンダの3カ国だけが、同条項の受け入れを留保してるんだそうだ。先の衆院選では民主・社民・共産の野党は、この留保(とくに高等教育について)の撤回をマニフェストに載せていたが、自民・公明は言及なしだった。(参考:NPO法人サイエンス・コミュニケーション「2005年総選挙各党科学技術政策マニフェスト評価集」
  • 「政治不信・社会不信が、市場原理主義が台頭する基盤である。」――つまり、政府の能力に対する不信や役人の腐敗などによる信頼失墜が行き過ぎると、どうやって信頼に値する政府を作り上げるかを考えるのではなく、「政府なんかには任せてられない。官から民だ!民営化だ!市場に任せろ!」っていう短絡にみんな乗ってしまうということですね。
  • 「日本の社会科教育に決定的に欠けているのは、貨幣についての教育、実際の政治・制度についての教育、メディアリテラシーである。」――お金の教育っていうと、「小学校から投資教育を!」っていうような短絡がありがちだけど、それ以前の問題として、社会の構造・システムの理解として貨幣経済の仕組みや実態について知るべきだよね。いまや金融経済は、実体経済を時に大きく歪めるほどパワーをもっちゃってるわけだし。
  • 「訴訟社会、カウンセリング社会にならないようにするための葛藤解決の教育が必要である。葛藤・紛争を心理的ではなく社会的協同的に解決する術を身につけるべきである。」――意見や価値観が合わず、合意も成り立たなくても、お互い潰しあったり殺しあったりせず、共存する方法(大人の付き合い方、「社交」っていうやつ)が大切ってことですね。

二つめは、同じく東大教育の苅谷剛彦さん(教育社会学)の「教育の地殻変動と『学習資本主義社会』のゆくえ:少子化・教員高齢化・教育改革」。
苅谷さんといえば、『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』を初めとした階層化社会・不平等社会の研究の第一人者。その延長線上で今回は、「不平等社会としての学習資本主義社会」という概念を提案し、「学び続ける社会(learning society)」=「学び続けなければならない社会」のしんどさ、それがあたかも丸ごとポジティヴなものであるかのように自己肯定し増殖していくことの怖さを指摘していた。それがはらむ問題は、学習者にとって受身的な「教育」という言葉を、主体的な「学び」なんて言葉に置き換えるだけでは済まされないものなのだという。
ここで「学習資本主義社会」とは何かというと、それは「どのような学習能力をもっているかが、社会経済的財を生む『資本』となる社会」であり、「知識の陳腐化の速度が速いほど、学習能力は資本として機能するようになる」(つまり、次々と新しい知識を吸収できればできるほど財をより多くゲットできる)のだという。そして、学習能力の差が、学習成果の差を生み、さらにそれが学習能力の差のさらなる拡大にもつながることによって、学習資本主義社会は不平等を拡大再生産する社会だという。(このあたり、アルベルト・メルッチの「個人化のポテンシャル」の議論などと重ねてみると面白いかも。)
ここで重要なポイントのひとつは、問題になっているのが学習の「結果」ではなく、それを獲得する「学習能力」そのものの差だということ。仮に学習の「機会」は平等だとしても、それを活かす能力に差があり、それが「結果」の差を生み出す。さらに結果(学習成果)が良好であることは、学習能力の向上にもつながるから、さらに結果の差が広がるというわけだ。また「結果」ではないということはいわゆる「学歴」もあまり意味がないということでもある。もちろん高学歴であるということは、学習能力がそれなりに高い――少なくとも大学の卒業(入学?)時点までは高かった――ことを意味しているが、「学び続ける社会」あるいは「知識基盤社会」である現代の社会では、職業生活においても、次々と必要となる新しい知識をどんどん学び続けなければならない(生涯学習社会!)。
まぁもちろん、個々人の学習能力に差があり、またそれを活かす、つまり「努力」する(努力も能力の一部だともいえるが)度合いに応じて、(さらなる学習能力の向上も含めて)受け取るもの、報酬が大きくなるということ自体は、「努力する者に報いる制度」としてのメリトクラシー(能力主義)の現われでしかない。(大学の卒業要件がユルイために)たかだか20歳前に決まってしまう学歴もあまり関係なく、卒業後の努力次第で人生を大きく変えることができるというのは、ある種の平等の条件だろう。
そう考えてみると、学習資本主義社会を「不平等な社会」だという苅谷さんの指摘はなんだか的外れのように見えるのだが、苅谷さんの議論のポイントは、学習能力=学習資本の差は、社会の中で決してランダムに分布しているわけではなく、すでにある社会格差の傾斜に沿って構造化・階層化されている、ということにある。もしも学習能力の高低がランダムに分布している――いいかえると、個々人の能力や努力の成果としての格差は次の世代には受け継がれない(たとえていえば100%の相続税がかかっているようなもの)――のであれば、それによって生じる格差は単なる個々人の努力の結果の違いだけであり、純然たるメリトクラシーの現われに過ぎない。ところが実際には、能力分布はランダムではなく、親の世代の格差が子の世代に再生産される構造になっているというわけである。また『階層化日本と教育危機』で論じられているように、「がっばって勉強しよう」、「努力しよう」という「学習意欲」(インセンティヴ)の差自体が、すでに学習に先立って階層化されているという「インセンティブ・ディバイド」も存在している。(これは山田昌弘さんが『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』で論じている「将来に希望を持てる層」と「希望を持てない層」の二極分解の話と重なっている。また内田樹さんの「階層化=大衆社会の到来」も参照。)
このような観察に基づき苅谷さんは、こうした学習資本の格差は、自己責任の問題として済ませてはならず、とくに公教育の役割として、「知性平等」のための施策、いうなれば「学習資本の再分配」――苅谷さん自身はこの言葉を使ったわけではないが――を実現するような何らかの仕掛けが必要だということを訴えていた。
この最後の「学習資本の再分配」の仕掛けが具体的にどんなものかは、この日の報告では話されなかったが、小生の関心としては、「科学技術リテラシー」の問題を考える上でとても興味深い。この文脈では小生は、リテラシーを、通常考えられるように個人的な能力・素養として捉えるのではなく、リテラシーの高い人、とくに専門家が、リテラシーのない人たち――彼らはリテラシーを「もとうとしない」人たちだけではなく、自分の生活や仕事で忙しいという機会費用の問題として、「勉強してるヒマがない」人たちでもある――の利益のために、その「学習資本」の一部を使う専門家・非専門家間の協働関係や、科学的・技術的な学習資本の一部である実験・測定装置や資料アーカイヴ、財政資源などの共同利用の仕掛けなど、社会関係やインフラのあり方として捉える「集合的リテラシー」という見方をしたいと考えている。いわばリテラシーは、個人の頭の中の脳細胞のネットワークではなく、社会に分布している人的・物的・経済的な研究や学習の資源もしくは資本のネットワークとして捉えるべきだということである。そして、この資本の再分配を実現する仕掛けのひとつとして、地域住民の要望に応えて研究・調査や技術開発、専門的アドバイスなどを行う「サイエンスショップ」のような活動に注目している。その点で苅谷さんの議論はとても興味深かった。
ちなみに夕方の懇親会でたずねたところ、学習資本主義に関する議論は、いわゆる「文化資本」との異同など、細部の論点をもう少し煮詰めてから、来年初めくらいに出版されるとのこと。とても楽しみである。


さて、シンポが終わり、懇親会が終わった後は、苅谷さんも含めて10人ほどで、ホテルの人が案内してくれた近所の(場末っぽい)飲み屋で二次会。その後10時過ぎに、今度は、「旨い魚が食いたい」ってことで、若手3人で、別の場所で飲んでいた大学院生やポスドクたちと合流し、仙台屋に行く。かつて浅野知事の下で、宮城県庁生活環境部次長として、宮城の町おこし・村おこしに辣腕を振るった武蔵工業大の萩原なつ子さんの紹介で、はじめは寿司屋に行こうとしたのだが、そこはもうラストオーダーが過ぎていたので、二番目候補として紹介してもらった店だ。1時近くまでたっぷり飲んで食ってホテルに戻る。
こうして、旨い料理と酒、昼間のシンポの話で「満腹」になった腹と頭をかかえて、仙台二日目の夜が終了。ご馳走さまでした。

 

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3件のコメント

  1. 学習リテラシーとやらをみんなに持たせようという意志があなたにあるのでしたら、もう少し、わかりやすい文章にされてはいかがですか?

  2. わかりづらい文章ですみません。
    ところで、私は「科学技術リテラシーをみんなに持たせよう」とも「みんなもつべき」とも考えていません。みんなそれぞれ興味は違うし、生活や仕事もあるため、そんなことは無理ですから。それよりも、別に科学技術リテラシーをもっていなくても、誰も困らないようにするにはどうしたらいいかを考えたいと思っています。

  3. こんにちは。
    リテラシー…理想論ではなく、現実に、持ってもらいたい能力なんですよ。
    以前、消防署員10人募集と出したら応募に来たのは100人近くいたそうで。。。その中から10人選んだわけですが、学歴ばかりで使い物にならない!と職員の人が嘆いていたのを覚えています。
    リテラシーと言うのは、履歴書に書けないもので、学歴ででしかその人の能力を推測することはできないわけですよね。だから、その学歴を少しでも良くしようと、そこに努力をして、イヤ、させてしまう(親の立場で)
    学習能力も豊かで、リテラシーも備わっている。そんな理想な人間に育てるには、どうしたらいいのだろうと、贅沢な事を考えている、今日この頃です。
    でも、学歴を上げる=教育費が嵩む…正直辛いです(笑)
    そう考えると、学歴よりリテラシー重視で教育しようかなと、思ってもいます。
    …悩める母です。(自分に学歴が無いからかなかー)
    コメントなのに、長くなってすみません。。。

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