もう半月以上前になってしまったが、ここでも紹介したSTS Network Japanのカフェ・シアンティフィーク(Cafe Scientifique)についてのシンポに行ってきた。昨年の『科学技術白書』で紹介されて以来、「サイエンスカフェ」、「科学カフェ」、「カフェ・デ・サイエンス」など呼び名はいろいろだが、日本でもすでにいくつか実践されている。シンポには、その主催者・主催団体の関係者や、これから開こうとしているグループの人たちも含めて、72人が参加した。
シンポ全体の報告は、そのうちSTSNJのサイトなどで公開されるだろうから、それは省いて、ここでは、報告や質疑応答の中でとくに興味深かったトピックに絞って、感想を記しておきたい。
そこでまず、カフェ・シアンティフィーク(以下、CS)とは何かについて簡単に書いておくと、それは、カフェやバー、パブを会場にして、科学や技術の話題を専門家を交えて語り合うものである。講演会やシンポジウムとは違って、小規模(多くても30人程度)で気楽な雰囲気で行われる対話集会であることに一番の特徴がある。最初にゲストスピーカーである専門家(一人ないし複数)が10~20分程度、その日の話題について簡単にスピーチし、あとはそれを受けて、スピーカーと参加者のあいだで議論が行われる。カフェなどを使っているので、当然、食べながら、飲みながらだ(アルコールも含む)。また、これは欧米式のテーブルまたはカウンターでの清算方式だからできるやり方だが、途中参加・途中退出も自由なところも多いらしい。店の一角でCSが行われていて、たまたま立ち寄った客が、「お、何話してんだ?」と思って、ちょいと輪に加わる。つまらなければ、出て行く。そんな気楽さがいいかんじ。
で、そのCSに関する報告や質疑応答、総合討論を通じて一番興味深かったのが、「CSとはどうあるべきか、それともそうした規定はいらないのか」というCSのあり方論。
これは最初の報告者である産業技術総合研究所の若手研究員Tom Hopeさんが指摘した問題で、英国のCSネットワークの中心メンバーでも意見が分かれるところらしい。その背景には、CSがある種の「誘導的意図」のもとで「啓蒙装置」として使われること――Tomさんの言をかりれば「政治的ハイジャック」――への危惧があるという。ようするに、遺伝子組換えや原子力のような社会的にコントロバーシャル(論争を呼ぶ)な話題に関して、その推進者などが自分たちに都合の良い方向に参加者の認識を導くために、CSというツールを使うということだ。
これは実にありがちな話で、「誘導的啓蒙」というあからさまな意図はなくても、自分たちの研究に肯定的な社会的関心や理解を得たいという、それ自体は研究者やその支援者(行政など)としての素直な気持ちで行われるものでもある。あるいは、もっと一般的な教育的意図からの啓蒙ということもあるだろう。いずれにしてもこれらは、科学知識や技術の「提供者」の側からの「供給主導(supply-driven)」で「トップダウン」的なCSの使い方であり、場合によっては、質疑応答を除いては、参加者とスピーカーの間、参加者同士の間に何も議論が行われないただの講演会になってしまう恐れもある。そしてその対極には、参加者である非専門家の市民――もちろん市民は一枚岩でなく、多様なバックグラウンドや知識、経験をもっており、CSで取り上げられる話題については素人だが、他分野では専門家でもあるような場合もある――の関心や必要をもとにトピックが選ばれ、議論が進められる「需要主導(demand-driven)」で「ボトムアップ」的なCSの使い方がある。
こうした相反する傾向をもった、ある意味野放図なCSのあり方について英国では、CSとそうでないものの境界をはっきりさせ、CSを「ブランド化」することによって、そのあまりにトップダウン的、サプライ・ドリブン的な利用を牽制しようという立場と、「いろいろあっていいんじゃない?」という立場に意見が分かれているのだそうだ。
この点に関するシンポでの議論は、あまりはっきりした答えはなかったように思う。とりあえず基本的には「いろいろあっていいんじゃない?」というかんじだったが、小生としては、これには半分賛成、半分反対。一つには、どんなにCSブランド化して規制しようとしても、トップダウン的な利用はどんどん行われるに違いないのだから、だったら、そうでないボトムアップ的なものもどんどんやって、CS全体がハイジャックされないようにするしかないからだ。規制よりも多様性による競合を選ぶということだ。一つのCSの場でも、主催者、スピーカー、参加者それぞれがいろいろな意図を抱いて集まる「呉越同舟」、「同床異夢」の状態がいいんじゃないかと思う。(STSの業界用語を使えば、それぞれのアクターが、それぞれなりの必要や意図を満たすための共通の場としての”boundary object”として、CSが機能するということ。)それにそもそも、トップダウンで「誘導的啓蒙」をやろうとしても、今時、それがうまく行くことはないだろうという楽観もある。ボトムアップの声や必要に応えなくてはやっていけない現代の科学技術と社会の現実があるからだ。要するに、、サプライとデマンド、トップダウンとボトムアップが交叉する「相互性」(あるいは「公共性」)を、一つ一つのCSの場でも、CS全体でも高めていくことが大切だし、そうならざるをえないだろうと思うわけだ。
そういう意味では、「多様な声が交わる相互性の場としてのCS」というかたちでのCSのブランド化はやはり必要だろう。そうでなければ、とたんにCSはただの講演会や誘導的啓蒙の場になってしまう。相互性を高めるための場のデザインというものが、どうしても必要になってくるはずだ。(これは阪大コミュニケーションデザイン・センターで取り組むべき課題だな。)
ちなみにTomさんの話では、スピーカーが複数のほうが参加者の議論は盛り上がるようだ。スピーカー同士のあいだで議論が起こるのはもちろんだが、それをとっかかりにいろいろな議論の着眼点が開けてきて、参加者もそれぞれの関心で議論に加われるからだろう。
そんなCSのあり方を想像しているなかで、コメントとしても述べたことだが、思いついたことが一つある。それは、CSは、「対話(dialogue)」の場なのか、それとも「会話(conversation)」の場なのかということだ。これは、CSには、スピーカーと参加者の間の「1対n」の「専門家との交流」を志向する傾向と、スピーカーも含めたその場の人々全体の間の「n対n」の「専門家を交えた議論」を志向するものがあるという三番目の報告者の中村征樹さん(東大先端研)の指摘から思いついたこと。
小生の考えは、「交流」=「対話」、「議論」=「会話」という置き換えができるんじゃないかということなんだけど、ここで「対話」というのは、基本的に「二者」の間で行われるものであり(だから”dia-logue”)、何らかの合意を意図的または予定調和的に目指したものを意味している。多数の人が参加するCSでも、そこでの話が参加者同士ではあまりなされず、もっぱらスピーカーと参加者のあいだでのみ行われれば、それは「専門家」と(集合的一者としての)「非専門家」という二者の間の対話となる。これに対し「会話」というのは、複数の話者の間で水平的に行われるものであり、多数の視点や関心が交叉することで、話題がいろいろな方向に乱反射し、各々の予想や期待を超えて広がっていくことに醍醐味がある。そのなかで当初は見えなかった物事のつながりが発見されたり創られていく。つまり、対話は同一化と予定調和を志向するのに対し、会話は分化(differentiation)と創発(emergence)を志向するというわけだ。
ちなみに今回のシンポについては、粥川準二さんが日記でいくつか問題提起をしていて、それに応えて、現在英国留学中でCSについての研究調査もしている岡橋さんが「科学カフェを考える」というエントリーを書いている。そのなかで、「カフェ」というのは、「所詮は都市在住の、(経済的にも学歴的にも)あるレベル以上のエリート層の、『市民』のものにすぎないのではないか」という指摘を粥川さんがしてて、「やっぱり“サイエンス居酒屋”かなあ」という小生のつぶやき(文中ではイニシャル表記になってますが)を取り上げてくれている。
この点について、ちょっと書いておくと、小生の考えでは、きっとイギリスやフランスにとっての「カフェ」というのを日本の文脈に翻訳すると、「居酒屋」とか、あるいは「カフェ」なんていうオシャレな呼び方をされないような普通の溜まり場的な喫茶店ってことになるんじゃないだろうか。岡橋さんが書かれているが、イギリスのCSでは、参加者の半分以上が飲み物はアルコールで、スピーカーまで飲んでることが多いそうだ。会場も、日本でいうところの「カフェ」ではなく、「パブ」、つまり日本で言えば居酒屋みたいなところが多いのだろう。フランスだって、「カフェ」といったら、そんなにかしこまったところじゃないし。要は、参加者がふだん行きつけているような場所で、気楽に科学の話題を好き勝手喋れる場、そういう普段着のままで行けるような日常の場に科学がひょんと顔を出してくる場がCSなのだ。
ちなみにシンポでは、あるCSの主催者の一人から「日本人は議論が下手で、盛り上げるのが大変」という意見があったが、それはきっと場所の選択なりデザインなりが悪いからじゃないだろうかと思った。たとえばどこか都心のオシャレなカフェなんかでやったりすれば、たいていの人はかしこまっちゃって、「へんなこと言って恥かかないように」なんて要らぬ気を使ってしまうかもしれない。粥川さんの危惧も当たってしまうだろう。けれども居酒屋みたいな場所で、好きなもの食べたり飲んだりしながらだったらどうだろう?実際、居酒屋では、会社の上司についての愚痴ばかりでなく、野球にしろ政治にしろ、どれも自分は素人であるはずの話題について、みんな好き勝手、楽しく喋ってるではないか。もちろんそれは一つのテーブルを囲むくらいの人数での話だが、そういう気楽な「会話」の場は、当然日本にもたくさんあるわけで、それを工夫して使っていけば、日本でだって、「科学に関する会話」は結構盛り上がるに違いない。
そんなわけで、阪大コミュニケーションデザイン・センターでCSをやるときは、ぜひ居酒屋も含めて、いろいろな場のデザインを実験してみたいと思っている。(阪大の豊中キャンパス近くにも、美味い魚を食べさせてくれる飲み屋があるので、そこでも一度やってみたいな。)その時は、ご近所の皆さん、ぜひご参加ください。(遠路はるばるのご参加ももちろん大歓迎です。)
TBありがとうございます。
大阪での居酒屋科学談義、なんだか楽しみですねぇ。
確かに場所選びは大切だと思います。
でも、どうしても発言をするのに億劫になってしまう人がいるのも確かです。これは、意外に恥ずかしがりやな英国人にとっても同じことです。そういう時には、司会やファシリテーターが、事前に主旨(どんな質問をしてもよい、対話(会話)が目的である、等)をいちいちしっかり伝えることが大切のようです。
この辺は、「コンテクストのすり合わせ」の達人である平田オリザさんがあっと驚く仕掛けをしてくれるのでしょうか?
返事が遅くなってすみません。
>この辺は、「コンテクストのすり合わせ」の達人である平田オリザさんがあっと驚く仕掛けをしてくれるのでしょうか?
そうですね、平田さんとのコラボレーションはすごく楽しみにしてます。彼が全国の中学や高校でやってる「コミュニケーション・ワークショップ」というのは、なかなかうまく人と話せない、議論できない子どもたちを、コミュニケーションせざるをえない状況にうまくもっていく仕掛けがあるようです。科学カフェでもぜひやってみたいですね。