Everybody wants to …

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今日の午後は、京橋の銀座ラフィナートで、とあるバイオ系の団体の講演会。科学技術コミュニケーションの課題について喋ってきました。 他に3名の方が、フォーラムとしての科学館の役割など、同じく科学技術コミュニケーションのさまざまな取り組みについて報告されました。
そのなかで特に鮮やかな印象を残したのが、くらしとバイオプラザ21というNPOがやっているバイオカフェの報告。バイオカフェは、いま流行のサイエンスカフェ(科学カフェ)の一つで、医療、食品、環境などバイオサイエンスが関わるさまざまな話題について、お茶や軽食を楽しみながら、専門家を囲んで参加者があれこれお喋りするイベント。専門家が一方的に話をする講演会でもなければ、専門家VS素人の「対話」でもない、素人の参加者同士の間でも議論が盛り上がり、話題が広がる「会話」が生まれるのが大事なポイント。去年の3月にスタートして、これまで35回開かれてるという。


そのバイオカフェについての報告の中で特に興味深かったのが、参加者たちがバイオカフェに求めていることについてのアンケート結果で、最も多かったのが「他の参加者の意見が聞きたい」、二番目が「気楽に話し合いたい」ということだったこと。
つまり、こういうイベントに参加する人たちというのは、他の誰かが何を考えているのか、何をどう感じているのか知りたがってる人々、そして自分の考えを伝え、それに応えてくれる誰かの言葉を求めてる人々だということ。
こういう人たちが世の中に一定数いるというのは、民主的な社会のあり方にとって、とてもステキなことなんじゃないか。ふとそんなふうに思えて、「日本も捨てたモンじゃないな」と、思わず顔がほころんでしまった。おそらくは、昨今のblogブームにも共通する感性かもしれない。
ちなみに自分の報告では、「社会実験としての科学技術ガバナンス」ということで、失敗することを見込んだ上でのガバナンスのあり方、失敗との和解可能性という課題について触れてみた。人間が為すことは、どんなに知恵を集め、多様な人々の意見を活かしてみても、遅かれ早かれ十中八九、失敗する。うまくいったとすればそれは儲けもの、僥倖である。そんな人間にとって究極的に大事なのは、いかに失敗と和解するかという「悲劇」的能力であり、人を過去の罪から解放する「赦し」の能力である。アレントはこれを、人間の行為と言葉が織り成す「人間事象」において発揮されうる能力であり、人間事象の領域を超えて、和解し赦す主体(=人間)のいない自然世界に介入する科学技術の世界にはあてはまらないと考えた(ハンナ・アレント『人間の条件』参照)。
これは、8年ほど前、院生の頃に書いた論文でちょっと考えたことのあるテーマだったりするのだが、上記のバイオカフェの経験は、たとえ「お題」は科学技術であっても、人々が求め、編み上げていくのが、語り合い繋がりあうという人間事象であるということを示す点で、悲劇的行為としての科学技術ガバナンスの可能性と限界を考えるうえで重要なヒントになるかもしれない。つまり、物理的・生命的損失を伴う科学技術の失敗であっても、人間はそれを、非人称的・非人格的な現象としてではなく、具体的な誰かたちの行為や責任、誠実さ、人と人の間の繋がり――あるいはその欠如――の問題として捉える。
だとすれば、そこには、たとえ物理的・生命的には取り返しのつかない損失かあったとしても、人は人を赦し、罪や憎しみから解き放ち、悲劇と和解する可能性が残されているし、逆に、そうした人間的な対応が欠落すれば、憎しみとそれに縛られる苦しみの連鎖は終わらない。たとえば、科学技術がらみの事故や事件が起きたとき、我々はいったい何に対して怒り、憎しみを抱くのだろうか?それは関係者の無責任な態度や、怠惰としかいいようがない不作為だったりしないだろうか?また、人間の行為が介在しない純粋に自然的な事象による損失に対し、我々は人間が犯す過ちに対するのと同様の怒りや憎しみを抱くだろうか?
その一方で我々は今、どんなに誠意を尽くして人間的な対応をしてみてもあがないきれない「人間の罪」にも直面している。たとえば、BSEによるvCJDの感染という問題。その潜伏期間の長さは、原因=責任者の追求の連鎖を辿り返すことを不可能にしてしまう。(牛肉を生涯に一度しか食べないなら別だが。)誰かが責めを負うべきなのに、その誰かを特定することは決してできないという理不尽(上掲論文ではこれを”Epistemic-Moral Inability”と表現した)。その場合でも、形式的に誰か(たとえば政府)が変わりに責めを負うという解決はありうるが、法的にそれが可能かはビミョー。
そういう意味では、科学技術の事象でも、いかに人間事象の内側の問題として捉え返し、対応するかがカギでもあり、限界でもあるといえるのだろうか。

閑話休題。
さて、計4名の講演が終わった後、ちょっと軽く一杯ってことで外に出てみると、ラフィナートのビルの壁に写真のようなレリーフの看板を発見。ここは「自動電話交換発祥之地」だそうです。
看板の上には、一部写真にも写りこんでますが、電話交換機の回路をかたどった大きなレリーフ。日本の歴史を感じさせる発見でした。
ちょいと一杯のあとは、東京駅の喫茶店で共同研究者と打ち合わせ。今日の講演で、頼まれ仕事の山がようやく片付いたので、これで本来の研究ができる。(それが終わればいよいよ自著本の執筆だ!)
明日は溜池山王近くの某団体事務所で、その共同研究のための資料漁り。昼休みには、どこか近くで桜も見られるかな。
ところで京都、明後日は雪?
ありえへんorz

 

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