今日(15日)のブリュッセルは、朝から冷たい小雨が降り続いた。今週はずっとこんなかんじらしい。
CER2005は今日が2日目で最終日。午前は”Advancing European protocols for science communication”、”Beyond ‘Frankenfood’: communicating science-based debates with stakeholders”に参加。一つめは、はっきりいって面白い中身はなかった。
二つめのセッションは、とても興味深い取り組みの紹介が2つあった一方で、特に質疑応答のところでは期待とはまったく違う展開で、けっこうウンザリした。
興味深い取り組みの一つめは、GreenFacts.org (Greenfacts Foundation)による科学合意文書(scientific consensus documents)のウェブ・データベース。政策決定者にしてもNGOにしても、環境問題などに取り組むうえで困るのは、どの科学的主張やデータを信頼すればいいのか、どれがいわゆる「利用可能な最善の知識(best available knowledge)」なのかということ。非専門家が提供する情報は、それなりに分かりやすくなってるかもしれないが、特定の利害のバイアスがかかってるかもしれない。専門家の意見にしてもいわゆる「専門家バイアス」がありうる。個々の科学研究の結果にしても同様。また対立するさまざまな意見の「平均」をとるというのもうまくいかない。往々にして真実はそういう平均値ではないからだ。
こうした欠陥を補うためにGreenFactsがやってるのが、国連など国際機関がまとめた合意文書(報告書)のデータベース。大勢の専門家から構成される専門家パネルによって執筆、査読されたものであり、関連するすべての研究結果が考慮されているため、上記の欠点が少ないからだ。ただ、そうした文書はたいていは分量が多く、複雑であり、しばしば世間の目からは隠れたところにある(見つけるのが難しい)。そこでGreenFactsでは、これらの文書のサマリーを、「要約(summary)」、「詳細(detail)」、「原典(source)」の三つのレベルに分けて、内容を紹介するサービスを行っている。関連リンクも、各文書ごとにしっかりまとめられていて、とても便利。研究者にとっても、情報収集段階でとても役立つに違いない。日本でもこんなのがあったら大変便利だろう。(英語でそのままGreenFactsのを読めばいいんだが、一般的には日本語で読めたほうがいいし。)
もうひとつ興味深かったのは、ジャーナリスト集団が主催するEurActiv.com。これは、欧州連合(EU)の政策文書について、その内容紹介、政策形成の経緯や利害関係者等の意見の紹介、関連文書へのリンクなどをまとめたもので、こちらも大変役立つサービス。日本でも、日本政府の政策に関してこういうデータベースがあったらうれしいのになぁ。。
とはいえこのセッション、かなり問題も感じられた。「〈フランケンフード〉を超えて: ステイクホルダーとの科学に基づいたコミュニケーション」というタイトルが示すように、セッションの基本的発想は、遺伝子組換え食品のことを「フランケンフード」などといって感情的に扱うこれまでのパターン――これは消費者一般の反応であるだけでなく、推進派、反対派を問わずステイクホルダーたちが消費者の感情に訴えるPR戦術をとってきたことを指す――から、科学的事実に基づいた理性的なコミュニケーションに変えていきましょうという話。最初は、昨日の午後にあったナノテクの話のように、研究開発の早い段階からコミュニケーションを進めようという話にもなるのかと思ったが、そういう展開は全くなし。ひたすら「科学 vs. 感情」という単純な二分法で、科学的議論以外はすべて「感情」の問題として扱うという発想が貫かれていた。質疑応答で韓国からの参加者が、「科学者はすぐ『解答』へと意識が向かってしまうが、その前にまず、何が問題なのかを検討し、それをみんなで共有できるようにすることが重要だ」ということや、そうした問題設定(フレーミング)の吟味における価値観(「感情」ではない!)の問題の重要性について指摘したのだが、スピーカーからのコメントはまったく的外れで、司会者もそのままスルーしていた。トイレに行っている間に、「信頼」(これも「感情」ではない)の問題について指摘した参加者もいたようなのだが、やり取りを聞いていた同行のS氏によると、これもさらりとスルーされたとのこと。自分もその問題を指摘しようと思っていたので、もうすでにされたのならいいかなと思っていたのだが、しつこく言うべきだったかもしれない。「科学が大事」ということ自体は、そのとおりと思うのだが、大事なのは科学だけではない。
ちなみにこの司会者はジャーナリストだということだが、こんなのが「科学ジャーナリスト」で「科学コミュニケーションを促進する」とは、困る話である。そういえば、今回の会議には、欧州のSTS(科学技術社会論)関係の研究者が、少なくとも自分が知ってる範囲では誰も参加していなかった。
さて、そんな午前中のセッションが終わったあとは、会場内のランチサービスで昼食。パックに入った料理(魚か肉を選べる)とワインをもらって、会場にたくさん並べられた立席用のテーブルで食べる。途中で、オランダとギリシャの女性参加者がやってきて、しばし歓談。その後は、コーヒー・コーナーで一休みし、そこでもテーブルをシェアした男性参加者2人と歓談。
その後、2時半頃にS氏がパリに戻ったため、あとは一人でぶらぶら。まずは昨日、もう少し話を聞いてみようと思ったSAFE FOODのブースへ。ちょうどうまく、プロジェクトの中心的スタッフと思われる若手の研究者がいたので、単刀直入に「このアプローチの『新しさ』っていったい何?」と質問。彼によれば、第一に、このアプローチでは、食品のリスクだけでなく栄養価などのベネフィットや、その社会経済的な影響・効果まで評価する「統合的評価」を提案し、第二に、リスク評価の前段階にある問題設定(フレーミング)のところからステイクホルダーとの協議を行う包括的なリスクコミュニケーションを提案しているところが「新しい」のだという。途中で見せてくれた図表も含めて、どこかで読んだ話だなぁと思っていたら、案の定、欧州のリスクアナリシスの代表的研究者であるドイツのOrtwin Renn氏も関わってるプロジェクトだという。また、二ヶ月ほど前にはブタペストで会議があり、日本の食品安全委員会のリスクコミュニケーション関係の人たちとも議論したとのこと。挙げてくれた名前には、先月東京であった食品安全に関する会議でお会いした委員会の事務局スタッフの方の名前もあった。
また、フレーミング段階には、さまざまな社会的問題が関わっており、そこからオープンな協議が必要というのは、今回の出張のもう一つの目的で、金曜日にキックオフ会合をすることになってる国際共同研究のテーマに直結する話である。そんなわけで、短時間ながらいろいろ議論が盛り上がり、プロジェクトの内部資料などを後日メールで送っていただけることになった。(おそらくこれが、今回の会議で一番の収穫。)
そのあとは、一番大きな会場(オーディトリアム)で行われた”Science centres – privileged fora for communicating European Research”に移動。このテーマ自体はあまり興味がないのだが、科学未来館副館長の美馬のゆりさんが報告されるということで行ってみた。阪大CSCDのほうで、来年1月に未来館を訪ねることになってるので、今日の報告で紹介されていたいろいろな取り組みについて、さらに詳しく聞いてみたいと思う。
正規のセッションとしては、これが最終で、あとは同じ会場でクロージングセッション。予定通り17時半にお開き。その後は街に戻り、食事。昨日、一昨日とヘヴィーなメニューだったので、胃を休めるため、今日はホテルの近くのブラッセリーA la Mort Subiteで、オムレツとパン、ビール(種類はクリーク)で軽く済ませ、7時半頃にホテルに戻った。
部屋に入った後は、ちょっと一休みと思ってベッドに寝転がったら、そのままぐっすり就寝。目覚めたらなんと午前2時。たっぷり6時間も寝てしまった。
ちなみに右の写真は、グラン・プラスの一角にあるダイヤモンド商の店。なんでこんなの撮ったかというと、実はこの店、京都の西洞院四条下るにあるインドカレー屋ゴータマの店主さんのご家族がやってる店なのだ。ゴータマに行ったことのある人は知ってると思うけど、メニューの最後のページに、このダイヤモンド店の広告が載っていて、次にベルギーに行ったら確認しようと思っていた。今日は、そのことはすっかり忘れてたのだけど、夕食の場所を探してて偶然発見した。
<追記(11/17)>
粥川準二さんが日記「みずもり亭日誌」で、先日のSTS学会の年会についての感想を書いている。そのなかで「科学技術コミュニケーションバブル」と呼ぶべき昨今の動向に対して、次のような危惧を示されている。
それにしても気になったのは、「科学技術コミュニケーションの目的とは何か?」ということ。もしも、科学技術コミュニケーション、たとえば科学カフェなりゲノムひろばなりコンセンサス会議なりの目的が、具体的な科学技術の産物、たとえば遺伝子組み換え食品なり原発なりの受容の円滑化、いいかえれば一般の人々の反発を抑え込む、もしくはやわらげることにあるのだとしたら、「科学技術ジャーナリズム」を「科学技術コミュニケーション」から分離させるべきではないか。しかし現実はどうか。
少なくとも、これから生まれてくるであろう「科学技術コミュニケーター」のかなりの部分がそうした仕事に従事することは間違いない。それだけならまだいいのだけども、最悪なのは、科学技術の受容の円滑化に励む、自称「科学技術ジャーナリスト」がはびこることだ。学会では、いくつかの大学の「科学技術コミュニケーター」もしくは「科学技術ジャーナリスト」養成プログラムについて拝見したが、非常にいやな予感がした。
自分もまさに「バブル」の真っ只中にいて旗振りもしてるわけだけど、まったく同感。そしてこの危惧は、上記のように、同じく「科学技術コミュニケーションバブル」の只中にある欧州についても当てはまるのだろう。ただ、こういうのはある意味「清濁併せ呑む」ことも必要かとも思ってる。あるいは清濁混合になるように、こちらから攻めを積極的にしていかなきゃならない。それに、「科学技術コミュニケーションで受容を進めよう」という発想は、現実の人々とのコミュニケーションの中で、多かれ少なかれ挫折するのが運命だとも考えている。「コミュニケーション」というからには、それを通じて相手の考えや態度が変容することを期待すると同時に、自分たちも変わる覚悟を専門家の側も持つ必要があるわけで、そういう覚悟なしでやってたら、いつかは人々に見捨てられるだろう。知人から聞いた話では、理科イベントなんかでも子供たちは、「理科は楽しい」、「科学はすばらしい」とか、科学技術のプラスの面しか語らない話(たいていは50代以上のオジサンの話が多いそうだ)よりは、プラス・マイナス両面含めた話のほうに興味をもつのだそうだ。プラス面しか見せない話には、やはり「うさんくささ」を嗅ぎ取ってしまうのだろう。大学生でも、「プロジェクトX」はしらけるらしい。科学技術が輝いていた「あの頃」とは明らかに違うのだ。
「コミュニケーションで受容させよう」なんて発想は、いずれあちこちで、こういう現実にぶち当たる。そうやって、やがて「バブル」がはじけたとき、「現実」から学んだ意味のあるコミュニケーションの実践と思想、経験を、とくに若い世代の科学者たちの間に、どうやって生き残らせるか。それが一番大事なんだと思っている。