先日のエントリーでとりあげた「日本は大きな政府か?」という問題。そこで紹介した醍醐聡さん(東大・会計学)による日刊ベリタの「小さな政府論検証シリーズ」の続きが出ていた。
<小さな政府論検証シリーズ(2)> 郵政民営化で資金の流れは変わるのか? 醍醐聰・東大教授
郵政民営化の理由のひとつに挙げられているのが、「資金の流れを官から民」へという主張だ。醍醐聡・東大教授(会計学)はこの主張の検証を試み、郵政民営化問題をめぐって事実と道理に立脚した議論が交わされる一助にしたいとしている。(ベリタ通信)
今回のテーマは、タイトルのとおり、郵政民営化によって、資金の流れが官から民へと変わり、経済の活性化につながるという民営化推進論拠の妥当性の検証。具体的には、民営化で本当に資金の流れは変わるのか、そして、そもそも「官」から「官」へ資金を回すことが本当にいけないことなのかを問うている。
議論のポイントは以下のとおり。
まず「民営化で本当に資金の流れは変わるのか」については、民間の金融機関に集まった資金(預金等)の流れが、民間ではなく官へと流れていることを指摘している。つまり、(1)長引く不況のなかで優良な貸出先が減ったこと、(2)自己資本比率規制の面で、民間貸出よりも国債の方が貸倒れのリスクが小さく評価され、比率の改善につながること、などから、民間金融機関が預金や保険料で集めた資金が、「民」へ流れず、国債購入という形で、「官」に流れているのだという。
具体的には、全国銀行では、最近4年間で、貸出金残高が42兆円減少する一方で、国債残高が36兆円増加し、生保でも、この4年間で、貸出金残高が9兆円減少する一方で、国債残高が9兆円増加しているのだという。
要するに、このような資金の流れを作り出している不況や自己資本比率規制、国債リスクの見積もり等の構造的条件が変わらない限りは、民営化したからといって、資金が「官」から「民」に流れるわけではなく、「経営形態と資金の流れは無関係である」というわけだ。
他方、郵政民営化論議の一番の(であるべき)焦点である郵貯・簡保からのお金の流れについては、2001年の財政投融資制度の抜本的改革の存在がポイントのようだ。
郵政民営化の主な理由の一つとして、これまで言われてきたのは「資金運用部資金封鎖論」であり、それは、
従来、郵貯等に集まった資金は、資金運用部に預託され、財政投融資を通じて非効率な財投機関(特殊法人等)の事業に融資されてきた。こうした「出口」事業の非効率をなくすには、「入口」で資金を断ってしまう必要がある、
という議論である。ところが、2001年の財投改革によって、この郵貯資金等を資金運用部に預託する制度は廃止され、次のようになっているのだという。
- 郵貯・簡保資金は、原則として、すべて市場で自主運用できるようになった。
- それに対応して、財投機関は必要な資金を自力で調達するため、財政投融資機関債(財投機関債)を発行するものとされた。
- ただし、これ以降も、資金の自主調達が困難な財投機関に貸し付ける資金を調達するため、国は財政投融資債(財投債)を発行できることになった。その際、当時の大蔵省は、2001年度以降、7年間の経過措置として、郵貯・簡保に財投債を引き受けるよう義務付けた。
このような改革によって、特に1に従い、郵貯・簡保資金は、原則としてすべて市場で自主運用できるようになったわけだが、データによれば、実際はそうなっていない。上記の3の経過措置「財投債の引き受け義務」により、郵貯・簡保も、「この4年間に資産総額が減る中で、国債購入が突出して増加し続け、2004年度末現在では、資産総額に占める国債保有額の割合は、郵貯、簡保ともに40%を超えている」のである。
つまり、「入口」を攻めた2001年の財投改革は、財投債の引き受け義務により、中途半端に終わり、郵貯・簡保に集まった資金は、それ以降も民間には流れず、大量の国債の購入という形で「官」に流れたというわけである。
ちなみにこの財投改革については、(財投債ではなく)財投機関債の問題を、Bewaad
Institute@Kasumigasekiさんが論じている。
郵政論議はもちろん、財政論議のことも全体像がつかめてない(もちろん細部もわからない)ので、はっきりしたことはいえないのだが、「ある財投機関の要不要は、それが実施している施策の要不要を民主的プロセスにおいて判断した結果により定めるべき」であり、単純に市場に任せればいいというものではなく、必要なものならば政府がちゃんと面倒見るべき、という意見は妥当なものだと思う。
これに対し醍醐さんの議論では、政府保証である財投債のほうを問題にしており、bewaadさんと対立しているように見えるのだけど、どうなんだろう?醍醐さんのポイントは、下記の主張に見られるように、郵貯・簡保の資金が相変わらず官に流れていることや、特殊法人等の非効率が温存されていることは、郵政事業に原因があるのではない、ということにある。
このように見てくると、財投機関への資金供給ルートが断たれたはずの2001年度以降も、郵貯・簡保の資金が国債(財投債)購入という形で「官」に還流する仕組みが残ったのは、政府・旧大蔵省による財投債引受け義務制度の結果であって、郵政事業の自主的判断の結果ではない。
また、財投債に依存した特殊法人等の非効率が温存されたとしても、それは郵政事業の責任ではなく、財投債の運用先を決める権限を持った政府の責任であることは明瞭である。(強調引用者)
いいかえれば、郵政事業を民営化したからといって、これらの問題が解決されるわけではなく、特に特殊法人等の非効率については、政府の責任として、郵政の民営化うんぬんとは独立に解決すべきだということなのである。この点は、財投機関の業務の要不要は、(市場原理ではなく)民主的な政治プロセスにおいて決め、必要と判断されたものならば、その経営基盤については、政府が面倒見るべきだ――もちろん収益があがっていれば、独立採算でやってもらう――というbewaadさんの議論に重なってくるように見える。
いずれにせよ、醍醐さんの一番の主張は、問題の核心は、郵政事業そのものの経営形態(入口論)ではなく、政府の無規律な財政運営、特殊法人等の浪費の構造など「出口」の側の事業改革だということである。そもそも、入口側での「財投債の引き受け義務」が外れたとしても、国債の大量発行を余儀なくさせている出口の側をどうにかしなくては、この大量の国債をどこが引き受けるかという問題が出てきてしまう。銀行など民間金融機関が、郵貯・簡保に代わって引き受け、ますます民から官への資金流入が増えるのか、どこも引き受けず、国債が暴落するのか、やはり民営化された郵貯・簡保で支えるのか?いずれにしても、お金を使う側(出口)の国債という借金依存体質を改めなければ、結局は「官から民への資金の流れ」は、そう簡単に増えそうにない。
そして、この出口改革という観点から見れば、官から官にお金が流れること自体が悪いわけではないというのが、もう一つ重要な醍醐さんの論点だ。つまり、官業といっても、必要なものと不要なものがあり、必要なものに「官から官へ」とお金が回るのは当然だからだ。逆に、一口に「民」といっても、営利追求を目的とし、公共性のある官の事業が果たす役割を補完・代替できないものもあれば、NPOのように、民間の創意を活かしつつ官との協働が期待される事業主体もある(もちろんこのときNPOは、善意の無償ボランティアではなく、ちゃんと職員に人並みの給与を出す経営体でなくてはならない)。必要なのは、公共部門として、何が必要で何が不要なのか、必要だとされた場合、その経営形態は、国営、民営、そして非営利民営による官民協働など、どのあり方がふさわしいのかを個別具体的に検討することであり、「官から民へ」ではなく、官であろうと民であろうと、事業の公益性・公共性を、いかに民主的プロセスのもとで再構築するかという問題なのだろう。
ちなみに、上記のbewaadさんの記事を確認しにいったついでに見つけた「笑えない未来像」というエントリーで紹介されていた2ちゃんの経済板(経済から政治を語るスレ)からのコピペ。ほんとに笑えないぞ。
<向こう10年間の仮想シナリオ>
○○○○政権継続
→増税・財政再建・行革路線失敗
→07~08年頃に倒閣・○○党主導政権成立「まだまだ改革が足りなかった」
→さらなる「真の改革」が始まる
→景況は絶望的に悪化。
→○○退陣。現在の「若手」による「我々こそが真の改革派なり!」(いったい何人いるんだ)という○○・○○の超党派(主力は元官僚・元金融・松下政経塾出身者)による新自由主義原理型政権が成立。市民派・NPO勢力なども一縷の望みを掛けて(まだ懲りないのか?)草の根から勝手連で擁立。
→ますます階層化が悪化。GDPも微増・横這いを繰り返し、各種経済指標はいよいよ有名無実となる。
(時代遅れの公職選挙法を考慮して、政党名、候補者名などは伏字にしてあります。選挙終了後、元に戻します。参照→http://www.fujisue.net/archives/2004/05/post_111.htmlのコメント。←コレが正しいとすると、現行の公選法って、自由な言論を阻害しているような気がする。「特定候補及び特定の政党を支援する目的で」って、どうにでも解釈できるし。)
それと、このエントリーには、47thさん@ふぉーりん・あとにーの憂鬱の「Katrinaが開けたもの」に触れつつ、洪水被害にあってるニューオーリンズの現状は日本にとっても決して他人事ではない、という指摘があるが、これも洒落にならない話。小さな政府――とはいっても日本よりデカイけど――の急先鋒、米国ブッシュ共和党政権では、こうした災害対策・救援を行う連邦緊急事態管理局(FEMA)も「民営化」によって縮小・断片化が進み、それが今回の被害の深刻化の大きな一因になってるらしい(関連記事: Washington Monthly: FEMA THEN AND NOW; 暗いニュースリンク: 「ハリケーン大災害、ニューオリンズに戒厳令:ライス国務長官はNYのフェラガモでお買物!」)。47thさんの記事に紹介されている経済学者クルーグマンのコラム”A Can’t-Do Government“は、かつては「できる」という態度で有名だったアメリカが、いまや、「職務を果たす代わりに(できないことの)言い訳をする『できない政府』」になり、アメリカは死にかけていると結んでいる。「民にできることは民に」とか言ってる間に、日本の政府も「できない政府」にならないという保証はない。(この前も引用させていただいたkitanoのアレさんの「民間でできることは民間で 目指すはなにもしない政府」という台詞を思い出すなぁ。)
最後に、「小さな政府論」の基本認識を示す政府の資料をあげておく。
平成17年度 年次経済財政報告 平成17年7月 内閣府
第2章 官から民へ~政府部門の再構築とその課題
第1節 小さな政府とは
ここでの議論のポイントは、財政赤字を将来負担としてとらえ、国民負担率に財政赤字分を加えた「潜在的国民負担率」という数字の存在。これで見ると、負担率は45%となって、欧州よりはまだまだ小さいが、それなりに大きな政府となり、この傾向は少子高齢化の進展等によって拍車がかかっていく、ということのようだ。
あと、より全般的な日本の財政状況や国際比較については、財務省のサイトにこんなのがある。
わが国税制・財政の現状全般に関する資料 (平成17年4月現在)
国際比較に関する資料 (平成16年4月現在)
それにしても、あれこれの世論調査の結果は、なんだかレミングの集団自殺のように見えてくるな。。