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日本は「大きな政府」か?

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今回の選挙でジミン党は、「官から民へ」、「民間にできることは民間に」という掛け声と、財政支出・財政赤字の削減、経済活性化などのお題目のもと、郵政民営化を看板に「小さな政府論」を訴えている。(この点では民主党も似たり寄ったりだが。)

だけど、日本って、スリム化しなくちゃいけないほど「大きな政府」なんだろうか?
どうも「民営化」だとか「市場原理」というスローガンは、思考停止の呪文のように聞こえてしょうがない。

そりゃ、無駄遣いしてるような部門はたくさんあり、整理していくべきところはいっぱいあるだろうが、逆に、必要とされているのに人やリソースが足りないところもたくさんある。たとえば自分の専門に関わるところでは、原子力や環境、公衆衛生、食品安全など、リスクガバナンスに関わる部門は、欧米(とくに米国)と比べると圧倒的に少ない。(噂だけど、食品安全委員会でも、事務局スタッフで過労死した人がいるという話を聞いたことがある。)以前にハーバード行政学大学院のSheila Jasanoffと話していたときに、彼女が言っていたことだが、日本は、「小さな政府論」のメッカである米国と比べても、すでにはるかに小さな政府なのだ。

なのに、どうしてこうまで財政赤字が膨らみ続けるのか?少子高齢化だけが原因なのか?単に、「民営化」で公務員数を減らして人件費削れば、問題は解決するんだろうか?何か、お金の使い方、人の使い方に根本的な欠陥が、もっと構造的なかたちで蔓延してるからじゃないのか?それを無視・放置して、単に人減らししたって、何も良くはならないんじゃないの?たとえば330兆だか350兆という郵貯を民営化しても、結局は今と同じく国債買い続けて――ヘタすると米国債まで押し付けられて――財政赤字増やし続けるだけなんじゃないのか?そんな疑問がつきまとって離れない。

そう思っていたところに、日刊ベリタで、東大の醍醐聡さん(会計学)によるタイムリーな連載が昨日から始まっている。しかも無料記事。

小さな政府論検証シリーズ(1): 「小さな公務員」論の大きな誤り 醍醐聡・東大教授
小泉首相は郵政改革を9・11総選挙の最大争点にすえる選挙戦を展開しようとしている。郵政事業の民営化によって「小さな政府」を推進することが、あたかも国民のニーズに応えるものであるかのように説かれる。これに唱和する声はメディアの一部からも聞かれる。しかし、このような主張は本当に正しいのだろうか。醍醐聡・東大教授(会計学)は、具体的なデータと理論にもとづいて、郵政民営化に見られる「小さな政府論」の是非を判断するよう訴える。(ベリタ通信)

要点は、こんなかんじ。

  • 削減せよ、というからには、日本の公務員は「多すぎる」という事実が立証されていなければならないが、不思議なことに、公務員削減を唱える人々から、それを裏付ける資料が提出されたのを見かけない。
  • 各国における政府部門の比重を示したOECDの統計資料(PDF)によると、日本の公務員数と公務員報酬の水準は、以下のように、国際比較で極めて低い水準にあり、いまさら、政府や財界から言われるまでもなく、雇用面では、とっくに「小さすぎる政府」になっていたことがわかる。
    • 図表4(一般政府雇用の総雇用に対する比率)を見ると、アメリカ(14~16%)、ドイツ(11~15%)、スウェーデン(20~34%)と比べ、日本は7~9%で推移している。
      (注)その他の国を見ると、1999年現在で、イギリス:12.6%、カナダ:17.5%、イタリア:15.2%、となっている。 
    • また、図表5(一般政府被用者報酬の対GDP比)を見ると、アメリカ(10~12%)、ドイツ(9~12%)、スウェーデン(14~21%)であるのに対して、日本は6~8%で推移している。
      (注)その他の国を見ると、1999年現在で、イタリア:6.9%、オーストラリア10・3%、フランス:11.0%、となっている。また、年次はずれるが、イギリス(1997年)は7.8%である。 
  • 郵政事業はこれまで、郵便、貯金、簡易保険のいずれも人件費を含むすべての経費を自前の収入でまかなう自立採算を達成しており、税金は1円も投入されていない。したがって、郵政事業を民営化したからといって、国の財政支出も財政赤字も1円たりとも減るわけではない
  • 2001年4月に、政府は現業部門を政策の企画立案部門から切り離し、「小さな政府」を実現する手段というふれこみで、独立行政法人を導入した。しかし、実態はどうかというと・・・
    • 2003年12月の政府発表によると、独立行政法人の役員に占める退職公務員の比率は、全役員528人の45%に当たる236人に上った。さらに、特殊法人などの役員から独立行政法人に異動した人も含めると、95%(505人)に達している。 
    • 報酬の面で見ると、59の独立行政法人のうち、34の法人で理事長の月給が本省の局長級の水準(約100~108万円)と同程度になっている(以上、北沢栄「特殊法人よりひどい 独立行政法人は新たな『官の聖域』」『エコノミスト』2004年3月30日、参照)。 
    • これでは、鳴り物入りで導入された独立行政法人も、高級官僚の天下りの受け皿にすぎない。退職給付も含め、彼らの報酬を国からの運営費交付金でまかなう実態こそ、メスを入れる必要がある。 
  • 「公務員数・給与は少なければ少ないほど良い」という主張には何の根拠もない。むしろ、行政需要の有無の点検なしに、やみくもに公務員数を削減したのでは、行政サービスの低下は避けられず、そのしわ寄せを受けるのは市民一人一人である。 
  • 『総務庁史』(2001年、ぎょうせい)によると、人口千人当たりの公務員数を国際比較(1998年度調査)すると、
    • 日本    38人 
    • イギリス  81人 
    • フランス  97人 
    • アメリカ  75人 
    • ドイツ   65人 
    となっている。つまり、(今より多かった)1998年度の時点で、日本の公務員数は対人口比でみても、すでに、「少なすぎる」状況だったのである。このうえに、国家公務員を20万人減らすと、どうなるのか? 
  • 行政事務の電子化が進むにつれて、省力化が可能な職種が生まれている。また、NPOなど民間の創意を活かすことが期待される分野も増えている。しかし、犯罪の増加、治安の悪化に伴う市民の不安に応えるには、「空き交番の解消」に代表されるような市民生活と密着した場への警察官の増員が望まれる。不登校児へのケアや学力の遅れた生徒への行き届いた教育を実施するためには学校教員の増員が欠かせない。
  • このように、「市民の需要のあるところに行政あり」のスタンスこそ、行政改革の原点であり、この原点を顧みない公務員削減論は、「改革」ではなく、「改悪」である。 
  • 日本の有権者が、こうした低俗で的はずれな議論を透視する理知を研ぎ澄ますことが、「改革派」の虚飾をはがし、言葉の本来の意味での行財政改革を進めるための要と思われる。

まぁ、単にもっと役人増やせ、っていう話じゃなく、要は行政需要(国民が必要とする行政サービス)に応じた資源の効果的な割り振りや民営化、あるいは効果的な官民協働――この場合の「民」は、民間企業(民間セクター)だけでなく、NPOなど非営利/市民セクターも含まれる――の可能性をもっと模索すべし、ってことなんだろうけど、とにかく、「小さな政府論」=「ただのリストラ人減らし」という単細胞な見方ではすまない問題なのだろう。ヘタすると、行政サービスがガタガタになって、コイズミ政権お得意の「名をとって実を捨てる」の極みになってしまうかもしれない。(kitanoのアレさんのこのパロディ・ポスターの「民間でできることは民間で 目指すはなにもしない政府」っていうのが言いえて妙。)

とにかく「小さな政府論」には、「妄想ベース政策(Delusion-Based Policy: DBP)」、あるいは「欲望駆動政策(Desire-Driven Policy: DDP)」の臭いがプンプンする。

ちなみに私は、(1)どこ/何が無駄遣いの原因なのか、ちゃんと調べて、メリハリのある行財政改革を徹底的にやって、(2)社会保障・教育・リスクガバナンスなど必要な行政サービスの維持および向上を図り、(3)法人税もそれなりに上げて、(4)日常品の税率は低く保つ(低所得層の負担増を防ぐため)、という条件が満たされるならば、所得税アップや、消費税率2ケタのアップも賛成です。必要とあれば、政府部門の民営化も支持します(ただし、上にも書いたけど、「民」=「民間営利企業」だけでなく、非営利/市民セクターも含めての話)。

ただ、その一方で、社会保障を政府がもっぱら担う福祉国家モデルは、やはり、絶えざる経済成長を前提にした20世紀産業社会の上に成り立つものでしかないんではないかという気もしている。とはいえ、じゃあ、21世紀は、企業・市場が担う――といっても財源負担するのは個人となり、低負担の人は受益も少なくなる――新自由主義モデルしかないかっていうと、そうではないだろうと思う。つまり、官か民か、国家か市場かという二者択一ではなく、それら両方とともに、非営利部門(NPO)が、とくに地域に根を下ろしたかたちで、社会保障を担っていく地域分散的な新しい福祉社会モデルが必要なんじゃないだろうか。そのためにはNPOも、有志の市民の「ボランティア」の自己犠牲に頼るのではなく、事業体として、プロフェッショナルの経営を行い、常勤職員をそれ相応に養っていけるだけの経営力を確立していく必要がある。

ちなみにこうした選択肢は、経済的な面だけでなく、政治的な面、とくにデモクラシーのあり方にとっても重要だったりする。「官か民か」というのは、実は、どちらも「国民/市民のニーズに適ったサービスを提供する」という意味でのデモクラシーにとっては「遠い」ものだったりする。官=中央政府は、とくに日本のような人口規模の多い社会では、細やかにニーズに応えるのはやはり難しい。ヘタすると、腐れマスゴミによって、それ自体も商品化され、「ワイドショー化」されちゃうし。他方、民=市場は、確かに消費という「投票行動」を通じて、提供されるサービス=商品の「選択」は可能だけれども、それには自ずと限界がある。消費行動に参加できない人というのもいるわけで、そういう人の声は「市場」には届かないし、参加できるとしても、その消費=投票行動の「一票」は、可処分所得の大きさによって、重みが変わってくるからだ。新自由主義ってのは、突き詰めれば「言論を介しての選択・調整・自己変容」という意味での「政治」の抹消に他ならない。政治を抹消した、あるいは極小化したときに、果たして社会は機能するのかどうか。機能するとしても、それは果たして人間性にふさわしい機能の仕方なんだろうか?ここで「人間性」というのは「反自然性」のことであり、たとえば、自然状態なら生きられない人々(障害者や貧困者)でも生きていけるようにするのが、人間社会の人間らしさだろう、ということである(関連エントリー)。それを実現するのが政治の重要な働きであり、所得や生まれ、経歴(学歴、職歴など)に依らず、誰もが同じ重みの一票を持てるという点でも、政治は、反自然性としての人間性の一つの表現であるように思う。政治とその空間を限りなく抹消していく現在の新自由主義的グローバリゼーションというのは、人間を「野蛮化」していく動きであるように見える。アレントではないが、やはり政治という営みは、人間の条件の一つなのではないだろうか。非営利部門の経営や監督(ガバナンス)を、たとえば地域から持ち回りで代表を出して行ったりすることは、デモクラシーの政治の「消滅点」である官と民、国家と市場という両極の中で、ほどよく政治を機能させる、つまり人々の声と声、言論と言論が交わり、選択や創造、変容をもたらしていくのにちょうどいい距離を作り出す方法の一つなんじゃないだろうか。

本来、ここまで財政赤字が膨れ上がり、従来の福祉国家モデルが破綻しかけている今にあっては、選挙でも、こういう社会モデルのあり方、選択がテーマとなるべきなんだけど、日本の政治には、それは高嶺の花なのかなぁ。。

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コメント(4)

実に素晴らしい情報です。ありがとうございます。蒙を啓かれるとはこういうことか。

これを読むと、なんだか、問題の(争点の)設定のしかたがそもそもオカシイのだという気がしてきますね>今回の選挙

本当におっしゃる通りだと思います。ここでおっしゃているようなことが一般のメディアで伝えられないところが問題だと思います。というか、メディアと学会との関係、学会の構造などが改善されて、新しい知見が社会に還元されてゆくシステムを構築してゆくことが必要でしょうね。

「一般政府」ってどこまで言うのだろう?
特殊法人は、入ってるのかな??

それに外国と比較するのって、本質的なことなんでしょうか?日本の実態に合わせた形態があると思います。

ひろさん、こんばんは。

上の「千人当たりの公務員数」は、特殊法人、独立行政法人の職員数も加えた数字です。上の数字は98年のものですが、2004年では次のようになってます。(外国の数字は2001年のもの)

国の人口千人当たりの公務員数(行政職員+防衛)
日本   米国   英国  フランス ド イ ツ
35人  81人    73人   96人  58人

ソース http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/sy014/sy014q02.htm

>それに外国と比較するのって、本質的なことなんでしょうか?日本の実態に合わせた形態があると思います。

私も、国際比較そのものは、本質的なものではなく、日本の実態に合わせて「適正値」というのがあるし、それを探すべきだと考えています。いいかえると、国際比較は、「この外国との差は何なのだろう?どこまでが日本の実態ゆえの数字で、どこが効率化・スリム化のメスを入れるべきところなのか」や、「どこを増やし、どこを減らすべきなのか(という意味での効率性あるいは「効果性(effectiveness)」)」などを是々非々で議論するための「入り口論」だと思います。


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このページは、hirakawaが2005年8月26日 15:05に書いたブログ記事です。

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