美浜原発事故

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一昨日9日の美浜原発の事故、いろいろな核心的問題点が以前の原発事故より、なんとなく早めに出てきているような気がするが、クライシスマネージメントというか事態の収拾について学習が広がった結果なのだろうか?しかし、本当に問題を分かっているかどうかは疑わしい。
今回の事故の一番の原因は、破裂した配管の検査漏れを関連会社から指摘されながらも、9ヶ月も無視しつづけてきた関電その他の危機意識(リスク意識)の薄い判断ミス――事故の可能性に関する科学的・技術的不確実性の甘い読みなど――や、それに伴う組織上の何らかの欠陥だろう。毎日新聞の記事「<美浜原発事故>減肉対策に不備 事故配管は28年間未検査」は、次のように指摘している。

配管が破損した「水量測定装置」付近は、乱流が起きて管が摩耗する「減肉」を引き起こしやすいと指摘されていた。86年の米国サリー原発の事故を受け、同装置付近の配管破損の危険性が認識されるようになったが、関電は美浜3号機の点検だけを先送りしてきた。
 国の指導を受けて関電が90年以降に作成した管理指針では、事故の起きた2次冷却水系配管は、計画的な点検が必要な部分とされていた。だが、そのためのリストの作成を委託された三菱重工が登録しなかった。昨年4月に下請けの検査会社が未登録に気付き、同年11月には美浜原発にも連絡があった。しかし、関電内部の連絡やチェック体制が不十分で、同社は超音波検査の実施を今月14日から始まる定期検査まで遅らせていた。
 一方で関電は、他の原発については、これまでに復水管の水量測定装置周辺について検査していた。90~02年にかけて美浜1、2号機と、同じ炉型の高浜1、2号機の同一個所を調べた。高浜2号機などはA、B2系統別々に検査した。減肉は少なく、交換までそれぞれ12~50年の寿命があると推定された。
 関電はこうした検査結果を重視した。美浜3号機は、美浜1、2号機より建設年が新しいこともあり、「大丈夫」と判断したという。しかし、美浜1、2号機は、事故が起きた美浜3号機と比べ出力の小さい小型のものだった。

また組織上の問題については、次のような連絡の欠如が指摘されており、今後は、なぜそういうディスコミュニケーションが起きたのか、そこで働いた判断ミスや、その背景にある制度的・安全文化的問題の解明が必要だ。

<美浜原発事故>配管検査は受注企業任せ 関電は確認せず
 関西電力美浜原発3号機の蒸気噴出事故で破損した部分が検査リストから漏れていた問題で、配管検査を受注した会社が関電の策定した指針通りに検査を実施しているかどうか、関電がチェックしていなかったことが分かった。また、今回破損した配管が管理システムに未登録だったことも、事故発生まで美浜原発から関電本社に報告されていなかった。
 関電は90年、「2次系配管肉厚の管理指針」を決定。今回の破損付近のほかバルブの出口や曲がった部分などを検査が必要な個所に挙げている。
 検査は90年以降は三菱重工業が担当したが、問題の個所は検査対象に登録しなかった。96年に関電が出資する「日本アーム」(大阪市)に委託先が変更。未登録に気付いた同社が昨年11月に美浜発電所に指摘したが、発電所は関電本社に報告はしなかった。関電側は指摘まで、配管図などと照合して指針通りの検査かどうかなど確認せず、13年間も検査対象外だったことに気付かなかったという。三菱重工業は10日、なぜ検査対象に漏れたのか社内調査を始めた。

ちなみにまた関電では6月にも、近畿の火力発電施設すべてでデータ捏造などの不正が発覚し、ずさんな管理体制が問題になったばかりであり、今回の事故の裏にある組織上の問題は、かなり常態化し蔓延したものの一部であることも伺える。
また今回の事故は、14日に開始が予定されていた定期検査の準備作業の最中に起こったものだが、ここには、電力自由化を背景に原発の運転コストを下げるために検査作業を効率化・短縮しようという経営圧力の問題も現われている。作業の効率化ということ自体は必要なことかもしれないが、それが安全軽視につながってしまう――えてしてそうなる――ようでは犯罪的だ。
さらには、放射能を含まない二次冷却水系配管ということで、安全管理のための技術基準の法的体制や管理の実施体制の甘さという問題もあるだろう。いずれにせよ、そうした問題は今後いろいろ明らかになってくるだろうし、明らかにしなければならない。
原因解明の問題と並んで、個人的にもう一つ気になるのが、今後のリスクコミュニケーションとその背景にある組織の安全文化の問題だ。深読みかもしれないが、ちょっと気になる発言が関係者から出ている。

関電社長「申し訳ないが同型止めぬ」 美浜原発事故 声を震わせ会見 (京都新聞)
・・・背を丸め、うつむいて「遺族に哀悼の意を表する。入院した方も何とか回復を」と話す様子は、いつも前を真っすぐ見て冷静に語る姿と懸け離れていた。「あくまで原子炉の事故ではないということを分かってほしい」と話す役員もいた。
 藤社長は出張で羽田空港に着いた直後、事故の報告を受け、すぐ大阪に引き返した。同型機について「まず事故の原因究明が大事。止めるつもりはないが、同型の設備に人が接近するときは注意が必要だ」。プルサーマル計画は「従来通り慎重に進めていきたい」ときっぱり。対照的に自らの進退は言葉を濁した。 ・・・

ここに見え隠れしているのは、事故を原発の問題と切り離したいという思惑だ。確かに今回の事故は「原子炉の事故ではない」し、配管が問題である点で、火力発電所でもありうるものだ。しかし原発は原子炉だけでなく、その周りを取り囲む無数の一次系、二次系の配管や、それらを支える建築物の総体として存在し機能している。しばしば「最先端の科学技術の成果」というイメージが喧伝される原発も、所詮は配管とコンクリートの塊であるわけだ。もちろん原子炉まわりの一次系は厳しい技術基準がしかれているわけだが、それでもこの事実は変わらない。リスクが相対的に低いだけで、二次系で起きたことは、(物理的原因は違っても)放射能漏れを伴いうる一次系でも起こりうるし、実際、美浜原発は、1991年2月に、2号機で、蒸気発生器の細管ギロチン破断事故が起き、放射能を含む1次冷却水が2次冷却水系に大量流出し、放射能が大気中に放出されるという事故があり、今回の3号機でも2000年と2002年に放射能を含んだ冷却水が漏れる事故が起きている。
さらに深刻なのは、技術的・物理的問題の背景にある安全軽視の組織的・文化的問題であり、この点がリスクコミュニケーションでは、とくに大きな「コミュニケーション・ギャップ」の原因と深く関係している。それはどういうことか?これは原発に限らないことだが、リスクコミュニケーションでは通常、科学技術の専門家や企業、行政は、安全管理(またはリスク管理)の技術的側面ばかりを強調し、「これだけ厳しい技術基準や安全基準をクリアして建設し運営しています」と訴え、不安を抱いたり反対する人々に対し、その技術的内容を「ご理解いただく」よう迫る。また今回のように「二次系の配管」が問題となる場合には、一次系や原子炉本体との技術的・物理的違いを強調し、やはりその技術的内容の理解を求める。(似たような話は、たとえば遺伝子組換え作物に反対する人たちが、その反対・不安の論拠にBSEを持ち出すのに対し、「BSEと遺伝子組換えは科学的に全く問題が違う」と専門化が反論するケースがあてはまる。)そこには「技術的内容がわかれば安心してもらえる」という前提、裏返せば「不安や反対は技術的理解の不足による情緒的なものだ」という前提がある。
確かに、この前提があてはまるところは多々あるだろう。しかし、いつでもそうとは限らない。長くなるので、詳しくは、以前に書いた

「GMOに対する一般市民の認知に関する10の神話」
「リスクをめぐる専門家たちの”神話”」

を参照して欲しいが、人々の反対や不安は、技術的内容に対する理解不足というよりはむしろ、その技術を扱う人々やその集団、組織・制度の側にある「社会的問題」についての認識と、それに基づく「不信」にこそ根を持っているのである。つまり、いくら技術的には違うとか安全とか説明され、仮にその内容を理解したとしても、そもそもその技術を取り扱う人々が人間として、あるいは組織として信頼に足るものでなければ、「安全」の説明を受け入れることはできないのである。それは、決して情緒的なものではなく、だまされないための極普通の常識的判断、健全な処世的判断の結果である。
そうした不信を招く組織・集団の欠陥は、それらが取り扱うのが原子炉だろうと二次系配管だろうと、遺伝子組換えだろうとBSEだろうと、技術的・物理的違いを超えて等しく技術の現実の品質やパフォーマンスに影響しうるものである。たとえ十分な安全設計や管理基準が作られ、それら基準の科学的・技術的妥当性にともなう不確実性が無視できる場合だとしても、基準どおりに原発が作られ運転されていなければ、設計上の安全性は絵に描いた餅にすぎない。そして、それを「実証」する事実は枚挙にいとまがない。近いところでは三菱自動車のリコール隠しや、(身体的被害はないが)温泉の偽装表示のような問題もある。原子力の分野でも、先日ここでも紹介した浜岡原発の欠陥コンクリートの問題もあるし、「配管」についていえば、そのエントリーでもリンクしておいた元原発技師・故・平井憲夫さんの「原発がどんなものか知ってほしい」「原発技師と浜岡住民の対話」のような話もある。 そういう実際の経験から人々は技術の安全性を疑い、時に強くその利用に反対するのである。
こんなことは、本当は改めて指摘するまでもない当たり前のことだが、なかなかリスクコミュニケーションの現場では、その認識が活かされない。組織的・文化的問題というのは技術的欠陥以上に改善が難しい分だけ、ついつい目をそらしてしまうのかもしれないけど、そうやってそらすこと自体が、ますます人々の不信を増大させるのである。
最後にもう一つ。
こういう巨大システムの事故――その原因はえてして、組織間の連携不足とか、ちょっとした判断ミスとか、日常的でささいなものの積み重ねだったりする――を見るにつけ、いつも思うのは、そういう巨大システムは、もしかしたら、人間のコントロールの及ばないところを必然的に抱え込んでしまっているんじゃないかということだ。それは人間の組織面でもそうだし、配管やコンクリート、その他こまごました部品の性能という物理的面でもそうなんだけど、頭の中やコンピュータ・シミュレーションの理想化された世界と現実世界の乗り越えられない断絶というのが不可避に存在し、こういう事故は、たとえ原因解明を徹底的に行い、それをシステムのオペレーションに的確にフィードバックさせたとしても、やはり不可避に――同じかたち、あるいは別のかたちで――再発するのではないだろうか。もちろん、そうだからといって、原因解明なんか無駄だということではない。事故の反省を活かすとすれば、単なる「再発防止」ではなく、そういった必然的な不確実性や制御不可能性を予め繰り込んだ上でシステムの設計と運営をすべきじゃないかということだ。事故は起こるとすれば、できるだけそれが人の死など致命的なものにならないようにしたり、あるいはシステム固有の自然な機能として、事故が拡大的なものにならないようにする――この点で、冷却水が失われたりするとメルトダウンしちゃうような今の原発は失格である――とか。事故が起きたら破滅的になるような巨大複雑システムは最初から作らない、という究極の選択も含めて、リスクを人為的に押さえ込まなくても済むような、そんなシステム設計が必要なんじゃないだろうか。

 

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