元のニュースは見てなかったので、Peace Event Calendarさんの昨日のエントリー「拝啓筑紫哲也様 橋田進介・小川功太郎両氏の死の報道について」で知ったのだけど、事件に対するコイズミ首相のコメントには、ほんとに呆れた。
TBSのサイトに残ったいた動画付きニュース記事から引用すると、この男はこんなことをいっている。
この発言の前後は放映されていないので、これ以外に事件について何か言ったのか言わなかったのかは分からない。また、まだ完全に二人の死が確認されたわけではなかった。しかしそれでも、何かお悔やみに類する一言も、犯人・犯罪への糾弾の言葉なく、これだけしか言っていなかったとすれば、これはもう、政治家として云々どころか、一人の人間として軽蔑せざるをえない発言である。ただただ責任回避思考でこんなことをいったのか、そもそも何も感じず何も考えることなく、単なる脊髄反射、脳幹反射レヴェルの発言なのか、それは分からない。いずれにしてもサイテー。
人間性のことは置いておくとして、政治家として考えてみても、この発言は、憲法で定められた民主国家の政治家(しかも首相だ!)として、最低の極みだろう。大手マスコミも、あるいは外務省の役人も行けないような危険なところに文字通り命をかけて赴き、そこで何が起きているかをわれわれに伝えてくれるフリーのジャーナリストたち。もちろん出来不出来は人によってあるが、彼らの仕事は公共性に奉仕するものであり、そうあらねばならないものである。いうまでもなくここでいう「公共」とは、アホな政治家やエセ保守評論家が誤解しているような「国家=公共」ではない。必然的に一つの視点、国家の視点を超えていく人間社会、個人と国家の間、そしてその上に広がる領域である。何であれ、自らの視点と責任において切り取った「事実」をもって、そこに働きかけることでジャーナリズムは、個人や国家、あるいは企業やNGOなどさまざまな個人や集団が誤りに気づき、修正するのを促す、社会、就中「民主社会」「自由社会」「開かれた社会」にとってなくてはならない存在の一つであるはずだ。もちろん、何度も言うように、すべてのジャーナリストが事実としてそうであるわけではないが、規範としてジャーナリストはそういう存在なのであり、それを失うことは重大な社会的損失なのである。そして橋田さんは、そういうジャーナリストとしての規範をある種の「職人」のような生き方で生きた人だったのではないか?そして小川さんは、そんな橋田さんの跡を継いでいこうとした人ではなかったのか?
そうした二人の死に対して、「以前からイラクには入らないでくださいと勧告してきたんですけどねえ。残念ですね」という言葉は、この民主国家の運営を預かる最高責任者としてあまりに軽すぎる。この男の言葉、その存在の耐えられない軽さ。いや、軽いどころかマイナスの質量無限大の欠落。。
為政者の立場にいる一個人の「本音」として、政府の方針にまつろわぬ民の存在を疎ましく思うというのは、わからないわけではない。「思想信条にかかわらずその者の発言や行動の自由を受け入れる」という民主主義の理念は「建前」ではあろう。しかし、建前だからこそ、それは意識的に守っていかなければならないものだ。建前とは規範であり、規範が本音、実態と合わないこと自体は問題ではない。規範とは反事実的な期待、あるいは「抗現実的な期待」なのだから。そして反事実的な期待だからこそ、それは、本音・現実に抗って、守るべきものを守るためのよすがになるし、規範に反する現実があるからこそ規範の存在意義があるのだ。「そんなの建前にすぎない」といって、建前を大事にしなければ、社会の秩序はとたんに崩れ去ってしまう。
もちろんすべての規範が妥当なものであるわけではなく、何が妥当かは常に問われるものだ。ドロドロした本音を隠すだけのごまかしとしての建前というものもあふれている。しかし少なくとも思想信条の自由や表現の自由、行動の自由など基本的人権てやつは、民主国家を標榜する限り、本音や現実がどうであれ断固として守り抜かねばならない建前であるはずだ。そしてその建前を守ることにとってジャーナリズムの仕事は不可欠のものである。ジャーナリストの死、殺害について、この建前に則った発言が、政治家の口から出てこないというのは、彼らにとってその建前が死んでいる、もしくは否定しているということだろう。政治家には本音も大事だが、建前を生きた理念、守るべき規範として語り、行為できなければ、社会秩序を担う者として失格である。
イラク人質事件の被害者やその家族を襲った激しいバッシングについて、「善なる目的のためにすすんでリスクを冒した彼らがいることを喜ばしく思う」「誇りに思うべきだ」といったパウエル米国務次官の言葉があちこちで話題になったが、これは「建前」の言葉であるのは間違いない。しかしそれは、自由と民主主義、進取の精神というアメリカという国の根幹、いわば国制(constitution)を成す建前であり、その国の政治家として、本音はどうであろうと常に言葉にしなければならないものである。それは一方では、「イラクを民主化する」といったように、焦臭い本音を隠すための建前として機能することもあるが、他方でそれは、絶えず破壊的で無秩序で暴力的な方向に墜ちていこうとするアメリカ社会の現実をなんとか正し、人々を救い、人々にアメリカ市民としての誇りを与える規範として機能している。
この点について、以前、このページをブログ化する前に、オスカー賞受賞記者会見でのマイケル・ムーアの言葉に触れて書いたことがあるので、下記に引用しておく。
ちなみにオスカー賞のサイトにリンクされている動画は、授賞式後の記者会見の模様を映したものだが、これもけっこう面白い。冒頭である記者が「どうしてこの映画を作ったのか」という質問をしたのに対するムーアの最初の答えは、一言”I’m an American”。そのココロは、アメリカ人であることの理念、アメリカであることの核心は、「自由にものがいえる」、「自分自身でいられる」という良心の自由、思想信条の自由、表現(意見表明)の自由(freedom of speech)だということにある。もちろん現実のアメリカ社会は、それらの自由が常に脅かされ、とくに9.11以降は危機的になっているのが現状だ。しかし、権利もしくは「規範」というものは、第一にルーマンいわく「反事実的な期待」――あるいは「抗現実的な期待」――である。規範通りではない現実、規範をほり崩そうとする現実に抗して、規範を口にし、実行するところに規範の規範たる所以がある。規範にそぐわない現実だからこそ、それに抗する縁としての規範の存在意義があるといってもいい。そしてそれを単なる建前としてではなく、生きた言葉と行いとして表現できるというところ、現実があまりに規範から外れそうになれば、規範に立ち返って現実を正そうとすることができるところが、やはりアメリカ的なのである。どこぞの島国のように、「憲法は現実に合わない」の一言で、規範の理念の中身そのもの、理念としての価値そのものを議論することなく、現実に合わせて規範をずるずるだらだら変えていくようなのとは正反対である。ちなみに以前、調査でボストンのとあるNGOを尋ねた際に、そこのスタッフに誘われて参加したマサチューセッツ州の予防原則制定化運動のワークショップで、グループに分かれてあれこれ議論しているときに、ある参加者がちょっと口篭もっていたら、すかさず別の女性が一言”Freedom of speech”とささやいたのに驚いたのを憶えている。なんでそんなことに驚いたかといえば、日本でだったら、そういう場面で決して「表現の自由」なんてセリフは出てこないからだ。もちろん、そこに集まっていた人たちは、平均より政治意識の高い人たちなんだろうけど、日本では同じような集まりの場であっても決して”Freedom of speech”を、はげましの言葉としてさらりと使うなんてことは想像できないし、聞いたこともない。はっきりいってそれは「歯が浮く」セリフであり、使われるとすれば、もっと肩に力が入った場面でだろう。いいかえると、その言葉、理念の生きている文脈が違うのであり、もっと正確にいえば、アメリカ社会にはそうした文脈が日常の中に根をおろしているのに対し、日本社会にはそれがないということではないだろうか。
現在のアメリカ社会は、9.11の衝撃と、その後のブッシュ政権が発するウソともホントともつかぬテロ警戒情報――ムーアの言葉を借りれば”fictitious orange alerts”――による度重なる内国民向けテロルによって、「生命の危険」という実に生々しいものの前で、自由という、それ自体は実体がなく、人々の反事実的・抗現実的な期待としてしか現実化されえないものが押しつぶされそうになっている社会である――「思考の自由」も含めて。そして日本も、「北○鮮の脅威」のもとで同じような事態に陥りつつある。それは極めて(アレントが分析した意味で)全体主義的な状況だといっていい。だが、もしも今後、アメリカ社会がバランスを取り戻すとすれば、それは、自由という理念の生きる文脈がどれほど深く人々の精神に根をおろしているかにかかっているといっていいだろう。そうした理念が生きる文脈をもつことは、「決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ」(ブルーハーツ『リンダリンダ』)ことであるに違いない。では、日本人はどうか?われわれにとって「決して負けない強い力」とは何なのか?きっとあるはずだが、それが何なのか、今はわからない。
「われわれにとって「決して負けない強い力」とは何なのか?きっとあるはずだが、それが何なのか、今はわからない」。
同じことを、私は、ピースフル・トゥモローのドキュメンタリーを見たときに思いました。
9.11の被害者遺族で、アフガニスタン攻撃にもイラク戦争にも反対した人が起こした、ピースフル・トゥモロー。
国民の99%が戦争に賛成しているとき、USAは自由の国、民主主義であるはず、自分はUSAを愛している、という自信があって発言を始めた人々が、その自信が揺らぐようなバッシングに出会っても、静かに活動を続けた。
日本だと、もともとUSAのような自由と民主主義の国だ、っていう自信がないぶん、どうなるのかな、と思いました。
てるてるさん、コメントありがとうございます。
実は私も、ピースフル・トゥモローのドキュメンタリーを見たとき、「あの強さはいったいどこから来るんだろうか」と思い、同じことを考えました。
それが日本人にとっては何なのか?この国のかたち(constitutuion)とは何なのか。へたすると、キミガヨとかヒノマル――どちらも歌(ただし「君」の意味は読み替えて)として、旗としては個人的には好きですが――みたいなもので歪められているために見えにくくなっています。
でも、きっと見つかるはずですよね。