騒動の後ろで見えなくなる事実

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京都府職員で、2002年末から計5回、「イラク市民調査団」として現地を訪れて撮影した「豊田護イラク写真展―占領下のイラクで」について、神戸新聞の「反戦写真展大幅に縮小 新長田勤労市民センター」というニュース。
三月のことだから、今回の人質事件(集団ヒステリー的なバッシング騒動も含む)の影響ではないのだろうけど、それだけになんだかイヤーな気分になる話。差し止めをした市民センターの中の人たちは、いったい何を恐れているのだろうか?

神戸市長田区の市立新長田勤労市民センターのギャラリーで、三月に開催されたイラク戦争の写真展について、同センターが「内容が中立ではない」と半分以上の展示を差し止めていたことが分かった。主催した市民団体は「反戦のメッセージが中立でないと排除されるなら、言論の自由はない」と反発している。 ・・・
 当初は、米軍の攻撃で亡くなった息子の写真を抱いて泣く母親の姿など、七十六点の展示を予定。同センターはいったん利用を許可したが、開催前日になって突然、「一方的な意見を公共の場に展示するのはふさわしくない」として、副題の「占領下のイラクで」の削除と、写真の解説文をすべて外すよう要請した。 ・・・
 豊田さんは、全国各地で、公的施設などで約三十回の写真展や活動報告会を開いたが、クレームがついたことはないといい、「政府に盾突いてはいけないという雰囲気が広がっているのではないか。行政がその空気を先回りしているようで怖い」と話している。

こんなふうにして、「お上」の都合の悪い事実が隠されていくことで、余計にお上の言うこと、お上が示す事実のもっともらしさが高まり、それを反証する事実はますますリアリティを失っていくという悪循環が始まっているのかもしれない。
そういえば、毎日新聞の記事「イラク人質:渡辺さんら会見 自己責任論はNGO締め付け」で紹介されていた「今回の事件が今イラクで何が起きているかに争点が向かなかったことは残念」という安田純平さんの発言。
『全体主義の起源』でハンナ・アレントは、全体主義体制の特質として次の点を指摘している。

「全体主義のシステムが証明したのは、いかなる仮説に基づいても行為はなされるということ、しかも、その仮説に基づいて実際に首尾一貫した行為が為されるなら、どの仮説であれ真となり、現実的・事実的なリアリティになることであった。」

現在の状況に当てはめるならば、「アメリカのイラク攻撃には大義がある」「自衛隊派遣は人道支援である」という「仮説」から出発して、それに反するあらゆる事実や声を遮断することによって、仮説通りの行為と事実を積み上げ、仮説を真のもの、リアリティにしてしまうということになる。そして、この事実と声の封殺は、アレントの全体主義論の文脈でいえば「テロル」そのものにほかならない。
次のニュースは、少しは日本に希望がもてそうな話ではあるが、しかし、「自己責任論の賛否」をめぐるだけで、イラクで何が起きているのかに意識が向かわないと、「内輪もめ」の域を出ないだろうな。
「自己責任」論、知事が相次ぎ疑問示す イラク邦人拘束

イラクの日本人人質事件で政府や与党内で声高に取り上げられた「自己責任」論に対し、複数の知事が疑問を投げかけている。秋田県の寺田典城知事は「すべてを『自己責任』であの人たちに押し付けるのは酷。国家の責任者が言うのは短絡的だ」とし、山形県の高橋和雄知事も「自己責任と公の責務を直接的に結びつけるのは勘違い」と強調した。いずれも26日の記者会見で語った。

 

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