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STS News & Remarks

2001年10月

科学・技術と社会に関わるトピックを中心に、ニュースの紹介や寸評、思いつき、覚書きを綴るコーナーです。内容について御意見、ご教示、情報の御提供、お問い合わせがありましたら、ぜひメールをお寄せください。

E-Mail: hirakawa@kyoto-wu.ac.jp

もくじ

「小川、もう一度、君と議論がしたい」(2001.10.31)
タナトクラシー:安全保障とテロリズムの秘密の共犯関係(2001.10.21)
ブッシュ政権は「究極の火事場泥棒」?(2001.10.19)
戦争はアメリカの公共事業?―「悪の陳腐さ」(2001.10.10)
雑感(テロ報復、ブッシュ・アンチ環境政権、狂牛病)(2001.10.5)

「小川、もう一度、君と議論がしたい」(2001.10.31)

テロとその報復について思うことに書いたことですが、こちらの趣旨にも適うものなので、転載しておきます。

以前、書いたように、今回のテロ事件には僕の大学時代の友人が巻き込まれました。野村総研に勤めていた彼は、当日は世界貿易センタービル北棟106階の会議室で開かれたセミナーに出席していたと考えられています。

事件後すぐから、彼が大学時代住んでいた寮生を中心に、連絡と彼の奥さんを支えるネットワークが作られ、彼とはセクション・メイトだった僕のところにも時折、近況が伝えられてきます。(「セクション」とは、ICU(国際基督教大学)独特の一年のときの英語集中プログラムFEP――Freshman English Program――のクラスのこと。)

最近届いたそのメールに、彼の寮での先輩だった津崎陽一さんの次のタイトルで始まる文章がありました。

「小川、もう一度、君と議論がしたい」

それは、まさしく、彼が事件に巻き込まれたと知った瞬間に僕の頭によぎったこと、僕の想い、僕の悔しさでもあります。そこで早速、津崎さんと連絡をとり、その文章の転載を許可していただきました。

この文章に語られているように、実際、彼はとんでもないやつで、「大学って、やっぱ面白いな。こんなやつがいるんだから」というのが、はじめて会った頃の印象。セクション・メイト同士よく語り合った、あのバカ山の芝生が懐かしい。 僕がいま「科学技術社会論」なんていうのを専門にしている最初のきっかけは何かといえば、やはりそれは彼との出会いだったと思う。彼の顔写真を映したニュースを見て、それを思い出しました。

ニュースを見てもう一つ蘇った記憶は、彼が就職を決めた直後に、"D館"という建物の学生ラウンジですれ違ったときに交わした短い会話。「俺は銀行に行くことにしたよ。いま一番世の中の動きが見えるのは金融の世界だからね。」独特の落ち着きをもった低い声で彼はそういいました。当時はバブル真っ盛りで、同期の理系の連中までもたくさん銀行や証券会社に就職したウカれた時代でしたが、「う〜ん、さすが、こいつは相変わらずだな」と、彼らしい答え方に感心したものでした。

そして登りつめた世界貿易センターの最上階。世界を揺るがす大事件に遭遇し、彼は何を考えたのでしょうか。彼のことだから、何かすごいことを考えて行動に移していたのかもしれません。それを物語る証人も、証拠も今はなく、結果的に彼の努力は、あの暴力の前では報われなかったとしてもね。きっと今も、空の上で、調査能力を駆使しながら、時には、自由になったその魂で、ペンタゴンやホワイトハウス、CIAの機密資料に目を通し、あるいはテロリストたちの秘密の通信に耳をそばだて、この世界の行く末に思考を進めているのかもしれません。

文章の転載を許可していただいた津崎さんに深く感謝いたします。

「小川、もう一度、君と議論がしたい」

 今年、僕は、ベルリンフィルを聴くための短い旅行をした。そのとき、立ち寄った本屋で、2冊本を仕入れた。ArasseのLEONARDO DA VINCIとSCHIRMERから出ていたLEONARDO DA VINCI Der Vogel Flug。メモをとりながら、僕は一人の後輩と心の中で対話を繰り返していた。小川卓、君のことだ。

 たとえば、ダビンチのメモの一つの絵について。この絵、最初は、何のへんてつもない風景画にみえる。そのうち、雨が書き込まれていることに気がつく。それから広がって雲、遠くの海にも目がいく。循環?そろそろ震えがくる。この絵全体がぐるぐる周りはじめる。そう、そこには全宇宙(コスモス)の壮大な循環が描かれているのだ。ため息をつく。そして僕は隣の後輩に、囁く。「この感じわかるだろ」

 小川が、水戸一高の先輩、立花隆の影響のもと、自然科学全体について相当の知識と見識をもっていたのは(僕のあった大学一年時にしてすでに)、有名なことだ。その頃の(1984年?)、電話部屋でのクイズ遊びのことを覚えている。たまたま部屋にあったその年の「現代用語の基礎知識」をネタに、だれかがそこに出ていた用語を片っ端からクイズ調に質問した。答える側に、小川と数人の新入生がいた。社会科学関係の用語は、それでもまあみんなそこそこ答えていたが、理科系になってからは、声が小さくなり、最後は小川の独壇場だった。「天文」「物理」「化学」基礎科学はもちろん、「通信」「情報」「コンピュータ」まで、どの分野でも100%答えられる。質問者は最後は意地になって枝葉末節の質問をするが、それでも、小川は答え続ける。様子を見ていた僕は舌を巻いた。暗記屋にはこんな芸当はできない。こいつは、自分の中に独自の世界像を持っていて、内発的な興味で楽しく勉強しているから、こんなにできるんだなと、そのとき思った。

 ダビンチを卒論のテーマにしたのは、彼には当然のことだった。

 僕の中の、小川は、寮のソーシャルルームの、汚いソファーの上に座っている。手ぶらではない、彼の右手にはいつも、宮本武蔵が巌流島でつかった(といわれている)、和船の櫓から水掻きの部分を削ったような木刀が握られている。その頃の剣道部の顧問は、年齢不詳で、やせていて、時代劇の剣豪を思わせる風格ある人物だった。彼はその先生に惹かれてずいぶん熱心に剣道に打ち込んでいた。なにしろ暇さえあれば、木刀を降っている。小川とはよく話したが、その話の間中彼の手は、木刀を振っていたような記憶がある。

 小川を象徴する話を一つ紹介したい。

 そう、黒岩ゲームだ。

 第一男子寮に、はいった新入生は、「黒岩ゲーム」というのに参加する。

 新寮生は、寮にはいったとき、まわりの先輩たちから、とてもとても大事にされる。学食は、こちらですよ。お風呂はこちら。君のこともっと知りたいな。ふーん、君ってすごいんだね。ちやほやちやほや、新寮生がいい気分になるまで、組織的にちやほやする。

 一週間ぐらい、その状態が続いて、新寮生が、寮生活への希望に燃え、ぐっすり寝込んだ夜に、ゲームスタート。

 彼らは、突然、夜中12時ごろ、青ざめ真剣な顔をした、先輩のルームメートに起こされる。「すまん、ちょっとおきてくれ。うるさいやつがかえってきたんだ。逆らうと何するかわからないから。ちょっとつきあって」。布団をはぎとられ、ねぼけまなこで起きた新寮生は、パジャマから普段着に着替える。それから寮の近くの泰山荘の庭に整列させれれる。ICUの暗い木立の中にじっとしているのは、それでなくても不気味なことだ。まして何の説明もなく集められた新寮生には。何が起こるのか恐怖に震え上がってしまう。

 寒さに震えながらの長い長い時間がすぎる。野蛮な声と下駄の音がこちらに近づいてくる。怖そうな見たこともない男がやってくる(小川の時はたしか○○○○がこの役)。先輩たちもこの男を恐れているのか丁重に接している。さてこの男、新入生の顔をじってみまわしてから、汚いバスでこんなことを言う。「おめえら、今まではお客さんだったがな。今日からは寮生だ。(ここで間)。そうだな寮生らしいこと、やってもらおうかな。今から女子寮いって名札(ネームプレート)取ってこい。いいな」

 夜中に女子寮? ばれたら退学、悪くすれば痴漢扱いで放校かも。新寮生は、もうパニック。

 見かねた寮長が「黒岩さん、もうやめましょうよ。いいじゃないですか」ととりなす。「××(寮長の名前)おれのいうことが聞けねえのか」という答とともに寮長は殴られる。一発では沈まず、寮長は「ねえやめましょう」。もう一発。これで新寮生の最後の味方も沈黙する。

 恐怖に震え上がったままの状態で、新寮生たちは、一人ずつ、女子寮に送り込まれ、ネームプレートを盗まされる。

 女子寮は大騒ぎ。水をかけられたり、女子寮の寮生につかまったり、新寮生はさんざんな目にあう。

 ほうほうのていで、第一男子寮に、帰ってきた新寮生は、屈辱と今後の心配で全員青ざめている。ショックのあまり自室に帰って荷物をまとめ始めた者もいたくらいだ。

 全員が帰ってきたところで、再び整列。そのころには、全寮生、女子寮の寮生など関係者も寮のソーシャルルームに集まっている。黒岩さん再登場。新寮生の緊張が最高度に高まったところで、黒岩役は後ろをふりむき。「言ってもいいかな」「いいとも」。

 この時の新寮生の変化は、このゲームに最大の見物。この一連の出来事が仕組まれたゲームだったことを、すぐには納得できず、しばらく放心状態が続き、つぎに安心から力が抜けその場に座りこんでしまう。

「第一男子寮へようこそ」

 僕のときも、僕の参加した次の2回も、ゲームはこんなこんな風に進み終わった。

 ただ一人の男を例外として。

 その男は、座り込んでからもう一度たちあがり、上着のうちポケットから何やらとりだして、「これ無駄だったんですね」と言った。彼のとりだしたのは、小型のテープレコーダー。彼は、このゲームの結果が表沙汰になったとき、自分たちが痴漢でないことを証明するための証拠として、このテープを準備していた。さっき起こされたときに、不穏な空気を感じたとしても、懐にテープレコーダーを忍ばせる知恵のでるやつがどれだけいるだろう?

このすごい新寮生が小川卓だった。

教えられてできることではない。機転と実行力は天性のものだ。

 地球規模で、大きな社会変動と価値観の変革が始まってるこの時代。求められるのは、機転と実行力をもつ人間だと思う。また、この変動の原動力である、科学技術への理解は、この変動をコントロールするために不可欠だ。小川には求められる資質のすべてがあった。

 卒寮以来、君と連絡を取らなかったことが悔やまれる。いつでも議論の続きはできると思っていたんだ。

 俺達が、時の河の流れの中に漂う弱い葦でしかないことを知っていたのに。

 今は、君と会えなくなったことが、ただひたすら、悲しい。

タナトクラシー:安全保障とテロリズムの秘密の共犯関係(2001.10.21)

テロ事件とその武力報復についてあれこれ書き始めて、まもなく一ヶ月。ついつい書くことは、どうしてもアメリカの闇の部分になってしまうのですが、いつも思うのは、アメリカ市民の心が癒され、少しでも早く正気に戻って、自分たちの政府が何を本当はしようとしているのかに気づいてくれる(少なくとも疑ってくれる)こと。なにせあの国の市民は、こんな時勢には思いっきり右に舵をきってしまう(昔もマッカーシズムとかありましたね)けれど、たとえば公民権運動の巨大なうねりを生み出し社会を変えてしまうバイタリティと公共精神にあふれた人々でもあるのですから。もう、そこは無条件に尊敬しちゃうところです。政治システムでも日本が取り入れるべき素晴らしい仕組みがたくさんありますし。もちろんそれがどれだけ実質的に機能しているかは常に問題ですが、たとえば情報公開法とか、あるいは僕の専門にひきつけていえば、「連邦諮問委員会法」のような専門委員会の公平性や透明性を確保する法律を定め、少なくともそれを根拠に市民が、行政や専門家集団を相手に司法の場で争うこともできるようになっているのは、やはり重要なことですから(米国環境規制政策における「専門的インプット」のあり方参照)。とはいえ、テロリストのやり口はあまりに徹底していて、アメリカ市民の心が癒される暇も与えず、次から次へと恐怖を与えているのですから、彼/彼女たちが正気に戻るのはとてもとても難しいのでしょうね。

以前にも書きましたが、テロの本当の恐ろしさは、生命の危険という恐怖を、しかも、いつどこで誰が事件に巻き込まれるかもわからないという形で振りまくことによって、もっと本当に恐れるべきことに対する感覚を簡単に麻痺させてしまうことだと思います。そうやって、通常なら働きうるイマジネーションを萎縮・硬直化させ、必ずしも本当に市民のためを考えているわけではない為政者たちにとって都合のいい方向に、たやすく思考と行動が誘導されてしまう。そういう意味では、テロリストとアメリカ、そしてアメリカの軍事報復を支持する他の国々の指導者たちは、意図的(陰謀的)ではなくても、構造的に「共犯関係」にあり、各々の暴力の発動を、それに対する民衆の反動を利用しながら正当化し、強化しあうというかたちになっているといえます。そこで最も犠牲にされているのは、本来、アメリカ文化がもっとも大事にしてきたはずの多様な意見の交流を何よりも大事にする民主主義の政治精神、そしてそのために不可欠な「現実から一歩引いて自由に考える」という思考の自由です。

テロをめぐるこの「共犯関係」については、どこかのweb pageで読んだ文章で、誰かが、ごりごりのイスラム原理主義者とされるオサマ・ビンラディンらテロリストの発想や行動は、非常に西欧合理主義的だということ、つまりある種の鏡像関係がテロリストとその対象とのあいだにはあるというようなことをいってました。(ちょっといまはソースが不明ですが、そのうち見つけます。)しかし、もっと直截かつ根本的な見解としては、ポリロゴス・哲学クロニクル「911テロ事件特集」に翻訳のある、ジョルジォ・アガンベンの「秘密の共犯関係----安全保障とテロリズムについて」が興味深いです。ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランス講義『安全保障、領土、人口』に基づいて、テロと安全保障について考察しているもの。論点を拾っておきましょう。

第一に、アガンベンによればフーコーは、1978年のコレージュ・ド・フランスの講義で、重農主義の政治的・経済的な実践において「安全保障が統治の道具としては、法律と規律に対立するものとして提示されていた」ことを示し、いくつか法治的な規律権力と安全保障の権力との対比を挙げたうえで、「安全保障の措置を実行するためには、交通、商業、個人のイニシアティブが、ある程度までは自由になっていなければならない。そのために安全保障という考え方が発展するとともに、リベラリズムの理念が理解されるようになっていった」ことを示しているそうです。

ところが、現代のわれわれの社会は、「安全保障の思想が極端にまで、そしてもっとも危険なところまで発展した状況に直面している」とアガンベンは指摘します。「政治が次第に中立的なものとなり、国家が伝統的な任務を次第に放棄し始めた状況において、安全性を保障することが、国の行動の基本的な原則」となってしまっているということです。そして、そのように安全保障によってしか正統性を保証できず、国の課題が安全保障しかない国家は、「つねにテロリストからの挑発をうけて、みずからテロリズム的な国家になる危険がある」とし、続けてアガンベンはこう書いています(文中強調筆者)。

第二次世界大戦の後に誕生した最初の大規模なテロ組織は、フランスの将軍が設立した秘密警察組織(OAS)で、この将軍は愛国者をきどって、アルジェリアとインドシナ半島におけるゲリラ活動にたいする唯一の対策は、テロだと確信していたことを思い出そう。十八世紀の国家学(ポリツァイ学)の理論家たちが主張していたように、政治を警察(ポリス)に還元してしまうと、国家とテロリズムを分かつ境界線が消失してしまう恐れがあるのである。そして最後には、安全保障とテロリズムが単一の死のシステムを作り出し、このシステムのうちでたがいに相手と自分の行動を正当化し、正統なものと主張するようになりかねない

これによって、国家とテロリズムという本来は対立するはずのものが、こっそりと手を結んで共犯となる危険が生まれてくる。それだけではない。安全保障を求めるあまり世界的な内戦へと突入し、すべての人々が市民として共存することが不可能となるおそれがあるのである。主権国家の間の戦争という古典的な形式の戦争が終焉している現在の新しい状況においては、安全保障はグローバリゼーションを最終的な目標とすることが明らかになっている。グローバリゼーションは地球という惑星レベルで新しい秩序を確立するという理想を暗黙のうちにかかえているが、これは実際にはすべての無秩序のうちでも最悪なものなのである。

これに加えてさらにアガンベンは、「安全保障ではつねに(シュミットの語った)例外状況に依拠しなければならない」ために、安全保障措置は、社会をますます脱政治化する機能を果たし、「長期的にみると、安全保障は民主主義と両立できない」という危険性も指摘しています。簡単に言えば、今回の9.11テロ事件や引き続く炭疽菌テロのように差し迫った生命の危機に直面している状況では、現実から一歩引いた冷静な議論などしてられないという見解が支配的になってしまうということでしょう。続けてアガンペンはこう述べています(文中強調筆者)。

だから国の政治の中心的な考え方となっている安全保障の概念を作り直すことが、なによりも緊急な課題となってきた。ヨーロッパとアメリカの政治家たちは、安全保障のイメージを地球的な規模で無批判的に採用すると、災厄的な帰結が訪れる可能性があることを考えるべきだ。(中略)無秩序と破滅的な災厄を制御するだけでなく、その訪れを防ぐために力を合わせるべきときがやってきたのである

現在、エコロジー、医学、軍事などのさまざまな側面で、すべての種類の緊急事態計画が策定されているが、これを予防するのための政治が欠けているのである。事態は逆なのだ。政治は、緊急事態を作り出すためにこっそりと働いているのである。民主主義の政治の課題は、人々の憎悪、テロリズム、破壊をもたらす条件が発生するのを防ぐことである。憎悪やテロや破壊がすでに生まれてから、これをどうにか制御するのが政治の課題だと考えてはならないのである。

そうだとすれば、「危機が差し迫っている今、テロの原因が何なのかなど議論している暇はない。そんなのは非現実的であり、テロ組織を壊滅させることが先決だ」という、インターネット上のあちこちの掲示板でも見受けられる論調は、そもそも、恐怖によって「現実から一歩引いて議論する」という民主主義の自由そのもの、そのための空間を破壊するというテロリストの罠にまんまとはまりこみ、結果的には荷担してしまうことになります。もちろん、今回の犯人を罰し、その組織を解体し、どうにかして迫り来る危機に対処し、市民の安全を保障しなければならないのは当然としても、それとともにテロの生まれる根本的条件に目を向け、議論する自由と空間を確保し拡大していかなければ、テロリズムをなくすなんて決してできないでしょう。単にテロ組織の資金源を断つだけではなく、テロリズムへの衝動の源を絶たなければならない。テロとその安全保障的な制御が抜き差しならない構造的共犯関係にあり、「単一の死のシステム」――タナトクラシー――を形成し、その結果、そうした体制にますます市民をがんじがらめにするような政府やメディアの言説が支配的な状況では、なおさらです。このタナトクラシーの歯車にがんじがらめにされ、自らなかば確信犯的にそれを回転しつづける為政者たち(ブッシュ君や小泉君)は別として――また、テロリストによって不幸にもその中に投げ込まれてしまった(その意味での被害者である)アメリカ市民の多くは当面無理としても――それ以外の立場にいるわれわれがしなければならない最も大事なことは、共犯的な暴力の再生産装置であるタナトクラシーに抗して、思考の自由を確保し、できるだけ多くの人々と分かち合うことでしょう。テロリストの攻撃から生命の安全を護ろうとするあまり、思考にまで鍵をかけちゃいけない。(ついでにいえば、自分のなかの「内なるテロリズム」にも十分警戒しないといけない。報道が正しいとすれば、いま多くのアメリカ市民が「民間人の被害もやむなし」という調子で、技術的に見て確実に「誤爆」を伴う武力報復を支持しているそうです。それが内なるテロリズムの発現であるのと同様に、そのようにアメリカ社会が「なぜアメリカがこんな目に会わないといけないのか」、「アメリカはこれまでよその世界で何をしてきたのか」という、ここでも書いてきたようなアメリカの闇について考えようとせず、なおも同じ過ちを繰り返そうとするのを見るにつけ、湧き上がってくるある種の反米感情というものも、やはり内なるテロリズムでしょう。正直言って、僕自身の中にも、テロリストの理屈を理解するだけでなく、ついつい(支持はしなくても)拒絶しきれない自分がいたりします。Love & Peaceじゃないな、って思います。ちなみに「理解する」ことと「支持すること」は全然違うことですが、世の中、両者を同じことだと勘違いしてる人が多いのも困りものですね。)

かつてハンナ・アレントは、ナチス・ドイツやスターリニズム・ソ連の全体主義体制の起源を考察した著作『全体主義の起源』で、いかに人々が、たとえばナチスによって繰り返されるテロ(ル)によって、「一者のなかの二者」による「対話」としての「思考(thinking)」の自由を失い、一人一人が行為する(act)代わりに、思考を欠いた――「思考欠如(thoughtlessness)」――存在として、あたかも全体で一個の生命体のように集合的・斉一的に行動する(behave)存在になっていったかを描いていました。アレントは、全体主義という新しい統治形式をナチスなどに限定せず、「潜在的には、そしてまた永久に去らぬ危険として、今日以後われわれが存する限り存続することは大いに考えられる」と述べていましたが、この懸念はどうやら当たっているのではないでしょうか。現代を生きるわれわれは、ナチスのような一組織ではなく、もっと根深く構造的なタナトクラシーによって、その主体がテロリストであれ国家であれシステミックに生み出されるテロル――国家とテロリズムの境界が消失してしまった時代のテロル――によって、たやすくそういう状態に陥るようになってしまっており、まさに「永久に去らぬ潜在的な危険」としての全体主義的統治が顕在化し発動つつあるのが、まさに今この瞬間なのではないでしょうか。

アレントはまた、全体主義の統治手段はテロルと「イデオロギー」であると考え、そのイデオロギー――ナチスドイツならば社会ダーウィニズム的な「優良人種が劣等人種を駆逐する歴史法則」――の特徴として、その(荒唐無稽な)「内容」ではなく、その「論理的一貫性」と、それがあらゆる実定法を超越して優先されるべき歴史の至上の運動法則として貫徹されていく「論理性の専制」にあると洞察し、たとえば次のように述べています。

「内容がいかに荒唐無稽であろうと、その主張が原則的にかつ一貫して現在および過去の拘束から切り離されて論証され、その正しさを証明し得るのは不確定の未来のみだとされるようになると、当然にそのプロパガンダはきわめて強力な力を発揮する。」(『全体主義の起源2』71頁)

そして、このようなイデオロギー(=運動法則)の現代版が何かといえば、しばしば「アメリカナイゼーション」とも揶揄されるネオリベラルな「市場原理の無制約な拡大」としてのグローバリゼーションの信念であったり、あるいは第二次大戦を契機として台頭してきた「世界の警察」としてのアメリカの「正義」という理念なのかもしれません。アレントは、全体主義イデオロギーの「論理性」は弁証法的論理を用いることによって、矛盾する事実をも包含可能なものであることを指摘していますが、たとえばグローバリゼーションのせいでまさに拡大している世界の貧富格差のような矛盾も、「今は過渡的にそうだが未来はそうではない」という論法で、さらなるグローバリゼーションの遂行のための動機づけに転化されてしまうのにぴったりあてはまっています。

まぁ、このようなグロバーリゼーション等の問題は、安易な類似性に頼らず、もっと深く検討しなければならないことですが、テロルとイデオロギーによる全体主義的統治を人々がたやすく受け入れていった素地としてアレントが、「大衆社会」における人間の「共通世界の喪失」「根無しであること」「故郷喪失」ということを指摘していたのに共鳴するものが、今回のテロ事件に対するアメリカ社会の反応について為されている文を見つけました。アメリカ人作家ノーマン・メイラーのタイムズ紙による9月13日の電話インタビューだそうで、先のアガンベンと同じくポリロゴス・哲学クロニクル「911テロ事件特集」にある「建物よりもはるかに美しい遺跡」からの引用です。

アメリカは攻撃の精密さに恐怖を覚えた。これがアメリカのような若い国につきもののパラノイアに火をつけるだろう。アメリカでは、自分が生まれた家や病院を見つけるのは至難なわざだ。すべてが変わってしまう。精神的にはどのアメリカ人も、役者のようにして生きている。巡業にでている役者のように、自分が今晩寝る家がどこなのか、わからない暮らしをしているのだ。このためにパラノイアがとても多い。どこかに〈根差している〉という感じがなく、どこから脅威が訪れるか、わからない。だからいとも簡単に想像力が膨れ上がり、化膿してしまう。

なにはともあれ、今起きていることは、オサマ・ビンラディンが唱える「イスラム世界対アメリカ・西側世界の闘争」でもブッシュがいう「テロリスト対自由世界の闘争」でもなく、両者がシステミックに互いを正当化しあうかたちで再生産する暴力そのものだとすれば、必要なのは、テロの恐怖に対する体のこわばりを解き、先に述べた「我が内なるテロリズム」にも警戒しつつ、少しでも非暴力的な方向に思考と行動をすすめることしかないのは間違いないでしょう。オサマがあおり、ブッシュが武力行使で後押しするイスラム対西側の構図が現実化しつつある今、もしも希望がありうるとしたら、イスラム世界から大きな非暴力運動が湧き上がり、たとえばかつてのガンジーやマルティン・ルーサー・キングJr.のような強力な非暴力の指導者も登場して、テロリズムに対する市民・民衆の感情的共鳴を断ち切り、偽りのヒーロー、ビンラディンに代わって市民・民衆の支持を集める、そして他の世界の人々と連帯していくというのがベストなのでしょうが、それはちょっと無責任な夢想なのかな。現実はヒーローもヒロインもいなくて、もっと地道にすすんでいくのでしょう。

ちなみに昨日は、京都で行われたピースウォークに、愛犬ハンナとともに家族で参加してきましたが、最初に三条の河原でスピーチがあり、そのなかでニューヨークで暮らしていた在日アメリカ人の方が、「もしも、貴方の愛する人がその時死んでいたら、自分の愛する街が破壊されたら、どうしますか?」と問い、「それでもなおこのピースウォークに参加するという気持ちを解って欲しい」と語っていました。そういう小さな個人の、自ら悲しみや苦しみを乗り越えて思考の自由を回復する(あるいは改めて獲得する)行為――それは、そうできない人はダメだということではない、という意味で、一つ一つが「奇跡」としてその人にもたらされたものだといえるでしょう――こそが現実を創造していくのでしょうね。アレントが全体主義に抗する最後の砦として希望を託したのも、そうした半ば恩寵として訪れる奇跡、自由な「始まり」としての個人の「行為(action)」の可能性でありました。

「人間が活動する能力を持つという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり人間はほとんど不可能な事柄をなし得るということを意味する。」(ハンナ・アレント『人間の条件』289頁)

ブッシュ政権は「究極の火事場泥棒」?(2001.10.19)

未だビンラディン氏らの居所もつかめぬまま、多数の民間人犠牲者を出しながらアフガン攻撃を続けるアメリカ政府ですが、今日、とんでもないニュースを目にしてしまいました。

そのニュースは、アメリカのNGO、FOOD FIRSTのディレクター、Anuradha Mittalさんのメールニュースで、共和党が出している新しい自由貿易推進法案に対する議会抗議行動を促すもの。その法案は、「貿易推進裁量権(Trade Promotion Authority)」法、または提案者ビル・トーマスの名にあやかって「トーマス早道法案(Thomas Fast Track Bill)」と呼ばれるもので、自由貿易に関する交渉について、環境保護や労働者の権利保護に関する考慮義務も議会の審議も省いて、大統領の自由裁量に一任してしまおうという、まさにグローバリゼーション路線まっしぐらの産業界(とくに金融資本?)大喜びのバリバリの法案です。(ついでにいうと、遺伝子組換え食品の表示も、「自由貿易の障壁だ」といって排除するという付帯条項つきだそうです。)

これだけでも十分とんでもない法案なのですが、なんとこれ、「テロ対策」の一環として、今回の事件に文字通り便乗して出されたものなのだそうです。まさに究極の火事場泥棒!!

したたかといえばしたたかですが、あまりにひどい。その路線でグローバリゼーション突っ走ってしまったら、ますますアメリカはテロの的にされ続けるのは必至だというのに。まぁテロが起きれば軍需産業も潤うし、ついでにイラクをたたいて、他のアラブ諸国ににらみも効かせれば、ブッシュ&チェイニーの大好きな石油・エネルギー業界もウハウハでいいのかもしれませんが、あまりにエゲツないです、ブッシュ政権。

これじゃあ、ドサクサ紛れに、かつてのスパイ防止法の一部(防衛機密の漏洩は、民間人まで含めて実刑処罰するという、恣意的に使えば「軍部独走」のメディアと国民によるチェックとコントロールを許さないというトンデモ条項)が入った自衛隊法改正案と一緒に衆議院通過しちゃった「自衛隊派遣法」(断じて「テロ対策」法としての意味はないただの派遣法)が可愛く見えちゃいます。(もちろん、これはこれで十分深刻なのだけど。)

というわけで、あまりにエゲツないので、FOOD FIRSTのサイトにあるAnuradha Mittalさんの記事を訳しちゃいました。(原文はCountering Terrorism with Trade? (October 9, 2001)

自由貿易でテロリズムと対決?

9月11日に無実の命が奪われたことを国民が嘆き悲しむなかで、定着した最初のキャッチ・フレーズの一つは「これによって全てが変えられた」だった。しかし、ブッシュの経済アジェンダは何も変えられていない。

あの恐るべき事件によって、ブッシュの減税や、連邦予算余剰金の使い途、増大する貿易赤字、患者の権利章典、その他重要な社会的・経済的問題があいまいにされ、自由貿易の推進者に極めて都合がいい方向に国の議論が支配されているのは驚くことではない。

国民の関心が今回の悲劇に集中している一方で、議会に対してブッシュ政権は、国際テロリズムとの闘いの一助として、貿易協定について交渉する早道的な自由裁量権――新たに「貿易促進裁量権(Trade Promotion Authority)」と名づけられた――を大統領に与えるよう説得し始めている。合衆国貿易担当のロバート・ゾーリック(Robert Zoelick)下院議員は、貿易促進裁量権は、テロリストの脅威から自由貿易を護ることも含めて、合衆国が世界に負っているその責任を放棄することはないという大きなシグナルの役割を果たすだろうと主張している。自由貿易の促進を訴える演説のなかで彼はこう言っている。「9月11日にアメリカは、われわれをパニックに陥れ、世界の指導者としての地位から撤退させようとたくらむ悪意によって、その開かれた社会と理念を攻撃された。・・・貿易に関するアメリカの指導力は、自由をそのあらゆる点で大切にする国々の連帯を築くことができる。」

悲劇は、アメリカ人の心と社会組織に深く影響を及ぼしただけでなく、災厄以前からすでに急速に進んでいたアメリカ経済の景気後退を速める触媒役ともなった。失業者数は航空産業だけで10万人の大台を越え、深刻化している。解雇された労働者は、すでに通信・ハイテク・セクターの解雇で揺さぶられていた地域の労働市場で、辛い状況に直面しつつある。NAFTA(北米自由貿易協定)のおかげで失業者は、仮に職を見つけられたとしても、以前の七割以下の収入しか得られない。

貿易協定は、安い労働力と生産コストによって利益を得ようとする資本家たちにとってこの上ない成功であった。ほとんどのアメリカ人は生活のために働いているが、投資で暮らしを立てているわけではない。NAFTAだけによって、766,000人分の雇用が1994年から2000年のあいだに失われた。貿易自由化の結果であるアメリカの貿易赤字の増大によって、1992年から1999年のあいだに320万人の雇用が失われている。資本移動に対する制限が欠如していることは、労働者の交渉力が弱い海外に雇用者が移動してしまう恐れがあることを意味している。

9月11日の攻撃は、テロに貿易で対抗するという大義名分で、ブッシュ政権が放逸な企業の貪欲さを力づけ正当化する絶好の機会に利用されるべきではない。同政権がしなければならないのは、雇用を創出し、失業補償を与え、すべての人々の生活が維持されるような経済を築き上げるのに努力することだ。われわれに必要なのは、市民と現在危機に瀕している産業に焦点をあてることであって、国家的悲劇を食い物にして、不和分裂を招くような企業アジェンダを推し進めることではないのだ。一つの国家としてわれわれは、さらなる破壊を生みだす代わりに、世界中の平和と正義を本当に促進できるようなテロリズムへの対応を構想しなければならないのである。

追記 (10.21)

それにしても、アメリカ市民が少しでも早く正気に戻って、自分たちの政府が何を本当はしようとしているのかに気づいてくれる(少なくとも疑ってくれる)といいのですが。とはいえ、テロリストのやり口はあまりに徹底していて、アメリカ市民の心が癒される暇も与えず、次から次へと恐怖を与えているのですから、それはとてもとても難しいのでしょうね。

そういう意味では、対症療法ではあっても、テロ組織を弱体化させる必要がありますが、その点で、各国のイスラム法学者などイスラム世界のエリート層は何か動いていないのでしょうか?アメリカが実力行使に出てしまった今となっては、おそらく彼らこそが最良のアクターだと思うのですが。民間人を無差別に攻撃し、次々と恐怖を与えるなんて所業は、アラーの神も絶対に認めないことでしょうから、その点でテロ組織を糾弾し、かつその論理を、テロ行為に共鳴してしまっている市民に納得させ、少なくとも組織に対する精神的支持――資金などで物理的に支持する輩たちは、民衆の想いとは違う、きな臭い思惑で動いてるのでしょうから――を最小化し、テロの無正当性の認識をイスラム世界で共有していくことはできないものなのでしょうか。これをアメリカや日本、欧州などがやったら余計に反発を生むでしょうし、同じく反発と憎悪を拡大再生産するだけの武力報復に代わる唯一の道のように思うのですが。。。

戦争はアメリカの公共事業?―「悪の陳腐さ」(2001.10.10)

とうとう「報復」攻撃が始まってしまいました。今夜でもう3日目。報道によると空爆はあと数日くらいで、あとは地上戦などに移るらしい・・・

いまのところ聞こえてくるニュースでは、アフガンでの民間人の死者数の総計は不明ですが、2日目の攻撃では、攻撃目標とされたラジオ局(だったかな?)から数百メートル離れた地雷除去NGOの建物に巡航ミサイルが当たり、アフガニスタン人のスタッフ4名が殺されたとのこと。湾岸戦争のときもコソボ紛争のときもそうでしたが、「ピンポイントで軍事施設を狙ってるから大丈夫」というのはプロパガンダで、所詮、ミサイルの命中率は未だにそう高くないということなのでしょう。(誤差10メートル前後とか公式発表されてるけど、実際は誤差数百メートルなのでしょう。)

ところで、一昨日会った友人から面白いことを聞きました。「アメリカ経済にとっての戦争は、日本にとっての公共土木事業と同じだ」という話です。

彼はいま、93年に中止になったアメリカのSSC(超電導超大型粒子加速器)建設計画について、その政治経済的背景の分析も含めた博士論文を執筆中なんですが、その過程で、当時の米国エネルギー省周辺の人脈とそのバックグラウンドを調べてたら、どっちゃりと軍事産業関係者がいることがわかり、どうも、クリントン政権下での軍縮――冷戦体制崩壊後のアメリカ版構造改革――で割を食うことになった軍事産業が、SSC等のお金をぶんどったらしいというのが見えてきたそうです。

そして、これを調べるなかで、日米の労働人口の業種別のデータを比較したところ、日本で建設・土木業が異様に多いように、アメリカでは機械製作部門が異様に多いのだとか。もちろんそのうちのどれくらいの割合が軍事産業関連かはさらなる調査が必要なのですが、それでも機械部門には、ロッキードなど巨大兵器メーカーの下請け、孫請け、そのまた下請けの会社がたくさん含まれてるわけで、どうも雇用対策として日本が公共土木工事を止められないように、アメリカは、時々戦争によって兵器を消費し、軍事産業を潤さないといけないらしいのです。

もともと今回の戦争でも、いわゆる「軍産複合体(Militaly-Industry Complex)」の利害が絡んでいるのだろうとは大方推測してましたが、この複合体の広がりがそれほどアメリカ経済のなかで大きな位置を占めているとは思いませんでした。この件に関する友人の研究はまだ初期段階なので、はっきりとしたことはまだ言えないようですが、いずれ興味深い結果が出てくることでしょう。(ちなみに彼は、SSC計画中止の背景調査で、先月後半にアメリカのエネルギー省と国防総省――ペンタゴン――を訪問する予定だったのだけど、直前にあの事件が起きたので中止にしたそうです。)

「アメリカの外交政策は国内政治の延長である」というのは、昔、国際関係論をちょっとかじった頃に読んだ話でしたが、今もそれは変わっていないようです。日本の公共事業問題で、一つ一つの工務店や土建屋のおじさんやお兄ちゃんが悪いわけではないように、アメリカの軍産複合体の下にぶら下がっている一つ一つの町工場や工員の人にこれといった罪はないのだろうけど、どちらもシステムの上に行けば行くほど、権限範囲が大きくなればなるほど、そのシステムが生み出す諸悪の責任もまた大きい――とくに政治家――のは言うまでもありません。けれども、逆に、「悪」は産業経済構造全体に根深く拡散的に構造化されており、一つ一つの罪なき行為の積み重ねがシステマティックに悪を生産しつづける構造は、個人に責任を帰すことでは済まない問題であり、現代社会のあらゆる面に共通したものでもあります。いわば「悪魔」は、誰か特定の個人として現われるのではなく、われわれの社会全体の構造として具現しているというわけです。かつて、ナチス高官でユダヤ人大虐殺の罪で死刑となったオットー・アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した政治哲学者ハンナ・アレントは、アイヒマンという人物のあまりの凡庸ぶりに驚愕し、「悪の陳腐さ(vanality of evil)」という概念を提案しました(『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』)。それは、ユダヤ人大虐殺という人類史上最大ともいえる巨悪――絶対悪――を行えるのは、いったいどれほど悪魔的な存在なのかと思っていたら、実はそれは、どこにでもいる凡庸な人間の、ルーティン化された日常の業務の遂行によって、極めて淡々と行われたものだったという事実に対する驚きから生まれた概念でした。そして、この陳腐な悪の根源としてアレントが考えたのが「思考欠如(thoughtlessness)」――自分の行為の意味を考えないこと――だったわけですが、それは今回、あるいは湾岸戦争など過去のものも含めたアメリカによる戦争行為についてもいえるのかもしれません(もちろんテロリストたちにもね)。ラムズフェルト国防相や、ブッシュ大統領も、政治家がそれぞれ支持者の利害を代弁するように、(彼らにとってはたまたま)軍事産業や石油産業の利害を、ごく普通の政治家の仕事の遂行として――しかしその行為の「意味」に思いを巡らす想像力を絶対的に欠いたまま――代表しているだけなのかもしれません。そしてそれは、人々の思考を覆い尽くしてしまうほどに、「闇」が世界に根深く構造化されているということの結果でもあり、その闇は、単に知を働かせ、一人一人が自らの行為の意味を考えるだけで晴れるものでもないでしょう。

とはいえ、たとえばアンソニー・ギデンズあたりの社会学理論がいうように、一つの行為が構造を決定するわけではないように構造が行為を完全に規定するわけでもありません。闇がどれほど深くとも、それでもやはり考えつづけること、想像しつづけること、そこにしか希望はないというのが、最期に『精神の生活』で思考、意思、そして未完の判断力について思索をめぐらしたアレントの生涯の結論でもありました。

昔書いたアレントについての拙論からの引用です:

"...the deeper the darkness is, the brighter the stars shine, and the more clearly one sees the depth of the darkness."

雑感(テロ報復とブッシュ・アンチ環境政権、狂牛病)(2001.10.5)

雑感その1

今日、歯医者の待合室で読んだ『週刊文春』10月11日号(だったと思う)の記事で、どっかの大学の先生だったと思うが、こんなようなことを言っていた。「日本ではマスコミが、"retaliation"を『報復』と訳したおかげで、『報復反対』とか運動が起きてしまっている。本来あれは、秩序維持・回復のための『制裁』という中立的な用語であるし、ブッシュ大統領も演説のなかで"punish"という、宗教的な文脈では、やはり秩序を破壊した者に与えられる制裁的な行為を意味していた。坂本龍一など一部文化人が『暴力は暴力の連鎖しか生まない』などと叫んでるのは、テロリストの行為とそれに対する制裁を同等と見なし、後者の秩序維持的な意味を完全に見落としている。」

「あんた、いったいどこの国のイデオローグ?」というのが小生の最初の感想。いったいこの人の言う「秩序維持」って何なのだろう?確かに、民間人を無差別に攻撃対象としたテロ行為自体は、明らかな犯罪、それも超弩級の犯罪であるのは間違いなく、犯人を捕まえ、そうした逸脱に対する罰を与え、さらなる犯罪の芽を摘むことは道義的秩序の維持・回復のためだというのは、(犯人以外は)誰もが納得できるだろう。それをしなかったら、人間世界の「底」が抜けたまんまになってしまうだろうし、それは何が何でもするべし、でしょう。(「そもそもアウシュビッツ以降に倫理は可能か」というハンナ・アレント的な理論的反省のレベルの問いはひとまず置いておいて、あくまで実効レベルの問題として。)

けどねー、アメリカが星条旗を御旗に守ろうとしている「秩序」って、そういう理念的・規範的なものとしての秩序だけじゃなくって、「アメリカがしたい放題できる現行の秩序」というニュアンスを多分に含んでいるというのも、また真実でしょう?べったりぐっちゃりの対米追従は日本の国益に適うの?なんてことも思ったりもします(適うと思ってて、きっと適ってしまう輩たち――愛国者の仮面をかぶった売国奴と呼んでもいいかも――もいるんでしょうけど)。タリバンの弱体化・崩壊、さらにはその後の親米傀儡政権の樹立という、最近とみに見えやすくなってきた「戦後処理」の構図には、国内産油量が減ってきてるアメリカの中東地域での石油利権の拡大も絡んでいるというのはあながち陰謀ファンの妄想でもないでしょう。ビン・ラディン氏が犯人だという証拠も「アメリカ政府発表」という以外に何の裏付けもない状況だというのに、いつのまにやら「イラクも討つべし」というシナリオが定着しつつありますし。そういえば2週間くらい前の朝日新聞の記事だったけど、「英軍がイラクを空爆」というのがありましたが、これって湾岸戦争以来ずっと続いている米英の「空爆定期便」なんですよね。別にフセイン大統領を擁護するわけじゃないけど、この10年間の英米の空爆や、劣化ウラン弾が原因と疑われている健康被害(「劣化ウラン弾と経済制裁−湾岸戦争後のイラク」)、経済制裁による食糧や医薬品の不足のためにイラクでは150万人が死んでいるというUNICEFの統計があったりします。そろそろ「稼ぎ口」を得たい軍需産業からの要請なども強いのかも知れません。いずれにせよ現実を見る限り、「制裁」という言葉は少しも政治的に中立的な言葉なんかじゃなくて、むしろ中立性を装うこと自体が思いっきりポリティカルだってことを無視してるのが、上の記事の発言であるわけで、そのへんが一番この手の主張で頭にくるところ。

とはいえ、彼とは全然違う意味で、「暴力が生むさらなる暴力と憎しみ」という連鎖、テロの世界的頻発化が事の本質ではないというのは本当かも知れません。つまり、本当に世界にとって不幸で恐いのは、アメリカを中心とするグローバリゼーション体制の問題点――それがもつ、より日常的で見えにくい暴力性――や、米英の中東政策(とくにバレスチナ問題)の失策と明らかな偏向が、何ら反省されることなく、さらに拡大強化されちゃうことでしょう。現実の政治問題というのは、あくまで対処療法的にしか動かないから、このままアルカイーダとタリバンを攻撃してしまうのでしょう。もしかしたら、大方の予想に反して、少なくともあの地域においては、テロリストの組織を壊滅させるのに早々に成功し、(本当に今回の犯人であるかどうかは実はわかんないのだけど)犯人たちを国際法廷か何かで裁くことになるのかもしれませんが、その際に「われわれ」の側の問題がまったく省みられ改められることがないならば、文字通りそれは対症療法でしかなく、世界は相も変わらずじわじわと病が深まり、テロルもますます頻発することでしょう。誰の目にも明らかな巨悪が、日常化され巧妙に無意識化されたもう一つの(もっと大きな)真っ黒の巨悪を、「無垢の善良」「正義」という装いの光で覆い隠してしまうというのが、やっぱり一番恐ろしい。

いずれにせよこの先は、この巨悪の存在、日常化し世界化しているが故に不可視の不正義をどう理解可能なかたちで明るみに出し、対抗していくか、そのための人々のつながりをグローバルに築いていくかというのが理論的にも実践的にもますます重要になってくるわけだけども、偽りの善悪二分法が、イスラム世界対西側世界、反米対親米(=従米)、反グローバリゼーション対グローバリゼーションという偽りの二分法とびったり重ねられてしまう空気がますます濃厚になってくるだけに、この課題はますます厳しいものになってくるのでしょう。アメリカや先進国、現行のグローバリゼーションのあり方に対する異議をすべて、ひとしなみに反米テロリズムと同等視するなんてのは、ちょっと考えれば馬鹿らしい構図なのだけど、そういうものほど分りやすい構図として世間には流通してしまうわけですし。アメリカでも報復攻撃反対の運動が各地で始まってると聞いてますが、きっと日本と比べると相当にしんどいのでしょうね。一般市民が銃をもってて、下手すると射殺されちゃう国であるわけですし。それでも逞しく、そしてユーモアも忘れずに運動し、また街角では意見が異なる人々と激論しちゃう――「アゴラ」が生きてる!――ところが、アメリカ市民の凄いところ、尊敬して止まないところなんですが。

ついでにいえばテロリズムの恐ろしさの一つは、もっと本当に恐れるべきことに対する感覚を簡単に麻痺させてしまうことのような気がします。たとえば僕が住んでる京都だと、もしもアメリカの報復(別に「制裁」でもいいけど)に対する報復テロで福井の原発銀座が攻撃され、北風でも吹いたら確実に被爆するでしょう。そういう生命に関わる恐怖というのは、生き物としての人間にとって根本的であるだけに、少なくとも日本なんかに住んでる身だと、容易に本来最も感じておくべき恐怖――アジアやアフリカ、中東の一部に行けば、それは生命の危機に直結してるわけですが――をうち消してしまいますから。そのあたり、心持ちとしては、ちょっとノーガード戦法(ジョー〜!!)で、しっかり闇を見据えないといかんなぁ・・・と思いつつ、歯医者の診察台で痛みに耐えてた今宵でありました。


雑感その2

アメリカといえば、8月1日発行のWorld Watch日本語版の「ブッシュ政権下アメリカの環境政策の行方」という、ブッシュ政権のアンチ環境・健康政策の展開を日記風に綴った記事とその付属のリスト「ブッシュ政権と企業の関係」が凄いです。

これを読むと、アメリカは本気でレーガン-ブッシュ・パパ政権の時代まで後退していくんだなと実感して恐ろしくなります。

「ブッシュ政権と企業の関係」によれば、エネルギー省の政治的任命職を選ぶ諮問委員63人のうち、50人がエネルギー産業で、さらにその内訳は、7人が石油・ガス業界、17人が原子力発電・ウラン採掘業界、16人が電力業界、そして7人が石炭業界。再生可能エネルギー業界はたったの1人なのだそうです。

まぁこのあたりは、日本とあんまり変わらないともいえますが、政治システムが違うとはいえ、ブッシュ政権最高幹部たちのバックグラウンドもすごいです。チェイニー副大統領が、世界最大のエネルギー会社の一つ、ハリバートン社の元CEOであるのを筆頭に、エネルギー省では、フランシス・ブレイク・エネルギー副長官が、産業界大手のゼネラル・エレクトリック社の上級副社長(同社による汚染は米国内で、スーパーファンド法にひっかかる汚染用地をどの企業よりも多く、47ヶ所生み出している)、ロバート・カード・エネルギー次官は、閉鎖されたコロラド州のロッキーフラット核兵器工場で、原子力安全基準に違反したとして100万ドル近くの罰金を科された核廃棄物浄化請負業者、カイザー・ヒル社の社長兼CEOだそうです。さしずめ日本だったら臨界事故を起こしたJCO社長が資源エネルギー庁長官になるようなもんですね。

で、さらには環境保護庁(EPA)、食品医薬品管理局(FDA)のある保健省(DHHS)、職業安全局(OSHA)のある労働省(DOL)など、市民の健康と生命、環境を守るセクションの全てに、製薬会社や化学会社、バイオテクノロジー会社など関連企業の元幹部や元ロビィストが目白押し。たとえば、リンダ・フィッシャー環境保護庁副長官は、バイテク農業化学会社・モンサント社の元政府関係担当副社長、トミー・トンプソン保健省長官は、フィリップ・モリスたばこ会社の株主で、彼がウィスコンシン知事に立候補したときには同社が選挙資金を提供し、当選につなげたとのこと。イレーン・チャオ労働省長官は、ドール・フーズ社と、クロロックス社の役員をつとめたそうだけど、食品産業の労働環境がいかに酷いかは、たとえば最近話題の『ファストフードが世界を食いつくす』を読むと背筋が寒くなるほど実感できます。

それから、これら規制省庁がつくる規制ルールの「費用便益分析」や「費用効果分析」など経済学的分析による監査も行う行政管理予算局(OMB)では、ミッチ・ダニエル局長が製薬会社イーライ・リリー社の元副社長、ジョン・グラハム情報規制部部長が、ダウ・ケミカル社、化学製造業者協会、塩素化学協議会、その他の業界団体が資金供与するシンクタンク、ハーバード・リスク分析センターの所長だそうです。記事には「同センターは、健康や安全性、環境に関わる規制の大部分のコストはその便益を上回っていると主張している」とありますが、実際、費用便益分析などが規制政策に組み込まれたのは、レーガン政権時代の共和党によってであり、その目的は規制ルールつぶしだと言われています。(たとえば、科学史家ロバート・プロクターによる『がんをつくる社会』平沢正夫訳、共同通信社には、このあたりの経緯も含めて、いかに規制省庁の体制がガタガタにされたかが詳しく描かれています。)クリントン政権時代にも、ある法律の目立たない一部として、一定額以上の連邦予算を使う規制ルールはOMBの監査を必要とする、という共和党の法案が成立しています。

確かに「健康や環境を守るための規制にかけられる社会的費用は有限なのだから、費用便益分析は必要だ」というのは、論理としてはまったく正論で、実際、まともに使うことが出来れば、さまざまな政策オプションのなかから、より安い費用(コスト)でより大きな便益(ベネフィット)――人々の健康や環境だけでなく企業の経営利益も含めて――が得られるものを効果的に選ぶ効果的なツールとして使えますが、そういうふうには使われていないのが実状のようです。そもそも、いま現在手元にある利益と、規制を受け入れられた場合にそのなかから失う分の計算と比べれば、規制によって刺激されうる技術革新がもたらす将来の利益の計算は不確実性が大きいですし、健康や環境を守ることの「利益」や、守らないことの「損失」には、経済学的な計算に乗り切らない部分も大きいわけですし、またこの面から見た経済的利益の計算もあいまいになりがちですから、大抵は規制コストが便益を上回って、規制はダメよってことになりがちなのです。また、コストやリスク、便益というのは、社会のなかで誰にとっても平等ではなく、社会的弱者がリスクをより多く、便益はより少なく受けるという不平等さが厳然とあります。こういう不平等さをなくそうということでクリントン政権時代にできたのが「環境正義法(Environmental Justice Act)」やそれに関連する大統領令だったりしますし、今年はじめには、連邦最高裁で、確かEPAの大気浄化法(Claen Air Act)に対する関連業界からの訴えに対し、「人々の健康が危険にさらされている場合に費用便益分析を適用するのは不当だ」というEPA勝訴の判決が出てたりするんですが、ブッシュ政権は、そのあたりの成果を全部チャラにしようとしているようです。

「ブッシュ大統領の支持率、史上空前の90%超」なんて報道には、世論操作が多分に入っているんでしょうけど、このまま行くと、この「環境テロ政権」によって、アメリカ市民――とくに社会的弱者――の健康や生命、環境は、より一層ひどい状態にされることは必至です。30年も前に作られた世界貿易センターの崩壊では、アスベストやらなにやら大量の有毒物質がまき散らされ、市民や消防士さんたちを汚染しているはずですが、それに対する補償もどうなることやら、です。

ちなみに来月の17日には、日本科学哲学会(@専修大・生田校舎)のシンポジウム「リスク論を考える」で、上記のようなアメリカの(反)環境・公衆衛生規制政策の問題点を松崎早苗さんが話してくださる予定です。(小生も別の話題でこのシンポで喋ります。)彼女は最近、シェルドン・クリムスキー『ホルモン・カオス―環境エンドクトリン仮説の科学的・社会的起源』(藤原書店)という、環境ホルモン問題の翻訳書を出版しています。この本は、小生も、昨年ハーバード大学JFK行政学大学院に、規制科学・規制政策の科学論の専門家シーラ・ジャザノフを尋ねたとき、大学の生協の本屋のショーケースにいっぱい並んでて、即ゲットしたもので、とてもいい本です。一読、お薦めします。(来年のうちの三回生のゼミでも使う予定。)


雑感その3

「リスク」といえば、日本では狂牛病問題が毎日メディアをにぎわせていますが、ここのところ忙しくて、全然フォローできてません。とりあえず今のところの動きを見ると、遅きに失しているとはいえ、肉骨粉の流通禁止をいち早く決定したり、食品への危険部位の使用についても、「確認不可能でも回収を」という具合に、「安全寄り」の方針で農水相や厚生省が対応しているのは、少しは評価してやってもいいんじゃないかなぁと思ったりもしてます。以前だったら「危険性や感染源が科学的に証明されてないので規制はできない」なんて言ってグズグズしてたでしょうからね。

とはいえ、まずい対応もちらほら。たとえばイギリスからの肉骨粉の輸入量に関するイギリス側のデータと日本側のデータの大幅な食い違い(前者のほうがはるかに多い)の問題は未だはっきりしてないようです。だいたい、自国で流通禁止にしたものを日本などアジアに輸出するなんて、人種差別意識も疑っていい国際的犯罪行為です。日本政府は、そこのところしっかりイギリス政府に文句言ってしかるべきなのですが、「内輪」の汚点もあるのか、どうもそうはなっていません。(いつもの威勢はどうした!?小泉首相!)政治家がこぞって「牛肉を食べる」というパフォーマンスに高じている姿は、ただひたすら間抜けです。ちなみにイギリスでもかつて、農林大臣が、自分の娘か孫と牛肉食べるというパフォーマンスをやってましたが、潜伏期間の長さを考えると大臣自身は寿命が尽きて大丈夫かも知れないけど、子供のほうはわからんぞ。

それと、こういう場合には「風評被害の対策」がやはり重要な課題になってきますが、これに対する武部農相の対応もまずい。国会答弁で「私が出ていけばいくほど混乱する」とかなんとか自分でも言ってますが、まさにその通り。4日のニュースステーションでは、「そんなこといって、全国でまじめにがんばってる業者の人たちが可哀想じゃないですか」といってましたが、そういう浪花節じゃ通用しないってのがどうも分ってないようです。それじゃ久米さんに「そんなこといったら、ミドリ十字の社員だって一生懸命仕事してたでしょう」と突っ込まれても仕方ない。ほんとに業者の人たちの生活を風評被害から守りたいなら、そして「ちゃんと現場を見てください」というなら、たとえば「日本の屠殺は、イギリスなどと違って熟練工がやっているから、背割りで(プリオンを多く含んだ)髄液が肉にかかって放置されるようなミスはほとんどありえない」とか言うべきだし、さらに、それで本当に大丈夫なのかを改めて検討するという方向を示さないと、消費者にも生産者にも不義理でしょう。おまけに、売り言葉に買い言葉なのか、それとも本音なのか分りませんが、「安全だという証明がないというけど、危険だという証明もないでしょう」なんて言い出すし。確かに、この人が表に出るほど、いっそう混乱するなぁ、と実感してしまいました。

ちなみにNature Japanで、科学誌Natureの記事「日本のとった呆れかえる狂牛病対策」というのがありました。