「武装論者=弱虫君」にならない論理

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米軍行動円滑化法案とか国民保護法案とか、いわゆる有事関連7法案ってやつが衆議院を通過しちゃったけど、その前段階の国会議論(の腑抜けさ)も含めて、なんかマスコミの扱いがとっても軽いのだけど、いいのかそれで?
年金未納問題が、なんだかちょうどいい目くらましになってて、マスコミの問題再設定能力が劣っているだけなのか、それともいわゆる「報道管制」ってやつですか?おまけに今度は、小泉首相の北朝鮮訪問問題。ある意味、彼の選挙向けパフォーマンスは失敗したと言えるかもしれないけど、逆に、そのヘタレ具合を批判しながら、「やっぱりもっと圧力が必要」、「日本もちゃんと武力行使できるようにしないと」という方向へ話がひっぱられる可能性も無視できず、そんななかでこれまたスンナリ有事関連7法案が、ちゃんとした議論もなく参議院を通過、可決しちゃうんじゃないだろうかと思うと、鬱々としてしまう。


放置国家じゃなくて法治国家として、有事=危機管理時の政府の行動にルールを与えておくっていう有事法制のプラスの意義を理解しないわけではないし、何でもかんでも「ダンコフンサーイ!」と叫んで否定するサヨ的マスターベーション言説にあおられるのも嫌なんだけど、とにかく、現状の日米関係と、米国の戦争依存症を考えると、日本がズルズルと「大将」の行くとこどこでも、どこまでもついて行くためにのみ機能しそうで、とっても怖い。個人的には、右へならえでも左にならえでも、一糸乱れぬダンタイ行動の要求っていうのは、生理的どころか存在論的に好かんし。
思うにセキュリティ問題というのは、4つの面で、歯止めなさ、エスカレーションがビルトインされているのではないだろうか?一つは、「技術的問題」としてのセキュリティ問題という面で働く「目的が手段を正当化する」という論理の問題。政策や制度というものは、本来異種混淆的で雑多なアクターや諸動因からなる社会を多かれ少なかれ「マシーン」として構築するものだが、セキュリティ(安全保障)のように社会全体の存立に関わる(と一般に認識されうる)包括的テーマが国家の最重要事項にもってこられると、関連するあらゆる他の制度や社会の要素が、このセキュリティの実現のためにマシーンとして統合されていく傾向が生まれる。それだけでも十分コワイのだが、そこでさらに、セキュリティという「至上命題」を実現するために、最大効率のコントロールを確保すべく、手段そのものの問題を無視して、「目的実現への有効性」という観点からのみ手段の適切性が評価され、最大効果をもつ手段が限りなく追求され正当化されていくのである。(さらに、アメリカのように軍産複合体という利害関係・既得権益が発生すると、技術開発・企業利益追求という独自の制度的慣性をもつ無際限の動因が加わってくると余計にこの動きが加速される。)
第二に、セキュリティ問題がはらむ本質的な不確実性がやっかいである。「備えあれば憂いなし」というように、有事の問題は平時の問題であり、平時においては常に有事という事象は、本質的につかみ所のない不確実性として存在している。この不確実性のつかみ所のなさ、実態のなさがやっかいなのだ。とくに、後述する、有事への懸念、恐怖にとりつかれたある種のパラノイア的心性がそこに重なると最悪である。つまり、パラノイア的恐怖心が、ありとあらゆる不確実な事態を「万が一の場合」として際限なく想定または「妄想」しては、それへの対処法をこれまた際限なく追求していってしまうとともに、それが起るとも断言できないが起らないとも断言できない不確実事象であるために、想定=妄想された「有事」の可能性を否定することもできないという構造である。(この心性は、少しでも問題があると何でもかんでも丸ごと「ダンコフンサーイ!」と叫んじゃうサヨにも共通しているかもしれない。)
ただ、これら二つのエスカレーションのメカニズムだけでは、実はそれほどやっかいではないのかもしれない。厄介になるとすればそれは、セキュリティ問題が、それ自体として挙国動員体制を要求せざるを得ない軍事問題として縮小的にフレームされてしまうことではないだろうか。セキュリティ問題の軍事問題への還元・縮減というある種の欲求そのものは、どこの国のどの時代にも見られるものだろうが、日本の場合には、日米関係最優先という枠組みのもとで、軍事力での問題解決を図ることに躊躇のないアメリカとつるむことで、さまざまな政策オプションを構想するイマジネーションが、セキュリティ問題の軍事問題への還元と、そのもとでのエスカレーションにロックインされてしまう。
そして、これに加えて本質的なのは、「備えあれば憂いなし」の論理に底に取り憑いたパラノイア的恐怖心ではないだろうか。マイケル・ムーアのBowling for Clumbineが描いて見せたのは、アメリカ社会に開拓時代からずっとつきまとっている他者恐怖のパラノイアだったわけだが、日本の右曲がりを推し進めているのも、やはり、「北朝鮮が攻めてきたらどうするのか」とか「アメリカに逆らったらどうなると思うのだ」といった恫喝の裏返しであるパラノイア的恐怖心だろう。たとえば某都知事の芸風である威勢のいい右曲がり発言や行動なんかは、どうみたって相当の弱虫君、ヘタレの虚勢にしかみえない。そしてこのパラノイア的恐怖、びびりによって、イマジネーションもますます萎縮・硬直化してしまう。(イマジネーションの硬直化というのはサヨとか反戦運動系にもあてはまると思うんだけど。)
この点で、『月刊現代』6月号掲載の田中康夫と西部邁の対談「戦争に乗じる覚悟も想像力もないインテリたちへ」と、寺島実郎インタヴュー「経済人はイラク戦争に責任を自覚するか」(聞き手:斉藤貴男)が面白かった。どちらも基本的に同じコトを言っている。
まずは田中×西部対談から。防衛論者のあいだで流行ってる「安全と生存(safety and survival)」について。

西部 僕が言いたいのは、安全と生存が最高の価値ではなくて、その上にある価値として、その国家なり国民なりの自尊と自律というものがある。自尊と自律のためならば、時として安全と生存をある程度かけてでも頑張らなければならないときがある。それが、防衛論の、覚悟というものなわけです。とすると、自尊と自律のためには、どうしても自主防衛が出てこざるを得ない。
 これをいうと、田久保忠衛なんかが世界で自主防衛できるのはアメリカだけだと反応してくる。これがまた、言葉のぶつ切りです。自主防衛という言葉と単独防衛という言葉を混同している。日本の自主防衛というのは、日米安保をどうするか、あるいは中国との関係をどうするとか、さらには東アジア全体での防衛のネットワークをつくろうということを、自主的に日本が考えていくことです。
(中略)
田中 西部さんが書いてますけど、他国の不幸に乗じて改憲しようというのはインチキ野郎だということですよ。人間として胸張るつもりなら、平時においてちゃんと議論しなさい。
西部 いま、右翼と名乗っている人間たちが、平気でそういう卑しいことを言う。この機会に軍隊も海外に出せるし、憲法改正の機運も促進できる、絶好のチャンスだなんていうことをね。
田中 失礼な話ですよ。
西部 第二次大戦までは、強いものは弱いものから奪っても構わなかった。要するにルールのない世界だったわけです。それがようやく、覇権的な先制攻撃としての侵略はしないことを決めて、どうにかルールみたいなものが国際社会に成り立った。それをアメリカが公然と踏みにじり、日本政府が乗っていく。日本のインテリどもが、よくもこんな恐ろしい、単純なことがわからないのかなと思ってね。

次は寺島氏のインタヴューから。こちらも憲法改正論議について。テーマは「力への誘惑をいかに断ち切るか」だ。

寺島 僕は、「建前として戦力を否定した国に自衛隊があるのはおかしい」という中学生でも抱く9条の矛盾は、はっきりさせないといけないと思います。しかし、日本人は冷戦期を生き抜くなかで、「国家には自衛権ぐらい必要じゃないか」、「専守防衛の仕組みの中でギリギリの自衛力を持つことまでは正しいあり方だ」というあたりに国民的合意を築き上げてきたわけです。
――しかし最近の論調は、それを踏み越えて、海外派兵だとか力への誘惑だという文脈の中で憲法改正が語られるようになっていますね。
寺島 イラクに自衛隊を送ることに賛成する論調には、ざっくり言って二つタイプがあるんです。一つは、「国際貢献は大事だ、日本も額に汗することが大事なんだ」というきわめて善意の気持ちからなる論理。もう一つは、「軍事力なき大国はない」という思考のもと、欧米列強に轡(くつわ)を並べてプレゼンスを見せなかったら額に汗かいたことにならないじゃないかという、力への誘惑に駆られた論理ですね。
 そこの中で、どこに共感し、どこに批判を向けているのかということを、きちっと整理しなきゃいけない局面にわれわれはきている。大人の見識が問われているんです。
――その二つのタイプでいえば、実際に政策決定に関わる人たちは、僕が取材する限りほとんど後者です。本音を言えば、僕もいまの憲法が完璧だと思っているわけではありません。だけど本当に改正の議論になってしまうと、必ず利用されて戦争をする国にされてしまうという警戒心のほうがはるかに強い。
寺島 だから非常にコシの強い議論がいるんです。かつての反米・反安保・反基地という単純な反体制論でなく、アメリカとの関係を大事にしながらも、アジアとの深い相互信頼関係をつくっていくゲームをこの国ができるかどうか。その瀬戸際にきているんだと思います。
(中略)
寺島 この国はいま、軽武装・経済国家としての誇りを名誉とするという選択肢を強く確認するのか、あるいは一部の人が主張しているように、「日本は軍隊がないから生ぬるいんだよ」という議論に回帰していくのか、その岐路に立たされているんです。武力に頼ってしまう弱さをどっかで断ち切らないといけない。しかも21世紀の世界は、日本が9条で掲げているような理念が孤立を生むのではない。
――これから生きる理念ですね。
寺島 日本が持っている憲法理念というのは、確かに解消しなければならない矛盾もあるけど、これから重要な意味を持ってくるという認識を強く持たなければいけない。実はいまこそ、国際社会のなかで敬愛と信頼を得られるチャンスなんです。
――力の論理だけではない。
寺島 そうです。何が力なのかということを考えなくてはいけない。僕がくどいほど言っている「ICC(国際刑事裁判所)構想」の進捗だって同じことです。国際社会はアメリカの力の論理によって動こうとしているんじゃなく、国際協調と国際法理を作り上げることで運営していこうという方向に向かっています。
 日本はいま、ちょうど100年前と同じような大変な正念場にいます。100年前の日本は、歴史のゲームの本質を見誤りました。アジアにおいて民族自立だとか国民国家という構想が生まれていたにもかかわらず、列強の植民地主義のゲームの中に自らを追い込んでいった。「欧米がやっているのに俺がやって何が悪いんだ」という発想に取り憑かれた結果が、満州国の夢を追いかけ、孤立し、最後には血まみれになった。
 21世紀初頭のいま同じような正念場に立っているのに、この国は世界史のゲームをどういうゲームだと認識しているんですかと、僕は問いたい。アメリカの掲げる価値が力の論理で世界に浸透していくような、単独覇権主義の論理で世界を見ていたんじゃダメなんです。
(中略)
寺島 そう。経済大国であり続ける日本を支える理念は、国際社会を国際法理と国際協調で作り上げていくことであって、そここそが日本の国益にかなっているんです。つまり敵愾心だとか憎悪というものを煽らずに、協調と連帯の枠組みの中に持っていくことが、この国の最大の国益なんです。
 それを認識したならば、日本が何のために汗かかなきゃいけないかという話は見えてくるはずなんです。だからこれは、協調を重視する人と武力に魅せられている人との間の、どこまで歴史が見えているかというゲームでもあるんです。

どちらも面白いのは、「自主防衛力」は必要としながら、その意味を拡げて、日米関係のみにも武力のみにも頼らない方向、国際協調と法理に基づくかたちでセキュリティの問題を構想しようとしている姿勢である。また、いわゆる「改憲か護憲か」、「保守か革新か」といった硬直した二分法を超えたところでイマジネーションを働かせる姿勢も共通している。
この二つめの姿勢は、「武力に魅せられている人たち」だけでなく、武力に反対している人たち、つまり反戦とか有事法制反対を訴えている人たちにも現在、決定的に欠けている姿勢かもしれない。
たとえば改憲/護憲についていえば、反戦は当然だとしても、いつまでも「改憲ハンターイ」「有事法制ハンターイ」という論理でいいのかどうか。改憲や有事法制の議論が武力に魅せられたビビリの「弱虫君」たちに引っ張られてしまうリスクが大きいのは現実だとしても、だからといって、日本が国際社会と関わる仕方の一つとしての安全保障のルール(法理)をもうける積極的な意義まで押し流してしまっていいのかどうか。少なくとも、単に「ハンターイ!」とか「フンサーイ!」とか叫んでたんじゃ、余計に世間のフツーの人たちは遠ざかるばかりで、相変わらず政策決定の中心は弱虫君たちに占められたままだろう。そこを変えていくためにも、平和を求める運動の内部で、寺島氏のいうような「非常にコシの強い議論」を積み重ねていく必要があるんじゃないだろうか。あるいは内部ではそういう議論が積まれているとしても、それを外から見えるかたちで示していかなきゃいけないだろう。現実というのは、常にリスクをかかえながら、スキラの巨岩とカリブデスの大渦巻きのあいだを舵取りしていくしかないのだから。「ハンターイ!」「フンサーイ!」の繰り返しは、そういうリスク=現実からの逃避であり、武力に魅せられる人たちと別の意味でのヘタレなんじゃないだろうか。
また、「保守か革新か」という二分法についても同様。アメリカの単独覇権主義の問題や、あるいは新自由主義的なグローバリゼーションの問題は、もはや冷戦時代の保守/革新、右/左というのとは違う対抗軸を必要とするはずで、旧来の対立を超えたところで、新たに人々の絆、連帯を作り直さなければならない問題であるはずなのだが、なかなか実際はそういう方向に動いていない。「内部」では動いているのかもしれないけど、少なくとも世間様の目からはそうはみえない。ちなみに京都という土地はいまだに共○系が強いところで、小生のような余所からやってきた「ノンポリ」にとっては、カルチャーショックを超えて、心底辟易するようなことがたびたびあったりする(京都市長選とかね)。もちろん運動やってる人たちの全部がそうなわけじゃないけど、時折見られる旧態依然としたイデオロギー的・党派的頑なさというのは、多少なりとも自分も運動に関わっているだけに、余計にイライラさせられるし、2ちゃんとかでサヨがあれほど馬鹿にされるのもよーーーーく分かったりする(というか、自分から見てもそう思うこと度々)。
サヨの文句を言い出すときりがないので(笑)、今日はここまでにしておこう。(だいぶ長くなっちゃったし。)いずれにせよ、「ニッポンノヨアケ」にとっては、ヘタレウヨと同様ヘタレサヨも、ウザイ存在だということである。

 

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