イマイチ(?)不安な現代日本の高等教育・科学技術政策の行方

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こういうことを大学の中の人間が書くと、身びいきとか、学者の身勝手、傲慢、何甘えてんだといわれそうですが、書くべきことは書いておかないと。。
科学コミュニケーションブログのK_Tachibana さんの次のエントリーについつい反応して、コメント欄で書きなぐってしまった駄文を、大幅に加筆・修正してこちらにも書いておきます(Tachibanaさん、長文コメント、すみません)。

危うさはらんだ教育再生会議主導の大学・大学院改革(科学コミュニケーションブログ)
昨日から今日にかけて,大学・大学院改革に関する政治的な大きな動きが見られました.23日の日経に出ていた,熊大の崎元達郎学長の話を引くまでもなく,現場を把握した上で本当に慎重に具体的な案に練っていかないと,経営破たんや教育の質低下の危険をはらんでいることに注意しなければならないと思います.


Tachibanaさんのエントリーにリンクされているニュース記事が伝える教育再生会議等の大学改革・大学院改革の議論には、なんだか亡国の空気が漂っている気がします。
日本の高等教育予算は、対GDP比で、欧米諸国の約半分、0.5%程度しかないのが現状です。経済財政諮問会議で持ち上がっている、「競争原理を持ち込んで、国立大学への運営費交付金の配分を、学生数や設備に応じた配分から、研究成果や外部資金による研究費の獲得状況に応じた配分に切り替えよう」という案が、もしもこのもともと少ない予算枠を維持ないし減らす方向で実現されたらどうなるでしょう?(まぁ、「学生数に応じた配分」というのも、定員充足のために、院生を採りすぎて、指導不足になるなどの弊害が生じてるわけですが。)
今まで日本の大学が経営感覚を欠きすぎていたのは本当でしょう。しかし、だからといって過剰に競争原理・市場原理を導入すれば、研究や教育が歪み(研究不正はその一端)、現場はますます息苦しいものになってしまうでしょう。
学者=”scholar” という言葉の原義を考えたことはないんでしょうか。
一方で「社会に役立つ科学技術やその人材」といいつつ、今のような制度的環境で競争をあおりすぎれば、大多数の研究者や学生は、狭い専門分野での業績作りに奔走し、社会で専門家に求められている広い視野や教養、他分野・他者とのコミュニケーションというのからどんどん遠ざかってしまいます。とくに、同じ「競争」といっても、たとえば学際研究や、研究による社会貢献、社会とのコミュニケーション活動も、専門分野内の研究業績と同等のウェイトで評価するよう、評価軸を多元化しなければ、十中八九そうなるでしょう。
もちろん私は、そのような評価の多元化と、単なる数字数えに終わらない意味ある評価が可能になり、またそうするための専門性を備えた人材(評価のプロ)を必要十分な数だけ揃えるという条件が最低限そろうなら、大学や研究者が競争しあうことは至極マトモなことだと思います。大学教員が評価の仕事までするのは、透明性などの点でも問題ありますし、書類仕事ばかり増えて、過重労働になったり、研究や教育にしわ寄せが行ったりする点でも問題です。
ちなみに学生(院生)たちは、現状の一元的競争のなかで、自らの視野や教養、コミュニケーションがどんどん萎縮していくことに、すごく危機感をもっているなという感じが、阪大で科学技術コミュニケーションの授業をしていても、すごくします。もちろん彼/彼女らは、大局的な科学技術政策や教育政策の動向や事実関係についてはほとんど何も知りません。(それこそ忙しいので。)でも、その問題点については、いわば本能的に察知しているような気がします。
この問題は、教育担当の鷲田副学長が行った大学院生との懇談会でも話題になり、とくに工学、医学、歯学、薬学の大学院生から、もっと他分野のことを勉強したり、他分野の学生と交流できる機会がほしいという声が強かったそうです。
また今学期の「科学技術コミュニケーション入門」の最初の講義では、ある学生は、「自分の研究が本当に社会にとって役立つものなのか、このまま続けていっていいんだろうかとしばしば疑問に思うが、それを突き詰めて考える暇がないことが時々不安になる」といっていました。
これは、これからの専門家・専門人として、とてもとても大切な感性だと思います。
また先日、阪大キャンパスでやった、サイエンスショップをテーマにしたサイエンスカフェでは、情報数理の学生さんが、「科学技術を社会の中にどう位置づけていくか、導入していくかはすごく大事な問題だと思い、今日は参加した」と述べてました。
こういう発言が、情報数理というハードなサイエンスをやっている学生さんから出てくるというのは、すごくステキなことだと思います。
ところが、国の政策作りに関わっている(振り回している?)お偉い方々の中には、こうした現代的な感性すら持ち合わせていないような人がまだまだ多いように思います。
先日、ある行政関係に詳しい方から聴いた話では、「イノベーション25戦略会議」には、「過去25年間、自分たちはこうやって成功してきた。だからこれからの25年もそれを続けていく」という、ちょっと信じられない時代感覚の持ち主もいたそうです。その25年間に、科学技術と社会の関係がどれだけ変わったか、それに応じて他の先進国の科学技術政策がどう変わったかなんてことは、何も見えてないかのようです。日本だって、科学技術政策の基本である第三期科学技術基本計画は、かなりいい線行ってると思うんですが、そこのところ、どうなってるんでしょうか。
ま、もちろん、何もかもこれまでの25年間のやり方でいいと言ってるわけではなく、それではいけないことがたくさんあるからこそ、「イノベーション25」というのも打ち出して、改革しようということなんでしょうが、何か根本的なところが変わっていないように思えます。
他方、ここまでの話と矛盾するようにも見えますが、社会に役立つ科学技術を可能にするためには、社会に役立つかどうかなんて関係ないような膨大な「虚学」――たとえば宇宙論のような純粋科学――をちゃんと守り育てていくことが大切でしょう。知識は網の目のようであり、一見、関係ないようなもの同士が、互いに支えあっていたりしているものです。
また守り育てる必要があるものには、当然、人間や社会、さらには科学技術と人間・社会の関係を考える基礎となる人文・社会科学の研究・教育も含まれます。「イノベーションで国際競争力を」と鼻息荒くしている方々には、しばしば現状の科学技術や政策に対し批判的なこれらの研究は、むしろイノベーションを阻害する邪魔者としかみえないのかもしれません。(もちろん私も国際競争力は重要だと思いますが。)
ところで”innovation”という言葉は、日本語でいう「技術革新」と同じ意味ではありません。実は、「イノベーション25」の中間とりまとめでも指摘されていることですが、イノベーションというのは、単に科学技術やそれを利用した産業だけで閉じたものではなく、それらを包含する社会、科学技術から大きな影響を受けるだけでなく、科学技術に対して大きく影響する社会の制度や文化、価値観、政策決定のあり方まで含めた「社会システム」としての科学技術と社会の変革のことです。
たとえば、新しい技術を開発し、社会に導入しようとするとき、どのようにしたら、その技術の導入による負の効果や、社会との摩擦を減らすことができるかを検討し、その結果を技術と社会のあり方両方に反映させ、相互調整をはかること(つまりテクノロジーアセスメントを内在させた科学技術ガバナンス)、そしてその調整のやり方を工夫し改善すること(ガバナンスのガバナンス=メタ・ガバナンス)まで含めてイノベーションです。
そしてそのガバナンスも含めた科学技術と社会の相互作用・相互調整においては、当然ながら、ある技術の実用化や開発にストップがかけられたり、大きな軌道修正を迫られたりすることもあります。
また、昨年のサイエンスアゴラ2006の開会基調講演で、元東大総長で、現在、国際研究交流大学村長・産業技術総合研究所理事長を務められてる工学者の吉川弘之さんが、「20世紀までの科学技術は、狭い視野のもと、どんどん新しいものを生み出し続ける『開発の科学技術』だったが、21世紀は、よいもの、守るべきものは守る、回復させる『維持の科学技術』の時代である」ということをおっしゃっていました(細かい表現はうろ覚えなので、違うかもしれませんが)。まさにそのとおりだと思います。
ところが、「イノベーション25」は、先にも指摘したように、イノベーションを単なる技術革新とは考えず、広くとらえており、地球環境問題など20世紀の科学技術と社会のイノベーションが生み出してきた負の遺産への対応もちゃんと謳ってはいますが、何か根本的な「違和感」を感じずにはいられません。
ありていにいえば、そのなかで社会システムとしてのイノベーションが意味するのは、「科学技術の発展とその社会導入をもっと加速・効率化するための社会システムの改革であり、そのための社会の制度的・財政的・人的リソースの選択と集中による総動員体制」という社会像です。ブレーキもハンドルもバックギアもバックミラーもなく、とにかく前進し続ける科学技術と、その爆走を阻害するものを排除し、ますます加速するための社会改革。吉川さんの言葉を借りれば、20世紀流の「開発の科学技術」のポテンシャルがますます発揮されるようにすることが、イノベーション25なんじゃないかということです。
科学技術と社会・国民の関係も、あえていえば親鳥とヒナ鳥の関係みたいです。「イノベーション25中間とりまとめ」には、科学技術が社会のニーズを汲み取り、研究者・供給者の視点ではなく、生活者の視点に立つことが大事という、私がサイエンスショップでやろうと考えていることとも重なることが何度も強調されています。だけど、なんだかそれは、「エサクレ、エサクレ」とピーチクいってるヒナ鳥たちの「食欲」に的確かつ迅速に応えてエサを運ぶ親鳥みたいなイメージです。「そういうものを欲してはいけない」と自らにも人々に対しても、時には諌める成熟した「大人の科学技術」の姿はそこにはありません。
まぁ、これはちょっと、うがった見方が過ぎるのかもしれません。たとえば、大学発ベンチャー 起業支援サイトDND集中連載「「イノベーション25戦略会議」への緊急提言」に掲載の「イノベーティブなイノベーション政策」で、阪大の森下竜一教授がされている次の指摘は注目に値します。

・・・イノベーション25の意味は何でしょうか?・・・私は今回の会議に参加して、イノベーション25は日本で始めてのニーズ・オリエント型の政策提言システムであると思うに到りました。何のこと?って、いわれそうですが、実は今までの日本の政策は基本的にシーズ・オリエント型なわけです。例えば、分子イメージングという技術を元に何か世の中に役に立たないだろうかというのは、シーズ・オリエント型です。研究成果は、徐々に出てきますので、将来予測もやりやすいですので、予算もつけやすい(ある意味、演繹的な手法ですね)。日本人にあった思考経路といっても良いと思います。
では、ニーズ・オリエント型とは何でしょうか?がんになりたくない、じゃあ、がんを早く見つけよう、目で見ることができれば良いよね、じゃあ、必要な技術は何だろう?がんが見るには、分子イメージングという技術要素が必要だよね。そのために、分子イメージングを研究開発しよう!このような考え方です

これは、上に書いた「生活者・納税者の視点の重視」というイノベーション25の基本姿勢をズバリ表現したものだと思います。確かに今までの日本の科学技術政策はシーズ・オリエント型であり、科学者が研究したいものを研究し、技術者が作りたいものを開発して、世間はそれをどんどん「受容」するという図式でしたが、これを改めて、もっと社会ニーズのほうから研究開発を組みなおそうということです。これは産学連携だけでなく、それを補完するサイエンスショップのような、市民社会・地域社会の非営利的・公共的な社会ニーズと大学の研究・教育との連携(社学連携)において、私が進めたいことと完全に一致しています。(詳しくはこちらをご覧ください。)
けれどもあまりにニーズ・オリエントのほうに傾きすぎても、先にも書いたような純粋科学の萎縮という問題が生じたりします。まぁ、今まではあまりにシーズ・オリエントだったので、それを修正するという点では、今はニーズ・オリエントをこそ強く叫ぶ必要があるわけですが。
ほかにも「イノベーション25中間とりまとめ」には、いいことがたくさん書かれてるんですが、だけど、全体として、何か大切なものが欠けていて、良い「志」も違う方向にそらされていってしまうのではないかという危惧がぬぐえません。
だいたい驚いちゃうのは、全部で87ページある「イノベーション25中間とりまとめ」に、一言も「倫理」という言葉が登場しないことです。公開されている第1回から8回までの会合の議事要旨でも、たった2回だけです。いまどき、科学技術政策の政府文書で、科学技術の倫理的・社会的問題への対処について、一言も言及がないのは、ほんとに驚くべき「センス」です。大きな社会的影響がもたらされる可能性があったり、多額の研究費を税金から投入する研究開発を進めるにあたって、米国では”ELSI (Ethical, Leagal and Social Issues)”、欧州では”ELSA (Ethical, Leagal and Social Aspects)”と呼ばれる事柄に関する人文・社会科学的研究を並行して行うことは、欧米ではもはや科学技術政策の基本要素になっていると思いますが、そういう「国際感覚」は全然ないようです。(ELSI研究は、ヒトゲノム計画で米国が90年代初頭に導入したものです。)実をいえば、近年になってからとはいえ、日本でも『科学技術白書』や第3期科学技術基本計画には、「科学技術が及ぼす倫理的・法的・社会的課題への責任ある取組」(基本計画)ということで、ELSI/ELSA研究を推進することの重要性や必要性がうたわれてるのですが、そういう国内の科学技術政策の基本理念すら、忘れてしまっているかのようです。
ちなみに、「中間とりまとめ」には、「イノベーションで拓く2025年の日本」を実現するために必要な技術例」に関するテーマとして、「生涯健康な社会」というのが出てきますが、これなんて、「いつ死んだらええねん?」というツッコミ以外にも、医療倫理等をちょっとかじった程度でも思いつく倫理的・社会的問題がいろいろ考えられるわけですが、それについての配慮は、「中間とりまとめ」には見当たりません。
また、ELSI/ELSA研究だけでなく、リスクなど科学技術のもたらす負の影響について研究したり、地道な疫学調査などデータ蓄積を行ういわゆる「レギュラトリー・サイエンス」や、それに基づく科学技術ガバナンス、そこで必要となる市民・国民の政策形成への参加のあり方についての言及もありません。
これに対し、『平成16年版 科学技術白書』の「第1部 これからの科学技術と社会/第3章 社会とのコミュニケーションのあり方/第3節 科学技術と社会の新たな関係」には、次のような記述があります。

このような状況の中で, 国全体のシステムの調和を確保しながら, 社会における各主体の利益を最大化するためには, それぞれの意見を踏まえた意思形成, 社会的合意の確保が必要となってきている。特に, 政府や企業等にとっては, 国民からの支持が存立のための基盤であるため, 国民の意思を尊重し, その充足感を最大化できるような仕組みが必要になってきており, 実際, 「科学技術と社会に関する世論調査(平成16年2月)」においても国民の多くが科学技術政策形成に対する参画が必要であるという意見を持っている。
科学技術と社会との調和のためには, 政府, 科学者コミュニティ, 企業, 地域社会, 国民等のそれぞれの主体間の対話と意思疎通を前提として, 各主体から能動的に発せられる意思を政策形成等の議論の中に受け入れられるような, いわゆる科学技術ガバナンスの確立が重要であろう。
なお, これまでに述べてきた, 科学技術コミュニケータの養成や科学者等によるアウトリーチ活動, そして科学者コミュニティによる社会貢献活動等も, 科学技術ガバナンスが有効に機能するための基盤として求められよう。

これと比べると、イノベーション25の中間とりまとめは、だいぶ時代を後退している感がぬぐえません。それでも、関連しそうなところでは、次のようなくだりもあります。

国家政策も、企業戦略も、国際的に信頼の高い、科学的根拠に立脚し、前例主義を排したものでなくてはならず、独立した政策立案機関、各種シンクタンク、科学者コミュ二テイなど複数の見解等を適切に活用する透明性の高いプロセスで形成され、決定され、施行されることこそが重要である。(p.25)

とはいえ、これは「4.イノベーションを起こす条件:ダイナミズムに富む社会」というセクションにある一文であり、上の『科学技術白書』に見られるようなガバナンスの意味合いは、少なくとも見かけ上は、だいぶ希薄です。もろちん、上の「中間とりまとめ」の主張は、それ自体としてはとても重要なことであり、「書かれていること」には100%同意できますが、書かれていないことがたくさんあると思います。たとえば『白書』でいわれてるような政策形成への国民の参画についても言及がありませんし、「複数の見解」のなかに、NPOなど市民社会のものが入ってないのも気になるところです。(しかし、教育再生会議なんか見てると、とても「科学的根拠に立脚した国家政策」には見えないんだけどなぁ。イノベーション25の会議に出席されたアベ首相は、どういう思いでこの提言を聞いていたのだろう? 参考: NHK視点・論点「私の教育改革(3)」苅谷剛彦。)
ちなみに先日、内閣府経済社会総合研究所のとある研究会合に、コメンテーターとして出席したときにも、「多様な見解」の重要さ、必要性について、日本では、シンクタンクやNPOなどの政策分析やアドヴォカシーの働き・能力が、欧米社会と比べて、極めて不十分であり、これらを活発にするにはどうしたらいいかという議論がありました。「中間とりまとめ」の著者らが市民社会の存在を無視した(または思いもよらなかった)のは、日本のそうした現状の反映ともいえますが、弱ければなおさら、どう育てるかの議論が重要なはずです。
とにかく、そういう科学技術と社会に対する反省的(reflexive)でパブリックな視点、それを科学技術と社会に自己適用させる「再帰的(reflexive)」な制度的メカニズムなどガバナンスに関する事柄が、決定的に欠けているわけです。
この「リフレクシビティ」、「公共性」、「ガバナンスへの意識」の希薄さないしは欠如こそ、「イノベーション25」が描くイノベーション像、社会像に対して、私が抱かざるを得ない「違和感」の本質だといえます。(そういえば、U.ベックが著書『リスク社会』で、「第二の科学化」、「再帰的近代化」という概念で、科学技術と社会の変化を論じたのは、いまや昔、1986年のことだったっけ。)
ちなみに先にも引いた集中連載「「イノベーション25戦略会議」への緊急提言」では、以前に経産省の研究会でお世話になったことのある塩沢文朗さんという役人の方が、レギュラトリー・サイエンスの必要性について、ズバリいいことを書かれていますので、引用しておきます。

・・・民主主義の潮流の大きなうねりを考えるとき、科学技術活動に関する評価の視点をはっきりと変えるべき時期が来ているように思う。新たな発見、発明のみに高い賞賛を与えるのみでなく、社会の合意形成や利害の調整に資する科学技術活動に対しても光が当るようにしていかなければならない。(「イノベーションと安全と安心」

また、これの続きのエッセイ「イノベーションと安全と安心 その2」では、さらに社会の合意形成や利害の調整に資する「社会科学」の重要性と必要性も説かれています。
最後にもう一つ、「イノベーション25」に感じざるを得ない「違和感」について述べておきます。上に書いたように、リフレクシヴィティやガバナンスの希薄さ・欠如が違和感の大きな原因であるのはそのとおりなのですが、もう一つ、より根本的な要素があります。それは、イノベーション25に見え隠れする「総動員的社会統合」という社会イメージへの嫌悪です。科学技術の発展と普及のための社会システムの総動員的変革。そこに、何か根源的な嫌悪を感じてしまうのです。
もちろん国として、社会ヴィジョンを掲げ、その実現に向けて科学技術予算や教育予算の配分にメリハリをつけていくことは重要かつ不可欠なことだと思います。「ニーズ・オリエント型への転換」も、私自身、それを後押しするような仕事をしています。しかし、何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。あまりに競争原理やニーズ主導を予算配分や制度といった実質的なかたちでもって突き詰めすぎれば、学問や教育、あるいは文化は疲弊してしまうでしょう。
学問・教育・文化には「余裕」が必要で、余裕とは「無駄」や「遊び」を許容することだと思います。さらにいえばこの「無駄」は、「一見無駄に見えるけど実は役立つこと」といういわば「機能主義的」な無駄や遊び(リクリエーション)ではなく、本当に何の役にも立たない「無駄」も含みます。個人の生き方についても、それはいえるでしょう。何にも縛られないこと、ただそうあるだけでよいということ。もちろん人間は、社会的動物であり、何らかの社会統合がなければ生きていけないわけですが、そういう根源的な「自由」の余地もまた、人間には不可欠なんだと思うわけです。
科学技術と社会の関係についていえばそれは、「シーズ・オリエント型」でも「ニーズ・オリエント型」でもないもの。それらのはざまにある「ボイド」としての学問の自由。一方で私は、この「学問の自由」というものを、時の社会状況や政治権力から自由に批判的見解を述べたり、他の人々のそうした自由を守るために学問を行使する政治的権利として擁護しますが、同時に、そうした機能主義的自由からも自由な学問のあり方、人間のボイド(空虚、空隙、無)としての自由も擁護したいと思うのです。産学連携とは違うけれども、大学や学問の社会貢献、ニーズ・オリエント型への転換を求める仕事をしているだけに、この両義的感覚は絶対に忘れてはならないものだと、自戒を込めて書いておきたいと思います。
<追記>
いつも読ませていただいてる北大の「5号館のつぶやき」さんに、次のようなエントリーが最近ありました。そこにリンクされているブログ記事は、上のほうで書いた大学院生の置かれたしんどい状況と、そこから見える今の大学の深刻な問題点の一端をあぶり出しています。

大学院生は利用され使い捨てられているのか
一夜漬け: アクセス新記録

「イノベーション25」や経済財政諮問会議をはじめとした「改革」の提案は、このような現実にどれだけ向き合った結果なのでしょうか。

 

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2件のコメント

  1. 危うさはらんだ教育再生会議主導の大学・大学院改革

    昨日から今日にかけて,大学・大学院改革に関する政治的な大きな
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    の話を引くまでもなく,現場…

  2. 留学生100万人計画

     今の政府の目玉が教育改革なのだそうですが、このくらいメチャメチャに食い荒らされると、真面目に批判する気もだんだん失せてくるものです。実は、それが教育再生…

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