鳩山首相就任会見の「金言」・・・とはいえ

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鳩山首相の今夜の就任会見。
まー全部聞いてたわけじゃないので、他にもあったのかもしれないし、反対にダメダメなのもあったかもしれないけど、自分的に「これは金言ではないか」と思われた一節。

「今までのように、国民の皆さんもただ1票を投じればいいんだという発想ではなく、ぜひ政権に様々ものを言っていただきたい。政権の中に参画していただきたい。…… 私たちは、試行錯誤で失敗することもあるかもしれない。国民の皆さんに寛容を求めたい。何せまだ、ある意味で未知との遭遇、経験のない世界に飛び込んでまいります。政治主導、国民主権、真の意味での地域主権のために、様々な試行実験を行っていかなくてはなりません。したがって、国民の皆様方も、辛抱強く新しい政権をお育て願えたら、大変幸いに思っております。」(強調筆者)

この「試行錯誤で失敗することもあるかもしれない」という発言、一見(一聴?)すると、政治家的には弱気で無責任にも見えるのだけど、実はすごく誠実な言葉ではないかと。


確かに、「私たちは必ずや実現します」と言ったほうが、責任感にあふれ頼もしく聞こえるわけだけど、実際、この世界は不確実性だらけ。まさに「未知の世界に挑む」以上、それは試行錯誤の連続にならざるを得ないのが世の現実だ。
ちなみにこの点について、閣僚等に理系出身者が多いため、今回の内閣が「理系内閣」と呼ばれていることにからめて、twitterで次のようにつぶやいたところ、いろいろな人から賛同するRT (ReTweet = つぶやきの採録)を頂いた。(もともとは食後の茶の間の話題のなかで思いついたことなんだけど。)

「私たちは、試行錯誤で失敗することもあるかもしれない。国民の皆さんに寛容を求めたい。未知の世界に挑む。」と鳩山首相。従来の政治家観だと弱気発言にも聞こえるけど、この態度、ある意味「理系マインド」の現われなのかなとポジティヴに思ったり。

「理系内閣」というとき、記者たちが想定している「理系」のイメージには、「日常的な不確実性・試行錯誤への謙虚な姿勢」というのは微塵も入ってなくて、「合理的」とか「理路整然」というのばかりな気がする。

なかには、後者に対して「『理系』が大事なのはまさにこの点なのだけど」とつぶやいてくださった方もいた。
たぶん、RTして下さった方たちは理系の人たちが多いのかもしれないが、みなさん、やはり、そこが科学では大事と考えていらっしゃるんだなと、ちょっと嬉しくも思ったり。なにしろ科学や技術というのは、未知のことにチャレンジしてなんぼで、不確実性もいっぱい、試行錯誤もいっぱいな世界であるわけだから。
もちろんこれは、文科系の学問だって同じことだ。理系だろうと文系だろうと、学問あるいは「知」の本質はそこにある。それに、そもそもまともに現実と向き合って生きてたら、これは人生そのもののリアリティであるわけで。
ところが往々にして、これまで政治の世界というのは「無謬性神話」という非常にマッチョな信念がはびこっていて、不確実性や可謬性を認めず、したがって、誤りから学習したり、それによって軌道修正や、やり直しをしたりということが、大変しづらくなってしまっていた。(そしてこれは、政治家や官僚組織だけが悪いわけではなく、なにか失敗があれば過剰に叩くメディアや国民の性向も原因の一端を担っているといえる。)また、無謬性を装うがゆえに、有権者の声によって政策を変更する余地などもなくなってしまう。
さらにこのような政治の世界の「無謬性神話」を補強するかたちで、「確実な知識」という、科学がもつもう一つのイメージが重なることで、この神話がますます強化されてしまう。たとえば、公共事業の妥当性(たとえばダムなどの建造物の安全性など)を「科学的に安全です」と主張することで裏書きし、一切の誤りや不確実性を認めない態度が補強される。「事実に関する客観的で確実な知識」としての科学は、それ自体が知における「権力」であり、それが政治権力を無謬なものとして強化し、政策決定を、行政機構や一部の政治家、利害関係者のみがアクセス可能な閉じられたものにしてしまうのだ。
これに対し、もう一つの科学のイメージ――動いている科学、生成途上にある科学(science in action)の実像――であり、人間と社会の実像でもある「可謬性」や「不確実性」を認めることは、政策決定をめぐるオープンなコミュニケーションの「余地」ないし「余白」を作り出し、多様なアクターに開かれた開放的で参加的なガバナンスの可能性を開くことになる。実際、欧州の環境政策や食品安全政策に見られる事前警戒原則(予防原則 = Precautionary Principle)の運用が、そのまま開放的・参加型のガバナンスの形を取っていることは偶然ではないだろう。そして、上記の鳩山首相の発言にも、政府の試行錯誤に対する国民に「寛容」を求めると同時に、「政権にモノを言い、政権に参画してもらいたい」という言葉が並んでいる。
と同時に、このような可謬性・不確実性の認識に根ざした試行錯誤的な政治のヴィジョンは、「ガバナンス」というものが、政府だけで行うものではなく、さまざまなアクターが相応の責任を負い、一緒に試行錯誤を繰り返す「集合的実験(collective experiment)としてのガバナンス」という、ある意味、非常にしんどい社会ヴィジョンでもあったりする。実際、現代社会はあまりに複雑かつ不確実で、政府だけではすべてを統治することは不可能であり、さまざまなアクターが集合的実験に参加し、その成功の果実とともに失敗の責任をも分担していかなければならなくなっている。それが現代社会のリアリティであるわけだ。これを「国民への責任転換」なんて呼ぶとしたら、それは甚だ勘違いだろう。
鳩山首相が、こういうことまで含意して上の発言をしたかどうかはわからないが、少なくともその言葉は、こういう社会ヴィジョンを示しているといえるだろう。そしてそれは、「理系的」であると同時に、この社会の「ガバナンス」のよりリアルなヴィジョンを示す「現実政治的」な言葉だとも言えるだろう。
ちなみに、ここまでは、上に引用した言葉に着目して、鳩山新首相を持ち上げることを書いてきたが、これは絶対的にいただけない。

首相記者会見「オープンにする」 鳩山政権「公約」破り、ネット「締め出し」 (J-CASTニュース)

民主党の重大な「公約破り」はじまる 許すまじ! (MIYADAI.com Blog)

この問題について、大手のマスコミは(当然ながら)ほとんど報じないだろうし、大多数の有権者はメディアの政治的意味についてそれほどセンシティヴじゃないから、一見したところ、大過なくスルーされてしまうだろう。だけど、マスコミに批判的なネット世論については、後者の記事で宮台氏が指摘してるとおり、これまで民主党をサポートしていたのが一気に反民主に傾きかねんよ。そもそもネット系ジャーナリストを締め出すなんてのは、まさにここで「金言」とした言葉すべてを裏切る行為だと思うぞ。

 

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1件のコメント

  1. 「私たちは、試行錯誤で失敗することもあるかもしれない。国民の皆さんに寛容を求めたい。」
    国民の皆様を連発したのには、いい加減うんざりした。
    高速無料化、戸別保障制度、暫定税率の廃止などは、既に失敗の政策である。試行錯誤で直してもらいたい。

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