世の中には「後発の利」(latecomer’s advantage; advantage of backwardness)という言葉がある。もともとは経済史家のガーシェンクロンが、後発工業国が、先進国からの技術移転を積極的に行うことで、先進国が辿ったよりも短い期間で工業化を進めるという現象を説明するために導入した概念だが、そうした先行者の達成物だけでなく、それに伴う失敗や教訓からの学習ということも含めれば、工業化以外の多くのことにもあてはままる考え方だといえる。
この言葉をふと思い出したのは、安倍内閣が進めようとしている「教育改革」が、1988年に当時のサッチャー保守党政権が実施し、その後、ブレア労働党政権が強化を進めたイギリスの教育改革を下敷きにしているからだ。改革以来、多くの子供たちがすでに成人に達しているイギリスの改革の「成果」と「教訓」から、果たして日本の「改革者」たちは何を学び、どんな「後発の利」を活かそうとしているのか――あるいはしていないのか、とても不安になったからだ。
「全国統一学力テスト」と国の監査機関による「学校評価制度」、「学校選択制」の導入など、イギリスが導入した制度を安倍首相は高く評価し、教育再生の鍵だと考えているようだ。とくに学校評価では、学力ばかりでなく、学校の管理運営、生徒指導の状況などを国の監査官が評価する仕組みを作りたいらしい。
けれども当のイギリスでは、サッチャー教育改革のさまざまな問題点がすでに明らかになっている。たとえば京大の佐和隆光さんが委員長を務める「日本の教育を考える10人委員会」の趣旨説明には、こんなくだりがある。
しかし、薬物と同じく、「改革」の効果ないし作用にもまた、正と負の両面がある。サッチャリズムがもたらした負の効果、すなわち「副作用」の主だったものとして、次の二つが挙げられる。一つは、所得格差の拡大、もう一つは、公的医療・教育の荒廃である。こうした副作用を見るに見かねたからこそ、イギリス選挙民の過半が、1997年の総選挙で、サッチャリズムに「ノー」と言ったのである。
数ある副作用の中でも、教育の荒廃は目に余るものであった。その荒廃した教育を立て直し、経済社会の活性化と持続的発展を確かなものとするためにも、サッチャー政権2期目以降、中央集権化と競争原理を基調とするラディカルな教育改革が進められることになった。1988年の教育改革法により、イギリス教育史上初めて全国共通カリキュラムが導入され、その達成度を評価する共通学力テストが実施されるようになり、さらには、学校査察機関(OFSTED)による学校評価とその公表が実施されることになった。
しかし、そうした改革にもかかわらず、基礎的な読み書き計算能力の向上は一向に達成されず、教育機会の格差の拡大と教育問題の深刻化が進むことになった。例えば、義務教育修了資格を持たずに学校を去る子どもが約8%、英語の16歳試験の合格率は41%、怠学(truancy)は毎年100万人以上、学業態度や非行を理由にした期限付き放校処分10万人以上、退学処分1万人以上、さらには、退学処分された者による犯罪の増加など、様々の問題が教育の荒廃として注目されるようになった。
こうした現状への反省から、イギリスでは、現行制度の導入者である保守党ですら、失策を認め、一元的な国の監査と管理・指導によってガチガチに硬直化し活力を失った教育現場に、それぞれの学校と教師、親や生徒たちの自主性を取り戻そうとしているという。『世界』11月号掲載の「安倍政権は、問題の多いイギリス『教育改革』に追随するのか」(阿部菜穂子)で紹介されている英教育専門紙TES (The Times Educational Supplement)の2006年9月1日の記事“Tories want to rein in Ofsted”(保守党は、教育水準局(Ofsted)を抑制したい)によれば、同党の公共サービス改善政策グループ委員長のPauline Perry女史(Baroness: 女男爵)は、次のように述べている。([]内は筆者補足。)
「教師たちのやる気は巨大な危機に瀕しています。皆さんが教師を信頼し、彼らがやる気を高められるようにしてあげなければ、教育を改善することなどできません。」
現在の教育水準局のシステムは欠陥品であり、過度に懲罰的で機能不全に陥っている。「彼ら(監査官)たちは、試験成績とテスト結果、付加価値などのことを尋ねるばかりで、真の学びが行われているかどうかは尋ねません。」
教育水準局の学校格付けのあり方は失敗している。「学校は生きた機関であり、[成績の悪い学校を]名指してさらし者にするとすれば、それは、その学校の子供たちに恐ろしいことを告げることであり、教師のこともまったく無視することです。それは事実上、彼らは敗残者だというに等しいのです。」
このように考えるPerry女史らの保守党グループは、成績到達目標などを外部から(つまり国から)課すのを減らし、現場の教師がもっと係わって、個々に目標設定できるようにする方針を、次の選挙に向けての政策として打ち出す構えだという。(同グループのHPには、このことが盛り込まれた中間報告書が公開されている。)
上記の『世界』の記事では、他にもさまざまな問題点や改善への動きが紹介されている。たとえば、全国統一テスト(ナショナルテスト)の成績を公表することで学校間を競争させ、教育水準局の査察で学校を格付けした結果、学校が「勝ち組」と「負け組」に分かれ、「教育の階層化」が進んだことが指摘されている。成績優秀校の周辺には裕福な中産階級家庭が次々と引越してきて学校の定員枠を独占する一方で、成績の悪い学校が、低所得者層や移民・難民家庭などが集まる地域に取り残されているのだという。地方教育局(教育委員会)の中には、域内の成績の悪い小学校に「6年生(ナショナルテストを受ける11歳児の学年)児童には一年間、テスト科目以外の授業はしないように」と指導したところもあるという。
さらに「失敗校」とランク付けられた学校は、「特別措置」下に入り、それと同時に大量の教師が辞職し、大混乱に陥り、さらには教育水準局と地方教育局の監視・指導の下で再生計画を提出し、新たなスタッフを雇用するという状況に追い込まれるのだという。
また、授業の方法や時間配分、教育政策の変化などについて、ビデオ、CD、パンフレット、Eメールなどで山のように国から届く「通達」による「指導」や、年に何度も参加させられる政府主催の「研修」によって、いかに教育現場が疲弊し、反感と閉塞感を強めているか、そのプレッシャーで押しつぶされそうになった校長が次々と辞職し、全国で推計1300校もの小・中学校で校長が不在になっていることなども紹介されている。
新しい動きとしては、イングランドとともにサッチャー教育改革を実施したウェールズでは、ナショナルテストを今年度で全廃する決定が為されたこと、そして、その際の基礎資料を提供した同地方政府教育長官の諮問機関「ナショナルテスト見直し委員会」のリチャード・ドーエティ・ウェールズ大学名誉教授が、「現行制度下でいかに『市場の論理』が『子どものための教育』を打ち負かし、犠牲にしているか」を強調していることに触れている。
またイングランドでも、ニューカッスル大学のグループによる大規模調査では、教育水準局の査察が義務教育修了試験の成績向上に役立っているかが調べられ、その結果、「査察はテスト成績にはなんらよい影響を与えておらず、むしろ害を及ぼしている」と結論してるという。これが原動力となって、イングランドでも教育水準局の査察方式が昨年9月に変更され、現行方式の修正が始まってるという。
さらに教育現場の声としては、2005年の11歳児(6年生)テストで全国1位になったオックスフォード州クーム小学校のバーバラ・ジョーンズ校長が、同校がトップになったのは「政府指導をすべて無視して授業をしているからだ」と明言していることに触れている。また、ロンドン南西部のマートン・パーク小学校のジョアンナ・ジョーンズ校長は、自らの権限で政府の授業計画を無視し、映画を教材にした独自の読み書きの授業で成果を挙げており、「政府の言うことをいちいち聞いていたら、肝心の子どもたちの教育を忘れてしまう」と述べているという。
以上のように、サッチャー教育改革から18年を経て、様々な改革の問題点があらわになり、これを踏まえてイギリスの教育システムは大きく変わろうとしている。
ただ、上記からも分るようにイギリスは、現行制度そのものを一切合財捨て去ろうとしているわけではない。おそらく現行制度にも、ポジティヴに評価すべき何かが、未だ眠っているものであれ、現実化しているものであれ、あるということなのだろう。だから、安倍政権がイギリスをモデルにやろうとしている改革が、100%ダメだということはできないが、果たして旗振り役の安倍首相もはじめとして、改革の責任者たちは、先人の失敗と教訓から学び、「後発の利」を活かすことができるのかどうか。あるいはそもそも、そうしようとする意志があるのかどうか。そこんところが、はなはだ心もとない。
近々発足する首相の諮問機関「教育再生会議」にしても、個々の委員がそれぞれの専門の分野で築いた業績や経験、能力はすばらしいとしても、果たして飲み屋の素人談義以上のことができるのかは大いに疑問。かつての「教育改革国民会議」の議論のようなものにならないかとっても心配である。(参考:今日行く審議会@はてなさん:「教育改革ごっこの配役固まる」、「教育基本法に関する議論を行う人たちの真の姿とは」)だいたい座長に「ノーベル賞受賞者」を据えるセンスがいただけない。ノーベル賞受賞したからといって、それは専門の分野で卓越していることは証明していても、他の領域の問題でも同等の高い能力を発揮するかは未知数だ。選んだ側は、いかにも「ノーベル賞」という権威の看板が欲しかっただけのような気がする。そもそも諮問組織では、裏方でちゃんとデータを揃えられる専門スタッフの力量が大事なわけだが、そこんとこはどうなってんの?(なお、座長になられる野依良治さんは、一度、ある一泊二日の会議でご一緒させていただいたことがあり、知的にも大変謙虚で思慮深い、すばらしい学者でいらっしゃると感じられた。そんな野依さんの名声に傷がつかないといいのだがとも、僭越ながら心配になってしまう。)
ちなみに安倍内閣で教育再生担当の山谷えり子首相補佐官は、かつて、新憲法制定や教育基本法改正を主張する「日本会議」(wikipediaの解説)所属の国会議員がイギリスの教育制度の実態視察に行く際のメンバーになったとき、当時自民党幹事長だった安倍氏から、「英国改革の際の反対運動の中身をしっかりと調べてきてほしい」と頼まれたという(AERA2006.10.16号)。何が何でもやるぞ、っていう意気込みの表れとも言えるが、「英国改革の効果と問題点、現状と課題」などではなく、「反対運動の中身」というあたり、単にうるさいやつらを黙らせるにはどうしたらいいかという政治的駆け引きのことしか考えてないように見えなくもない。(そもそも日本会議とか、山谷えり子が教育再生担当ってあたりで、「面舵(=右旋回)いっぱーい!」な気分がいっぱいなんだが。。)
最後にもう一つ。上記の『世界』の記事は、先の全国トップ校の校長らの言葉を引きながら、教育制度の見直し・修正におけるイギリスの教育者たちの強い独立心と、自らの教育理念を貫こうとする意志の強さ、上からの政策の押し付けに対する「反発力」の強さを指摘し、最後にこう述べている。
もしもこのような強い反発力が現場にないところで、サッチャー時代から続く強力な教育改革と同様の改革が実行されたら、教師と子どもたちは本当に押しつぶされてしまうのではないだろうか。
もちろん日本でも反発する人はいるだろう。でも、それって、所詮は香ばしい日○組やサヨ教師くらいでしかなく、広く共感と支持を集められるようなものにはならない可能性大。とすれば、先行きはとっても暗く憂鬱。純粋に学力の面だけを考えても、ガタガタになるんじゃないだろうか(人格面、情緒面はいうまでもなく)。愛国心云々の観念的右曲がりなんかより、そのことのほうがよっぽどリアルな問題なんじゃないだろうか。
<追記>
上で出てくる山谷えり子首相補佐官、彼女に関するwikipediaの記述を、ご本人あるいは関係者の方が改ざんした疑いがもたれてるんですね。
そのwikipediaのページの「ノート」のところに、どこを削除または改変、加筆したか、詳しい経緯が出ていますが、一番笑ったのは、その改ざん者はなんと「参議院」からアクセスしていたということ。
Wikipediaでは投稿者のIPアドレスが公開されるので、それでバレてしまったわけだけど、それに気づかず、しかも編集マナーを無視して勝手に記述を変更するとは、なかなか大胆というか厚顔無恥というか、奇特な方のようです。(ご本人かどうかは分りませんが。)
Googleで「山谷えり子 wikipedia 参議院」で検索すると、たくさん関連記事が出てきます。
J-CASTニュース: 山谷えり子の「経歴」 削除された気になる部分