Delusion-Based Policy

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Quo vadis, domine ?さんの今日のエントリー。

伝統を捏造し、自らジェンダー規範を侵犯する保守派。

これと同じ連中がやってる夫婦別姓制否定論もそうだし、さらには教育政策論議一般もそうだが、基本的にみんな――どの政策論議にも「妄想トッツァン坊や」が関わってる――「証拠に基づく政策(Evidence-Based Policy)」ではなく、幻想というか「妄想(delusion, obsession)」に基づく政策、”Delusion-Based Policy (DBP)”なんだよな。
この点で以前から注目してるのが、東大教育学部の苅谷剛彦さんらがやってる「日本の教育システム」の研究プロジェクト。小生も助成を受けてる日本学術振興会の人文・社会科学振興プロジェクト研究事業の一環で行われている。その紹介文から引用しておきます。

 教育をめぐる多くの議論は、教育の「失敗」を前提とした予見から始まる。一例を挙げれば、学校教育の場合、「画一教育」や「受験教育」等々が、「創造性」や「個性」を育むことに失敗してきた、それゆえ、教育改革が必要であるといった言説に顕著な問題認識である。
 ところが、そもそも、教育のどのような事態を指して、「失敗」とみなしているのか。どのような方法を用い、どういう因果関係を想定し、何を根拠に「失敗」の断定が行なわれているのか。従来の研究においては、その点が十分明解に意識されてきたわけではない。さらにいえば、多くの教育政策も、この点を不問にしながら遂行されてきた。

DBPは、他分野の政策、たとえば科学技術政策や理科教育政策なんかにもちょくちょく見受けられるのだけど、それはまた今度。

 

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2件のコメント

  1.  平川さん、お久しぶりです。
     私の知人に教育学の研究をしている大学院生がいるのですが、彼は「教育となると、飲み屋でクダを巻いている説教オヤジがするような素人談義がまかりとおるのは何故だ」と嘆いていました。もちろん、彼が言いたいのは、専門家の領域に素人が口を出すな、ということではなく(専門家だって十分間違いを犯すことはありますので)、明白な根拠と正しい推論に基づいて問題の存在を立証し、そしてその妥当性をしっかり議論するべきだ、ということです。
     しかし平川さんの話では、事は教育行政に限った話ではなさそうですね。
     それにしても「DBP」という表現には笑わせていただきました。この表現、これから使っていきたいと思います。使う機会は多そうですね。

  2. barbaroidさん、お久しぶりです。
    お返事遅くなり失礼しました。
    「DBP」、いいでしょ~?
    ぜひ広めてください(笑)

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