今日10日、『17年度科学技術白書』(16年度科学技術の振興に関する年次報告)が閣議決定され、午後に文部科学省のHPでも公開された。科学技術基本法の制定から10年ということで、今年の特集は、日本の科学技術力の評価と今後の課題となっている。
「はじめに」より
科学技術の振興に関する年次報告第1 部では、毎年、広範多岐にわたる科学技術活動の動向について、テーマを定めて紹介しているが、科学技術基本法10 年に当たる本年においては、上述のような観点から、現在の我が国の科学技術の実力と国際的な水準、これまでの成果と今後の可能性・潜在力を含めた総体を「科学技術力」ととらえ、それを多面的・総合的に分析・紹介することとした。
早速DLしてざっと見てみたけれど、「これからの科学技術と社会」を特集テーマにして、これまでの日本の科学技術政策としてはかなり画期的な内容だった昨年度の『科学技術白書』と比べると、なんだか30年くらい時計が逆戻りしたみたいな印象が強く、ちょっとクラクラしてしまった。(昨年度の白書についてはこちらをどうぞ → 平成16年度「科学技術白書」~思えば遠くへ来たもんだ、まだまだ道は遙かなり)
もちろん、科学技術の「光」ばかりじゃなく「影」のことにも触れているところや、環境問題など社会的課題への科学技術の貢献の話が比較的大きくクローズアップされているところは、明らかに昔とは違うのだが。(30年前でも、すでに公害時代の後、低成長期だから、光と影の話はあっただろうけど。)そのあたりは、やはり時代の変化をしっかり反映しているといえるだろう。しかし、コミュニケーションがらみの話は、特集テーマではないとはいえ、だいぶ去年と比べると中身が後退しているといわざるをえない。
それと、もう一つ気になるのは、一部に強烈に漂う「旧き良き時代よ、もう一度」という懐古趣味のにおいだ。たとえば次のくだり(p.42)。
科学技術の振興を図っていくには、国民全体が科学技術に関心と理解を深めるとともに、特に次代を担う青少年が、科学技術に夢と希望を傾け、科学技術に対する志向を高めていけるよう、知的好奇心や探究心を喚起することも重要である。
・・・星空を眺めて、宇宙はいったいどうなっているのだろう、宇宙はどうやって始まったのだろうと思いをはせたことはないだろうか。このような知的好奇心や探究心を高めることで、自ら学ぶ意欲や主体的に学ぶ力を身に付け、その結果として、科学的な見方・考え方を養うことができる。
後半の部分なんて、小生がバリバリの天文少年になった経緯そのものなんだけど、問題は、なぜ今は、そんなシンプルな科学技術への「夢」が成り立たないのかということなんじゃないだろうか。
たとえば、上のくだりの後には国産宇宙ロケットH-IIAの打ち上げ成功の話が出てくるのだけど、これだって、「宇宙のふしぎ」なんていうキレイな夢物語だけで成り立っているわけじゃない。ホントかどうかは知らないが、打ち上げ成功の時、発射基地では、日本人スタッフと抱き合いながら歓喜の声を上げたNASAのスタッフが、「これで日本も独自の偵察衛星を持てるね」と言っていたエピソードを、この前どこかの飲み会の席で聞いた。
それに「夢」といっても、たとえばサイエンスショップのようなNPO活動を通じて、自分の専門的能力を使って市民社会、地域社会、あるいは貧しい途上国の問題解決を直接サポートするなんていうのだって、そろそろ科学技術の夢の一つになってもいいんじゃないだろうか。(社会科学系なら、そういう夢は昔からあるわけだし。)
ちなみに、13日に内閣府が公表した「科学技術に関する特別世論調査」(PDF70KB: 概要は9日の公表)では、科学技術分野への政府の支援で重視すべき項目を全国の20歳以上の3000人を対象(有効回答率70・2%)に尋ねたところ、、「環境の保全」「安全な社会」「健康の維持・増進」を挙げた国民がそれぞれ4割を超す一方、ノーベル賞などの対象にもなる「新しい原理・現象の解明」を支持した国民はわずか1割だったそうだ。
科学技術:「原理」より「利益還元」に関心 上位は「環境」「安全」--内閣府調査
内閣府は9日、「科学技術に関する特別世論調査」の概要を公表した。科学技術を支援する際に重視すべき項目として、「環境の保全」「安全な社会」「健康の維持・増進」を挙げた国民が4割を超す一方、ノーベル賞などの対象にもなる「新しい原理・現象の解明」を支持した国民は1割だった。同府は「科学技術に対する国民の関心は、具体的な利益還元にあるのではないか」と分析している。
・・・
科学技術を支援する際に特に重視すべき点(複数回答可)を聞いたところ、「環境の保全」(53・8%)▽「安全な社会の実現」(45・8%)▽「医学の発展を通じた健康の維持・増進」(42・4%)▽「科学技術に関する人材育成」(34・3%)--が上位を占めた。九つある選択肢で支持が最低だったのは「新しい原理・現象の解明」(10・8%)、「高度な情報通信社会の実現」(11・1%)だった。【永山悦子】毎日新聞 2005年6月10日 東京朝刊
「原理より利益還元」なんていわれちゃうと、たとえば牧歌的理学部的メンタリティ(これは元理学系の小生としてはとってもよくわかる)的には、「現世ご利益主義かよ?」と難癖つけたくなる結果だが、果たして、それだけで終わらせていいのだろうか?
何しろ、ここで尋ねられているのは、政府が支援すべき重点項目、つまり「税金」の投入対象であるわけで、タックスペイヤーとしては、少なくとも見かけ上、研究者や一部の「科学ファン」の趣味の世界のようなことに多額の税金をかけるのはいかがなものか、という意識が働いていたとすれば、それはそれで健全な納税者意識だ。
それに対して「人類の文化としての科学を育まねば」といってみても、同様に人類の(科学よりは享受する者がずっと多い)文化である芸術と比べて、科学研究にはるかに大きなお金を援助する正統性はどこにあるの?と反論されかねない。「科学には金がかかるのだ」といわれても、「だったら金がかからない範囲(他の文化活動と同水準)でできることをやれば?」といわれかねない。
あるいは「思考力を養うため」というご利益も、たとえば数学や物理なんかにはありそうだが、精密思考はそれら数理科学だけの専売特許ではない。自然言語による精密思考というのは、哲学はもちろん、あらゆる分野に通底している。(言語という点では修辞学や弁論術というのも、古代からずっと大切にされてきたものだ。中世哲学の抽象的論理性なんてのもすごいぞ。)そういえば、毎日新聞の『理系白書』に「理系学生の日本語下手が大学の教員を悩ませている」というのもあったっけ。(理系に限ったことではないが。。)
もちろん知識というのは相互依存のネットワークだから、どう見ても趣味の世界としか思えないものでも、ご利益につながる研究の基盤として絶対に欠かせないものはいくらでもあるし、将来、結果的に直接役立つものになることだってある。それに、本当に大切なものは、世俗の基準では価値を測りきれないものだというのは、理学系だけでなく人文系・哲学系もかじった身としては強く思うところだ。(ついでにいえば、そういう知、あるいは智慧というものは、何億、何十億ものカネなんかいらなかったりするのかもしれない。)
それと、歴史的に見れば、自然科学系の基礎研究にふんだんに公費が投入されるようになったのは、そんなに昔のことではない。よく参照されるのは、第二次大戦後まもなく、米国のマンハッタン計画(原爆開発計画)の元責任者の一人でもあったヴァネバ・ブッシュが「科学―終わりなきフロンティア(Science: The Endless Frontier)」という科学政策の報告書で、基礎研究に投資することは、結果的に米国を強くすることにつながる――そのモデルはいうまでもなく、物理学の基礎理論だった特殊相対論や原子物理学が突如として「役立った」原爆開発である――ということを訴えたのに始まる。これをもとに、戦後のアメリカでは、素粒子物理/高エネルギー物理のような「大型装置科学」に湯水のように国家予算が注ぎ込まれることになった。科学の研究・教育が「大学」に制度化されたのだって、18世紀~19世紀のことで、それだって基本的には、科学の現世ご利益をあてこんでのことだ。「基礎研究に公的資金がふんだんに支払われるのは当然」という「常識」は、ここ半世紀ほどの、人類の歴史から見ればほんの瞬く間のことにすぎないわけだ。(そもそも昔は、研究に金がかからず、貴族様や富豪というパトロンでも十分に賄えてたわけだし。)そして、この「常識」が確立された米国では、この半世紀を特徴付けていた「冷戦体制」の終わった92年に、SSC(超伝導超大型衝突型加速器)計画が、すでに建造が始まった後だったにもかかわらず、過大な予算超過を理由に米国議会で計画中止が決定されたことで、「基礎科学の幸福な時代」は終わりを迎えた。(現代における大型装置科学の社会的正当性問題については、わが科学技術社会論学会理事でもある高エネルギー物理学者の平田光司さんらが何年も前から研究している。→SSC計画中止にみる大型科学の問題、平田の科学論ページ)
まぁ、なにはともあれ、自然科学の基礎研究に多額の公費を投入することの正当性については、30年前とはがらりと社会的文脈が変わっているのであり、正当化するなら、それなりの論理を組み立てないといけない時代になっている。「人類の歴史うんぬん」といったようなでっちあげられた「伝統」は持ち出してもしょうがない(←自然科学=自然哲学の歴史は長いが、それを公的に支援するという「伝統」はないという意味で)。「現世ご利益」との結びつきをアピールする以外に何か独自の論理があるのかどうか。国立大学も独法化され、目に見える成果の評価が求められる時代になったからこそ、それでは測りきれない研究の価値、取りこぼされてしまうかもしれない学問の価値というものを、ちゃんと説明できる論理が必要なんじゃないだろうか。
基礎研究の実利的価値については、たくさんの実例を紹介している今年度の『科学技術白書』が、他方で懐古趣味に見えてしまうのは、この時代の「挑戦」にちゃんと向き合う姿勢が見えてこないからだろう。
ちなみに今学期の講義「科学技術と社会」で、最初の頃に、日本の科学技術関連予算を紹介した際、学生たちの授業の感想が、内閣府の調査と同じく、軒並み「そんなに税金を使ってるとは思わなかった。使うなら、それに見合う社会的成果を出して欲しい」とか、「それよりもっと医療や福祉にお金を使うべきではないか」というものだった(「医療」も科学技術関連予算の一部だよ、というのは後で教えておいたが)。内閣府の調査結果や今回の科学技術白書をネタに、もう一度、その話をしてみようかな。
気になった今日の新聞社説
「知床 秘境を守ってこそ遺産」(朝日)
知床半島は日本で最後の秘境といわれる。ここが7月に開かれるユネスコの委員会で、世界自然遺産に登録されることが確実になった。 というか、この社説は何が言いたいんだか。結局 日本の自然の価値が世界に認められるのは、エ…