科学的物語による意味の平板化(改3/11)

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一昨日、昨日は、京都新聞文化部、読売新聞科学部からそれぞれ取材を受けた。前者は、「かがくとの対話」という先月から始まったインタビュー企画のためのもので、後者は1月からスタートした「リスクを伝える」というシリーズ企画のもの。それで、京都新聞のほうは3月18日か25日に掲載予定なのだが、おそらくそれには載らない(テープを止めた後の)話題について少々。
この企画では現在、「生命科学」をテーマにいろんな専門家にインタヴューをしているという。それで第一回は、「生き物として文明を考える」というタイトルのJT生命誌研究館館長の中村佳子さんのインタヴューだったのだが、その記事を読ませてもらって、どうにもムムムッな記述を発見。(強調筆者)

今、科学は壁にぶつかっている。DNA分析が、生きているということとどうつながるのか。これがわからないと本当に生き物を大事にする社会はつくれない。アインシュタインの相対性理論から百年。この分野に天才が欲しいと思う。


んー、ちょっと目が点になってしまった(+ +)
DNA分析とは無関係に、生き物を大事にするような社会じゃなきゃいけないんじゃないのか?そういう文化や価値観というのは、人間の歴史の中でたくさんあったんじゃないのか?たとえぱ1855年、アメリカ先住民ホピ族の首長シアトルが、白人に土地を買収され、与えられた居留地に去る時、当時の米大統領に宛てた手紙に描かれた世界観(『父は空 母は大地―インディアンからの手紙』「アメリカ・インディアンの言葉」)。あるいは、動物たちにも洗礼を施した聖フランチェスコなんてのもいたぞ。「生きることの意味」に、DNA分析なんて無理に結びつける必要なんてないんじゃないのか?
ちなみに中村さんの話の要点は、現在のDNA分析を中心とした生物研究は、大きな成果を上げる一方で、生き物を構造と機能だけで理解しようとし、効率優先で、なんでも機械のように思い通りにしようとする現代科学技術文明の象徴のようなものであるということ、そして、こうした文明のあり方を改めて、「地球に生きる生き物としての人間」を大事にするような社会をつくらなければならないということにある。その方法論が彼女が長年取り組んできた「生命誌」であり、それは、「地球上の生き物はみんな仲間であり、それぞれ四十億年近い歴史をもってここにいる」こと、「すべての生き物のもつゲノムの中に書かれている四十億年の歴史物語を読むことから、生き物としての人間が見えてくる」のだという。(注:ゲノムとは、ある生き物の遺伝情報を担うDNAの総体のこと。)
小生なりに解釈してみると、中村さんの論理は次のようなものだろう。DNA分析を中心とした現代生物学は、一方で生き物を機械のように扱いながらも、他方では、「生き物としての人間」の姿、生きているということの意味を教えてくれる、「生命誌」というゲノム解析を軸にした現代版博物学――もしくは自然哲学――の物語をつむぐ糸と針を与えてくれる。彼女自身、分子生物学の初期の頃からDNA分析に取り組み、慣れ親しんできた者として、なんとかこの分裂状態を解消したい。いわば、そうしたある種のロマン主義的願望の現われが、先の引用文なのだろう。
そういう気持ちは、小生にもわからないわけではない。確かに生命誌の話は面白い。生き物について、そこから学べること、学ぶべきことはたくさんあるだろう。生命誌研究館には一度行ったことがあるが、入り口にかけてある生命誌絵巻は、生命の進化を、「下等なものから高等なものへ、単純なものから複雑なものへ」という直線的なものではなく、どんどん多様性が広がっていくものとして描いている点で、生命の豊かさを教えてくれるものだといえる。そしてその多様性を貫く普遍性としてDNAがあり、またその生物種や個体それぞれのゲノムという固有性があるというストーリーは、科学のつむぐ物語として、とても面白いと思う。元天文少年だった小生の好みとしては、宇宙論のほうが燃えるものがあるのだが、それに劣らず生命の歴史物語の果てしなさは想像力とロマンをかきたてられる。
だけどねー、そこに何か「実存的なもの」を過剰に結びつけるのはいかがなものかとも思ってしまうんだよね。中村さんは、いろいろなところで、生命誌の研究を、(生命[せいめい]ではなく)「いのち」の問題と結びつけて語っている。子どもの虐待や戦争など、社会的問題としての「いのち」について、その尊さ、かけがえのなさについてだ。けれども、少なくとも小生の感性からいうと、そのようにいのちの問題と生命科学を結びつけて語れば語るほど、むしろ両者の隔たりを感じずにはいられなくなる。科学的物語を持ち出さずとも、いのちについてはいくらでも語れるし、語れなければならない。親が子どもにいのちの尊さを説くとき、いちいちゲノムの物語を聞かせてあげる必要があるだろうか。もしも聞かせなければならないとすれば、それは人間として何かが枯渇しているということではないのか。そう思ってしまうのだ。
まぁ、生物学を愛する者、それに生涯を捧げてきた(いる)者として、生物学に何かしら実存的な思い入れを重ね合わせるのは、一個人の想いや情熱のエピソードとしてはすごくよくわかるのだが、そこにあるのはロマンティシズム――あるいは、言葉は悪いがセンチメンタリズム――であって、ロジックではないのではないだろうか。とにかく、両者を無闇に節合する試みには、いかんともしがたい違和感を感じてしまうのだ。
たとえば今回のインタヴュー記事で次のように述べている箇所があるのだが、これにも強烈な違和感を感じてしまう(強調筆者)。

私がここに存在するのは、両親からゲノムという一まとまりの形でDNAを受け取って生まれたからであり、さかのぼれば生命の起源へと続いている。地球上の生き物はみんな仲間であり、それぞれ四十億年近い歴史をもってここにいる。すべての生き物のもつゲノムの中に書かれている四十億年の歴史物語を読むことから、生き物としての人間が見えてくる。

このくだりが意図しているのは、ゲノムには多様性の拡大としての生物進化の歴史が刻まれており、それは「私」やその両親のゲノムもそうであり、そこからさかのぼって全生物の歴史、起源へとつながっていくというストーリーだ。それ自体は、科学の物語としてはいいのだけれども、「私がここに存在するのはなぜか」という、いかにも実存的な問いが含まれていると、ちょっと穏やかではない。まぁ、深読みしすぎといわれればそれまでなんだけど、それを承知のうえでいえば、「私がここに存在する」ということを「ゲノム」というモノ(存在物)に還元し、そこから一気に生物の歴史・連鎖全体を一挙に眺める対象化のまなざしのもとに置いてしまうというのが、どうにも居心地が悪いのだ。中村さんや他の生命科学者が、そこにどれほど強い思い入れを投影しようとも、やはりそのような「私がここに存在する」のとらえ方は、中村さんが克服したいと奮闘している「機械論」なのではないか。
思うに、「私がここに存在する」という言葉に何がしかの実存的な響き、深みのようなものが感じられるとすれば、それは、「私がここに存在する」ということには、「斯様ではなく他様でもありえた」という「偶有性(contingency)」が付きまとっているからだろう。その偶有性ゆえにわれわれは「他様でもありえたにもかかわらず、なぜ他様ではなく斯様なのか」と問わずにはいられないのだ。たとえば、なぜ私は私であって、他の誰かではないのか。また両親を持ち出した場合には、なぜ私の両親は、他の男と女ではなく、この2人なのか。その出会いは一方から見れば、単なる確率的な組み合わせの問題である。その両親から生まれてきた私も、ゲノムという観点から見れば、両親の遺伝子のやはり確率論的な組み合わせでしかない。もちろんその確率は、気が遠くなるほど小さく、それだけでもラヴソングのモチーフにはなるだろう。けれどもそれらの組み合わせは、それぞれの発生確率は違えども、どれも置き換え可能なものであり、私がこの両親の子どもであるのは、あくまで偶々の(accidentalな)結果でしかない。そこには、「なぜ、斯様であって、他様ではないのか」、「他様でもありえたのに、なぜ斯様であるのか」という、しばしば幸運や不運という「意味」の響きを伴う問いかけに応えるものは見当たらない。「この私」の存在にしてもそうだ。「私」の固有性が、DNAの組み合わせとしてのゲノムの固有性ならば、全く同じゲノムが他にも存在する確率は非常に小さいとしてもゼロではない(一卵性双生児ってゲノムも同一なのかな?)。それは、他の誰でもない唯一無二の「この私」のアイデンティティではない。
また、「この私」の存在を四十億年の生命の歴史の中に位置付けてみることは、世界の諸宗教、精神的伝統が語ってきた「存在の大いなる連鎖(The Great Chain of Being)」の現代版のように見えなくもない。しかし後者はあくまで、人間を含む諸存在の霊的(spiritual)な秩序について語られたものであり、ゲノムのような物質ベースの秩序とは異なるものとして思考されてきたものだ。果たして両者を同じ平面のうえで接続してしまっていいのかどうか。
さらにいえば、そもそも「他様でもありえたのに、なぜ斯様であって他様ではないのか」という偶有性ゆえに問わざるをえない問い――偶有性への問い――には、答えなど存在しない。それは、この問いが向けられているのが偶有性そのものだからだ。少なくともそこには、「何が・いかにして私を私たらしめているのか」、「何が・いかにして私を支えているのか」という問い方では、埋めきれない空白がある。「この私はどこから来てどこに向かうのか」という、一見、「遺伝メカニズム」による生命の連鎖というボキャブラリーによって答えうる問いも、結局のところは「無から生じて無に帰する」としかいいようがない空白を抱えている。そうした存在の絶対的な無根拠さ、在るということの寄る辺なさ、はかなさこそが、つまり、在っても無くてもどっちでもいいのにまさに在るということへの「驚き」――あるいは受難――こそが、在るということ、生きているということの意味の源泉、偶有性への問いの唯一の「答え」ではないのだろうか。「私」や「あなた」、あるいは他のすべての生きているものは、まさしく寄る辺ないがゆえに尊く愛しいのではないか。また、偶有性は、するのではなく、しないでおくこともできた「行為」がともなう様相でもある。そして、そうした偶有性ゆえに行為は自由であり、それにともなって責任が問われたり、「約束」ということに重みがあったりもするし、偶有的だからこそ、人がそれぞれ為す行為の軌跡――人生――は、一人一人かけがえのないものとして経験されるわけだ。神話学や神学、中世哲学には疎いが、存在の大いなる連鎖や起源神話のような物語は、そうした偶有性のもとで在るということ、行為し生きるということへの端的な驚きを出発点に紡がれたものなのではないだろうか。「神」とは、そうした驚きが直面するぽっかり空いた深淵のネガ・ポジの「鏡像」なのではないか。そしてそうした語りは、驚きの背後に、探求によって、たとえ常に部分的・暫定的で将来訂正されうるものだとしても、何らかの確かさをもった答えを見つけてしまう科学の語りとは決定的に違うはずである。
あるいは、こう言ってもいいかもしれない。科学の問いは、そこに何か、謎(=空白)を埋める必然的なものや確かなもの――DNAの塩基配列や遺伝メカニズム、素粒子や電磁場、物理法則など――があると考え、それらを発見したいという欲求から生まれてくる問いであるのに対し、偶有性への問いは、まさに偶有性ゆえに、そこには必然的なものは何もないからこそ生まれてくる問い、偶有性というぽっかり開いた深淵を正面から見据えることから生じてくる問いなのである。前者は「存在学」(在るもののことわり)の問いであり、後者は「存在論」(在るということのことわり)の問いである。ちなみにハンナ・アレントは『精神の生活』の第一部「思考」で、カントの理性(Vernunft)と知性(Verstand)の区別に幾分ならって、答えのない問いに関わる「思考」と、科学に代表される答えのありうる問いに関わる「認識」とを区別し、前者は「意味」を求め、後者は「真理」を求めるものだとして、次のように述べている(同書p.68-9)。

知性(Verstand)は感覚に与えられるものを捉えようとするが、理性(Vernunft)の方は意味を理解しようとするのである。認識の最高の基準となるのは真理であるが、認識はこの基準を現象世界から取ってくるのである。・・・思考の求めるものは、ものについてそれが何であるとか、それが存在しているかどうかとか(存在しているのは自明の事とされている)ではなくて、それが存在していることにどういう意味があるのかということなのである。・・・思考によって提起される問題というのは、理性の本性そのものから生まれてこざるをえない意味への問いなのだが、これはすべて常識や科学の精密化によっては答えることのできないものなのである。意味への問いは常識と常識の推論にとっては「意味のないもの」である。・・・

このような意味で、思考/理性が関わる偶有性への問いと、認識/知性が関わる科学の問いは、まったく性質の異なる問いだといえるのだが、ところがしばしばこの区別は、いとも簡単に飛び越されてしまう。アレントによればそれは、認識活動と思考活動は異なるものでありながらも密接に結びついているからである。

真理と意味、認識活動と思考活動に線を引いて区別し、その区別の重要性を主張したからといって、私は意味を求める思考の働きと真理を求める認識の働きが結びついていることを否定したいわけではない。意味という答えようのない問いを立てることによって、人間は自分自身を問いつづける存在としていくのだ。人間は問いを立ててその答えを見つけていくという作業をしているのだが、そのような認識できる問いの背後には、まったく空虚に見え、その意味でいつも非難を浴びせられる、答えようのない問いが潜んでいるのである。もし人間が思考活動という名の意味を求める欲求を失い、答えようのない問いを立てることをやめてしまったら、そういう人間は、我々が芸術作品と呼ぶ思想の産物を生み出す能力を失うだけではなく、回答可能なすべての問いを立てる能力も失っていくということになろう。・・・その意味で理性は知性と認識のアプリオリな条件なのである。(同上、p.73)

こうした認識と思考の不可分さゆえに、答えようのない意味への問い、偶有性への問いは、回答可能な科学の問いに簡単にすりかえられ、すりかえたことすら気づかれないことが多いのだ。「神秘(mystery)」への問いは「謎(riddle)」への問いに容易に転化してしまう。そしてこの誤りは、中村さんにもあったりする。
たとえば、『生命科学から生命誌へ』という著書の「遺伝―『私』がここにいることの不思議」と題するエッセイで中村さんは、まさに「斯様であって、他様ではない」ことへの不思議や驚きについて語りつつ、それを科学の問いと並置している。そこでは、「生命とはなにか」という物理学者シュレディンガーの講演から、次の一節を引き、童謡作家まど・みちおさんの「ゾウ」という詩が比較されている。

・・・私たちの全体、個体の性質のすべてが、何世代にもわたり大きな変化もなく再生産され、何世紀もの間持続するのが遺伝であり、そのこと自体が大変なことなのだ。しかもそれは親から子へと伝えられる物質によって運ばれる。これは実に一大脅威だ。

他方、「ゾウ」の詩はこう謳っている。

すばらしい ことが/あるもんだ
ゾウが/ゾウだったとは/ノミでは なかったとは

この詩は明らかに存在の偶有性にかかわる「驚き」を謳っているわけだが、これを中村さんは、物理学者と詩人という、世間では最もかけ離れた思考パターンをもっていると思われている2人の人物が、「生きもの」を素直に見つめることで、同じものを見ているのだと論じている。しかしそれは、果たして同じものだろうか。確かにシュレディンがーが語る驚きは本物であり、その「驚き」こそが(中村さんがいうように)科学研究の原点であるのはそのとおりだろう。しかし、ゾウの詩が謳っているのは、それとは異質な「存在すること」への驚きではないだろうか。それらの間には、「なぜ、有るものがあって、無ではないのか?」を考えつづけた哲学者ハイデガーが、「存在者(在るもの)」と「存在(在ること)」の間に立てた「存在論的差異」という橋渡し不可能な断絶、埋めることのできない深淵(abyss)が深く穿たれているのではないだろうか。
もちろん中村さん自身、ゲノムや科学の言葉で「この私」のすべてを語れるわけではないことは重々承知なのは間違いない。彼女としては、決して語り尽くせないけれども、ゲノム/科学の側からどこまでアプローチできるのかを試し、そこから見えてくる世界の豊かさや美を表現したいのだろう。けれども、彼女がそのような(彼女自身の)実存的思い入れを重ねて語れば語るほど、少なくとも小生のようなひねくれ者は、そういう語りに抵抗してみたくなる。「在ること」は、「在るもの」の側から、到達不可能ではあっても無限に接近可能な「漸近線」などではない。そのように考えたくなるのだ。
最後に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』,から、「在るもの」と「在ること」の区別に関わる有名な言葉を引用しておく。

「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。」(6.44)

<追記>
「私はだれ?」という存在の意味の解明をテーマにした哲学ファンタジーとして名高い『ソフィーの世界』は、よくハイデガー哲学を下敷きにして書かれたといわれている。実際そうだろう。しかし、最後に「この私」を物理学的宇宙論の物語にそのまま接続しているあたりで、この本は存在論的差異にこだわりつづけたハイデガーを決定的に裏切っている。そのくだりまで、いちおう面白く読み進めていって、とっさに浮かんだのも、上記のヴィトゲンシュタインの言葉だった。

 

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