ファルージャ情勢について、Falluja, April 2004 – the bookからもうひとつ、ラフール・マハジャン「ファルージャと戦争の現実」を転載しておきます。これについて、同ブログの主宰者の一人、益岡賢さんのHPにある同テキストには、次のような益岡さんのメッセージが添えられている。
柄にもないことですが、この文章にアクセスして下さったかたに、お願いがあります。
どうか、深く呼吸をして、目を閉じて、ここで述べられている状況を思い浮かべて下さい。そして、自分が、自分の家族が、知人が、愛する人が、今日街で見かけたキュートな子どもが、ファルージャ住人と同じ状況に置かれていることを、思い浮かべて下さい。
「テロリストを撲滅する」という勇ましい虚偽の叫びのもとで、そうした人々に何がもたらされるのかを。
そして、もしよろしければ、この文章を、皆さんが運営しているウェブやブログにも転載し、回りの方々に紹介して下さい。
ファルージャへの攻撃が開始された。ファルージャの人々の解放だというレッテルをつけて売られている攻撃が。イラクに「デモクラシー」を導入するためには必要なステップだというレッテルをつけて売られている攻撃が。これらのレッテルは,嘘である。
4月の包囲のとき,私はファルージャにいた。というわけで,このような攻撃がどのようなことを意味するのか,全体像がわかるよう,はっきりと言葉で説明しておきたい。
ファルージャは乾燥した暑い土地である。南カリフォルニアのようだ。特別に灌漑設備が整えられて,農耕地帯となっている。何年もの間,ファルージャは信仰心の篤い都市として知られている。人々はファルージャのことを「1000のモスクの都市」と呼ぶ。1990年代半ば,サダム・フセインが礼拝で呼ぶ名に自分の名を付け加えさせたいと考えたとき,ファルージャのイマームたちはこれを拒否した。
攻撃開始のとき,米軍は発電所を爆撃した。その後の数週間,ファルージャはまったく停電してしまって,発電機によって電気がついているのは,モスクや診療所といった重要な施設だけとなっていた。町は包囲下に置かれた。
食料や薬品といった基本的な物資を運び入れることは禁止され,イラク人たちが大挙して道路を封鎖しているものをどかしてようやく運び入れられるようになった。
爆撃され,さらにまだ爆撃されるという脅威があり,町全体が恐怖に包まれていた。
非戦闘員や病人や高齢者や子どものいる家族たちは,続々と町を離れていた。人々が町から出ていくことは当初禁止されていたが,米軍はやがて誰にでも町を出ていくことを許可するようになった――ただし,米軍が「戦闘年齢の男性」と呼ぶ人たち,すなわち,15歳から60歳の男性を除いては。
非戦闘員が爆撃されている地点を去ることを妨げることは,戦争法違反である。そしてむろん,戦闘年齢の男性すべてが敵であると想定するのであれば,それは,今いる国にはいるべきではない,この戦争は人々に対する戦争であり,人々を抑圧する者に対する戦争ではない,解放の戦争などではない,ということを示すサインであり,それ以上のサインなど望むべくもない。
ファルージャの大病院は,町の中心部からユーフラテス川を隔てたところにある。まず最初に米軍はこの橋を封鎖し,町と大病院とを切り離してしまった。患者を診察したい医師たちは,自分で運べるだけの器械を運んで,病院を去らなければならなかった。
医師たちは急ごしらえの病院を,市の至るところに作った。4月に私が滞在した病院は,ベッドが4床の部屋が1つだけの,地域の診療所だった。手術室はなかった。医師たちはジュースの自動販売機で(輸血用の)血液を冷蔵していた。こことは別の診療所は,自動車修理工場だったのだという話だった。この,大病院の閉鎖もまた(私がイラクで記録したようなものだっただけでなく)ジュネーヴ条約違反である。
ファルージャでは,いつも必ずどこかで砲弾の音がしているような状態だった。時々,小さな,高ピッチの音で砲弾の音が中断する。ムジャヒディーンたちの,手持ちの迫撃砲だった。数分でもそれが続くと,そんなこといちいち気にしてはいられなくなる。けれども,むろん,完全にというわけにはいかない。私などは,今日になっても,雷鳴がすれば即座に4月10日のファルージャの埃っぽい市街に戻ってしまうことがよくある。
砲弾のほか,戦闘機が500ポンド,1000ポンド,2000ポンドといった爆弾を投下していたし,1分もかけずに市街の1ブロックを完全に破壊してしまう能力のあるあの血なまぐさいAC-130 Spectre gunshipsがきていたが,さらに海兵隊は,町全体に狙撃兵を配置していた。
何週間にもわたって,狙撃兵の発砲がノー・マンズ・ランドを飛び交い,ファルージャは分断され,どちらからも入ることのできないポケットのようになっていた。
狙撃兵はだれかれ構わず,動くものなら何であっても,発砲していた。数時間の間に診療所に運ばれてきた20人のうち,「戦闘年齢の男性」は5人だけだった。高齢の女性たち,高齢の男性たち,10歳の子どもが,頭を撃ち抜かれていた。もうどうにもできない,と医師たちは私に言った。バグダードなら何とか救えるかもしれないけれども,と。
狙撃兵が区別をはっきりさせていた唯一のもの,それは救急車だった。私が目にした救急車はどれもこれも,銃弾による穴があいていた。私が仔細に見た2件は,はっきりと,狙い澄まして狙撃したことを示す証拠があった。負傷者を集めるために出ていった私の友人たちは,狙撃された。
最初に私たちがこの事実を報告したとき,ほとんど全世界からの罵倒を浴びせられた。多くはただ単にそれが真実であると信じようとしなかった。あるいは,それがムジャヒディーンによるものでないことがどうしてわかるんだと言った人たちもいた。
おもしろい着眼点である。例えばテキサスのブラウンズヴィルがヴェトナム人に包囲されて爆撃されたとしたら(むろん,ヴェトナム戦争の時代にはそのようなことがないよう,ブッシュ氏が私たちを勇気を持って守ってくれていたのであるが),そしてブラウンズヴィルの救急車が狙撃されていたら,住民が自分たち自身の救急車を撃っているのかどうかという問題は,提起されることはなかったのではないかと私は思う。
のちに,私たちの報告はイラクの保健省によってコンファームされたばかりか,米軍によってもコンファームされている。
おおよそ900~1000人が,直接殺されたり,爆弾で吹き飛ばされたり,焼かれたり,撃たれたりしている,というのが最もよい推定である。報道や自身で見たことを元に推測すると,そのうち3分の2から4分の3が,非戦闘員であった。
しかし,損害はそんなものでは済んでいない。ファルージャの住宅街にあるいわゆるザルカウィの隠れ家への爆撃については,どんな記事でも読むことができる。しかし,報道は本当の意味を伝えない。精密攻撃について読む場合,米国のGPS誘導爆弾は非常に正確であるというのは本当だ――機能が異常でなければ,作動時間の80~85パーセントは,標的半径は10メートルである。すなわち,標的の10メートル以内に着弾するということである。
しかし,最も小型のものである500ポンド爆弾であっても,爆発の半径は400メートルである。
爆弾1発ごとに近隣一帯が揺れ,窓が割れ,陶器類が粉々になる。爆撃にさらされる町というものは,絶え間ない恐怖の中にある町なのである。
死者○名,負傷者○名という記事を読まれる場合,その数を記憶しておかなければならない。これらの数字は重要である。しかし同様に重要なのは,これらの数は嘘をつくということだ――戦闘地域ではすべての人が負傷している。
ファルージャへの最初の攻撃は,軍事的失敗だった。今回はレジスタンスはより強くなり,装備も整え,より組織化されている。「勝つ」ためには,米軍はこれらの障害物をすべて片付けなければならないだろう。Horrorとterrorの中であってもdegreeはあり,私たちは――そしてファルージャの人々は――まだどうなるのかわからないのだ。
(だが)ジョージ・W・ブッシュがまた大統領職を得た――世界は彼の手に委ねられた。
最初のときと同じように,国際的非難が巻き起こるであろう。しかし私たちの政府はそれには耳を貸さないだろう。レジスタンスは別として,ファルージャの人々はみな,恐怖を軽減させるために私たちに頼ることになるであろう――すなわち反戦運動に。
私たちには責任がある。4月に果たさなかった責任が。そして,8月にナジャフが同じように攻撃されたときにも果たさなかった責任が。
今度は果たすのであろうか?
[転載][アラブの声MLより]ファッルージャを完全破壊し住民を離散させる米国の計画 サウジ紙が暴露
購読している「アラブの声」MLより。米軍がファルージャを跡形もなく破壊しようと…