さっきのエントリーで、北欧型福祉国家フィンランドから来たミカエル・ブック氏のトービン税の話に触れた(ウチの奥さんの感想)。そのトービン税の導入を求めて1998年にフランスに誕生したATTAC(市民の支援のために為替取引に課税を求める協会)の創立者の一人スーザン・ジョージが、新著『オルター・グローバリゼーション宣言―もうひとつの世界は可能だ!もし…』のなかで、課税・再分配・民主的参加、社会連帯に基礎を置く福祉国家型社会システムの「ヨーロッパ・モデル」と、民営化・規制緩和・市場原理主義・競争を金科玉条とする個人主義的・新自由主義的な「アメリカ・モデル」の対比をしている。ブッシュのアメリカがあと4年も続くこの世界の向こう側を考える材料として、ちょっと抜書きをしておきたい。
彼女によれば、いわゆる反グローバリゼーション運動またはオルター(もう一つの)・グローバリゼーション運動と呼ばれる世界的な社会運動――彼女は「グローバル・ジャスティス運動」と呼んでいる――が目指す「もう一つの世界」というのは、基本的にはヨーロッパ・モデルをベースにしたものであり、今日の世界は、ある程度世界に広がってきたこのモデルの達成を、アメリカ・モデル――その担い手はアメリカだけでなく欧州のなかにもいる――が攻撃し破壊しつつある状況なのだという。いわばそれは「西洋の内戦」なのだ。そしてアメリカは、「その貧弱で不十分な社会制度を、ヨーロッパに今でも存在しているような、ほかのもっといい制度と較べることを望んではいない」、「ヨーロッパが、ヨーロッパの社会モデルは全世界にとっても適用可能であると発表したら、そしてそれに必要な財源や、組織的蓄積が存在していて、その実現に向けて先頭に立つつもりだと発表したら、それはアメリカとの戦争の原因となるかもしれない」とまで書いている。
そのように書く中で彼女は、二つのモデルの対比として、フランスの教育と医療について、「成人してからずっとフランスに住んでいるアメリカ生まれの人間」である自身の体験を記している。
私と家族は、ある年、私も三人の子どもも、みんな大切な試験の準備をしていた。私は博士論文の口頭試問、娘はバカロレア(大学入学資格試験)など、みんな試験を前にしていた。・・・私たちはみんな、目標に達することができた。ここで私が言いたいことは、アメリカでは、このように家族全員が目標を達成するということは、私の家族のような比較的特権的な中産階級でも考えられないということである。私と子どもたちの分を合わせると、授業料が驚異的なものになってしまうからだ。アメリカにいたなら、三人の子どもの教育を優先するので、私はまず絶対に博士号を取得しようとはしなかっただろう。(p.151)
もう一つ話をしたい。・・・これは私にとってつらい話であるが、私が言いたい要点の例証となる。二〇〇二年の五月、長い病気、くり返された入退院、大手術、集中治療、結局は長続きはしなかった回復状態のあと、私は夫を失った。これは一年と六ヶ月以上も続いた話を短く述べたものである。この時も、フランス国家は私たちのためによくやってくれた。
それしか治療をつづける方法がなかったら、私たちはおそらく、ほかの必要な支出を削り、治療費にまわすことができただろう。しかし、私たちはそのようなことをする必要はなかった。夫の状態は公式に重病と認められていたので、健康保険制度によって100%の保証を受けることができた。しかし、もっと重要なことは、医師たちがすべての決定をしたことである。一刻の猶予もならなかった。夫は、必要な時に必要な治療を受け得たのである。私の夫とまさに同じ症状を抱えて、同じ集中治療室で治療を受けている患者を、貧しい家族、時には移民の家族が見舞いにくるのを私は見た。WHOがフランスの医療制度を世界一だと呼ぶのも不思議なことではない。(p.151f)
日本から見ても夢のような話だが、もちろんこうしたフランスの教育制度や医療制度は衰退しつつある。しかし、それを認めた上で彼女は、なおも「ここで私は理想の政策について、そして明らかに実行可能であり、しかもフランスでなくても実現可能なことについて話している」と述べ、さらに次のように述べている。そこでいわれる「ワシントン・コンセンサス」とは、米国政府と、世界銀行、国際通貨基金というワシントンに本部を置く国際機関が進める新自由主義政策のことである。
ヨーロッパ市民は、長いあいだ、懸命に、人生を生きるに値するものにする権利のために闘ってきた。この権利こそがまさに、ワシントン・コンセンサスがしきりに削除したがっているものである。公共サービス、郵便局から、地下鉄、鉄道、電気や水道などにいたるまで、長い時間をかけて確立された諸原則に基づいている。それぞれのサービスは国によって違いがあり、いくつかの国のヨーロッパの市民は、他の国の人よりも明らかに幸せであるけれども。このヨーロッパ・モデルは、不完全とはいえ、確実に存在しているのである。(p.153)
このようなヨーロッパ・モデルに対して、アメリカ人の価値観を今も支配しているのは「アメリカン・ドリーム」である。これは、先日のエントリー(これとこれ)で紹介したジェレミー・リフキンも書いているが、個人の「自立性(autonomy)」を基礎とするものであり、政府や他人に頼らず自分自身で自分の生活を支えることが美徳であり、「より多くの富を持つようになれば、世界の中でより独立できるようなる」、「独り立ちできればできるほど自由である」と考える。その結果、スーザン・ジョージによれば、最近の世論調査では「自分の収入が全アメリカ人の収入の上位1%の収入額かどうかをたずねられた人たちのうち、回答者の19%が「イエス」と答え、20%は「今はまだノーだが、すぐにイエスになる」と答えた」という具合に、誰もが経済的自立のみを目標にしたレースのなかに身を置くこととなる。
そしてその行き着く先はといえば、それは、「富は排他性をもたらし、排他性は安全をもたらす」がゆえに、自らが獲得したものを他人を犠牲にしてまで守ろうとし、自ら銃で武装したり、政府に対しては、手厚い社会保障ではなく、強大な軍事力を求める銃天国・軍事超大国アメリカの姿である。その一方で、自立を重んじ、自立しか頼らない価値観は、不幸にも――しかし必然的に生まれる――自立できない者たちに対しては、なおもアメリカン・ドリーム・レースにしがみつくか、敗者となってドロップアウトすることしか許さない。いいかえればアメリカンドリームの描く世界には、勝者と、勝者になろうと必死にもがく者、そして敗者しか存在しないのだ。その結果、たとえば4500万人もの人間が医療保険に入れず、仮に加入できても収入が少ない場合には、必要な治療や薬を施してもらえないことになる(参考映画→「ジョンQ―最後の決断」)。(スーザン・ジョージによれば、「医者ではなく保険会社が、そんなものは必要ない、と判断したために、治療を(救急車さえも)断られたという、あなたをたじろがせずにはおかない話」もあるという。)そして、そうした結果のすべては「自己責任」の一言で片付けられるのである。もちろんアメリカにも、課税・再分配・民主的参加、相互扶助、社会連帯を重んじる力強い「リベラル」な伝統が存在しているが、常に脅かされている。なにしろアメリカでは、今回のブッシュ=共和党陣営の選挙キャンペーンでも見られたように、「リベラル」というレッテルは、対戦相手に対する手痛い非難の言葉として通用するくらいである。
このようなアメリカ・モデルとヨーロッパ・モデルのどちらが生きるに値する社会なのか。スーザン・ジョージは迷うことなく後者だといい、「もしもヨーロッパが西洋の内戦に勝利するなら、もう一つの世界は可能だ」という。
ところで、ここでちょっと考えておかなくてはならないことがある。なるほど、ヨーロッパ・モデルは、少なくともわれわれ庶民の目から見ると確かにすばらしい。けれども、ヨーロッパの多くの国や、日本でもそうであるように、公共サービスはしばしば非効率で財政を逼迫し、そのために後退と民営化を迫られているのではないか?また手厚い公共サービスを支える巨大な行政機構は、容易に腐敗し、政官業癒着や税金の無駄遣いの温床になっており、だからこそ「小さな政府」が求められているのではないか?あるいは、公共サービスを支えるために企業の法人税をもっと上げればよいという意見もあるかもしれないが、そんなことをすれば国際競争に生き残れないのではないか?企業はみんな税金の安い国に逃げて、産業の空洞化を押し進めてしまうのではないか?なんだかんだいっても、アメリカ・モデルやそれを下敷きにした小泉改革しか、方法はないんじゃないだろうか?
これらの疑問にいまここで答えるのは、経済の専門家ではない小生にとっては不可能だが、ちょっと視点を変えるために、次のような問題提起をしておきたい。
一つは、公共サービスの後退の理由は、本当にその非効率ゆえの財政逼迫なのかどうか、それを改めるための方法は本当に民営化しかないのかということだ。確かに現象としては、国レベルでも地方自治体レベルでも財政は逼迫している。そしてその原因には、非効率性も確かにあるだろう。しかし、それがすべてなのだろうかという疑問を持ち出す余地はないのだろうか。たとえば、すでにアメリカ・モデルの安い法人税や所得税のもとで活動している米国系企業との競争に負けたくない、あるいはより多く儲けたいという産業界や一部の富裕層が、再分配を忌避し、公共サービスへの負担を減らそうとしてきたがゆえに、財政が悪化してきたという側面はないだろうか?あるいは、産業界が新たな市場開拓のために公共サービス部門の民営化・市場化を求めているという側面はないだろうか。いいかえれば、公共サービスが非効率で財政が逼迫したから、民営化が求められているのではなく、まず公共サービス削減・民営化のイデオロギー先にありきで、その結果、財政が逼迫したり、民営化によらないかたちで公共サービスそのものの改善の努力が為されてこなかったのではないかということだ。
したがって、もしも、現在、世界経済を席巻しつつあるアメリカ・モデルの代わりにヨーロッパ・モデルがグローバル・スタンダードになったとすれば、事態はまったく変わってくる可能性がある。企業間の国際競争にしても、法人税が高くなっても、それが世界全体で同様であるとすれば、競争環境は同一となり、競走上の不利は生じない。もちろん税が高すぎて、企業のイノベーションを不可能にしてしまうのはマズイが、ほどほどのところでうまく折り合いはつけられないのだろうか?どこまでも高収益を求めて青天井の競争を続けるのではなく、企業が社員にも十分な給与を払いながら持続可能な経営を行うことができ、しかも公共サービスを支えるのに十分な社会的再分配にも貢献できるようなあり方は、経済システムとして可能なのではないだろうか?少なくとも、その可能性について、イデオロギー抜きでちゃんと研究すべきなのではないだろうか?民営化に依らない公共サービスの改善方法についても同様である。公共サービス部門や行政システムを民営化(privatization)ではなく「民主化(democratization)」することによって、透明性を高め、無駄遣いや政官業の癒着を防ぐことはできないのだろうか?前回のエントリーでも触れたようにフィンランドは、高負担・高福祉の北欧型福祉国家である一方で、世界で最も政官の汚職の少ない国であると評価されているという。もちろんそこには、そもそも人口や行政機構のサイズの条件が関係しているかもしれないが、たとえば地方自治体レベルでは、日本や他の国が学ぶべきことは多いのではないだろうか。
もちろん、何でもかんでも公共サービスが良く、民営化はとにかく悪という考え方は、それ自体硬直したイデオロギーだろう。だから、必要な時には、民営化・市場化というのも当然、改善のための選択肢になりうる。要は「さじ加減」の問題なのだ。そして現在の世界というのは、この加減を通り越して、民営化・市場化こそ善であるという新自由主義イデオロギーが圧倒的になっており、これをバランス・ポイントまで押し戻すこと、あるいは、イデオロギーに押しつぶされず、適切なさじ加減を合理的かつ民主的に検討する時間と空間を世界的に創りだすこと――ATTACの設立綱領の一つは「民主的空間をグローバルレベルで創りだすこと」である――が、スーザン・ジョージの言う「西洋の内戦」、「アメリカ・モデルとヨーロッパ・モデルの戦い」なのである。
もう一つ触れておきたい疑問は、このようなスーザン・ジョージの考え方は、過去の亡霊たる西洋中心主義、またはヨーロッパ中心主義の復活なのかどうか、だ。これに対するスーザン・ジョージの答えは明快である。第一に彼女は、「すべての国民・国家・文化は、私たちが要求しているもうひとつの世界を実現するために独自の貢献ができる」と考え、そのための行動や思考に自分が深く関わっているのだと述べている。いいかえればヨーロッパ・モデルとは、具体的な形はそれぞれの国や文化によって様々なものになりうるとしても、世界のどの国の人たちともわかち合える「世界に対するヨーロッパからの貢献」であり、それを推進することは「ヨーロッパ市民の果たすべき役割」だということだ。そして、それにもかかわらず彼女が「西洋の内戦に対するヨーロッパの勝利」にことさら注目するのは、いまのところ、ヨーロッパのみがアメリカに対抗しうる経済力と政治力を備えた地域であるという地政学的現実を踏まえてのことである。彼女は次のように述べている。
・・・ヨーロッパ市民、とくにグローバル・ジャスティス運動で活動しているヨーロッパ市民は、特別に思い責任を負っているのである。少なくとも今世紀の来るべき数年間は、ヨーロッパだけがアメリカに挑戦できるからである。もう一度言えば、このことは、ほかの大陸、ほかの国民は、地球の将来について、あるいは地球の将来をつくるための貢献について何も言うことがない、ということではない。もちろん、ないわけがない。(p.143)
ちなみに、ATTACが中心となって開始し、今年で五回目となる世界社会フォーラムや、各大陸・各国で開かれている社会フォーラムは、「もうひとつの世界」を実現するために、世界各国から、それぞれの貢献を持ち寄り、わかち合い、より良いものに改善するための「グローバルな民主的空間」の先駆けという意義をもっている。日本でも、来月11日・12日に本邦初の社会フォーラム、「京都社会フォーラム」が開かれる。日本という国と文化、われわれ市民は、世界に対して、日本の未来に対して、どんな貢献ができるのだろうか。。ブッシュ再選で暗くなってる場合じゃない!
最後に、京都新聞に掲載されたスーザン・ジョージの本の拙評を、再掲しておく。
書評:スーザン・ジョージ『オルター・グローバリゼーション宣言―もうひとつの世界は可能だ!もし…』
(杉村昌昭・真田満訳、作品社、2004年、¥2,100)
理想主義と現実主義は対立するものだとしばしば考えられている。本書の著者はこの常識に挑戦し、彼女が長年取り組んできた反グローバリズムまたはオルター(もう一つの)・グローバリゼーション運動と呼ばれる世界的な社会運動が目指す「もう一つの世界」という理想に、実現のリアリズムを与えようとしている。
この運動をグローバル・ジャスティス運動とも呼んでいるその参加者たちが求めているのは、見たことも聞いたこともない夢物語ではない。すでに私たちが世界人権宣言のような言葉で表し、部分的にであれ大きな成果を伴って実現してきたものである。具体的には課税、再分配、民主的参加、社会連帯と公共サービスに基づく欧州型の福祉国家社会の価値や制度、実践を指し示している。
しかしながら現在、すでに現実の一部でもあるこの理想を世界中で食い破ろうとするものがある。規制緩和、民営化、構造改革の名のもとで経済効率と企業利益を最優先し、福祉国家的な国家の調整的役割を最小化してすべてを市場原理やむきだしの競争原理に委ねていく米国流の新自由主義的グローバリゼーションだ。その結果は、大企業の収益や株価が上昇する一方で広がる失業や非正規雇用の増加、地域経済の衰退、所得格差の拡大、医療、年金、教育など公共サービスの質低下と個人負担の増大、そして私たちの生存と豊かさの基盤である自然の破壊など、今日世界と日本のあちこちで誰もが直面している問題の束である。各国の政策や世界貿易機関(WTO)など国際機関のルールが押し進めるこの世界的変化は、人生を生きるに値するものにする私たちの権利をことごとく打ち砕こうとしている。
「もし私たちが~ならば」の表題で始まる本書の各章は、こうした現状を打ち開き、奪われつつあるものを取り返すための問題の見通しと目標、知識と戦略、そして希望を与えてくれる。「何をやっても変わらない」とあきらめる前にまず手にとって欲しい本である。
(京都新聞2004年10月10日10面)
もう一つの世界は可能だ!
先日ご案内したトービン税講演会、行って参りました。だんなのエントリでも少し触れ