イラク日本人拘束事件、そして安全・安心社会の罠

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昨日の朝発覚したイラクでの日本人拘束。今度は4月のときのように、もともとは善良な地元のおっちゃんやニイちゃんたちが武装しただけのアマチュア集団ではなく、本格的な国際テロリストだという。前回のように、NGOの国際的ネットワークやイラクの聖職者の力は及ばないだろう。また今回は、高遠さんたちのようにイラク人の助けになることをしに行ったわけでもない。それどころか彼は、イラク入りする前にお金を稼ぐため、こともあろうかイスラエルのテルアビブでバイトしていたという。当然ながら彼のパスポートには、その出入国記録があり、テロリストどもはそれを見ているはずだ。
あまりに無防備、無思慮、無謀、・・・その他いくら非難の言葉を書き連ねても足りないくらい彼は軽率(1)だ。でも助かって欲しい。助けて欲しい。
にもかかわらずコイズミ首相は、早々と「自衛隊は撤退しない」なんていいやがる。それは今回の場合、ほぼ死刑宣告に等しいのに。いま現地には警察庁のテロ対策班が飛び、外務省の職員も各国と連絡を取りながらなんとか犯人どもとコンタクトをとり、人質を救出しようと必死に頑張っているのだろう。結果的に撤退しなくても、捜索のための時間稼ぎのために「お茶を濁す」という選択肢はありえなかったのだろうか?強者へのへつらいはあっても、弱者へのまなざしなどもたないこの男――新潟の地震被災者の視察でも、避難先の体育館にほんの20分ほどしかいなくて、被災者からは「もう帰るのか」と憤った声もあげられたとか――には、そんな選択肢すら浮かばなかったのかもしれないが。とにかく撤退しない以上、残された選択肢は、見つけて救出か、あるいはなんとか犯人どもとコンタクトとって水面下での身代金のやりとりくらいしかないが、犯人が金には全然執着しない純政治的な連中だったら、それも通用しない。


ところで今回の事件でふと頭をよぎったことがある。それは、この事件が日本人の意識に及ぼす影響だ。一昨日のクリントン前大統領のケリー応援演説に触れたエントリーでも書いたように、テロリズムの本質は「恐怖心による支配」であり、それは同時に、テロと対決する国家の側と「死への恐怖の支配」の共犯関係をつくりあげる。そしてこれを支え強化するのが国民の恐怖心であり、国家はこの恐怖心を必要以上にあおり、恐怖心に思考も想像力も麻痺した国民は、ある種の集団ヒステリーとして、国家に安全・安心の保障を過剰に要求する。テロリスト、国家、国民の三位一体の恐怖支配の出来上がりである。それが今のアメリカであり、今回のような事件が起こると、日本もますますそうなってしまいかねない。3月の列車同時爆破テロでスペイン国民は、過剰な安全・安心対策=アメリカと一緒の「テロとの戦い」ではない道を選択し、その国の首相は先の国連総会と並行して開かれた会議で、ブラジルやチリ、フランスの大統領らと一緒に、「テロへの衝動」を絶つための貧困・飢餓撲滅行動への呼びかけと、その方策としての国際税の提案を世界に行った(まぁイスラム系テロリズムについては、イスラエルという最大最悪の問題があるのだけれど)。果たして日本人はどうだろうか?アメリカと一緒に泥沼に落ちていくのかどうか。
ちなみに、この危惧についてはswan_slabさんが次のように指摘している。

48時間以内に自衛隊撤退などという出来もしないことを要求してくる真の目的は、日本政府と日本国民にテロの恐怖を植え付けることであろう。その結果、消火器セールスマンのように、不安と恐怖心につけこんで武器の購買意欲を誘う者が現れる。
一方、不安と恐怖心を植えつけられた国民は、生活のあらゆる部面で、安心と安全を国家に対して求めるようになるだろう。
しかし、国家が積極的になしうるのは安心と安全のためのハード面の構築にすぎない。武器さえあれば安心して暮らせると考えるひとがいるならば、もう一度、生活全般を見渡してほしい。武力や外交や科学技術が解決しえない領域が広がっていることを直視すべきだろう。
私たちは大きなハザードを前にして、自然の猛威や異質な他者に対して、安全神話など構築できやしないのだという前提で、危機管理のソフトウエアを考えてはじめなければならない。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041027#p3

「安全神話など構築できやしないのだという前提」は、安全や安心を考えるうえで絶対不可欠の条件だと思う。それを忘れることは必ずウソやごまかし、あるいは予想外のひずみや「損失」をもたらすだろう。
さらにいえば、このひずみや損失への注意喚起は、やろうと思えばどこまでも安心・安全を追及することができる場合にも必要だと思う。場合によっては、自分たちの安全・安心を過剰に追及・要求することが、結果的に自分たちの首をしめたり、他者に多大な犠牲を強いることだってあるからだ。
昨日の3回生のゼミのときにも学生たちに話したのだが、そろそろわれわれは、安全・安心の追及の裏返しのところにあるコスト、あるいは「ロスト」に注意すべき時代に差し掛かっているということだ。
たとえば環境衛生や食品衛生の分野において、企業が利益やコストを重視する余り、安全対策を怠ってきたという歴史がある。そしていま、それは少しずつ、安全を重視する時代に変わりつつある。そのなかで安全は、負担すべきコストから、むしろ商品の付加価値として利益の源泉にかわりつつある。それは一面では、安全の追及や確保が経済面・経営面で持続可能なものとなる条件でもあるが、同時にそれには罠もある。
たとえば昨日の学生の発表テーマだった「ボトルウォーターの安全性」の問題。一方でそれには、何年か前にも不衛生な商品が出回ったりして、安全を追及すること、企業や国に要求することには十二分な意味がある。しかし商品価値としての「よりきれいで美味しい水」を求めて多国籍企業が、南アメリカやアジアなどの熱帯雨林に分け入り、森林を破壊したり、水源をまるごと買い占めて現地の人々から飲み水を奪うこともある。そのためボトルウォーターが買えない貧しい現地の人々は、不衛生な水たまりの水を飲まざるをえなくなり、感染症に苦しめられることになる。(インドなどでは実際に起きてる話。)
有機農作物にしても、それが地産地消というまっとうな方向に向かわないで、「安全で美味しく、しかも安い」ということをウリにしたい商社が、まだ農薬で汚染されていない第三世界の土地を輸出用有機作物の栽培のために買いあさり、現地の人々が自給するための農業資源を奪ってしまうということも、これからどんどん増えてくるだろう。
かつては企業の利益追求の被害者であった人々が、自らの安全を追及するあまり、より弱い立場の人々に対して加害者になってしまうのである。
そしてテロリズムに関して言えば、テロ対策やそれに類する犯罪対策のなかでの安全・安心の過剰な追及・要求は、国家に、個人の人権を侵し、自由を傷つけたり、他国民の上に爆弾の雨を降らせることの免罪符を渡すことになり、結果的に社会の中でより弱い立場の人間や、場合によっては自分自身を傷つけることにつながる。弱い人々の犠牲には、これまたアメリカのように、貧困層こそ真っ先に軍隊に入り、真っ先に戦場で殺され、そして宣戦布告を高らかに謳い上げる力をもった政治家や、戦争によって利益を得たり護られたりする企業家たちは美味しい思いをするという激しく腐りきった構造的被害も含まれるだろう。
そんなわけで、「安全VS利益・コスト」の枠組みの中で安全の重要性が認知され制度的にも保証されつつある今、一方でその不足が補われることを追求しながらも、そろそろわれわれは「安全VSロスト」の枠組みに思考と想像力を進めるべきなんじゃないかと思うのだ。
それにしても、イラクでつかまっている香田さん、期限はどんどん迫ってきてるけど、なんとか無事解放されて欲しい。


(1) 当初のテキストでこの部分に使われていた表現に対し、「特定の個人を侮辱するものではないか」との指摘が、ある閲覧者の方から寄せられました。いうまでもなく筆者としては、その意図はなく、その後のエントリーでは、むしろ香田さんの名誉を回復する旨のことを書いたわけですが、他にも不快に感じられる方もいらっしゃるだろうし、また文意としても重要なものではないため、表現を改めることにしました。不快に受け止められた方々には、この場にて深く陳謝いたします。

 

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3件のコメント

  1. イラク日本人拘束事件。私にできることは…

    イラクで香田証生さんが拘束されている事件で、
    何かできることはないかと思い、とりあえず、アルジャジーラにメールを送りました。
    私は英語ができないので、ワールドピースナウの
    ■各種要請・問合せ 連絡先 & イラクの友へのメッセージ& イラクメディア■
    の…

  2. こんにちは。今回は書いていてとてもつらかったのですが、社会公共のために一個人の生命が犠牲になることを肯定しない社会を望むがゆえの苦しみだと思いたいです。

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