サイエンスコミュニケーションをめぐるビミョーな状況

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先程、フリージャーナリストの武田徹さんのウェブ日記を読みに行ったら、ちょっと気になるビミョーな内容の記事を発見。

国が育てる「サイエンスライター」 文科省部会が提言 (朝日新聞10/20 17:42)
難解な研究の成果を国民に分かりやすく解説できるよう、国の音頭でサイエンスライターを育てるべきだ――。こんな提言を20日、科学研究費補助金(科研費)のあり方を検討している文部科学省の科学技術・学術審議会の部会が骨子案にまとめた。学問の専門化、細分化が進み、専門家同士でも最先端の研究を理解するのは難しいとして、国を挙げて人材育成に乗り出すべきだとしている。

これに対して武田さんは次のように書いているが、小生の考えもまったく同じで「心中穏やかではない。」

この記事は「日本は科学ジャーナリストがいない」と愚痴をこぼすのが日課になっているような自然科学系ライターなりジャーナリストなり編集者にとってみれば我が意を得たりというものだろうが、こちらは心中穏やかではない。こんな考え方をしているから科学技術がダメになると言いたい。批評との相関があってこそ科学技術は活性化される。ただイエスマンに終始する「翻訳者モデル」のライターが幾らいても、そうした活性化は望めない。自分たちが苦労して編み出した新技術や成果がうまく伝わっていないという不満が科学技術専門家側には根強くあるのだろうか、正しく伝える作業は、正しいものを選んで伝える作業でなければ意味がない。
確かに不正確にしか伝えられないサイエンスライターの現状は問題だが、それを改善すれば万事よしというのではなく、むしろ科学技術の社会的な意味を分析できるような力まで養成することが急務なのだ。(強調筆者)

実は、文科省の政策では、サイエンスライター養成に限らず、科学技術コミュニケーションの促進というのが今後重要政策になりつつある(参考:文科省科学技術・学術審議会人材委員会「科学技術と社会という視点に立った人材養成を目指して -科学技術・学術審議会人材委員会 第三次提言-」)。あちこちから伝え聞くところによると、再来年度からの第三次科学技術基本計画にも、これが重要施策の一つに位置付けられ、それにともなって、科学技術振興調整費でも、これまでの「科学技術政策提言」の代わりにコミュニケーション関係の予算枠が新設されるらしい。そして小生もこの動きとは無縁ではなく、むしろどんどん関わりを深めつつあったりする。現在の科学技術政策提言の枠でも、「サイエンス・メディエータ」に関する調査研究プロジェクトがあり、それがらみで来週開かれる関西文化学術研究都市推進機構のシンポジウム「21世紀のサイエンスシティ:けいはんな2004」で喋ることになっているし、また来月12日にも科学技術振興機構(JST)主催の国際シンポジウム「これからの科学技術と社会-科学技術と社会のよりよいコミュニケーションをめざして-」で喋ることになっている。またとあるところで、科学技術コミュニケーションに関する研究・人材養成センターを作る話があり、これにも小生は深く関与することになっている(どこに作られるか、どんな内容かは来月半ばには公表できるようになる予定)。
そして、これら二つのシンポジウムでの話やセンターでのミッションの根本にある、小生にとっての「科学技術コミュニケーション」の基本は、第一にその「双方向性」、第二に「批判性」――あるいは批判を通しての創造性――であるのはいうまでもない。
ところが、朝日の上記の記事からは、そのどちらも伺えない。もしかしたら、(まだウェブには上がってない)文科省の提言そのものはこれら2要素を含めたものであるにもかかわらず、朝日の記者が自分の問題関心で「我が意を得たり」と一面的に切り取っているだけかもしれない。実際、文科省科学技術・学術審議会の人材委員会が今年7月にまとめた「科学技術と社会という視点に立った人材養成を目指して -科学技術・学術審議会人材委員会 第三次提言-」には、「対話型科学技術社会を構築していく人材の養成」ということで、「研究者の意図や研究内容を社会にわかりやすく伝えるのみならず、社会の問題意識や認識を研究者の側にフィードバックする役割も担う者としての活躍が期待される」ような科学技術コミュニケーターを養成することが提言されている。まぁ、それでもなお、社会から研究者へという方向よりは、研究者から社会へというアウトリーチのほうがウェートが大きいような書きっぷりで、微妙ではあるのだが。。ちなみに朝日の記事の最後には、今回の提言に「納税者である一般の国民に対しても、各家庭レベルでその価値と研究の重要性を分かりやすく説明することが重要」という主張があることが述べられているが、これはもしかしたら、アウトリーチを「納税者に対する研究者の説明責任」として見る考え方を示しているのかもしれない。
ところで、これに関連して、つい最近、たいへん面白い専門家と非専門家の「対話」を目撃したので、それについてちょっと書いておこう。それは、今週の月曜日に傍聴した北海道庁の「遺伝子組換え作物の栽培試験に係る実施条件検討会」でのこと。この検討会では、遺伝子組換え作物(GM作物)の道内での栽培に反対する立場の委員と、推進する立場の委員がそれぞれ数名ずつ委員として参加し、来年はじめに成立が見込まれている新条例の一部として、道内での試験栽培に関する規制枠組みを作るための検討が行われている。そのなかで、規制に関するいろいろな評価や監督を行う委員会を作るに当たって、それを、専門家グループと非専門家(消費者や生産者)グループの二つに分けるか、一つにするかが議論されていた。その議論で面白かったのは、ある意味で、推進派の専門家の間の意見や認識の隔たりのほうが、推進派の一部と反対派の距離よりもずっと大きいように見えたことである。
意見分布の構図は、大まかに言えば、分離派と非分離派――1つの委員会にするか、2つにするにしても両者の意見・情報交換の場を定期的にもち密に連携を図るという立場――に分かれていたのだが、このとき前者はすべて推進サイドの人たちだったのに対し、後者は反対派と推進派の両方の人たちがいたのである。そして非分離派のなかで、推進/反対と根本的な立場を異にしながらも両者を結び付けていたのは何かといえば、それは、専門家と非専門家の交流・対話は、安全性の向上・確保にとって実質的な意味があるという認識であった。これに対し分離派の人たちの発言には、このような認識がまったく見られなかったのである。
ここで話をもう少し分かりやすくするために、近頃流行りで、今回の検討会でも多用された「安全と安心」というキーワードを使って説明してみたい。このキーワードについては先日のエントリー「検査基準緩和反対は不合理か―BSE問題の行方(3)」の注(1)でも少し触れたが、最近とある雑誌(もうすぐ発売)に書いたものがあるので、それをコピペしておく(文中の「報告書」とは、文科省が今年4月に発表した『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会報告書』のこと。)。

問題のある「安全・安心」概念は、この最後の報告書に顕著である。その中で「安全」は「人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである」とされる一方で、「安心」については「個人の主観的な判断に大きく依存するものである」とされている。さらには「人々の安心を得るための前提として、安全の確保に関わる組織と人々の間に信頼を醸成することが必要である。互いの信頼がなければ、安全を確保し、さらにそのことをいくら伝えたとしても相手が安心することは困難だからである」ともいわれている。いいかえれば安全とは、専門家や事業者、行政が科学的・客観的に定義、評価、確保するものであり、素人であるその他の人々は、それら専門家や組織との信頼関係を通じて安全についての説明を受け入れることによって安心するという構図がそこにある。

実をいうと、上記の「分離派」の人たちの発言に見え隠れしていたのは、このような「安全=科学・客観的・専門家」、「安心=信頼・主観・素人」という二分法だったのであり、コミュニケーションの目的についても「啓発」だとか「啓蒙」という言葉をひたすら繰り返していた。これに対し非分離派の人たちは、推進派も反対派も、安全と安心はいわば連続的であるという認識があったのである。では、それはいったいどういうことか?
検討会の議論の中で取り上げられた具体例で説明するとこういうことだ。昨年春、北海道農業研究センター(北農研)が遺伝子組換えイネの試験栽培を実施した。これに先立って同センターは、地域住民への説明会を開いたのだが、開催日が田植えの直前だったりするなど、いろいろ不手際もあり、当然ながら消費者団体や農業団体から非難轟々の嵐に見舞われた。センター側の意識としても、いわゆる「ご理解いただく」ための通過儀礼的なものという考えもあったのだと思われる。しかしながらこの一連のやり取りのなかで住民・農家・消費者団体は、単に反対していたのではなく、安全性についての様々な鋭い質問をセンター側に投げかけた。その一つが、「スペアとして保存している種が盗まれ、試験場以外の場所にまかれたりしたらどうするのか」というセンターの専門家には全く想定外の問題であった。つまり、盗難という「セキュリティ」上の問題によって引き起こされる、開放系栽培による在来の非組換え品種への交雑リスクという「セイフティ」の問題を指摘したのであり、それは、試験圃場での交雑リスクだけを想定し対策を立てていたセンター側には、きっと目からウロコの経験だっただろう。「専門家」たちは「素人」である消費者団体等の人々から、この問題を教えられたのだ。さらにいえば、この「素人」たちは、遺伝子組換え技術やそれに関連する生物科学については素人であったが、たとえば無農薬野菜を扱う八百屋さんや、毎年イネを栽培している農家など、それぞれの職業においてはプロフェッショナルである。彼/彼女らは、それぞれの生活や仕事の現場の文脈で培った経験や知識――いわゆるローカルノレッジ――に基づいて、野菜の流通や農業栽培の素人である遺伝子組換えの専門家たちには想定できなかった問題を指摘したのであり、そこには専門家/素人の二分法を超えた、それぞれの分野のプロの間の異業種・異分野コミュニケーションが成り立ったのである。そして、「非分離派」のなかにいた専門家の一人は、実はこのようなクリエイティヴなコミュニケーションを経験した北農研の研究者だった。
このことを再び「安全・安心」のキーワードで整理すると、要は非分離派の人たちに共有されていたのは、反対派が抱く「不安」は、単に組換え技術についての理解不足による漠然とした不安感情――分離派の人たちの頭にある図式――ではなく、現実的な問題に対する懸念であり、それに対処することは、遺伝子組換えという技術の安全性に寄与し、そのようにすることで不安も解消されたり、信頼感も生まれたりするという認識なのである。
このような科学技術をめぐる人々のクリエィティヴな関係についての認識を、反対と推進双方のコミュニケーションの現場にいる人々が共有しているというのは、討論の結果がどうであれ、両者にとって、そして当の組換え技術にとてもプラスに働くに違いない。逆にいうと、そういう現場を経験していない人たち――分離派の人たちはそのタイプ――にとっては、なかなか分かりづらいことなのかもしれないのだが、いずれ時間と経験を重ねるうちに、少しずつだが前進するのだろう。(してもらはないと困るし。)
このようなわけで、遺伝子組換え作物の栽培条件をめぐる北海道の検討会の状況は、そのまま日本の科学技術コミュニケーション全体のビミョーな状況の縮図と見ることもできる。双方向性と批判的創造性が備わったコミュニケーションの重要性を深く認識している流れと、他方にはそれらを欠いた旧態依然とした流れのせめぎあい。いったいどちらの流れが、新しい科学技術政策のもとで育っていくのか。ここ数年がとりあえず最初の山場である。(個人的には、はやくその山場に上りたい一方で、それをなかなか許してくれないしがらみもあったりして、そっちのほうが当面、難儀なのだが。。ハァ。。)
(追記)
ちなみに北海道の検討会が置かれている社会的・政治的状況は、北海道議会の動きとか、「実は遺伝子組換え大豆作って出荷したことがあります、来年も作る予定です」とカミングアウトした農家が現われたりと、かなりエキサイティングな状況になってきている。そのあたりの舞台裏の話なんかも、今回の出張ではいろいろ知ることができたのだが、これはリアルポリティクスであるだけに、今はここには書けない。来年、無事情景が可決・成立した頃には書けるに違いない。

 

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2件のコメント

  1. ブログにおける議論について(2)?Aim and scope?

     間隔が開いたが、本エントリでは序論に続き、目指すこと、そして今後のアウトライン

  2. 国が育てる「サイエンスライター」記事に関して

    これも結構前の記事になりますが、この記事に対して様々なサイエンスライターなどから反響があるようです。僕自身この記事にはかなり注目していて、各関係者の反応などを探っていたのですが、実際のうけはあんまり良くないみたいです。

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