検査基準緩和反対は不合理か―BSE問題の行方(3)

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前のエントリーで「続きは明日」といいつつ、5日たってしまったが、前回のエントリーで予告(?)したBSE検査基準緩和を含む新対策案の行方について。
これについてそこでは、これまでの対策の見直しと新対策案が、米国牛輸入問題という社会的文脈の中に置かれている限り、新対策案が消費者の多くによって支持される見込みはないだろうと書いた。そしてその理由は、人々が新対策案の科学的内容を理解できないから――科学的に不合理だから――と考えるよりは、むしろ、米国牛輸入問題という社会的文脈を視野に入れた「社会的に合理的」な判断をしているからだと考えるべきだとも書いた。それはいったいどういうことか?
検査基準の緩和に反対するのは不合理か?
前回のエントリーでも触れたように、毎日新聞の調査では、「検査基準を緩和し、早期に米国産牛肉の輸入を再開する」かについて、「反対」の回答が65%で、「賛成」の24%を大きく上回ったという。また、日本各地の自治体が都道府県レベルで、消費者や生産者の要望を受け、国の方針とは別に、全頭検査を継続することが次々と決められ、県議会等でも自民党も含めた超党派的な対応で、検査緩和反対の声が強いようだ。国レベルでも自民党が緩和に難色を示しており、ついには政府も、全頭検査継続を決めた自治体の措置を黙認するだけに留まらず、移行措置として、半年か1年のあいだ費用の一部を補助するというプランまで出てきている。こうした反応は、果たして、すべて非科学的、不合理なものと見るべきなのだろうか?答えはノーだ。


BSE問題に限らず、一般にリスクの問題では、リスクコミュニケーションを通じて、人々にリスクの科学的な理解が強く求められている。もちろんこれは重要なことなのだが、しばしばそこには、人々が不安を抱いたり政策に反対するのは科学的な理解が不足しているからであり、「科学的に理解すれば安心する/政策を受け入れてくれる」というような素朴な前提が、専門家や行政の側にあったりする。そのため、いくら説明しても人々の不安や反対論が消えない場合には、「まだまだ科学的な理解が足りない」と見なし、さらに科学的な説明を繰り返していくということになりやすい。もちろん、このような診断があてはまることは多いのだが、不安や反対の理由は、科学的なこと以外のこと、政治的・社会的なことが多いのも事実である。政府や専門家から聞きたいのも、そのような科学外の問題に対する疑問や不安に応えるような説明であり、科学的な説明ばかりを繰り返すことは、「肝心なことに答えてくれない」、「何か隠している」という具合に不満や疑念、反対姿勢をますます増幅させるだけになってしまいがちである。ましてやそうした科学外の問題を「感情論」などと呼んで切り捨てる姿勢は、それだけでリスクコミュニケーションを破綻させる原因になる(1)。今回のBSE問題の場合も、後者の見方が当てはまる部分が非常に多いと思われるのだ。
以前にも書いたように、『中間とりまとめ』にまとめられた国内対策のレヴューと、それに基づいてこれから提案され、食品安全委員会に諮問されようとしている新対策案は、あくまで国内のBSE感染やリスク管理体制の現状に基づく国内的なものであり、米国牛の輸入再開とは、科学的にも法的にも独立した問題である。前回も書いたが、検査基準の緩和という話は、危険部位除去や飼料規制の実態の検証も含めた包括的な枠組みの一部として、米国でBSE牛が見つかる以前からあったものであり、小生もずっと以前に農水省の役人からそういう話を聞いたことがある。そもそも全頭検査は、導入当時は牛のトレーサビリティ・システムがなく月齢確認が困難だったことと、市場に検査済みとそうでないものが同時に流通するのは消費者を混乱させ不安にさせるということから、検出限界はあることは折り込み済みで導入されたものである。そして前回書いたように、日本の汚染状況を踏まえて現在の検査の検出限界を概ね20ヶ月齢――安全寄りに考えて18や19ヶ月にしたほうがいいと思うが――とみなし、これ以下の若い牛を検査対象から外すことは、危険部位除去や飼料規制など他の対策を強化すれば、国内に限った話であれば十分科学的には妥当なものであり、総合的にはよりリスク低減につながると考えられる。残る問題があるとすれば、第一に、20ヶ月齢以下の異常プリオンが検出限界以上に溜まっている牛が発見される可能性と、それにともなう人への感染リスクだが、イギリスとは桁違いに汚染の度合いが低い日本では、その確率は現実的な数字ではないと考えられるだろう。あとは、危険部位除去や飼料規制など他の対策の強化策の有効性、実行可能性がどれほどかということだけだろう。これに関して、現実性のある策が打ち出されるならば、検査基準緩和を含む新対策案は、(マスコミが「緩和」のことばかり強調して報道しなければ)比較的スムーズに受け入れられた可能性はあっただろう。
まぁ、もちろん、意見交換会などで指摘されているように、店頭に「検査済み」とそうでない肉が出回るというのは混乱を招く恐れというのもあるから、周知を図るための移行措置として、今の検査法を用いた全頭検査を継続するということはありえたとしてもだ。
全頭検査継続要求の合理性―基準緩和と輸入再開のリンクの社会的合理性
しかしながら、このような想定は、あくまで、米国でBSEが発生しておらず、禁輸問題が存在しなかったならば、という条件付の話でしかない。現実は、米国BSEは見つかり、体外的にはブッシュ政権から、国内的には米国牛に依存してきた外食産業からの輸入再開を求める圧力や要望が噴出し、多くの人々にとって国内対策見直し問題は、完全に対米問題のフレーミング(問題の枠取り)のなかに投げ込まれてしまっていると考えられるからだ。
もちろん、このようなフレーミングが人々の間で支配的になっているとすれば、それはマスコミ報道によるところが大きいことは否めない。このブログでも以前に指摘したように、食品安全基本法や、米国牛については、国内のみを対象にした『中間とりまとめ』とは別に、米国の感染状況や管理体制そのものを評価しなければならないというdue processのことをすっ飛ばして、「検査基準緩和」→「輸入再開近し!」とする短絡的報道があまりに多すぎる。(ついでにいえば、『中間とりまとめ』は、国内の感染状況とリスク管理体制のレビューを目的としたものであるため、国内対策の見直しにしても、今現在準備されているように、改めて農水省・厚労省から食品安全委員会に諮問し、意見交換会を行い、答申を経なければならない。)なかには、国内手続きや日米協議の状況から、輸入再開にはハードルがまだまだたくさんあるという事実から、「輸入再開は年内ギリギリになりそう」など、世論を「輸入再開待望論」に引っ張っているように受け取られかねない記事も見られる。
けれども、そうした「行き過ぎ」はあるにしても、やはり検査基準緩和と米国牛輸入再開問題は連動したものと見るマスコミの見方には妥当性があるのは事実であり、人々がその見方をとるのも決して不合理なことではない。なにしろ、「20ヶ月齢」という新しい検査基準は、「米国牛のほとんどは20ヶ月齢以下で出荷する」という米国政府の主張とぴたりと一致しており、たとえ、輸入再開までの国内手続きの壁がいくつもあったとしても、遅かれ早かれこの基準が輸入再開条件(の一部)とされ、大半の米国牛が無検査で入ってくる怖れがあることには変わりはないからだ。少なくとも、「輸入再開には米国が日本と同等の安全対策をとる必要がある」としている以上、国内対策の中身が輸入条件として用いられることは必定である。これは、主観的認識の問題ではなく、客観的な連関である。いくら『中間とりまとめ』やそれに基づく新対策の提案が対象としているのが国内の牛と管理措置であったとしても、米国牛輸入という問題がある限り、「純粋な国内問題」として孤立してはいないのである。
さらにいえば、そもそもBSE問題に限らず、小泉政権の対米追従姿勢のヘタレ振りは、あらゆる面で周知のことである。たとえ食品安全委員会や農水・厚労省が法的・科学的なdue processを踏もうとしても、「政治決着」でどんでん返しされるリスクは否定できない。事実、先日触れたように、先月の日米首脳会談に先立って、外務省が「20カ月齢以下の除外で政治決着は可能」とホワイトハウスに伝えていたという報道もある。その結果、米国が「政治決着」に強気になり、ライス米大統領補佐官が会談前に何度も細田官房長官に電話を入れ、「全頭検査という、世界中でほとんど日本だけと言ってもいい方法に合わせるのが良いのか」と迫ったのだという。そしてこの勢いを押し返したのが、「国内手続きが終わっていない、今回は絶対に無理だ」という農水・厚労省の主張だったようなのだ。とにかく、外務省やそれに支えられた小泉対米外交の性格を考えれば、人々が、国内手続きさえすっ飛ばした政治決着によって、「検査基準の緩和」が即「輸入再開」につながるリスクを怖れるのは、実に自然な反応ではないだろうか。少なくとも、それをはっきりと否定する根拠は、人々が判断の拠り所にできる事実――それは基本的にはマスコミが報道しているものだが――の中には全くない。
したがって、もしも人々が、このような政治決着のリスクを懸念しているとすれば、その懸念から彼/彼女らが米国牛輸入への「防波堤」として全頭検査の継続を訴えることは、まったく正当なことだといえるだろう。そしてそれは、国内対策についての科学的理解とは全く別のことであり、日米関係という政治的文脈とその歴史的経緯を考慮に入れた「社会的合理性」のある判断と見なすべきものである。もちろん日本政府の対米ヘタレ外交というマスコミ報道のイメージが一面的である可能性はあるが、少なくとも報道事実からの判断としては、人々の反応は理にかなったものといえるだろう。そして、実際にそのようにして政治決着のリスクを懸念する人はかなりいるのではないだろうか。
もちろん大部分の人々は、「検査基準緩和」ばかりがクローズアップされた新聞報道でしかBSE問題について知らされていない。このため、よく分からないままに国内対策そのものに不安を覚えたり、非常に小さいリスクを恐れたりすることから、闇雲に「全頭検査を継続して欲しい」と考えている人も多いに違いない。しかし、意見交換会に行き、食品安全委員会等の説明を聞いている消費者や消費者団体の人たちには、これはあてはまらないのではないだろうか。むしろ、国内対策としての検査緩和の妥当性はそれなりに理解しつつも、それが米国牛輸入再開につながることを恐れるがゆえに反対していることのほうが多いのではないだろうか。そのあたり、意見交換会の記録が公開されていれば検証できるのだが、少なくとも小生が参加した食品安全委員会の意見交換会や、BSE問題に取り組んでいる地元の消費者グループの会合でBSEについて講演した時の参加者とのやり取りでは、そういった傾向がうかがえた。とくに後者の会合で小生は、ある意味「挑発」するつもりで意識的に、『中間とりまとめ』の勧告内容に従うならば、農水省・厚労省が提案するだろう新提案は、検査基準は緩和されるとしても全体としては対策強化になるだろうということ説明した。しかしそれでもなお、参加者の間で基準緩和反対は揺るがず、その際持ち出されるのは、やはり米国牛への深い疑念と、検査緩和がそうした牛の輸入再開への突破口にされることへの懸念なのである。
とはいうものの、検査緩和が輸入に直結することや、それを後押しする政治決着への怖れは、その根本にある米国牛の安全性に対する疑念が単なる思い込み(妄想?)であるとすれば、ただの杞憂に過ぎず、そうした怖れに基づいて全頭検査継続を求めることは、根拠のない不合理なものになるのは確かである。しかし、これまた一般の人々が入手可能なマスコミ報道の情報を見る限りは、米国の検査体制や、食肉処理における特定危険部位除去、飼料規制といったリスク管理の実態に対する疑いは、それを強めるものはあっても、はっきり否定できるような安心材料はほとんどない。確かに米国ではまだ一件しかBSEが発見されていないが、それが果たして、本当にBSE牛が少ないせいなのか、検査体制に不備があるからなのかはわからない。むしろ怪しそうという見方を強めることばかりが報道されている。そもそも大量破壊兵器が存在する証拠があるなど真っ赤なウソをついてイラクを攻撃し、10000人以上にのぼるイラクの民間人と1000人以上の自国の若者を死に追いやっても平気でいられるのがブッシュ政権である。たとえ検査の現場は真面目にやっていたとしても、政府上層部のレベルで情報の歪曲や隠蔽をやってても何ら不思議ではない。少なくともそうした事実や報道をベースにする限りは、人々が米国政府の主張を疑い、米国牛のリスクを恐れることは少しも不合理ではないだろう。エントリーを改めて、この点について確認してみよう。


注:
(1) 環境省の「リスクコミュニケーション」のサイトにある「平成12年度リスクコミュニケーション事例等調査報告書」の「第1章 基礎概念」のp.16-17の説明は、この点で最悪である。そこには、「一般的に、リスクの大きさは、専門家(またその意見を参考とする行政、事業者)は年間死亡率など科学的データで判断するが、住民は感情に基づき判断する傾向があるとされている」(強調筆者)とし、「特に感情という観点からみた場合には、住民は以下の因子でリスクの大きさを認知する傾向があると考えられている」として、次の四つの因子を挙げている。

  • 破滅性:そのリスクは破滅的な結果の発生するリスクであるか否か。原子力発電所の事故などのように、一回でも事故が発生すれば破滅的な影響が発生するリスクについては、発生確率がどんなに低くてもより大きく認知する傾向がある。
  • 未知性:そのリスクについて知ることができるか、観察することができるか否か。遅発性のリスクや科学的知見が十分ではないリスクについては、実際よりそのリスクを大きく認知する傾向がある。
  • 制御可能性・自発性:そのリスクについて自分たちで制御することが可能なのか否か。自動車リスクのように自分からそのリスクを引き受け、制御が可能なリスクについてはリスクは小さく認知される傾向にある。
  • 公平性:そのリスクが自分たちだけに発生するリスクなのか否か。社会全体で公平にリスクを分担しておらず、自分たちだけでそのリスクを押しつけられていると感じる場合にはリスクをより大きく認知する傾向がある。

これらのうち、その問題性が一番分かりやすいのは「公平性」である。そこに書かれているのは、明らかに「負担の公平性」という社会正義の問題であり、それを認識し判断するのは「感情」ではなく、社会的公平性に関する「社会的合理性(または社会的道理性)」の認識・判断であるはずだ。「リスクをより大きく認知する」というのも、科学的に定量化されうる物理的リスクに対する認知というよりはむしろ、負担の公平性の侵害可能性といういわば「社会的・政治的リスク」に対する危惧の表れと見るべきだろう。また、3番目の「制御可能性・自発性」は、裏返せばリスクを引き受けるか否か、引き受けるとすれば、それをどうマネージするかに関する決定権が自分にあるかどうかという「自己決定権」に関する認識・判断である。それと同時にそれは、「責任」の所在に関する認識・判断にも関係している。自らリスクを引き受けた結果ならば、それは自己責任として納得できるが、そうでない場合には、危害の原因となった者に対し責任を求めることになる。果たしてそれは「感情論」だろうか?ちなみに上記引用の少し後にはこんな記述もある(強調筆者)。

・・・米国では、比較的合理的にリスクとベネフィットの関係で受容するか否かが決められることが多いが、我が国では信頼できる―信頼できない、好き―嫌いなどの情緒的な因子が大きな要因となっていると言われている。
 これは見ることやさわることができない先端技術リスクのコミュニケーション事例において顕著に現れている。地震や台風などの自然災害によるリスクについては加害者は存在しないが、先端技術リスクについては当該リスクを発生させている事業者(かつ先端技術によって利益を得ている)が存在することもリスクの受容を難しくし、加害者対被害者という対立を生じやすくしている点にも留意をしなければならない。

要は、この文書を書いた人物、そしてこれを公式文書として承認し公開している環境省にとってリスクコミュニケーションとは、公平性、自己決定権、信頼や責任というわれわれの社会生活の基礎的概念を「情緒的要因」として切り捨て、ひたすら科学的内容の伝達・受容を求め、また社会的判断をすべてリスク・ベネフィット比較に切り詰めるだけのものなのだ。このような「見識」は、社会学や政治学、あるいは法学の観点から見ても稚拙であるだけでなく、実際のリスクコミュニケーションにおいては、余計にコミュニケーションをこじらせることにしかならないだろう。
参考:

ちなみに最初の2つの拙稿は、霞ヶ関界隈の会議に行くと、よくコピーをもっている方と出会う。しかし中には、「これ役立ちますよ~」といいつつ、北海道庁が独自の遺伝子組換え作物栽培規制を作ろうとしたときには、「専門家が安全だといってるのに何で素人が口出すんじゃ~」と怒り立ったセンセもいるからなぁ。。。道庁の役人やその規制案を支持する農家や消費者の人たちは、単に生物学的な安全性だけを問題にしているわけではないのだが。
あとこんなのも発見。原子力関係の若手の掲示板への年配者からの投稿のようだが、なんというか、ここまで典型的なのは久々に見ました。あまりの天晴れさに感動すら覚えちゃいます(そのすぐ下には、これへのレスとして拙稿がコピペされてる。)ちなみにリスクの問題には、「科学に問うことはできるが、科学では答えられない問題が存在する」とし、その科学を超えた問題群を「トランスサイエンス」と1972年に名づけたのは、アメリカの物理学者で同国の原子力政策の指導的人物であったAlvin Weinbergであった。この概念は、その後の米国のリスク規制政策の基本的な考え方にもつながっている。実は、日本の原子力の草分け的研究者にも彼のところで学んだ人は多いのだが、このトランスサイエンス概念について知っている人は皆無で、なんとも情けない、という話を原子力関係者から聞いたことがある。「仏彫って魂いれず」という言葉がぴったりだが、その典型例が上記リンク先である。あ~ぁ。

 

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