改憲なんかじゃ救えない―加害少女の詩その2

投稿者:

東京からの帰り途、超久々に『AERA』を買った(何年ぶりだろう?)。
「ブログライフがはじまった」、「さらば2ちゃんねる」(ひろゆきもでてる)という記事が目当てだったが、「ネオ・マゾでつながるゴスロリ少女―自傷系ゴスロリ少女たちのココロ」という見出しが目に止まった。
そのなかで印象的だったのが、自らもゴスロリ&リスカ(=リスクカット)経験者(現役?)の作家、雨宮処凛さんの次の言葉。

「両方[ゴスロリとリスカのこと]とも自分だけは他人と違う、と切り離すための道具だから。そうやって表現しないと、自分は誰にも注目されないという不安がすごく大きい。」


肥大しすぎた自我のグロテスクなナルシズム、と切って捨てることもできそうだが、反対に、自分の生活経験の中での自己の希薄さの裏返し、そうやって追い込まれてしまった自己のかたちでもあるように思う。自らを傷つけたりでもしないと確認できないくらい希薄な「自分自身」。昨日未明のエントリーでふれた佐世保の小6女児殺害事件の加害少女の詩にも同じモチーフがあるように思う。どちらの影にもあるのは、「他の誰でもないたった一人の私」を押しつぶし、あるいは、それを認める機会を常に奪いながら過ぎていく息苦しい/空々しい日常。(そして佐世保の彼女は、もう1人の命を奪ってしまった。二重に深い不幸。)
彼女たちには、圧倒的に「自分自身」が足りない、「自分自身であること」の経験、「あなたはあなたでいていい」と他者――とくに親?――から認められ扱ってもらう経験が絶望的に不足しているのではないか。他の誰でもない自分を誰かに見つけてもらいたいと待っている消え入りそうな濃度0.0001%の「自分自身」。
そういう消えゆく「自分自身」は、決して、行儀よく商品が並べられた百貨店のディスプレイのような官製の「個性化教育」なんかじゃ救えないのはいうまでもない。「自分以外の何者でもない私自身」はショーケースの隙間からこぼれ落ち、床の埃にまぎれて消えていく。けれど、個性や個人の権利の称揚を忌み嫌う連中が押し進める憲法や教育基本法の改正、君が代強制はもっとひどい。どれもこれも、正面から「他の誰でもないたった一人の私」を消し潰そうとするものばかり。ますます子供たちの「私自身」の存在濃度は希薄になり、闇ばかりが質量を増すだけだろう。
子供たちがそんな苦しみにもっと深く押し込まれたりしないようにするためにも、明日(もう今日ですね)は選挙に行かなくちゃ。

 

1つ星 (まだ評価がありません)
読み込み中...