憲法が、こんなふうになっちゃうかも、という話(↓)。自民党の憲法調査会の議事録見てると、杞憂じゃ済まされないかも。
ちなみに憲法調査会の議事録は、もちろん、なかには首肯する意見もないわけではないが、悪い冗談か、酔っ払ってるのかどちらかとしか思えない、ツッコミどころ満載のオヤジ談義のオンパレードである。そのエッセンスは、とにかく、今の日本がこんなになっちゃったのは、すべて現行憲法か、キョーサン党とか、人権思想のせいで、その国でずっと政権とってきた自分たちは何も悪くないよ~ん、という無責任さに満ちている。一部議事録の発言から引いておこう。(あとで折をみて追加していきます。)これなんか、ほとんど陰謀論というか関係妄想である(笑)
戦後、日本民族弱体化政策、バラバラにして、2度と一致結束して立ち上がることがないようなことを主眼に置いた憲法の影響結果がいま表れてているのではないか。
次はこれ。
第3回会合より:
「いまの日本人の持っていないものは「日本人の誇り」だ。日本の歴史を認識していないからこういうことになる。」
その誇るべき日本の歴史に泥を塗りつづけてきたのは誰なんでしょうね?少なくとも、このオッサンたちが嘆くここ半世紀のあいだ政権に居座りつづけてたのはどこの政党でしたっけ?そういう基本的な歴史認識もないやつに「歴史の認識がない」なんていわれたくないぞ。それから、後にも見るように、このオッサンたちは、「戦後は個人が強調されすぎて利己主義が蔓延した」などと嘆いて見せてるが、いったいどの口がそれをいう???国レベルで迷惑をかけたという意味で利己主義の最たるものは、利権に群がり私利私欲を一番満たしてきた与党の有力政治家や一部官僚ではないのか?ついに700兆円を超えてしまった国の借金を作ったのはいったい誰だよ?
第3回会合より:
「科学技術の世紀が20世紀だったと言わざるを得ないが、一部の極端な思想によってそれが動かされてきた。」
????意味不明。もしかして、アカい思想が科学技術を動かしてきたとか、そういうこと言ってるのか?もちろん、まぁ、旧ソ連も、とくに宇宙開発とかで科学技術大国ではあったが、20世紀の科学技術の大半は米欧日の西側自由世界のものじゃないのか?(それともこの御仁は、実はあちら側の人で、一部の極端な思想とは自由主義思想のことなのか?)
第3回会合より:
「平和主義と日本人はうぬぼれている。ベトナム特需を楽しみ、アメリカの核には何も言わない。独善的になってはいけない。」
「平和主義と日本人はうぬぼれている」を、「平和主義といって日本人は現実を直視していない」といいかえれば、うなづかないわけではないが、、、って、アンタ、「ベトナム特需を楽しみ、アメリカの核には何も言わない」国で政権とりつづけてきたのは、アンタの党でしょうが!?未だに「ヒロシマ、ナガサキは正しかった」といってはばからない米国に対して、文句の一つも言った自民党政治家がいただろうか?たとえばスミソニアン博物館で原爆展が中止にされたり、エノラ・ゲイ展で被爆者の写真・資料展示をいっしょにして欲しいという被爆者団体の要望が拒絶されたとき、政府の誰が文句を言ったりしただろうか?最近では劣化ウラン弾の問題もある。とんだヘタレ政府だ。それどころか、ベトナム特需に浮かれる日本の産業界を批判し、核廃絶を訴えたベトナム反戦運動や反核運動をつぶしつづけてきたのは、どの国の政府だったろうか?
ほんとにこいつら、無責任すぎ。人のせいにばかりするのは日本では恥じだとされてないか?
それから、シルエットdaysさんが指摘している問題に関わるところでは、「国民の権利及び義務」を議題とした第9回会合は、こんな発言がいっぱい。
いまの日本国憲法を見ておりますと、あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。個人優先、家族を無視する、そして地域社会とか国家というものを考えないような日本人になってきたことを非常に憂えている。夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないことで、家族が基本、家族を大切にして、家庭と家族を守っていくことが、この国を安泰に導いていくもとなんだということを、しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない。先進国で20歳以下の若い人たちに体を動かす団体活動をさせていないのは日本だけだという話を聞きました。私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務づけられるような国にしていかなければいけないのではないかと。裁判員制度で、忌避したらどうなるんだと言うが、公と個ということを考えても、裁判員になること、裁判官と同じように人を裁くということも国民としての義務なんだというような位置づけが必要になってきたのではないか。いまの日本はあまりにも権利ばかり主張しすぎる、個人ばかり強調しすぎる。もう少し調和のある憲法にして頂きたい。3つしか義務がないような日本国憲法では困る。
国家が個人を押しつぶし、国家の道具にしてきた歴史と、それが繰り返される潜在的危険があるから、それに対するカウンターバランスとして個人を強調し、国家に対する抵抗権として基本的人権もあったりするわけなんだが、自分は決して押しつぶされたり駆り出されたりする心配がないと知っている人間には、そういうことはわからないらしい。とくに憲法というのは、個人と国家の関係を定める基本的法典であるわけで、そこでは個人に対する国家の潜在的加害性、両者の間の圧倒的な力の不均衡というのを前提にして、話をしないといけない。
そういう認識なんてさらさらないから、たとえば「強烈な個人の個性が必要」、「たった1人、社会の周辺に立って戦う[個人]」といいながら、それが、以下のように、本当に公共性・公益性があるかどうかを公的に――つまり住民/市民の加わった議論を通じて――吟味することなく個人の財産権等の権利を制限する「土地収用法」を発動する大臣――さまざまな権限や特権をもった公人――の話につなげられたりする。
個人の尊重、強烈な個性を持った個人を尊重する必要があるだろう。ある場合には、社会のためにたった1人、社会の周辺に立って戦うという個人もある。先程、収用法の話が出たが、担当大臣が個人として戦わない。
ところで、「公」の大切さということについていうと、それが戦後民主主義の中でないがしろにされてきたということには、小生も首肯するが、ただし、このオヤジのように、「公」を国家とほぼ同一視してしまう思考には与しない(たとえばこれ↓)。
公共のために、国のためにという奉仕もするし、国を守るために義務・責任を負うんだということをはっきり書いてもらいたい。
戦後民主主義が問題だとすればそれは、戦前・戦中にあまりに個人に対し加害的だった国家という公を忌避するあまり、個人と国家の中間に何層にも重なり相交わる「市民的公共性」の空間として公を育んでこなかったことであるはずだ。国家がそれが育つのを疎外してきただけでなく、個人の側も私人または会社人に埋没し、地域社会や、あるいは地理的距離を超えた絆に自発的に参与し、貢献するということを怠ってきた。あるいはそうした絆や空間を創ろうとしてきたが――ローカルなレベルでは成功してもそれがナショナルなレベルでの「市民的成功神話」に昇華されなかったという意味で――失敗し続けてきた。問題があるとすればそこであり、改憲オヤジのように、この公の空間の欠如を再び国家という公のみで充足させ、あるいは両者の中間レベルを考えるにしても、家族どまりで、そこから上がすっかり中抜きされちゃうのでは、単に先祖返りするだけである。
ちなみに憲法調査会の議論では、「家族を大切にする」ということが何度も出てくるが、上のような中抜き構造の枠組みでは、結局それは、本当であれば、コミュニティや市民社会、あるいは国家や市場が担うべき社会的負担を、家族レベルにすべて転嫁し、家族をオーバーロードにしてしまう点で、家族を大切にしない論理になっている。以下の発言は、この「中抜き」構造の問題を「宗教という公の装置の不在」ということで言い立てつつ、人々の絆、相互の支えあいの単位を家族に縮約していく話になっている。ついでにいえば、この考えは、家族を「公共」の水準に位置付けているものだが、ふつう、「公的領域/私的領域」の区別のもとで家族は私的領域に属するものである。そういう政治学的・社会学的常識すら持ち合わせていないアホ連中が憲法論議をするというのは、日本という国、国民にとってなんとも恥さらしな事態である。
日本の場合は、少なくとも無宗教であることがいいみたいな風潮になってしまった結果、人倫というか、人間関係に関しては空洞化してしまっている。ということであれば、せめて家族関係、親子との間について規律を定めておくことは、養育の義務あるいは扶養というか保護というか、その種のことが残念ながら必要になってきているのではないか。
しかも、この「家族」の中で誰にその「支えあい」の負担が集中するかといえば、女性である。要するにこのオヤジたち、ただの家父長制オヤジなのだ。(ついでいうと憲法調査会にはオバサンも混ざっている。)そして、それが公的社会負担分を「家族」という単位にオーバーロードさせ、一部の富める者は市場に負担を外部化できるが、大多数はできないという格差をも生む一種のネオリベラリズムと接続している――家父長制ネオリベラリズム。(とはいっても、その負担を市場化するというビジョンすらないからネオリベラリズムそのものではない。)
よい家族こそ、よい国の礎である。特に、女性の家庭をよくしようというその気持ちが日本の国をこれまでまじめに支えてきたと思う。家庭を大切にするということ。ドイツの憲法には、「婚姻および家族は、国家秩序の特別な保護を受ける」と書いてある。こういう書き方もあるし、「国民はよい家庭をつくり、よい国をつくる義務がある」ということを書くことが可能であれば書いて頂くとか、ぜひ家族を強調して頂きたい。
ちなみに先日の朝ナマでも気づいたのだが、自民党改憲オヤジたちの皇室問題についての考え方って、要するに家父長制なんだよね。「女性天皇」に消極的、もしくは反対なのも、天皇家=日本の家族モデルという図式の中で、女性が天皇になっちゃうと、家父長制が崩れちゃうからというのが本音らしい。朝ナマに出ていた自民党オヤジは現に、「天皇家を家族のモデルとして、女性天皇を認めちゃうと、夫婦別姓などが認められてしまう」云々というような発言をしていた。まさ子さんの「経歴や人格を否定」するようなことをしていた宮内庁の役人やらも、全く同じメンタリティなのだろう。
もうひとつ、上の引用では、すごい論理のすり替えがなされていることに注意しよう。「家庭を大切にするということ」ということで、ドイツ憲法が参照されてるが、それが謳っているのは「婚姻および家族は、国家秩序の特別な保護を受ける」というように、家族には国家秩序によって保護される権利があり、国家にはそうする義務があるということであり、「国民はよい家庭をつくり、よい国をつくる義務がある」というような、国民の側の義務とは正反対のことなのだ。とてもじゃないが「こういう書き方もあるし・・」なんて接続語で並置できるものではない。う~ん、恐るべき非論理性。
小生としては、改憲は必要だと思う。環境権や知る権利など、基本的人権の拡張は必要だし、国家安全保障についても、集団的安全保障の規定は、(何度かここでも書いたように)逆説的な意味で必要だと思う。たとえば、集団的安全保障の発動条件を国連安保理の決議とすることによって、もちろん万能ではないが、とくに、日本が戦争に巻き込まれるリスクが最も高い米国の単独主義的な(自称)「自衛権」の行使にずるずる巻き込まれるのを防ぐという意味でだ。そうだいう方向での改憲ならOKだ。しかし、上のような酔っ払いオヤジ放談のようなレベルの議論しかできないやつらが作る「憲法改正案」は通しちゃいけない。
だから、もしも自民党案はイヤと思うなら、皆さん、選挙に行きましょう。
茶色い憲法―自民党憲法改正・論点整理案の全文発覚
今朝のエントリーでとりあげた自民党の憲法改正案。党のホムペのどこにも全文がなく、憲法調査会の議事録も、昨年12月22日から今月4日の第18回まで開かれた会合のうち13回までしかアップされておらず、「参院選前には出さないつもりだな」と思ってたら、NPO型イ…
THE BLUE HEARTS
いろいろ絡み合っての上なんだけど。 ひとつ、河原町のOPAのバーゲンに行って
THE BLUE HEARTS
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「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
自民党の改憲意志には、国民に対して、上(国)に従わせようとする支配欲求が色濃く反映している。その頂点に、元首とした天皇を置きたいと願っている。
この上に従わせようとする意志は、日本人が行動様式としている、上 は下を従わせ・下は上に従う集団主義・権威主義から派生した、上に位置している人間集団の下に対する支配への疼きなのは言うまでもない。
このような疼きは集団主義・権威主義をDNAとしている影響を受けて、殆どの日本人が上に立つと、本能的な行動原理となって現れる。
平等を行動原理とするアメリカ人主体のGHQがつくった日本国憲法を、国の機関に関わる日本人政治家が改正しようとするのだから、下を従わせる構造に変えたい衝動を抱えるのは自然の流れとも言える。すべては国民がそのような構造を疑問もなく受入れて、上に従う関係を当然とするかどうかにかかっている。
「市民ひとりひとり」
第80弾「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
http://www2.wbs.ne.jp/~shiminno/kenpou.htm