19日の朝日新聞「時時刻刻」は、いつも何かに怯えてオドオドしてる知事がいる東京都を中心に広がっている君が代強制問題を取り上げている。
《時時刻刻》生徒縛る先生「処分」 都立校、国歌不起立
「好きな先生のためなら立つ。でも…」
「生徒が国歌を立って歌わないのは教員の指導不足」として、東京都教育委員会が、今年の卒業式や入学式で生徒多数が不起立だった都立校の教員ら57人を注意などの「処分」にした。「好きな先生が処分されるなら、立ちたくなくても立つ」と生徒。「私たちを強制する側に立たせる狙い」と教員は言う。
この記事で興味深いのは、卒業式の国歌斉唱で起立しなかった生徒たちの様子や声が拾われていることだ。たとえばこんなかんじ。
- ある都立高校の卒業式。「国歌斉唱」の声に、それまで立っていた生徒が座り、「立ちなさい」という教師の叫びと、生徒の「座ろうぜ」の声が重なった。立ったままだったのは数人。 その場にいた卒業生の一人は担任の「処分」を聞き「みんな強制、抑圧されるのが嫌で反発しただけ。立っていればよかったのか……」。一方で「生徒が先生の言う通りに動くと思っているのが間違いだ。こんなやり方じゃ、高校生はますます反発する」と話す。
- 別の高校の卒業生は式の朝、教室で担任に「私たちは立ちます」と言われた。卒業生は「先生は強制されているんだ、かわいそうだな」と思った。式で教師は全員立ち、生徒は全員座っていた。 「好きな先生が処分されるなら、生徒は立ちたくなくても立つと思う。でも、そこまでして立たせたいのか」とこの卒業生は言う。
- 大半の生徒がこの春立たなかった高校で、立って歌った卒業生もいる。「隣の席に歌のうまい子がいて最後に歌声を聞きたかった。なのに、彼がみんなと一緒に座ろうとしたから誘って歌った」 。楽しんで歌えることが、一番幸せだと彼女は思う。「反発する人は強制され、強制されるからまた反発する」
ここで注意しなければならないのは、この生徒たちは、別に「君が代ハンターイ」してるわけじゃなく、強制されること自体に反発してるということだ。その他の立たなかった生徒たちも同様だろう。卒業生の大半が、民○とかニキョーソとかにオルグ(←死語)されイデオロギーに染まったサヨ予備軍とはいまどき考えられない。というか、今も昔と変わらず、イデオロギー云々とは無関係に、感性として子供たちは、理不尽な強制やら抑圧というのに敏感だ――尾崎豊の「15の夜」とかウケちゃうのかも――ということだろう。そういう感性の健全さ、オジサンとしては、なんか嬉しくなるぞ。
また、仲間内の「出る杭打ち」がいっそう厳しくなってるだろう彼らの世代でこれだけ「立たない生徒」がいるということは、その強制や抑圧の程度がが尋常じゃないということを示してもいるだろう。まぁ、もう卒業しちゃうし、内申書の脅しはもう効かないよ~ん、という気持ちもあったかもしれないが、それはそれで、そうした脅しがいかに異常かを示しているといえる。あるいは、立たないほうがマジョリティだったから自分も付和雷同的に立ったという生徒も多かったかもしれないが、そうだとしても、そもそも付和雷同を呼び込むことができるほど、付和雷同ではない不起立の生徒が十分にいたわけで、それはやっぱり事態の異常さを表しているといえるだろう。
強制してる教師や教育委員会のオジサン(オバサンもいるのかな?)たちは、生徒たちに「内面の自由」や「自分で考える力」なんてないと思ってるのかもしれないけど、「好きな先生が処分されるなら、生徒は立ちたくなくても立つと思う」という優しさも含めて、生徒たちはいろいろ考えているし成熟している。考えてみれば、俺たちもそうだったじゃないか。「国歌斉唱の声量測定」なんて、傍から見たら完全にマヌケなことに血道を上げてるオトナたちも、そうだったんじゃないのか?それとも、子供のときから自ら内面の自由を放棄し、思考停止した結果が、そういうオトナなのだろうか?(だから、子供たちが「自分で感じ考える」ことを、無意識ながらも憎悪しているのかもしれない。)
生徒たちの声でもう一つ大事なポイントは、できれば君が代を楽しんで歌いたいという気持ちを持っている生徒もいるということだろう。起立しなかった他の多くの生徒たちにしても、たとえばサッカー日本代表の試合の時なんかは、誇りを感じながら国歌斉唱したり、オリンピックで日本人選手が表彰台に上るときにも、国旗掲揚をジーンとしながら見つめるんじゃないだろうか。このまえも書いたけど、君が代の歴史性を認識しつつも、たとえば「ロック君が代」や「パンク君が代」、「ボサノバ君が代」、「ヒップホップ君が代」とか、自由なアレンジで楽しめたとしたらどうだろう?そのなかで忌まわしい歴史性を追ってしまった「君」の意味が、新しい意味に置き換わっていき、もっと自然に歌えるようになるかもしれないじゃないか?もしも君が代を、「歌わせたい」ではなく、「歌って欲しい」と望むなら、そういうアプローチこそとるべきなんじゃないのか?
そうしたくないとすれば、それは、結局、君が代の音楽としての価値も詞としての意味も無視して、「強制的に従わせる」こと自体を目的にしたイヤらしい狙いを持っているか、はたまたそういう狙いすら持っていない単なる思考停止の現われでしかないだろう(←図星か?)。
ちなみに、この君が代強制問題に限らないが、それにも如実に示されている「人としての品性の下劣さ」を、なぜ保守陣営は、西部邁など少数を除いて、恥じ入り批判したりしないのだろう?保守思想の核心の一つは、自らの国や民族、あるいは(他国民や多民族/他民族も含んだ)社会における「美しきもの」「善きもの」を護るということがあるはずだ。「好きな先生が処分されるなら、生徒は立ちたくなくても立つと思う」という子供たちの優しさにつけ込んでまで、何かを強制するのは、「美しき日本の伝統的価値」に照らしても卑劣な行為と呼ばれるんじゃないのか?
最後にもう一つ。
上記の記事に、こんなくだりがあった。
「処分」の中には、こんな例もある。定時制高校の入学式で「一同、ご起立願います」の声に、教員は全員立ったが、生徒は全員不起立だった。
校長は「まずいなと思ったが、とっさに動けなかった。『一同』の意味が分からなかったのだろうか」と話す。
(不起立の)意味が分かってないのは、校長先生、あんただよ(笑)
(ほんとうは分かってるが、現実をちゃんと受け入れられないだけかもしれないが。)