日本のアメリカ化―開かれた社会の敵は誰だ?

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政治評論家の森田実さんが、ご自身のHPで、小泉政権が推し進める「自由競争万能主義」による「日本のアメリカ化」を批判している。

小泉内閣の本質は「日本をアメリカ化する」ための政権である
「自分の真価を下等にして初めて得られる他人の賞讃よりも、自分の品位をたかめて他人の罵詈を甘受する方がどれ位うれしいかしれない」(武者小路実篤『幸福者』)
 日本の真価を下等にして得られるアメリカによる賞讃よりも、日本の品位を高めてアメリカの罵詈を甘受する方がずっとよいことである。小泉首相にはこの言葉を噛みしめてほしいと思う。


このなかで森田さんは、関岡英夫著『拒否できない日本・アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書、平成16年4月20日刊)から、次の文を引きながら、「『拒否できない日本』というこの書物、とにかく全国民に読んでほしい。今の日本で何が起きているかの真実を知ってほしいのである。全国民が真実を知れば、おのずから道は開かれる。このままでは、日本はアメリカに食べられてしまう」と訴えている。

「建築基準法の改正や半世紀ぶりの商法大改正、公正取引委員会の規制強化、弁護士業の自由化や様々な司法改革……。これらはすべてアメリカ政府が彼らの国益のために日本政府に要求して実現させたもので、アメリカの公文書には実に率直にそう明記されている。近年の日米関係のこの不可解なメカニズムのルーツを探り、様々な分野で日本がアメリカに都合のいい社会に変えられてきた経緯を、アメリカの公文書に則して明快平易に描く」。

森田さんのこの評論で、とくに取り上げておきたいのが、次のくだりである。

1年ほど前の経験を話そう。かつて官庁において指導的立場にあった知人の懇談しているとき、私が「政治は弱者をないがしろにしてはならない」と言ったところ、強い反発を受けた。
 彼はこう言った――「弱者保護の社会主義には反対だ。強い者、優秀な人間がその強さと優秀さにふさわしい利益を得ることができないような日本であれば、そんな日本はつぶれた方がよい」。
 現在の日本指導層の間での最大価値は「競争」である。競争になれば強者が勝ち弱者が負ける。これは自然現象のようなものである。

優勝劣敗、弱肉強食、それがこの世の真実、節理だといわんばかりの主張で、まるで、すべてを利己的遺伝子の生き残り戦略、競争と淘汰で説明する俗流社会生物学の自然主義イデオロギー――それが限りなくネオリベラルな資本主義論と概念的に似ているという批判は、Donna Harawayなどがかつてしているが――のようだ。そのうち本気で社会生物学を持ち出してきて、このイデオロギーを正当化しようとする輩も政・官・財界に出てくるかもしれない。(実際、その昔、明治の頃に、加藤弘之という、当初は天賦人権説を支持したものの、後にこれを全否定して、人間社会において生存闘争と自然淘汰による優勝劣敗は必然であるとする社会ダーウィニズムに傾倒した学者議員がいた。)
そもそも、仮に自然の生物界が社会生物学の通りだとしても、それに人間界が従う必然性はない。人間は反自然的な文化的動物であり、自然に逆らって「人間性」なるものを文化として創りあげ伝承することによって、「人間」となってきたともいえる。もう少し詳しくいえば、人間は、自然に従うことも従わないことも選択できる存在であり、この選択の集積が文化や制度なのである。たとえば、「生物の世界は弱肉強食なのだから、弱者を切り捨ててよい」ではなく、生物界がどうであるかにかかわらず、弱者を切り捨てるか否かは人間の選択、文化の問題であり、「弱者切り捨て」を生物学的基礎づけることはできないし、弱者救済を、非生物学的・反自然的だからと否定することもできない。いいかえれば、「人間には生まれながらに身体的・知的・経済的に差異がある」ことをもって、「差異を放置しても善い」とすることも、「差異があるからこそ、それを福祉制度によって補完しなければならない」とすることもできるのだ。
では、あちらよりもこちらの選択のほうがより「善い」というのは、どうやって判断されるのか?その答えもまた文化・制度の中にあるといえるだろう。そしてわれわれ人間は、この文化・制度の歴史の中で、自然的差異を克服し、自然状態であれば弱者となり切り捨てられる者たちを救済する福祉制度や政治制度(民主制など)、さまざまな利他的行動や倫理、価値を創りあげ伝承・洗練してきた。なぜそのような歴史が紡がれてきたのかは、もしかしたら、ある種の自然史として、つまり文化的・制度的次元まで含めた人間の進化論的歴史によって説明できるのかもしれない。いずれにせよわれわれは、弱者切り捨てを避け、先天的差異を補完するという反自然的な文化・制度を創りあげ、これに反する行為を「自然な行為」ではなく「野蛮な行為」と否定的に認識する価値システムを作り上げてきたのである。少なくともその歴史性の重みは、そう簡単にチャラにすることはできない――ここで小生は保守主義を肯定する。かなり乱暴な議論だが、この意味で「自由競争万能主義」は反保守主義的な歴史性の否定、文化の破壊であるともいえるかもしれない。
ちょっと話が面倒なところに言ってしまったが、上記の「官庁において指導的立場にあった知人」の思考は、もっと「単純」なものかもしれない。つまり、本来、社会制度の問題は、バリバリの社会主義とバリバリの自由主義を両極としたスペクトルの中での相互補完的なバランスの問題として考えるべきものを、その両極のいずれかという二者択一に還元する「単純化思考」、「単純化による暴力」に陥っているのが、この発言の正体なのかもしれない。いいかえると、「強い者、優秀な人間がその強さと優秀さにふさわしい利益を得ることができないような」社会というのは、「弱者が弱者であるが故に切り捨てられる社会」と同様に、理不尽なものだということだ。
これを前提にした場合、日本社会の問題はどう考えるべきだろうか?確かに日本は、アメリカと比べれば、優秀な者、成功した者が報われる度合いが少ない社会のように思う。(ちなみに小生は社会主義者・共産主義者ではないので、社会的弱者の境遇が悲惨なものにならない限りは、多少の社会的差異(とくに富の格差)があるのはかまわないし、あったほうが社会にとって有益だとも考えている。)
しかしだからといって、日本は果たして、福祉国家を目指しすぎている――社会主義の極に近づきすぎている――が故に、優秀な者、努力した者が報われない社会、報われる度合いが過剰に低くなっている社会なのだろうか?経済的に成功した者からの富の徴収が過剰だとしても、その過剰さは、再分配される量が多すぎることによるものだろうか?むしろ、弱者救済や社会資本の整備にまわることなく、無駄遣いされている富が多すぎるということはないだろうか?富をより多く持つ者がいたとして、それがうまく社会資本の充実につながるように富を効果的に再投資する文化的・制度的メカニズムが弱すぎるということはないだろうか?
たとえばアメリカは、驚くべき富を成功者が手に入れることができる社会だが、他方では、成功者が財団なりを作ることによって富を社会に再分配する慣習が生きている。上記のようなむき出しの優勝劣敗の論理としての「自由競争万能主義」は、アメリカにおいても一面的であり、森田さんの指摘する「小泉政権による日本のアメリカ化」は、実はアメリカ化ですらないということになる。それは、アメリカ以上に不平等がすすみ、日本社会を機能不全に陥らせることになりはしないだろうか。
ちなみに圏外からひとことさんの5月15日のエントリー負ける権利には、面白いことが書かれている。

負けないようにせかさないと、人は勝とうとしないものなのか。敗者を非難して居心地を悪くすることしか、人を競争にかきたてる道はないのか。
むしろ、負けても安心して生きていけるようにして、負ける権利を認めることが、本当の競争社会につながるはずだ。
(中略)
人を安心させると怠けると言う人は、勝ったことのない負け組だと思う。人は、生きて呼吸をしているだけで、世界に歓迎してもらう権利がある。それ以上のことを望む人は、神様よりえらいのか?
安心して負けることができてはじめて、安心して努力できるのであって、みんながそれをできるのが、本当の競争社会である。
(中略)
個性と個性が火花を散らしてぶつかる、そういう社会を僕は望むけど、そこへむかう第一歩は負ける権利を認めることではないだろうか。

これと似たようなことを、小生の知人の科学論者Steve Fullerが、The Governance of Science: Ideology and the Future of the Open Society (Open University Press, 2000)で論じている。これは科学、あるいは学問という営みについてのものだが、『開かれた社会とその敵』を著したK.ポパーの後継者ポパーリアンを自称する彼の議論のポイントは、「誤りを犯す権利(the right to be wrong)」を認め保証することこそが、開かれた自由な社会の根本原理だということにある。以前に彼が来日した際のシンポジウムの配布資料として、小生が訳した彼の同書紹介をコピペしておこう。(ほんとは翻訳の話もあったんだが、小生らの怠慢で立ち消えになっている。。)

「科学」と呼ばれる知識追究の営みは,過去100年間に,おそらくその歴史上かつてないほど重大な様変わりを経験しました。 しかしながら,科学を取り囲む政治的なレトリック―とくに,開かれた社会というイデオロギー―はほとんど変わらないままです。本書の最初の二つの章では,このレトリックを使い続けることによって覆い隠されている事柄が明るみに出されます。
第1章での議論の枠組みは,自由主義(liberalism),共同体主義(communitarianism),共和主義(republicanism)という三つの政治理論によって形作られています。開かれた社会は,共和主義的な体制でのみ可能であり,そこでは,自由主義や共同体主義と異なって,アイデアを賭けることと命を賭けることとのあいだに明確な区別が設けられています。この区別によって,開かれた社会の根本的な原理である「誤りを犯す権利(the right to be wrong)」が保証されるのです。
第2章では,このような開かれた社会の基礎を定義することから,科学の営みが「巨大科学(Big Science)」と今日呼ばれるかたちに変貌していくにつれて,どのようにこの基礎が掘り崩されてきたかを示すことに主題を移します。今日では,あまりに多くの事柄が,組織化された探究活動に密接に結びつけられているために,この活動が,開かれた社会の理想が要求する規模の限界内に留まって機能することができなくなっているのです。
第2章の結論は,科学を一般市民に開放するための戦略として,「科学リテラシー(科学の専門的内容に関する教養)」の普及を行うというやり方は拒否されるということです。この戦略によってできることは,せいぜい,科学への一般市民のより広範な参加を可能にすることなく,科学に対する受容的態度を確かなものにすることぐらいなのです。科学リテラシー運動の最近の人気は,科学が直面している中心的な政治的問題が,一般市民の何らかの「知的な」欠陥を治療することで解決される問題として扱われる傾向の強さを物語っています。
西洋の歴史において大学は,知識生産の過程と最も密接に結びついてきた機関です。事実,西洋が為した知的貢献の多くが,この機関の幸運に基づいていることを示すことができます。第1章で導入した政治理論の用語を用いれば,大学は,学問的営みの規模と範囲が変化するのに応じながら,共同体主義というスキラの巨岩と,自由主義というカリブデスの大渦巻きに挟まれた困難な海路にある共和主義の道を辿ろうとしてきたのです。共同体主義は,大学のギルド的性格に現れており,極端なかたちでは,1870年以来のドイツやアメリカの大学において「学問の自由」に任されてきた自己検閲の形態をとってきました。このような傾向の最たるものは,「政治的正当さ(political correctness)」をめぐる近年の論争のなかに見ることができ,この問題は,第4章での「文化多元主義(multiculturalism)」という題目のもとで論じられます。他方,自由主義は,大学を,科学者自身のアイデンティティを構成するものとしてではなく,ビジネス実業を行うのに比較的効果的な空間とほとんど変わらないような場所として扱う,とりわけ実験科学者の傾向に見ることができます。今では,さまざまな程度でほとんどの専門分野に感染してしまったいるこのような態度の問題については,現在進行中の学問的生の「資本化」の一部として,第5章で扱われます。
今日では,科学をその社会的次元に注目して理解しようとするどんな試みも疑いをもって扱うことが,科学者たちにとって普通になっています。しかしながら,その原因は,科学社会学者の動機にあるというよりも,むしろ今日の科学が自らを見出している特定の社会状況にあります。結局のところ,世俗化された世界において科学が合理的秩序の源泉として機能するのを可能にしてきた諸条件は,それら自体が丸ごと社会的なものなのであり,古典的な社会学者によって堅固に擁護されてきたものだったのです。けれども過去100年間に,科学の社会的性格は,第1章から第5章で論じたようなかたちで重大な変貌を遂げてしまったのです。
最後の三つの章では,科学がすでにさまざまな形で利害と結びついており,現代の民主的社会の強さと弱さを再生産するために物資面でも投資される営みであるという前提のもとで,科学的探究の共和主義的理想を再建することに話題を移します。
第6章では,全体の議論を特徴づける「世俗化」という戦略が導入されます。宗教の世俗化と同様に,ここでの要点は,国家による科学研究の助成を縮小すると同時に,個々それぞれ自身の助成基盤を見つけることが許された代替的な研究プログラムへの人々のアクセスを促進するということです。世俗化は,探究という営為の本性にとって,深遠な哲学的かつ政治的な含意をもっており,とくに,学問的生における教育ということに認められる刷新された意義づけに関してそうです。
第7章では,世俗化の先例を,アメリカ合衆国のニューディール政策のなかに求め,「国家の競争力」への要求が,私たち自身の時代における世俗化の理想の復権にとって障害となっていることについて吟味します。
最後に第8章では,科学を「内部から」そして「外側から」民主化するための二重の戦略が論じられます。短くいえば,巨大科学の時代において開かれた社会の共和主義的理想を実現するには,知識のフォーラム公的空間は,すべての専門的な知識生産者が,各自の専門領域が進む方向を決定する作業に参与できると同時に,一般市民が,そうした問題に関して自分たちがもっている関心と釣り合うかたちで,この決定プロセスに影響を与えられるようなものでなければならないということです。

この話は、「改革」の一環として最近行われた国立大学・研究機関の独立行政法人化の問題と直結している。小生としては、独法化そのものを否定するつもりはないが、実際に起きていることには、とんでもない矛盾もある。その一因は、競争が大事、研究成果が大事といいながら、競争や研究を正しく評価できない人々やシステムがあることにもある。(たとえばとある研究機関の責任者が、「図書館なんかに行くな」とか「9時から5時までデスクにいなければ研究していると見なさない」というトンデモな見識の持ち主で、その結果一つの研究センターが発足一年でお取りつぶしになり、若手研究者が路頭に迷うことになったという、小生の身近で起きた話とか、「目に見える成果」を焦るあまりか、大学院生の研究が小粒になり、狭い分野のさらに狭いテーマにしか取り組まない者が増えてきていて、現実社会で必要とされる学際的なテーマに学生が興味を持ってくれないという話などは、いずれ書いておきたい話である。)
現代日本、あるいは現代世界における「開かれた社会の敵」とはいったい誰なのか、そのイデオロギーとは何なのか、ちゃんとみんな見抜こうね。

 

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