国の責任/個人の責任―再び自己責任論批判

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しばらくこの話題から遠ざかっていたが、ちょっと以前のエントリーを読み直して思いついたことをちょっと書いておく。
4月22日のエントリー「NGOのリスク管理と自己責任」その他で、「国民の生命と財産の保護は国家の責務」と書いた。これを読み直して思ったのは、では、実際どの程度まで、政府は保護措置をとるべきなのか、とれるのかということだ。それにはやはり限界があり、この「救出能力」を超えたところは、個人の責任の範囲にならざるをえないのではないか。このように考えておかないと、あたかも「無制限の救済義務」を政府に要求したり期待するような論理になり、「国家万能主義」的な過剰なパターナリズムの裏返しになってしまうと思うのである。国には救済義務はあるけれども、われわれ市民は、市民として自律/自立した存在でなければならない。


では、政府の救済能力に限界を定めるものは何だろうか?一つには、主権の及ばない外国での救出活動の限界ということがある。第二に、政策のプライオリティやリスクトレードオフの観点――あるリスクに対処することで別のリスクが立ち上がることがあるため、どのリスクにどの程度の対処をするかはトレードオフの判断になる――から、「ここまでしかできない/ここまでならできる」という限界画定の判断――根本的には民意に基づくものであっても――がなされうる。今回のケースで言えば、「自衛隊撤退はしないが救出活動を然々の形・レヴェルで行う」という判断がそれだ。
もちろん、その判断自体の正当性は常に問われうるものだけれども、いずれにせよ政府の判断は、政策間のプライオリティやリスクトレードオフという拘束条件の下でしかできないし、そうしないとすれば、多数の政策決定・実施を行う主体として、逆に無責任だとさえいえる。そして、この拘束条件によって限界を画された政府の救出活動の能力では及ばない範囲のことは、個人の責任の範囲にならざるをえないのである(それ以上を要求するのは単なるパターナリズム)。
しかし、だからといって今回持ち出された「自己責任論」が肯定されるわけではないのは、やはり確認しておかねばならないだろう。つまり、まさに上のような拘束条件の下で行った「自衛隊撤退はしないが救出活動を然々の形・レヴェルで行う」という政策判断そのものは、政府がその権限において行ったものであり、したがって、その責任はやはり政府にあるからだ。この点について、「NGOのリスク管理と自己責任」でも紹介したNGOの安全問題専門家の大原明子氏は次のように述べている。

記者: 三人の責任論に議論が行っています。
大原: 救出費用を三人に請求すべきなどというのは信じられない議論です。大々的な救出劇は自衛隊派遣の今後にかかわる重大な国益だと政府が判断して行ったはずです。そうでないなら、初めから違った対応をすべきです。渡航の自由の制限もNGOの発展を妨げます。
(中略)
記者: NGOの安全について欧米各国の対応は。
大原: 国民を守らなくては国家とは言えません。ただ、対応は状況によって違います。NGOはODA(政府開発援助)などにもかかわっているので、国の利益を担っている存在と認識され、危険な場合は国益として守ります。一方、退避勧告を無視し紛争地で活動しているような個人活動家は自己責任。国は基本的には関与しません。ただ、実際は人道的見地から対応しています。

最後の「人道的見地から対応」というのは、フォーマルには社会契約による国家の国民救済義務の上からの対応と考えるべきではないかとも思うが、政府と個人それぞれの責任の有り様を考える上で、重要な指摘ではないだろうか。
そして、もう一度翻って、個人の責任とは何かといえば、それは決して「自己」責任だけに集約されるものではないだろうと思う。いわゆるネオ・リベラリズム(新自由主義)のコンテクストで90年代に日本で登場した「自己責任」という概念の「毒」は、バラバラになった個人そのものに責任を――それが個人に負いきれるものか否かに拘わらず――負わせるところにある。その基本的構図は、「国」と「個人」(経済分野では「国」と「民間企業」)という二つのレヴェルの間で、財政的事情その他(経済分野では国内外からの規制緩和要求)により、国がまかなってきたものをいきなり個人/民間に投げおろすという構図だ。
もちろんそれには、個人や民間のイニシアティブとそれに基づく創意ある実践・活動に権限委譲・エンパワメントを与えるというプラスの意義があるのはいうまでもない。2000年12月に発表された「行政改革大綱」にもそのことは謳われている。
しかし、このプラスのポテンシャルを活かし、個人がその権限を活用し、責任を果たすのを可能にするためには、何よりも、国と個人の間の(市場とも違う)中間レヴェルの「公共」的空間、つまり市民社会の連帯性が不可欠である。数ある個人の責任の一つは、このような市民社会の絆をどう作り上げていくか、そこからの呼びかけにどう応えうるか――respnonse + ability――にあるといえるだろう。つまり、政府ができないこと、政府の能力を超えたことは、個人と、その絆の力でカヴァーするというのが、民主的社会の責任原則なのではないだろうか。
ちなみに今月号の『世界』には、人質事件の救済に尽力し、このブログでも紹介した在仏のコリン・コバヤシさんの「世界市民は何をなしえたか」が掲載されている。長年のパレスチナ支援運動や、あるいは最近では世界社会フォーラムで築かれたNGOの国際的ネットワーク、そして個人のレヴェルでもアル・ジャジーラ放送にメッセージがたくさん寄せられたことなど、人質解放に向けて示された市民社会の絆についての報告である。コイズミ首相の「テロリスト発言」は、本当に現地では大顰蹙で、大きな障害だったなどの問題を除けば、きっと政府の中の人も、政府にできるうる範囲で責任を果たすべく、いろいろがんばったのだろう(少なくともそう信じたいぞ)。しかしそれと同時に、その能力の範囲を超える部分での市民社会の「責任」の取り方も――それが事態の解決にどのくらい寄与できたかは、政府の寄与と同様に検証できないが――そのかたちがはっきり示されたといえるんじゃないだろうか。(一番の解放への寄与は、やはり高遠さん自身がこれまでにイラクでやってきたことだとは思うけど。)

 

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