マスコミはどんな答えが欲しいのか?―「自己責任」は思考停止のマジックワード

投稿者:

さきほど読売テレビ(関東では日テレ)の「きょうの出来事」を見ていて、ふと思った疑問。
今日の夕方行われた郡山さんと今井さんの記者会見に触れて、「自己責任論の問題についての解決はなかった」みたいなことを、そのニュースの中と、番組の締めで述べていたのだが、では、そのようにいうキャスターらは、いったいどのような答えを期待しているのだろうか?どんな答えが返ってくれば、「答えられた」ことになるんだろうか?


たとえば、危険な場所に取材や支援活動に行く場合には、家族に、「たとえ向こうで拉致されても、助けなくていい。自力で脱出して必ず帰ってくるから、国にも救出を訴えないでよい」とか、あるいは「探さないでください」(これじゃ失踪するときの置き手紙か・・)とか、遺書でも書いていけばいいということだろうか?まぁ、それなら、特に一つめの答えならば、わからなくもない。自分がその立場で、どうしてもいかねばならないとなれば、それが自分の仕事、すべきことだと思うならば、きっとそう言っていく――必ず帰ってくるから信じて待っててくれという約束も含めて――だろうな。そこまで含めた覚悟を持って行け、ということでもあるだろう。
しかし、果たしてマスコミが求めているのは、そういう答えなのかどうか、よくわからない。
考えてみれば今回の自己責任論の一番の根っこは、政府の責任回避の論理であり、そこで口にされた自己責任という概念そのものには実は意味内容はないのではないだろうか。内容がないままに、とにかく「責任」という記号を個人に転嫁する。いいかえれば、本来は、個人に帰されるべき責任内容の他に、当然政府の側が負うべき責任内容もあるにもかかわらず、それを無理矢理個人に全部押しつけるのだから、内容が伴うはずがないのではないか。
そして自己責任という言葉がこれほど広く使われてしまった理由のなかには、この言葉そのものが結局、思考停止または思考負担免除のマジックワードだから、ということもあるのではないだろうか。
つまり、すべては拉致された本人たちのせいである、とすることによって、事件の背景にあるすべてのことについて考えずに済むのが「自己責任」という概念だからである。自衛隊派遣、米国のイラク戦争支持、その背景にある北朝鮮脅威論、その他諸々の、某少数野党政党や反戦運動、あるいはその対極にある与党のように、イエスかノーかはっきりと答えを出せない日本の政治状況について、そしてそこに否応なく投げ込まれ、判断を迫られているのに判断しきれない自己のもどかしさ――結局何をやっても政治は変えられないという現実またはそう思っている自分自身のむなしさもあるかもしれない――など、そういうゴチャゴチャしためんどくさいこと、イライラさせること一切を、自分から切り離してくれてホッとさせてくれるのが「自己責任」という言葉なのではないか。
もちろんほかにもいろいろ理由はあるにしても、こんなことも背景にあるのではと思ったりするのだが、どうだろう?
ちなみに自分的には、自己責任論に対する郡山さんと今井さんの答えには、やはり不満足な感覚を禁じ得なかった。どこか2人の肉声の上を上滑りした、よく準備された優等生の模範解答みたいな軽さを感じてしまった。2人の胸の内では、インタヴューで答えたような答え――それも彼らの答えの一つではあるのだろうけど――では総括しきれない、もっといろんなものが重なり合い、解きほぐせずにいるのではないだろうか。

 

1つ星 (まだ評価がありません)
読み込み中...