安田さん手記+ムジャヒディーンとのインタヴュー

投稿者:

イラクで拘束されていたジャーナリスト、安田純平さんの手記が東京新聞に掲載されています。

1.『墜落場所案内』…やられた
 2.国籍『日本』に『問題だ』
 3.チキンで晩さん 『ムスリムの客』
 4.『客人』一転スパイ容疑
 5.残る親日感情 救いに

これらからもわかるのは、安田さんたちを捕まえてたグループは、「武装勢力」と呼びうる集団と、それを支援し、自警団的な役割も担っている地域住民のネットワークからなっていること、この意味で武装勢力は、少なくとも地元住民的には正統性のある集団であり、おそらくそのメンバー自体も、外国から来た国際テロリスト組織なんかではなく、地元代表的な住民メンバーでありうること、従ってこれは、自衛のためのレジスタンス活動と考えるべきだということ(少なくとも地元住民の視点で見れば)、だろう。結果的にではあれ、安田さんたちは、貴重な取材体験をしたことになる。
こうした「レジスタンス」活動の増加・活発化の直接的背景は、米軍によるファルージャ掃討作戦――「掃討」される側から見ればただの「虐殺」――があるのはいうまでもないだろう。
この点について、益岡賢さんが、ムジャヒディーンとインタヴューしたNew Standard紙の特派員の記事「ムジャヒディーンとのインタビュー・政治学者の見解」を翻訳し、その前書きで次のように述べている。

27日、米軍機は、レジスタンス勢力に降伏を呼び掛けるビラをまいた。ビラには「おまえがテロリストなら昨日が最後の日だ」などと書かれている。ナチスドイツが、フランス等の占領地でのレジスタンスを「テロリスト」と呼んできたことを思い出す。
 米軍側は、「戦闘を回避する条件」として、レジスタンス側に重火器引き渡しを要求しているが、回収は進んでいない。状況を論理的に考えれば、当然だろう。既に米軍はファルージャで膨大な民間人を殺している。
 大量殺人者の側が「戦闘を回避する条件」を示すというのは倒錯している。実際に重武装し大量殺人者の側が人殺しを止めることが停戦の条件である。それなしに、レジスタンス側の武装抵抗は一時的にでさえ終わり得ない。悲劇的なことだけれど。
 こんなことは、間違っている。
 たった一人きりでいる早産しそうな女性を連れ出しに行く救急車を狙撃すること。家の門に出た非武装の男性を射殺すること。足を怪我して道に横たわる人の喉を掻き切って殺すこと。住宅地にクラスター爆弾を落とすこと。 そんな不当で残虐な占領に対するレジスタンスを「テロリスト」と呼び、自らの大規模な殺戮を正当化すること。
 そして、そうした国際法違反の残虐行為を行う占領軍の一員として、憲法に違反して自衛隊を派遣し、米軍兵士を輸送しておきながら、それを「人道復興支援」と強弁すること。そんな勢力に政治をまかせること。
マーチン・ルーサー・キング牧師は、次のように語ったことがある:「後世に残るこの世界最大の悲劇は、悪しき人の暴言や暴力ではなく、善意の人の沈黙と無関心だ」。

この記事では、ムジャヒディーンのほかに、イラクの政治学者ウォミデ・ニダル氏(バグダッド大教授)にもインタヴューしている。そのなかでニダル教授は次のように述べている。

別途レジスタンスのメンバーと行なう今夜の会談を予言するかのように、ニダル博士は言った:「イラクに対するアメリカの戦争は終わりました。今、私たちはイラクのアメリカに対する戦争をしているのです。イラクの人々が、自国のため、自分の家のため、自分の金のため、自分の命のために闘っているのです」。

もうひとつ、この記事の中で印象的だった――そしてあまりに哀しくなった――のは、この益岡さんの翻訳を紹介していたブログIraq Hostage Crisisでも引用されていた次のくだりである。「これは反乱ではありません。占領に対するレジスタンスなのです」、、「私は1年にわたり闘ってきていますが、アルカイーダの戦士を見たことは一度もありませんし、レジスタンスでアルカイーダが闘っているという話も聞いたことがありません」と語るインタヴュー相手のムジャヒディーン青年は、次のような「少年レジスタンス」の話を教えてくれたという。

ある12歳の少年について、彼は次のように語った:「この少年は、アメリカ兵が母と父を殺したのを目にしたためにレジスタンスに参加したのです。彼の父は戦士ではありませんでした。銃を持ってすらいなかったのです。塀から外を見ていたときに、米国人狙撃兵に撃たれたのです。それを助けに外に出た母親もまた、撃たれました。こうして彼は私たちのグループに加わり22人の兵士を殺したのです。兵士たちは彼のことを恐れています。彼は一人で攻撃を加えるからです」。

これと響き会う証言が、上記の安田さんの手記にもある。安田さんたちを拘束していたグループの青年は、彼が米軍に抱く憎しみについて、次のように告白したという。
「おれは以前、友人と道を歩いていただけで米軍に拘束され、刑務所に一カ月入れられた。連日暴行を受け、ある日、個室に入れられて服を脱がされ…。何をされたのか想像してみろ。おれの人生は終わった。やつらに復讐(ふくしゅう)するだけだ。お前が同じ目にあったらどうする!」
ここでは、一般の新聞紙面ということを考慮してか、表現をぼかしているが、昨日ここでも紹介した安田さんたちの海外プレスとの記者会見では、この青年が「米軍兵士にレイプされた」ということを、ためらいがちながらも明らかにしている。
こんな暴虐、屈辱を受けてもなお、理性が闘いへの情念、あるいは狂気に変わるのを押さえられる人はそうそういないだろう。自分だって、そんな目に遭えば、どうなるかはわからない。しかも、このような悲劇は、日々、いや時々刻々、国中の同胞たちに襲いかかっているのであり、自衛の闘いに打って出ることは、国際法でも正当化された行為でもある。他方、米軍兵士の行為は、この青年を捕虜としてとらえたならばジュネーブ条約違反だし、民間人としてとらえたとしても、同様なのはいうまでもない。けれども、米国は、そういう戦争犯罪を裁くための国際刑事裁判所に関する条約を批准していないため、この犯罪を裁くことはできなかったりする。あまりに理不尽。
しかしその一方で考えてしまうのは、こんなことまでしてしまう米軍兵士の狂気の由来だ。その兵士だって、本国では気のいい兄ちゃんだったかもしれない。彼を狂気に追い込んでいるのは、戦争の恐怖とストレスだろう。戦争は人間がするものであり、昔からずっと続けてきたことでもあるが、正気でそれを遂行するには人間一人一人の精神は、あまりにもろいのかもしれない。
The war is what men do, but humanity is not made for doing it.

 

1つ星 (まだ評価がありません)
読み込み中...