昨日、とあるところで見かけた神奈川新聞の記事の見出し。
『政府のリスク管理に責任 人質事件 予想できた』
NGOの安全問題専門家の 大原 明子さん
う~ん、この「大原明子さん」って、もしかして小生の大学のときの友達じゃないだろうか?
確か、小生が京都に引越してくる前に「今度、コソボに援助に行ってきます」とメールくれて、「劣化ウラン弾に気をつけてなぁ」なんて返信してから、ずっと音信不通になってるんだけど、年齢もあってるっぽいし、たぶんそうなんだろうな。
それで、この記事(大原氏へのインタヴュー)の内容なんだが、面白かった、というか、ここのところもやもやしていた「自己責任論」の一端について、実にすっきりした見通しを与えていると思われたのが、以下のくだり。ここのところ、なりふり構わない政治家と保守系メディアのバッシングが繰り返される一方で、パウエル長官やLe Monde記事をとりあげることで、人質になった高遠さんたちを変に美化しすぎるのも収まりが悪いなぁ、と思ってたところだったので、これでかなりすっきりできた気分。
記者: 純粋に安全面からすると三人の行動は?
大原: イギリスで今月初め、十数カ国からNGOの安全担当者ら二十数人が参加した会合があり出席しました。イラク情勢も検討しましたが、すでにほぼ全域が戦地であり、援助団体は撤退すべきとの結論でした。未成年や女性は心身にダメージを受けやすいので単身で行くのは無謀です。ジャーナリストに関してはコメントする立場にありません。
記者: ただ、プロのNGOはリスクを把握して積極的な活動をしている。
大原: 代表的なNGOは、人質になった際など、あらゆる事態を想定して対策を立てています。研修も受けさせますし、活動地によって誘拐保険など各種の保険にも入ります。善意だけでは駄目で技術と知識が必要です。
う~ん、なるほど、プロフェッショナルなNGOは、ちゃんとリスク管理、危機管理のための訓練も受けているわけだ。ちなみにちょっと脱線するが、欧米などのデモ行動とか見てると面白いのは、ふつうの人でも(デモに参加してるだけで、ふつうじゃないかもしれんが)けっこう「非暴力訓練」を受けていると思われる人が多いこと。たとえばイラク戦争開戦前の2003年1月18日、首都ワシントンDCに50万人が集まったデモ行進――ラムゼイ・クラーク元米司法長官やアカデミー女優ジェシカ・ラングのスピーチが超カッコイイ!――のビデオ(『No War on Iraq 1/18ワシントン50万デモの記録』)を見ると、警官たちが座り込みする市民をどかそうとするときに、みんな脱力して”非暴力不服従”でアピールしてる。日本だと、そういうのってすぐ乱闘とかになっちゃう――そういうのがイイ!と勘違いしてるブサヨが多い――ような気がする。やっぱ、公民権運動、ベトナム戦争反対運動を勝ち抜けてきた国の市民は違う、なんて単純に感心したり・・・
で、話を戻すと、要は、今回の高遠さんたちの行動は、善意に基づき、リスクを承知で傷ついた人たちのためにイラクに入ったことは、たとえばパウエル長官やLe Mondeの記者がいうように、誇るべきことだと小生も思う。とくに高遠さんのように、戦争孤児で傷ついた子供たちの心を開くなんてことは、やっぱりすごい。しかし、それでもやはり「プロフェッショナルなNGOに求められるもの」という観点からは、やはり無謀で大甘なところがあったということなんだな。まぁ、米軍のファルージャ攻撃(=虐殺ともいう)のせいで、急速に事態が悪化した時期とタイミングが重なってしまったために、その変化を彼女らは見抜けなかったというある種の不可抗力的なところはあるにしてもね。個人的な支援を行う場合でも、情報収集力・分析力のあるNGOと連絡を取りながら判断するようにしないといけないのだろう。(まぁ、それでも、たとえば燃えさかる炎の中に人助けに飛び込んじゃうみたいに、どんなにリスクがあっても、援助の手をさしのべてしまうというのも人情なんだろうけど。)
そんなわけで、リスク管理に大きな穴があった点で、彼らは自己責任を問われても仕方ないと言える。
しかし、だからといって、政府に全く責任がないとか、「(政府が)迷惑をかけられた」とかいうのは、ここで何度か書いてきたように、まったくのお門違いである。米国追従や自衛隊派遣がリスクを高めたという点は度外視するとしても、そもそも近代国家として、(思想・信条が政府と異なるなど)いかなる理由があっても、国民の生命と財産の保護は国家の責務だからである。たとえば外務省は、海外にいる邦人の保護をすることが、設置法でちゃんと定められている。
つまりこの国は、慈悲深く、しかしひとたびその怒りに触れればたやすくその民を切って捨てる専制君主の国――近くに似たようなのがあったなぁ――ではないのだ。国民主権のもと、選挙で選ばれた国民の代表者(representatives/delegates)と公僕(public servants)が、プロフェッショナルとして、国民の負託を受けて運営する近代法治国家のはずだ。為政者や役人――もちろん彼らも人間であり、面倒は避けたいし、気に入らないコトされれば怒ることもあるだろうし、その点は同情するが――の感情や都合で、機関としての国家の責務の範囲を勝手に限定したりすることはできない。ましてや、勧告には従ってはいなくとも、何ら違法行為はしていない個人をよってたかって攻撃するなんてことは、法治国家の体をなしておらず、子供じみている。まぁ、怒る気持ちはわからないわけでもないし、文句の一つも、「個人」としての気持ちとしてはいいたいのだろうが、「公人」たるもの、それを言っちゃあオシマイよ、だ。結局彼らには、メンツや体面はあっても、プロフェッショナルとして(その意味で)エリートとしての「誇り」はないんだろうかと思ってしまう(あぁ、情けな。。)。
それに、これまで、力があり、メディアにも影響力のある人間たちが、ただの素人――いわゆるプロ市民かもしれんが――相手にここまで必死に攻撃するなんてことがあっただろうか?それが、ただの素人にとってどれほど怖いことなのか、想像するだけで気がおかしくなりそうだ。同じ政治家同士なら、メディアを動かして刺す、なんていう「永田町の裏技攻撃」はいっぱい見てきたけど、こんなのオウムの麻原みたいな犯罪者――法的にはまだ容疑者だが――に対してだってみたことないぞ?それだけでも十分、いま日本がいかに異常な状態にあるかがわかるし、また、今回のような危機発生における政府関係者の狼狽ぶりもよく示されているといえるんじゃないだろうか。
ちなみに、このことは改めて書くつもりだが、「政府に無用な負担をかけた」(読売新聞)とか「通常の業務を阻害したことによる損害は大きい」(週刊現代で取り上げられていた政府関係者の弁)なんていうのは、「平和ボケ」以外の何ものでもないと思う。行政府の仕事には、平時の仕事と危機発生時の危機管理の仕事の二つがあり、両者はともに「お仕事」なのであり、そうした発言は、危機管理を想定外のものにしている平和ボケなのである。
これもまた、いずれ書くつもりだが、そもそも「自己責任」という言葉が日本社会で頻繁に使われるようになったのは90年代以降の経済低迷期に入ってからであり、しばしばそれは、相手に責任をかぶせることで、自らの責任を回避したり負担軽減するレトリックとして使われてきた。今回もまったく同じだ。
いずれにせよ、自己責任論の蔓延は、結局のところ、本来責任を果たす/とるべき立場のものたちが責任を回避・放棄し、責任を背負いきれない個人にすべてがのしかかる総無責任体制に行き着くのがオチだ(バブルとその破綻で日本中に迷惑をかけながらも、億単位の退職金をもらってる銀行経営者たちの自己責任はどうしたんだろう?)。想像をたくましくすると、たとえば年金もどんどん給付が少なくなって、そのうち「老後にお金が足りなくなるのは、ちゃんと高給を稼いで貯蓄していなかったあなたの自己責任です」なんて切り捨てられる日がやがてくるかもしれない(確定拠出型年金401kの広まりはその始まり)。年金論議をめぐって、政府関係者や保守系評論家の口からこの言葉が飛び出す日は、そう遠くないような気がする。
いま誰か他人に突きつけている自己責任論の刃は、ダイダロスの剣のように誰の頭上にもぶら下がってるってことを忘れちゃいけない。
なぜ日本の多くの人々は人質とその家族に対して怒るのか?
国の責任/個人の責任―再び自己責任論批判
しばらくこの話題から遠ざかっていたが、ちょっと以前のエントリーを読み直して思いついたことをちょっと書いておく。 4月22日のエントリー「NGOのリスク管理と自己責任」その他で、「国民の生命と財産の保護は国家の責務」と書いた。これを読み直して思ったのは、では、…
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