日本語トップページに戻る

What's New & Occasional Diary

更新情報 & 時々日誌

2004/2/25

トップページのNotice Boardに「米国BSE問題報道および行政リンク」に、Organic Consumers Association (US)の"Mad Cow Disease, Mad Deer Disease"のページへのリンクを追加。米国内のニュース記事が集積されていて、日本からは見えない米国内部の動向を知るのによい。

ちなみに先日書いた本ページの記事で、「今日の出来事」で取り上げられていた「BSEがみつからないような検査体制をしいているのだから、見つかるはずがない」という意見(BSE専門家の意見として番組では紹介されていた)は、番組に登場したのがそうだったかは不明だが、BSEの病原体とされる異常プリオンの発見者としてノーベル賞を受賞したスタンレー・プルシナー(Stanley B. Prusiner)が言ってることが、そこにリンクされている記事Nobel Laureate: USDA Testing Designed Not to Find Disease(元記事はThe Denver Postの2004年1月28日の記事"Scientist urges wider mad-cow tests")から分かった。ちなみに彼は日本好きで有名らしいが、先日は米国議会に対して「日本のように全頭検査をすべきである」と証言している。

2004/2/21

オンライン検索リンク集に、総務省統計局の新サービス統計データ・ポータルサイト(政府統計の総合窓口)統計GISプラザ(地理情報システム(GIS)を活用し、利用者の個々のニーズに合わせて、統計データを背景地図と共にビジュアル化して提供してくれる)へのリンクを追加。どちらも学生の卒論でも使えそうで便利なシステムのようだ。そのうち利用してみよう。

数日前に検索の途中にはてなアンテナの「おとなりのページ」というシステムを知る(←知るの遅い?)。はてなアンテナは、ユーザーがそれぞれの「お気に入り」のページを登録しておくと、それらを自動的に巡回して更新情報を知らせてくれるシステムなわけだが、「おとなりのページ」は、個々のユーザーのお気に入りのリスト(アンテナ)に登録されているサイトの重複度から、サイト同士の距離を計算し、地図化してくれるシステム。ネタフルさんというサイトの記事はてなアンテナ - おとなりのページの説明を借りると、

「たとえば、あるページをたくさんの人がアンテナに入れているとします。それぞれのアンテナには他のページも登録されているわけですが、アンテナに登録されているページが同じものが多い場合、重複度が多い=おとなり度数が高い=距離が近い・・・というわけです。そんな重複度によって気になるページの「ご近所さん」が地図で見ることができる機能ができました。」

ということだそうだ。もうちょっと詳しく説明すると、たとえば、あるサイトのページ(P0とする)が登録されているアンテナをA1、A2、・・・ANとし、それらのアンテナに登録されている他のページをQ1、Q2、・・・QMとする。このとき「PとQkの重複度Ck」とは、Pを含むアンテナ{A1、A2、・・・AN}全体で、Qkを含んでいるアンテナの数であり、「PとQkの距離Lk」は、Pを含むアンテナ数NからCkを引いたものとして定義できる。簡単のためにN=5、M=6として、表にしたのが下図である。ただし表中の距離は、地図化した場合にLk=0だと位置が重なってしまうので、Lk=N−Ck+1として計算してある。

おとなりさんの計算表

あとはこの距離にもとづいて、Pを中心にQkを配置した図を書けば、おとなりさんの地図が描ける。

ちなみにこういうウェブメトリクス(Webmetrics)の方法は、もともとは科学計量学(scientometrics)や書誌計量学(bibliometrics)の分野で「共引用分析(co-citation analysis)」を応用したものだ。アンテナへの登録ではなく、ページ間のハイパーリンク(インターネット版の「引用」)をもとにしても地図は描ける。(ちなみにGoogleで検索した時のランキングは引用分析の応用である。)

なお、ここのページと、トップページの「おとなりさん」の地図をリンクしておこう。

What's Newのおとなりさん
トップページのおとなりさん

2004/2/16

学年末恒例の試験とレポートの採点地獄。数が多いのもうんざりなんだが、必ず出てくる「決まり文句」にかな〜りげんなり。

小生の講義や演習だと、環境問題やその他社会問題についてのレポートが多く、その多くは締めが「これからどうするか」とか「私たちに何ができるか」という見出しになるのだが、その答えがほぼ間違いなく「一人一人の心がけが大切です」とか「一人一人の行動が大切です」という具合に、「一人一人」の個人主義に終始している。言い換えると、自分たちでNGO/NPOを作るとか、政治家にロビーイングするとか、行政や企業に働きかけるとか、そういう社会的アクション、政治参加の方向には思考が絶対向かわないわけだ。これって、たとえば欧米や第三世界で、同じようなレポート課題があったとしたら、どうなんだろう?と、ふと疑問に思ってしまった。

ちなみに前期の講義「科学技術と社会」では、社会問題におけるNGOや社会的アクションの重要性みたいなことも講義で取り上げた上で、レポート課題を出す際に、「必ず「自分たちには何ができるか」を考えて書いてください。ただし『一人一人の心がけ/行動が大切です』だけで終わっているものは減点します」とまでいったのに、後期になるとそのあたりはすっかり忘れていたりする。要は、根本的に自分の行動における「社会的次元」が欠落しているわけだ。

こういうのはやはり「戦後民主主義」なるものの大いなる弊害なのかもしれない。一言でいえば、それは「公共性の貧困」である。もちろん、こう言ったからといって、上から強要する「オオヤケニホウシスルココロ」「クニヲアイスルココロ」を唱えるミギーな人たちに与する気はさらさらない。要は、国家が公共性を独占していた(もしくは国家という公共性しかなかった)戦前・戦中社会を忌避するあまり、国家だけでは覆い尽くせない「公共性」そのものへの関与、市民的公共性まで含めた広い意味での公共性へのコミットメント――あるいは相異なる公共性のぶつかり合いへのコミットメント――を、全部否定してしまったのが戦後ではないかということだ。(ミギーな人たちは、所詮、公共性=国家となるから、たとえば愛国心にしても、下からの公共性、あるいはそこから発する愛国心を踏みにじるものになってしまう。)

・・・と書いたところで、そろそろ採点に戻らねば。。

2004/2/15

「最後の牛丼!!」ばかりでほとんど埋め尽くされた先週のBSE報道には、マスコミの無思慮・無責任さというのがにじみ出ていたように思う。いくら感染リスクは低いとはいえ、異常プリオンの摂取を促進し、リスクを上げるような行為に人々を扇動するとは。。。現在日本で出回っているアメリカ産牛肉は、特定危険部位の除去を義務付けられておらず、先日も書いたような事情から異常プリオンを含む部位の断片や飛散物によって枝肉が汚染されている可能性のあるものである。その点をまったく指摘しないまま、「いよいよ明日で最後の牛丼です」なんて煽るというのは、たとえ、これまでにもいっぱい食べてしまってるから五十歩百歩というのは考慮したとしても、バランスに欠けた報道といわざるをえない。

ちなみに今回の米国BSE問題について、日本政府が先月米国に送った調査団の報告や、日米欧それぞれの対策制度の比較については、食品安全委員会のウェブサイトのなかの米国におけるBSEの発生についてというページで公開されているので、関心のある人はぜひ参照されたい。

2004/2/11

トップページのNotice Boardに「米国BSE問題報道および行政リンク」を追加。なんだか、どんどん米国農業や検査体制の杜撰さがボロボロでてくるなぁ。以前に、とある研究会で仲間の研究者が、日本ではたかだか1頭5000円程度でできる全頭検査を米国が頑なに拒むのは、 もちろん業界利益擁護というのもあるが、そもそも牛の個体識別・生産履歴記録がちゃんとされておらず、全頭検査 の前提条件であるトレイサビリティ(追跡可能性)がないからできない というのと、実際に全頭検査した場合には、相当の数のBSE牛がいる実態が明らかになっちゃうのを怖れているからだと指摘していたが、そのとおりの事実が明らかになってきているみたいだ。。

まずトレイサビリティがないというのは、2月9日に、今回BSEが発覚した牛と一緒にカナダから輸入された81頭のうち52頭は結局行方が追跡できなかったため、米国農務省(USDA)は「調査打ち切り」を宣言したことから明らかだ。ちなみに、昨年12月30日にUSDAが発表したBSEの新対策や、その後の来年度予算計画には「生産履歴記録体制の確立」というのが入っていた。米国大使館の2003年12月30日のプレスリリース「ベネマン農務長官がBSEに対する追加の防御対策を発表」によると、「米国の多くの牛は、種々のシステムによって特定することができるが、米国農務省が検証可能な全国的動物特定システムを直ちに実施することも、長官は発表した。このようなシステムは、全国的なシステムとしての統一性、一貫性、有効性について、1年半以上にわたり確立されてきた」そうだ。しかし、81頭のうち52頭も行方がわからないようなシステムは「確立された」とは言わないだろう。そもそも今回行方がわからなくなったのは、記録書類が紛失していたり、耳に付けた認識票がなくなっていたりしたためだそうだ。そういうのは予算をつけたところで簡単に改善できるものではないだろう。

それから「検査するといっぱいいるのがばれちゃう」については、たとえば先ほど見た「今日の出来事」の特集が、なかなかすごかった。「BSEだと分かった牛は実は、へたり牛ではなかった」という、その牛を解体した業者のおじさん本人のインタヴューを皮切りに、「検査は解体業者がやってる」(つまり手前味噌もありうる)、「(BSE牛の可能性が高い)へたり牛は年間60万頭。検査するのはそのうちの4万頭だけ」、「BSE症状を見せる牛をこれまでたくさん見てきたが、一度もそれが検査に回されたのなんか見たこともない」、「これ全部除去しなくちゃいけないのか・・」(解体業者の声)、「アメリカが検査を拒むのは、技術的問題ではなく、すればたくさん出てくるからだ」、「BSEがみつからないような検査体制をしいているのだから、見つかるはずがない」などなど。これらから、まず疑われるのは、米国では、検査すればBSEだと発覚してしまう可能性が高いへたり牛は検査せず、代わりにその可能性が少ない非へたり牛を検査しており、そして今回たまたま、その少ない可能性の中から当たりを引いちゃった、というストーリーである。

また「これ全部除去しなくちゃいけないのか・・」という解体業者の声も意味深だ。裏返せばそれは、今までそんなことはやってないということ、そしてやろうとしても大変だということを意味している。ちなみに米国政府の新対策が「特定危険部位の除去」を義務付けるのは、30ヶ月齢以上の牛だけであり、日本の全頭検査でBSEだと判明した21ヶ月齢の若い牛は対象外である。

さらに最初のおじさんは、こんなことまで言っていた。「解体する時は背骨をチェーンソーで切り裂いている。そのとき油でチェーンソーの切れが悪くならないようスチームを噴きつけながらやっているから、背骨の中身が飛び散って肉についてしまう。洗ったってあんなのおちないよ。」 う〜ん、それってイギリスでかつてやっていた方法じゃないか。。まぁ、さすがにこれは今後は禁止されるみたいだが、国が「禁止」することと、実際に行われなくなることは別のことである。

現に米国では、97年に牛の肉コップンの牛飼料への使用を禁止しているが、滋賀医科大学動物生命科学研究センター]の記事「アメリカのBSEについての論説「牛が農務省を飛び越えた」によれば、「2001年の会計検査院の調査では禁止された肉骨粉を取り扱うアメリカの飼料会社やレンダリング会社の1/5は牛の餌への混入を防止するシステムを持っていなかった。最大の肉牛生産州のひとつ、コロラド州の飼料製造業者の1/4以上はBSE防止のための肉骨粉禁止の対策を、実施4年後でも知らなかった」、「2002年の会計検査院の追跡調査ではFDAの点検成績には大きな欠点があり、肉骨粉禁止令の遵守状況を評価するのに用いるべきではないと述べられている。事実、英国が肉骨粉禁止を発表して14年後でも、FDAは牛のレンダリングと牛の飼料を製造している会社の完全なリストは持っていなかった」そうだ。また同記事は、次のようにも指摘している。

アメリカの牛を検査する代わりに、アメリカ政府は合衆国にどれくらいBSEの危険性があるかを調べたハーバード・リスク分析センターの仕事に大きく頼っている。先週、農務省はこのハーバードの調査結果をふたたび強調したが、よく見ればこれらの成績は慰めにはならない。総合的で良く計画された調査ではあるが、これらはどれくらいBSEが広がっただろうかというコンピューター・モデルにもとづいている。どれだけ正確かは、元になった仮定に依存している。「我々のモデルは正式の確認にはならない」、「それはBSEの侵入とその後の出来事について対照を設けた実験はないためである」と、ハーバードの報告書は述べている。残念なことに、我々が実際に必要とするのは「正式の確認」である。そして、それはアメリカの牛について広範囲の検査をーーとくにファーストフードのハンバーガーの大部分に用いられ、BSEリスクが高い乳牛にとくに焦点を合わせてーー始めることである。

 

それからもう一つ興味深いのが、「エール大学神経病理学科外科部門の研究チームの検討を含め複数の研究で、アメリカでアルツハイマー病あるいは痴呆症と診断されていた患者の3〜13%が、実際はクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)に罹患していたことが判明した」というニュースMad Cow: Linked to thousands of CJD cases?。このニュースはさらに、この研究によれば、これまでBSE由来の(人間の)CJDは変異性CJD(vCJD)だけだと考えられていたが、BSEは、これまで無関係とされてきた散発性CJD(sporadic CJD)の原因でもありうるという。実際、BSE牛が見つかっているイギリスとスイスでは、最初にBSEがイギリスで見つかった1986年頃から散発性CJDの増加が見られるのだという。ちなみに米国のアルツハイマー病患者は400万人、痴呆症は数十万人いるため、それらのなかで実はCJDでありながらも、CJD患者数の公式統計から漏れている患者数は12〜52万人という計算になる。いったいこれらのうちどれくらいがBSE由来なのか。けっこう無視できない数になるんじゃないだろうか。(参考:アメリカのBSE患者(vCDJ)は、年間9500名か?(荒っぽい計算ですが)←確かに荒っぽい)

最後にもう一点。BSEを過剰に危険視することには小生は批判的である。これまでのvCJD発生率を考えると、BSEのリスクはかなり低く、それよりリスクの大きい(もちろん発生する病気は違うが)食べ物は他にもいっぱいあるということが一つ(もちろん、そうだからといって対策の手を緩めてもいいというわけではない)。また牛だけに限っても、ファーストフードに使われる肉は、BSEでなくても、脂肪ばかりで肉質が悪く、健康に悪い。さらには、ここでも書いたように、現代のような過剰な牛食いは、環境にも悪いし、途上国の飢餓の一因ですらある。牛を食うなとはいわないが、多少は昔のように「ぜいたく品」扱いになってもいいんじゃないだろうか?

まぁ、なんにせよ農水省には、へんなところで妥協せず、とことんがんばって欲しい。そのうちアメリカは、これを通商問題にすりかえるという得意技を持ち出し、WTOに訴えてくるかもしれないが、そのSPS協定が参照する国際基準を作ってるコーデックス委員会の親組織FAOは全頭検査を推奨してるみたいだし、そもそも現在のアメリカの検査・解体処理体制では、とても国際基準に達しているとは認められないだろう。米国が敗訴するのはほぼ確実ではないだろうか。あとは日米の力関係次第となって、そこがかなり心配ではあるが、とにかくガンバレ、ニッポン政府、である。


閑話休題。最近気になってついつい覗いてしまう2ちゃんねるの「ニュー速」板のスレッドがある。詳しくはまとめサイトを見て欲しいが、この少女の話が真実だとすると(真実である状況証拠はこのスレッドでたっぷり出てきてる)、ほんとやるせない残酷な話である。セクハラ、アカハラなんてもんじゃない。スレッドのタイトルにあるように「鬼畜」の所業だ。

2004/2/3

なんだかあっというまに2月が来てしまった。年度末が近づき、あれこれ事務仕事増大中。学術振興会の「人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業」の研究委託金の事務処理のほうも、ようやく学内事務処理の書式がそろいつつあるが、これをルーティン化して、事務バイトに任せるには、もう少し作業フローの整理・文書化の作業が必要。そういう作業は、意外にやってて楽しいのだが、なんだかそれは、別の仕事からの逃避(?)の悦びであるような気もする(苦笑)。来週は、いろいろ備品等の見積もりとったり発注もしなくっちゃ。(このあたりは○○君にまかせるか?)

自衛隊派遣は粛々と進んでいく。その反面、政府サイドの「説明」は相変わらず説明になっていない。衆議院では、与党議員による「採決動議」の提出で、ジミントーお得意の「強行採決」までするし。説明という行為は、本来、相手(質問者)が納得しなければ完結しない。もちろん意思決定というのは、多かれ少なかれタイムリミットがあるし、どうしても意見が一致しない場合や、単に質問者がゴネるだけの場合もあるから、程度問題ではあるのだろうけど、質問者の質問にちゃんと答えないまま一方的に与党側が審議打ち切りを動議で出すのはいかがなものか?たとえば、食品安全や原子力安全等でここのところ活発に行われてる「リスクコミュニケーション」の観点から言えば、マズイやり方の1つであるのは間違いない。たとえば公聴会みたいな場で、まだまだ質問や意見がいっぱいあるのに、「えー、そろそろお時間が迫ってまいりました」とかいって、後日に持越しすることも無く、主催者側・推進側が勝手に議論を打ち切ってしまったことが、過去どれだけ人々の不満と行政不信、企業不信を生んできたことだろうか。

ちなみに民主党議員が「万が一自衛隊員に何かあったときはどう責任をとるのか」と、「結果責任」について質問したのに対し、コイズミ首相は、終始「そうならないよう万全の備えをしている」「それが私の責任です」と、問題をいわば「事前責任」「遂行責任」の問題に完全にすりかえていた。それはいいかえれば「結果責任は知りません」ということを明言しているようなものだが、そういう態度こそ、リスクコミュニケーションでは最悪の応答である。リスクコミュニケーションにおいては、ここここにもあるように、人々にとって「万が一コトが起きた時、誰がどんな責任を取るのか、取れるのか」という疑念は常に根本的であり、それに対する答えが無いこと自体が、行政、企業、専門家への不信の一因になっている。それは裏返せば、科学技術もまた不可謬ではありえないこと、科学の無知、科学の誤りというのは常にありえ、だからこそ、万が一誤った時にどうするかは、とてもリアルな問題として人々に迫ってくるのである。ここで大事なのは、「可謬性の認識」それ自体は「不信」の表れではなく、むしろ当たり前の健全な認識――逆に「不可謬性」というのは、行政や政治についても科学技術についてもいわゆる「安全神話」「無謬性神話」という病でしかない――であり、可謬性を否認し、万が一の可能性とその結果責任から目をそらす態度こそが不信を生むということだ。コイズミ首相の答弁は、他方で別のところでは「自衛隊に犠牲が出るかもしれない」と「リスク」の存在を認めつつも、他方では旧式の「安全神話」「無謬性神話」の枠組みの答弁に終始しているのである。まぁ「結果責任」というのは、政治においては、なかなかはっきりいえないことが多いのも確かだろうけど、単に質問をそらすのではなく、何か言えよ、とは思う。

ついでにいうと、小生的には、「自衛隊のイラク派遣」そのものに、絶対反対というわけではない。条件付ではそれはアリだとは思う。1つには、「軍隊」としての自衛隊だけが行くのではなく、文字通り「復興支援部隊」として、インフラ復旧や地元の雇用創出、事業遂行のためのマネージメントや技術のプロフェッショナル、復興支援・援助関係のNGOを中心とし、その警護としてPKO的に自衛隊が加わったり、治安維持として警察官が地元警察に協力するというパターンはありだとは思う。いわばJICA(国際協力機構)+自衛隊というようなかたち。「民間人がいくには危険すぎる」という場合もあるかもしれないが、そういう場所でも現にNGOは入っていってるし、また、日本一国で考えず、他国とも協力・役割分担して、警護を厚くするというのもすべきことだろう。ちなみに防衛関係研究に進んだ大学の先輩は「自衛隊<サンダーバード>化計画」というのを本気で考えていたが、それってアリなんじゃないかと思う。

もう1つ大事な条件は、やはり「プロセス」の問題である。これにはいくつかの要素があるが、第一に重要なのは「大義」の問題だろう。今回の自衛隊派遣で、どうしても引っかからざるを得ない――そして、引っかかるべき――のは、一面でそれは、あくまで復興人道支援が目的であり、武力行使は目的にとっては随伴的(その意味で「リスク」)であるのは確かだが、それはあくまで「局所的正義」に過ぎず、コトの流れ全体を見れば、アメリカの大義なき戦争を支持したかたちで、ずるずると引きずられていってる(と同時に、この際に一気にコトを進めたいというタカ派の鼻息が荒そうだ)ということだろう。そして戦争支持にしても自衛隊派遣にしても、そうしたアメリカ追従は、所詮、首相自ら明言しているとおり「北朝鮮の脅威からアメリカに守ってもらうため」など、自国のことが第一で、「イラク国民のため」なんてのは付け足しに過ぎないんじゃないかという点も、そうだろう。それに「日本が攻撃されても国連は守ってくれない。アメリカしか頼りにならない」なんていうコイズミの発言に見られる極めて「1次方程式」的な外交・国際関係観も非常に危うい。だいたい国連拠出金負担額がアメリカに次いで多く、全体の20%近くを占めてる日本が、他の国連加盟国にとってそんな程度のものというのは、もしも事実だとすれば、いったい今までどういう外交してきたんだ、と思ってしまう。今後の問題としても、そもそも他国が日本を攻撃するような事態にならないよう、また万が一攻撃されてもすぐ国連決議で国際的な日本防衛ができるよう、アメリカとだけでなく、東アジアの近隣諸国や欧州諸国、第三世界諸国と、信頼、友愛、そして利害の相互依存のあらゆる面で、ちゃんと関係作りを先ずしろよ、といいたい。国際関係を日米関係だけに還元し、多元連立非線形方程式を1次方程式に単純化するところからは、日本の安全保障は確立できず、むしろ、アメリカがやる戦争にずるずるついていかざるをなくなり、特にテロリストにとってはアメリカと並ぶ(しかしフィジカルにもインテリジェンスの面でも圧倒的にソフトターゲットである)標的国にされるだけではないだろうか。今回のように、一応は「復興人道支援のための派遣」というかたちがつくうちはいいが、そのうち、戦争行為そのものにまで"Boots on the ground!!"とか言われたらどうするんだ?(「待ってました」と息巻く――しかし決して自らは"boots on the ground"しないですむ――連中もいるのかもしれんが。)本来複雑で、その分「可能性」や「選択肢」も多い現実を単純化しちゃうことで、可能性も選択肢も限られてしまい、「これしかない」というドツボに思考と行動をロックインしてしまう。コイズミの単純化思考とその発言は、そういうロックインの仕掛けとして機能している。ちなみに昨日のニュースで、どこかの高校生が自衛隊イラク派遣反対の嘆願書と5000名以上の署名をコイズミ首相に提出したのに対し、首相が「自衛隊は平和的に貢献するんですよ。学校の先生もよく生徒さんに話さないとね。いい勉強になると思いますよ」、「この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない。なぜ警察官が必要か、なぜ軍隊が必要か。イラクの事情を説明して、国際政治、複雑だなぁという点を、先生がもっと生徒に教えるべきですね」と、記者からの質問に答えたことが報じられていた。この答えが根本的に腑に落ちない――それはその高校生や署名した人たちも同様かもしれんが――のは、その「平和的貢献」や「治安維持」は局所的正義に過ぎず、全体の文脈はアメリカによる不当な戦争への支持と加担、そしてその「結果」の「後始末」じゃないか、ということだろう。「国際政治、複雑だなぁ」は、まさに1次元思考の首相自らがちゃんと「勉強」すべきことでもある。

もう1つプロセスについて大事な要素は、日本はあくまで法治国家であるということだ。法や規則、手続き正当性にこだわることは、確かに政治にとってしばしば足かせになることでもあるが、しかしそれは同時に政治が暴走しないための歯止めでもある。それをおろそかにして、法治国家の国制(constitution)の要である憲法(constitution)すら軽視して「なぁなぁ」でコトを運んでしまう国というのは、もはや法治国家の体をなしていない。確かに、世の中杓子定規じゃやってけないというのは、シンプルな真理だ。しかし、逆に言えば、杓子定規がすべてではないくらい現実というものは複雑で扱いにくいからこそ、杓子定規をあてはめ、カオスの中に秩序の島を創る必要があるわけだ。最近、自衛隊イラク派遣やコイズミ政権そのものに対する支持が高まっているという世論調査結果が出てきてるが、もう少しわれわれ日本人は、杓子定規や論理、言語の根源的な重要性と、それが政治(とくにコイズミ首相)によって破壊されていくことの危険性に敏感になったほうがいいんじゃないだろうか。

ちなみに今夜は、NHKスペシャル「陸上自衛隊イラク派遣―ある部隊の4か月―」の再放送を観た。そのなかで印象に残ったのは、ある隊員が、「万が一、正当防衛とはいえイラクの人を殺してしまったりしたら、自分は一生そのことを忘れられないだろう。その十字架をずっと背負っていくことになるだろう。だから、そんなことがないよう、まずは自分に攻撃されるようなスキを作らないよう努めたい」と言っていたことだ。いわば「不殺(ころさず)のための戦い方」の追求? ある意味「非暴力」の精神に通じるようにも思う。それは裏返せば、兵士であるにもかかわらず「殺す」ことの覚悟ができていないということでもあるかもしれないが、もう一度裏返せばそれは、「殺したくない」という他者の命への畏れ、殺してしまうことの恐ろしさ、罪("sin")深さの念のあらわれでもあり、殺すことに対する感覚が麻痺していない極めて人間的な心のあらわれでもあるだろう。確かに彼らは「兵士」ではあるが、少なくとも本来の職務である自国民(日本国民)の生命と財産の保護のためというのとは違う 目的のために借り出される「自衛隊員」の言葉として、ちゃんとその意味を噛みしめなければならないものじゃないだろうか。 (この自衛隊員の言葉を聞いて、次のセリフを思い出したのは小生だけじゃないかも。。「剣は凶器、剣術は殺人術。どんな綺麗事やお題目を口にしてもそれが真実。薫殿の言ってる事は、一度も己の手を汚して事がない者が言う甘っちょろい戯れ言でござるよ。けれども拙者はそんな真実よりも、薫殿の言う甘っちょろい戯れ言の方が好きでござるよ。」(和月伸宏『るろうに剣心』)まぁ、センチメンタリズムといってしまえばそれまでかもしれないが、こういう時代だからこそ、少しは立ち止まってみるべき言葉なんじゃないだろうか。)

2004/1/20

遺伝子組換え作物関連リンクにいくつか追加。「食料農業のための植物遺伝資源条約(ITPGR)」など。

米国大統領選のアイオワ州の民主党員集会は、ケリー候補が38%の得票でトップ、ディーン氏は18%で3位と大きく水をあけられた結果となった。「ディーンではリベラル(左派)すぎてブッシュには勝てない」と有権者が判断した、と分析されてるけど、もともと「中道」が世界標準で見たら思いっきり右よりだからね、少しは左がかってよと思ってしまう。だいたい「フセインがつかまったからといってアメリカがより安全になったわけではない」というディーン氏の発言が批判を浴びたってのが理解し難い。批判した連中は「フセインはアルカイダとつながっていて、9.11にも関わっていた」とか信じてるってことだろうか?ま、とりあえずブッシュを落としてくれれば、誰でもいいという気がするが。。あぁ。。

陸自隊イラク先遣部隊が今日未明、サマワ入り。とりあえず今のところ無事の様子。しかし、防衛庁および首相官邸サイドによる「報道規制要請」というのは、なんか「大本営発表」なんて言葉をリアルに思い出すほど、時代錯誤な代物だという気がしてならない。現地での朝の部隊長によるブリーフィングさえテレビ撮影禁止というのは、アメリカはばりばりにメディアアピールの場として公開してるのと比べると、明らかに過剰規制。もしかして防衛庁も政府も、出していい情報、出したほうがいい情報、出してはいけない情報の区別といった組織だった情報管理のノウハウが全然ないんじゃないだろうか?それで、とりあえず何でも「ひ・み・つ」としちゃうんじゃないだろうか。ついでにいえば、公開のものであれ機密のものであれ、情報記録管理も信用し難い。アメリカだったら(もしかして本当は違うかもしれないけど)その時点では機密扱いでも、やがて情報公開や、あるいは議員による国政調査権の行使などで詳しい資料が明らかになり、何が行われたかを後から検証できたりするかもしれないが、日本だと、もしかしたらそもそも記録を取らない、残さないことで、それすらできないかもしれない。まぁ、かつての薬害エイズ事件で、裁判所の資料の提出命令を受けても、散々「ありません」と言い続けてたのが、管直人が厚生大臣になったとたんにしっかり出てきたという例もあるから、記録だけは残される(死蔵される?)のかもしれない。いずれにせよ、昨年末に政府・与党に報告されたイラク調査団の報告書がA4たった3枚なんていうナメたのを見ると、政権交代でもない限り、なにはともあれ情報は出てこないのだろうなと思う。

ま、とにかく自衛隊、行っちゃったからにはちゃんと現地の役に立って欲しいものだが、自衛隊という枠組みそのものがそれに限界を与えていたりするから、それは高望みなのだろう。とりあえず、誰一人として死ぬな、殺すな!

2004/1/18

今日は朝から大学センター試験の監督。普段ほとんどパソコンで仕事している(しかも原稿仕事がたまってる)自分としては、とっても苦痛な「ヒマ」な時間だった。で、ヒマつぶしにいろいろ問題を見てたら、最後の「公民」の時間の「現代社会」の問題を見ていろいろびっくり。なんと、「反グローバリズム運動」についての問題があったのだ。

第3問の問3。「…近年の急速なグローバル化の進展は様々な問題を引き起こしており、そのため世界各地で反グローバリズム運動が見られるようになっている。こうした事態に関する記述として最も適当なものを、次の1〜4から選べ」という問題。選択肢は、

  1. 反グローバリズム運動が批判の対象としているのは専ら多国籍企業であり、世界貿易機関(WTO)などの国際機関は批判の対象とはなっていない。
  2. 反グローバリズム運動への参加者には、開発途上国の人々ばかりではなく、先進国の人々も少なからず見られる。
  3. グローバル化により富める国と貧しい国との経済格差が拡大している面があるが、これは冷戦時代から続く南北問題とは関連をもたない。
  4. いわゆるグローバル・スタンダードとは、中立公平な国際機関の定めたものを指し、反グローバリズム勢力にも評価されている。

う〜ん、いったいこんなの誰が教えるんだろう?センター試験に出るってことは、文科省の検定にパスした教科書にも載ってるってことだよなー(たとえば1999年のシアトル・WTO第1回閣僚会議とかも)、とか、そもそもこの問題作ったの誰だ?とか、いろいろ考えてしまった。他にもイギリス・オックスフォードに拠点を置く貧困問題NGOのオックスファム・インタナショナルについての問題もあったりするし、それ以外でも「現代社会」では、男女共同参画社会や民主主義の原理(deliberative democracyについて)とか、いろいろ面白い問題があった。「倫理」の問題では、ホルクハイマーやフーコーまで登場してるし、自分が受験生だった頃と比べると、時代が一つも二つも変わったのかなーと思えてくる。

ところで、その「反グローバリズム運動」だが、実はちょうど一昨日16日から21日まで、インドはムンバイで、第4回世界社会フォーラム(WSF: World Social Forum)が開かれている。小生が関わっているATTAC京都からも2名の若手が参加(そのうちの一人は、あの川田龍平さんと同行してる)。英国BBCの記事"Report from the World Social Forum"や、Guardianの記事"Place in the sun for everyone - except George Bush, Coke and Windows"などによると、参加者は8万〜10万人、全世界130カ国から2500のNGOの代表者たちが集まっているという。Guardianのこの記事は次のように書いている。「…130ヶ国から世界社会フォーラムに集まった8万人の人々は、自分たちは騒々しいアナーキストなどではなく、より公正な世界を創造するための代替案を提供できることを証明しようとしている。」仏誌Le Mondeも、ビッグネームの参加者のプロフィールを紹介("Profils de participants au Forum social mondial 2004")するなど、好意的に伝えている。

そんなビッグで夢あふれるグローバル市民社会のイベントが盛り上がりを見せる中で、日本のメディアは完全にWSFに対して沈黙を決め込んでいるようだ。我が家は紙媒体では新聞をとっていないので、細かい記事は知らないが、少なくともオンラインでは、朝日、毎日、読売、日経のどれもが何の記事も載せていない。明日あたりはひょっとしたら、ニュース23くらいで取り上げられるかもしれないが、いくら日本社会におけるNGOの存在感が一般に希薄だとはいえ、この扱いというか「感度の悪さ」というのは、かなりあきれるぞ。

ちなみに、上記のセンター試験「現代社会」の問題について、読売新聞が載せている講評では、「反グローバリズムの動向を問う問3は、時事問題の関心を問うものとなっている」なんて書かれているが、メディアがまったく伝えてないのに「時事問題」として出題されちゃうのは、いかがなものだろうか?(まぁ、その程度の出題しかされないってことなのかもしれないけど。)

2004/1/15

うちのゼミの卒業予定者10名は、無事卒論提出。お疲れさま。

今朝、BSの米国のニュースで、大統領選の民主党候補のハワード・ディーン前バーモント州知事とゲッパート下院議員のキャンペーンの様子を報じていた。それを見ていてふと思ったのだが、今のところ一番人気で、候補者中唯一、イラク戦争への反対を明言しているディーン氏がもしも次期大統領になったら、わが国の首相はどうするんだろうか?

たとえば日米首脳会談か何かで、「ブッシュ政権が行ったイラク戦争は大義なき間違った戦争だった。ジュンイチロー、君はどう思っているんだい?」とふられたら、なんて答えるんだろう?対米追従、日米関係イコール国際関係な立場からいえば、ディーンに同意することになるはずだが、だとしたら、それまで頑なにブッシュを支持し、「アメリカを信じる」「イラク戦争は間違っていない」と散々吠えまくってたのと、真っ向から矛盾するわけだが。。。なおも「イラク戦争は正しかった」なんて言い返すのか?どちらにしても、見物である。

ちなみに明日16日には、陸自隊の先遣隊がイラク・サマワに向けて出国するという。規定路線どおり、やがて本隊も行ってしまうのだろう。行ってしまうからには、ほんとに現地の人たちの役に立って欲しいし、隊員たちが地元市民に歓迎されてほしいのが人情だが、しかし現実はなかなかそうはならなそうな気配。あちこちのニュースが伝えているように、現地の人たちが一番求めているのは、大々的な雇用創出とインフラや住宅の本格復旧。雇用は、(すでにオランダ軍がやってる)小学校の補修などで多少は作れるかも知れないが、80%ともいわれる失業率を大幅に引き下げるには、全然足りないだろう。なにしろ現地では、いつのまにか噂に尾ひれ背びれが生えまくって、「日本企業が来て俺たちを雇ってくれる」と特大の期待をしている人たちがいっぱいいるのだという。期待が大きいだけ、現実を知ったときの失望と怒りも大きいだろう。日本政府はその点を考慮して、復興資金の一部をODAとして供与(貸与?)し、公共事業を立ち上げて雇用創出を図れるよう、いろいろ準備をしている。いわば日本版ミニ・マーシャルプランというわけだ。それはそれで正しいことなんだが、急いで、かつ、十分効果的にやらないと、自衛隊に対する失望感はぬぐえないだろう。まぁ、どこかの米国企業のように、イラクに進出しつつも、雇うのはイラク人ではなく、もっと人件費が安くて済むフィリピン人労働者なんていう、あまりに露骨な「私企業の論理」をあてはめたりはしないだろうが。。。

2004/1/7

卒論の締切が迫ってくる。来週15日午後5時。もちろん小生のではなく、ウチの学生たちの。年末年始はなんだかんだ、学生たちが送ってくるドラフトへの赤入れに終始してしまっている。卒論指導は、ICUで師匠の助手をしている時代にちょっと手伝ったことがあったが、本格的なのははじめて。自由放任主義な師匠の下でも、それなりのものを仕上げてきちゃうICUの学生と違って、大半の学生は基本的に、こちらが手取り足取り教えないと、citationもちゃんとできない。ワードのいろんな機能(アウトラインレベルの設定とか、脚注機能とか、書式スタイルの設定だとか、そういう単純なものだが)も意外に使えない。

また、これはうちのゼミに限らず現代社会学部生全員に多かれ少なかれ共通することだが、基本的に扱うネタは現在進行形のイシューであり、したがって、モノにもよるが、1年から数年単位、時期によっては数ヶ月単位で物事が変化する。このため、一方で必ずおさえておかなきゃならない基本必読文献をふまえつつ、常に最新の情報を手に入れるように注意しないといけない。たとえば日本の遺伝子組換え作物の安全性審査体制についていえば、食品安全面では、2001年4月からは、食品衛生法が改正され、それまで法的拘束力のない安全性評価指針(ガイドライン)による審査だったものが、食衛法にもとづく法的規制にシフトし、さらには去年の7月からは食品安全委員会によるリスク評価の審査が加わった。環境面では、生物多様性条約バイオセイフティ議定書(カルタヘナ議定書)の担保法である「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律(カルタヘナ法)」が来月19日から発効し、これまでの文科省の実験指針や農水省の指針などもすべて廃止され、同法のもとでの規制体制に切り替わる。さらには、同法は野生の生物多様性への悪影響を防止するためのものであり、在来種の農作物とGM作物との交雑による影響は対象外であるため、現在農水省で、後者について「第1種使用規程承認組換え作物栽培実験指針」検討会で審議中である(くわしくは農林水産省・農林水産技術会議ゲノム・遺伝子組換え等先端研究に議事録等がある)。ところが、けっこう、2001年以前の話をまとめてるのがあったりして、「あぁ参照した文献が旧いんだな」と思って参考文献リストを見るとそのとおり。そのあたりの注意も含めて、情報収集の仕方とか、リサーチクエスチョンからアウトラインの作り方、パラグラフの作り方(ちゃんとトピックセンテンスを先頭にもってくる、など)など、それなりにいろいろゼミで教えてきたことも多いのだが、完全に見込みが大甘だった。まぁおかげで、来年度の指導用の教訓というかTipsネタがずいぶんとたまってきた。来年度(というか、もう春休みからだが)は、実際に作業をさせつつ、体に覚えこませながらやることにしよう。

まぁ、なにはともあれ、学者に限らず、人生なんて締切の連続のようなもの。みなさん、最後の追い込みの苦しさ、しっかり乗り切ってください。

閑話休題。

年末に、超久々に自宅の窓拭きをした。煙草のヤニで、とくに仕事部屋のほうはすっかり曇っていて、せっかくの窓の外の風景――近いところは雑然としたビルや家なみでゲンナリだが、東山が真正面に見えて、今日みたいな日は「東山に昇る満月」なんていう花札みたいな風流な光景が見られる――も台無しだったのだが、それがスッキリクッキリで、実に爽快になってしまった。しかもキモチいいのは、使った「洗剤」は、なんとただの「トニックウォーター」のみ。そう、酒屋やコンビにでも売ってるアレだ。それを霧吹きに入れて、窓にシュッシュッと吹きかけ、食器洗い用の普通のスポンジでシャカシャカとこすり、あとは窓拭き用のゴムベラで水をキュィっと拭き取るだけで、あれよあれよと茶黒い汚水が流れ落ち、透明な窓に大変身。ほんの40分ほどできれいに全部できてしまった。

ちなみに我が家では、一年程前から食器もせっけんで洗うようにしてるのだが、その一番の効果は、なんといっても洗い落ちのよさ。あれこれ最新の洗剤のコマーシャルでもネタに使われている「しつこい油汚れ」なんかも、効果てきめん。洗った後の手もべとついたりしない。それは魔法のようだ。今回のトニックウォーターもそうだが、現代文明(あるいは現代の産業経済)っていうのは、基本的に、「技術的遠回り」をわざわざすることで成り立っている部分が非常に多いのではないだろうか?逆に言えば、もしも窓拭きはトニックウォーターで大丈夫なんてことが普及すれば、それ用の洗剤を売ったり開発したりしている会社はたちどころに「魔法」が解けて窮地に陥るだろう。「脱魔術化」(M.Weber)という名の「近代の魔術化」からの再脱魔術化、なんていうモチーフのリアリティ、アクチュアリティをお茶の間で体験するにはうってつけのものだろう。

これに加えて、年明けにはもう一つ面白い(しかしうんざりもする)体験をした。元旦の午後、犬の散歩ついでに郵便局に年賀状を買い足しに行ったところ、大変空気がきれいで呼気が気持ちよかった。さすがに元旦で車がほとんど走っていないのだ。ところが翌日、別件で前日と同じく東洞院通を北上していると、すでに大丸ほか四条通界隈の店はオープンしていて、車もいつもどおりに渋滞気味に建て横の道につまっている。東洞院も例外ではなく、四条通を渡りちょっと北上したところで「うぅ、空気が悪いっっ」のに驚いてしまった。これがいつもの状態なのだが、その「異常さ」を元旦の空気は教えてくれた。

もうひとつ閑話休題。

年末に、春休み中に、うちの3年生のゼミ生と春からゼミ生となる2年生向けに「英語リーディングゼミ」を始めるために、教材の一つとして、鈴木克義『心を動かす英語』(三修社,2003年:CDつき)を買ってきた。これは基本的にはヒアリング教材なのだが、うちの学生たちの場合、あまりに頭に入っている英文の量が少なく、いきなりリーディングをやらせても、受験英語の「品詞分解」やら、いちいち単語を調べたりというアホなことをはじめてしまうに違いないので、まずはナマの英文を丸ごと暗唱できるようにしようという考えで買ってみた。(品詞分解するにしても、まずは意味のわかっている英文が頭に染み付いてなきゃ、効果は薄い。)学生たちが暗唱できるようになったら、次はリーディングスキルの練習として、米国のリーディング練習教科書として使われているReading Powerの基礎編をまず使う予定。これは300語程度の初級者用だが、スキャニングやパラグラフリーディング、(辞書を引かない)推測読みなど、英文読解、とくに速読の力が確実に身につく。まぁ要は、日本語でやっていることを英語でできるようにすることが基本で、いろいろシンプルな練習問題は、受験英語で染み付いた英語に対するへんな固定観念を一つ一つ解きほぐしてくれる。

で、『心を動かす英語』の内容なんだが、これがなかなか楽しい。この手の本の定番であるMartin Luther Kingの"I Have a Dearm"はもちろんのこと、アメリカ下院議会でただ一人、9.11テロに対する報復攻撃に反対したバーバラ・リー議員の演説や、イラク攻撃前に世界中に発信された「13歳のアメリカ人少女の反戦演説」、そしてアフガン攻撃、イラク攻撃いずれでも反戦歌として世界で歌われ、そして米国では「放送自粛」までされたジョン・レノンの「イマジン」の霊感の源ともいわれるオノ・ヨーコの「グレープフルーツ・ジュース」など、かなりポスト9.11を意識した構成になっている。またCDには入っていないが、囲み記事のなかには"Bowling for Columbine"でオスカー賞を受賞したマイケル・ムーアの受賞スピーチ"Shame on you, Mr Bush"もあり、小生としてはまずこれから憶えてみた。

ちなみに、英紙Guardianのサイトにある受賞スピーチの映像(Quicktime動画)で聞くと、若干、実際の発言とオスカー賞のサイトにあるスクリプトでは違いがある(単なる単語レベルの違いだけど、本質的な違いじゃない)。ちなみにオスカー賞のサイトにリンクされている動画は、授賞式後の記者会見の模様を映したものだが、これもけっこう面白い。冒頭である記者が「どうしてこの映画を作ったのか」という質問をしたのに対するムーアの最初の答えは、一言"I'm an American"。そのココロは、アメリカ人であることの理念、アメリカであることの核心は、「自由にものがいえる」、「自分自身でいられる」という良心の自由、思想信条の自由、表現(意見表明)の自由(freedom of speech)だということにある。もちろん現実のアメリカ社会は、それらの自由が常に脅かされ、とくに9.11以降は危機的になっているのが現状だ。しかし、権利もしくは「規範」というものは、第一にルーマンいわく「反事実的な期待」――あるいは「抗現実的な期待」――である。規範通りではない現実、規範をほり崩そうとする現実に抗して、規範を口にし、実行するところに規範の規範たる所以がある。規範にそぐわない現実だからこそ、それに抗する縁としての規範の存在意義があるといってもいい。そしてそれを単なる建前としてではなく、生きた言葉と行いとして表現できるというところ、現実があまりに規範から外れそうになれば、規範に立ち返って現実を正そうとすることができるところが、やはりアメリカ的なのである。どこぞの島国のように、「憲法は現実に合わない」の一言で、規範の理念の中身そのもの、理念としての価値そのものを議論することなく、現実に合わせて規範をずるずるだらだら変えていくようなのとは正反対である。ちなみに以前、調査でボストンのとあるNGOを尋ねた際に、そこのスタッフに誘われて参加したマサチューセッツ州の予防原則制定化運動のワークショップで、グループに分かれてあれこれ議論しているときに、ある参加者がちょっと口篭もっていたら、すかさず別の女性が一言"Freedom of speech"とささやいたのに驚いたのを憶えている。なんでそんなことに驚いたかといえば、日本でだったら、そういう場面で決して「表現の自由」なんてセリフは出てこないからだ。もちろん、そこに集まっていた人たちは、平均より政治意識の高い人たちなんだろうけど、日本では同じような集まりの場であっても決して"Freedom of speech"を、はげましの言葉としてさらりと使うなんてことは想像できないし、聞いたこともない。はっきりいってそれは「歯が浮く」セリフであり、使われるとすれば、もっと肩に力が入った場面でだろう。いいかえると、その言葉、理念の生きている文脈が違うのであり、もっと正確にいえば、アメリカ社会にはそうした文脈が日常の中に根をおろしているのに対し、日本社会にはそれがないということではないだろうか。

現在のアメリカ社会は、9.11の衝撃と、その後のブッシュ政権が発するウソともホントともつかぬテロ警戒情報――ムーフの言葉を借りれば"fictitious orange alert"――による度重なる内国民向けテロルによって、「生命の危険」という実に生々しいものの前で、自由という、それ自体は実体がなく、人々の反事実的・抗現実的な期待としてしか現実化されえないものが押しつぶされそうになっている社会である――「思考の自由」も含めて。そして日本も、「北○鮮の脅威」のもとで同じような事態に陥りつつある。それは極めて(アレントが分析した意味で)全体主義的な状況だといっていい。だが、もしも今後、アメリカ社会がバランスを取り戻すとすれば、それは、自由という理念の生きる文脈がどれほど深く人々の精神に根をおろしているかにかかっているといっていいだろう。そうした理念が生きる文脈をもつことは、「決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ」(ブルーハーツ『リンダリンダ』)ことであるに違いない。では、日本人はどうか?われわれにとって「決して負けない強い力」とは何なのか?きっとあるはずだが、それが何なのか、今はわからない。

2004/1/4

本当は三箇日のうちに更新しようと思ってたのだが、サーバーが停止していて、今日になってしまった。なにはともあれ謹賀新年。

さて、今年はいろいろ大変な年である。この場合「大変」というのは、英語でいえば"critical moment"という意味、雌雄を決する時、のるかそるかの重要な試練の年、という意味でだ。オリンピックはあるし、サッカーワールドカップの一次予選もはじまるというのもあるが、なにしろ今年は米国大統領選の年だ。プッシュが再選されたらと考えると、ほんと世界にとって悪夢である。イラクでの占領統治・復興における米軍・米国政府の失態続きのせいで、「これなら大丈夫かな」と思いきや、「フセイン、タイ〜ホ」で、いきなり支持率上昇しちゃうし、とても不安。毎日新聞の記事「米大統領選:一転、ブッシュ再選ムード 景気、イラク波乱含み」によると、米ギャラップ社(同12月15、16日調査)によれば、大統領選がブッシュと、民主党候補で唯一イラク戦争に反対しつづけも現在最有力候補のハワード・ディーンとの戦いになった場合、ブッシュに投票と答えた人が60%に対し、ディーンは37%というからたまらない。「米国人ってホント××××が多いな」なんていいたくなってくる(××××は勝手に思いつく言葉をあてはめてください。私本人の場合は、どういう言葉で形容していいか分からんというのが正直なところです)。対米ポチ外交しかできない事実上属国の日本を、いっそ本当に併合して、選挙権でもくれんかなぁと本気で思うぞ。さらにいえば、唯一超大国として、世界にこれだけ多大な影響(迷惑?)を及ぼしてるんだから、もはや大統領選は世界の超関心事、世界中がみんなステイクホルダーなんだから、選挙権も世界に解放したらどうだろう?国外への影響力が大きい分だけ、「内政干渉」も許されるべきじゃないか?(まぁ、どれも虚しい空想だけど。)

ついでにいえば(というにはわれわれ日本人にとっては重大すぎるが)、今夏は参院選もある。年金問題では国民負担増大と根本改革の先送り、国債発行高過去最高、「民営化」という看板のかけかえだけで中身は旧態依然とした道路公団改革、ますます厳しくなる若年層の就職率(これは大学教員をやっていると部分的ながらも実感する・・)、そしてその一方で自衛隊イラク派兵などぐんぐん進んでいく「(米国と一緒に)戦争できる国ニッポン」への流れ・・・。結局「小泉改革」ってのは、経済・社会政策については守旧派との妥協とネオリベ路線の混合形態だけで、あとは国の進路をサクっと「面舵いっぱーい」しちゃう以外には何もないということは明らかなんだが、どうもまだコイズミ・ファンはいっぱいいる。まぁ、民主党がイマイチ(もっとか?)頼りないということもあるのだろうけど、この期に及んでの現状維持という選択は、明らかに現状悪化路線へのロックインでしかないだろう。次期国会で政治日程にのせるといわれている「郵政民営化」にしても、コイズミお得意の「名をとって実を捨てる」になる公算大だろう。(小泉首相自身ずっとやりたがっていた)財政投融資の闇には手をつけられず、単に郵便事業を民営化するだけで終わってしまうのだ。

ちなみによく覗いてる2ちゃんねるは、右曲がりで、コイズミ・ファンや某都知事ファンの書き込みが多いのは有名だ。とくにニュース速報+なんかはひどい。この件について、とある研究会のあとの飲み会で、東浩紀氏と話していたのだけど、2ちゃんのミギーな人たちって、「若者の右傾化」の表れじゃなくって、実は40台――とくにちょい上の全共闘世代を目の上のたんこぶ、自分たちにとって迷惑な世代として疎んでいる世代――の人間が多いんじゃないだろうか?(2ちゃん全般的にも、実は平均年齢は案外高いように思う。)だいたい今時の若いモンが、いちいち「ウヨ」「サヨ」気にして相手を批判するだろうか?まぁ、2ちゃんでのサヨ批判は、「サヨ=なんでも反対する(のが好きな)人たち」とか、当たっているところがいっぱいあって、ウヨもだがサヨもDQNが多いよなと思ってる自分としても、けっこう笑ってしまうんだが。そういえば先日見かけたスレッドで、先月東京で行われた自衛隊イラク派兵反対デモで、「北○鮮に核武装の権利を!」なんてプラカードもった集団のことが話題になっていた。どうやらそのトンデモ集団はサヨ業界でもトンデモ扱いらしいのだが、そういうのを咎めずに一緒にデモしてるようじゃ、道行く人々は背を向けるばかりだよな。ちなみに私の友人は、去年夏、第三世界NGOのFocus on the Global Southのマリー・ルーさんという若手研究員が来日した際に、彼女を連れて大阪のイラク戦争反対デモ見学に行ったら、「共和国を防衛せよ〜!」とか「民主主義国家に対する攻撃を許すなー」と叫んでる集団がいたそうだ。そして、その「共和国」「民主主義国家」とは、なんとあの将軍様の国のことだったりして、彼もマリー・ルーもあきれ果てたそうだが、そりゃそーだ。

しかし、それでも、コイズミ万歳の右曲がりたちのあの現状肯定というか現状放棄な態度には、なにやらすごく絶望にも似た屈折を感じざるをえなくて、書いている内容ではなく、何よりそのことにうんざりさせられる。

過去の「更新情報」

2003年2002年2000-2001年