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STS News & Remarks

2001年9月

科学・技術と社会に関わるトピックを中心に、ニュースの紹介や寸評、思いつき、覚書きを綴るコーナーです。内容について御意見、ご教示、情報の御提供、お問い合わせがありましたら、ぜひメールをお寄せください。

E-Mail: hirakawa@kyoto-wu.ac.jp

もくじ

テロとその報復について思うこと(2001.9.23)
「平和という名の支援」メーリングリスト(2001.9.16)(修正9.17)
アメリカ同時多発テロその2(2001.9.13)
アメリカ同時多発テロと忘れちゃいけない狂牛病(2001.9.12)

テロとその報復について思うこと(2001.9.23)

テロは断固として糾弾され、法の下で裁かれなければなりません。

どんな「大義」があったにせよ、あのような暴力に訴えた時点で彼らは致命的に間違っている。

それと同時に、この暴力に対してアメリカ政府が準備している報復攻撃もまた、断固として間違っています。

その結末は、テロリストに対するアメリカの勝利なんかではなく、これまでのアメリカによる戦争行為と同様に、直接の攻撃や物資供給断絶による飢え、難民化によるアフガンの民のさらなる苦境と夥しい数の死をもたらし、ひいては、さらなる憎しみとテロの応酬を生み出すことにしかならないのですから。

そしてそれは、報復の相手であるテロリストと同じ――実際にはそれ以上に暴力的な――鬼畜道にアメリカや他の先進国が堕ちてしまうがゆえに間違っているだけではありません。「無限の正義」などという少年漫画ですら今や使わなくなっているような陳腐なかけ声によって、自分たち自身の不正義――国際的な政治的・経済的不平等を生み出し維持し拡大している先進国の経済システム、パレスチナ問題への無責任で偏った政府の対応や問題そのものに無知な多くの市民の存在、湾岸戦争など大義の名のもとの民間人の大量殺戮と自分たちのどす黒い政治的・経済的利益の保護、そしてなんでもかんでもごり押しの暴力に訴える野蛮さと傲慢さ――を覆い隠そうとするがゆえに間違ってもいるのです。端から見ればアメリカ政府は、まるで「われわれ以外にならず者国家はいらない。われわれが世界で最強かつ唯一の超ならず者国家なのだ」と言っているかのようです。最終的にテロという行為を選んだ罪はテロリスト自身にあるのは真実であるにせよ、また実は民衆の苦しみとは無関係な意図でテロリストのリーダーは人々を動かしていたとしても、多くの人々をテロリズムに走らせるほどの憎悪を生み、「自爆テロで天国に行く」という以外には何の人生の意味を見いだせず、テロリズムという暴力の呪縛に絡め取られてしまうくらい絶望的な袋小路に彼らを追い込んでいる要因の大きな部分を、アメリカをはじめとする先進国の不正義が占めているのは明らかです。(あえていえば、テロリストが間違っているのは、彼ら自身が受けている暴力に、やはり暴力で応えたからだとも言えるでしょう。)

たとえていえば、優等生面したいじめっ子がいじめられっ子に刺さられたのが今回のテロ事件であり、刺したいじめられっ子が、犯した罪のゆえに裁かれなければならないのと同時に、一方的な被害者面している優等生の仮面を剥がし、自身の罪の大きさと直面させなければ、悲劇は決して終わることはないでしょう。(まぁ、今回のケースでは、今や「いじめらっ子」は世界規模のネットワークを持ったもう一つの「いじめっ子集団」を作って、組織的な報復に打って出てきている「犯罪者集団」になっちゃってるので、そのまんまこのたとえが当てはまるわけではないのですが。とはいえ彼らがそうなってしまった原因の全てが彼ら自身にあるわけじゃないというのは大事なことでしょう。)

「暴力ではなく平和的解決を」という声に対し、一部の鼻息荒い似非愛国者たちは「平和ぼけ」とか「テロを放置していいのか」とイチャモンつけてくるかもしれません(もうつけられてるか・・)が、彼らはこのような暴力の連鎖を生み出す現実から目を背けているがゆえに間違っています。

もちろん今回のテロ事件は断じて許されてはならず、世界中の捜査機関の総力をもって、犯人を捕まえ、さらなるテロを未然に防ぐようにしなければなりません。けれどもそれが、テロから守られる側のわれわれ自身の罪の直視と連動していなければ、彼らテロリストたちの行為は――こういう言い方をすると誤解を招きそうですが――あまりに無意味です。いってみれば今回の事件の犠牲者と同様に、テロリスト自身も、次々と暴力の連鎖を生み出すこの世界全体の暴力的な構造の犠牲者なのではないか、そう僕は思うのです。確かに、今回の事件だけを切り出してみれば、テロリストが加害者で、世界貿易センターその他で命を失った人々やその家族・友人が被害者ですが、もっと大きな文脈のなかでは、どちらもがそれぞれ加害者であると同時に被害者なのではないかということです。その意味で、テロ対策とは、テロリスト自身をも救うものでなければならないのではないか。暴力の根本である世界の不正義の構造そのものはすぐさま是正できなくても、彼らテロリストを捕まえ、さらなるテロを防ぐことは、テロされる側が人生を破壊されるのを防ぐとともに、テロリスト自身を、少なくとも彼が自身の行為で自らの人生を破壊してしまうのを防ぐことでもあるし、そうでなければならないと思うのです。もちろん後者の救いが為されるためには、テロリスト自身に、テロ以外の人生の意味が見出されうる(少なくとも)可能性に対する希望が芽生えるような兆し、つまり世界の根本的な不正義に対する「闘い」が、彼らを捕まえ裁くことと同時に行われつつある、少なくともその意思がより多くの人々に共有されているという事実が伴われていなければなりません。

「テロリスト自身を救う」だなんて、なんだか、ついついテロリストに肩入れしたようなことを考えてしまうのですが、実は、事件以来ずっと僕は、「被害者対加害者」、「無辜の市民対テロリスト」という、メディアに映る明確な善悪図式にある種の居心地の悪さを感じてきました。事件で亡くなった――殺された――人々は確かに被害者であり、彼/彼女ら、その家族や友人の一人一人にとって、襲いかかった悲劇はあまりに大きいものです。それをもたらしたテロリストたちの罪は、一人一人の被害者にとっては、あまりに、あまりに大きなものだといえるでしょう。けれども被害者とその愛する者たち一人一人、そしてこの悲劇を引き起こしたテロリストを責めるわれわれ一人一人はともかく、少なくとも集合的な「われわれ」としてのわれわれはどうなのか?テロリストも含む虐げられた国々の民一人一人に対して、とてつもない罪を犯してはいないだろうか?ましてや報復戦争など、テロリストの無差別殺人と同じであるだけでなく、そもそもこれまでも多くの人々に無差別に暴力を働いてきた先進国の罪の上塗りでしかないのではないか?居心地悪く感じるのは、あまりに露骨なテロリストたちの暴力のすぐ向こう側に、「われわれ」自身が日々加担しつつも気づかないでいる、もしくは気づかないようにしている別の集合的暴力、世界の根本的な不正義の構造が否応なくだぶって見えてしまうからに他なりません。

そして、この世界の根本的不正義の事実の直視と反省が伴われていなければ、テロリズムと闘い、テロリストたちを捕まえ裁くことも、彼らに対する報復攻撃に異を唱え「平和的解決を!」と叫ぶことも、どちらも同じくらい無意味で、よりいっそう罪深くさえある偽善でしかないでしょう。

こんなことを言いつつも、どうやったら、世界の不正義の構造を改めることができるのか、自分に何が出来るのか、何をすべきなのかは分らないし、自分がしていることは単なる自己満足なのかも知れないという疑いを感じているのが正直なところです。でも、なにはともあれ、とりあえず今、目の前で進行しているアメリカ政府の報復攻撃には反対!の意思をはっきり示したいと思います。それは、テロリズム撲滅どころかさらなるテロを生み、夥しい人々の命を奪い続けるだけの単なる暴力行為であり、一番傷つけられるのは、ただでさえ、旧ソ連のアフガン侵攻以来の戦闘やその後の内戦、その後の混乱に傷つき疲弊しきっているアフガンの民衆であるのは間違いないのですから。もしかしたらそこにはさらに、石油産業の利権や軍需産業の利益の確保とか、どす黒い意図も多かれ少なかれ絡んでいるのかもしれません(アメリカ国内の石油の採掘量は年々減っていて、可採年数もあと10年くらいなんだそうです)。結局のところそれは、テロに遭うかもしれない人々も報復攻撃に曝される人々も――そしてテロリスト自身も――誰も救わない愚劣な行為でしかありません。

さらにいえば報復攻撃は、兵士となるアメリカの多くの若者たちの命も奪うことになるでしょう。湾岸戦争やコソボ紛争のように劣化ウラン弾の大量使用でもしようものなら、戦後も彼/彼女らは(湾岸症候群、バルカン症候群のような)苦しみに苛まれ、しかも国は己の誤りも認めなければ保証もしないという悲劇が繰り返されます。また多民族国家アメリカでは、こういう「国家の危機」のときには、日頃割を食っているマイノリティほど「アメリカ国民」としてのアイデンティティに過剰に同一化し、戦場に赴かざるをえなくなるという不平等な構造があったりします。戦争は、アメリカ国内の歪み、不正義の構造をも露骨に現出させるというわけです。

最後に。今朝の朝日新聞の記事(ソースはチューリッヒ発ロイター通信)によれば、世論調査会社ギャロップが行った、アメリカ軍による大規模報復に関する世界31ヶ国対象の世論調査の結果、「報復支持」はアメリカとイスラエルだけで、欧州や南米では80%から90%が、武力行使よりもテロ容疑者の身柄引き渡しと裁判を求めているそうです。またイスラエルは77%が報復支持だけど、多くのメディアで「90%が報復支持」と伝えられているアメリカは、この調査では54%が支持だったとのこと。NATO加盟国のなかで報復支持率が比較的高かったフランスとオランダでさえ、支持派は3割弱だったそうです。いずれにせよ今は、直接被害を受けたアメリカ市民の精神的ダメージとさらなるテロへの恐怖によるこわばりは、なかなか解けないのかも知れません。けれども、とくに、イスラム系の隣人たちを(殺害も含めて)傷つけている一部アメリカ市民のテロリスト同様の無差別の暴力は、その直接的対象となっている人々にとって不幸であるだけでなく、暴力を振るう人々自身にとっても自らの尊厳を破壊する不幸な行為です。こんなことを第三者が言うのは傲慢なことかも知れないけど、願わくば、一日も早く彼/彼女らが恐怖と憎しみから自由になり、政府によるきな臭い「戦時動員体制」から解放され、アメリカ市民全体の報復への支持率がもっともっと下がることを強く祈りたいです。

「米国のテロ報復攻撃を止めよう」という動きのうち、僕の友人が始めた活動Chance! - Give Peace a Chance (Mirror Site)と、そのメーリングリストで紹介された署名や運動・情報サイトのリンクはこちらへ。また上の文は、もともとそのページ用に書いたものでした。

「平和という名の支援」メーリングリスト(2001.9.16)

友人で、フリーの環境・科学ライターの小林一朗氏が、アメリカ同時多発テロに対する報復戦争に反対する活動を始めようということで動き出しました。

暫定Web siteも立ち上がり、メーリングリストも始まっています。

平和という名の支援(修正9.17)

ちなみに、毎日新聞の記事「アフガニスタン:餓死者、百万規模の危険 米の報復を前に予測」( 2001-09-16-19:05 )によると、「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の山本芳幸カブール事務所長(43)は16日、共同通信に対し、米国の報復攻撃を前に緊張するアフガニスタンで『国境封鎖などで食糧援助が長期間ストップすると、最悪の場合、数百万人単位で餓死者が出る危険がある』と述べた」そうです。

アフガンでは、長引く内線や干ばつのために、すでに約550万の人が援助に依存しており、報復攻撃によって援助がストップすると、2週間ほどで食糧の備蓄が尽きてしまうのだとか。

同じく毎日新聞の別記事「アフガン:国連職員が緊急脱出 報復を直感、緊張走る 」( 2001-09-16-01:14 )で、山本芳幸氏は、次のように述べています。「タリバンと米国は共通している。自分の世界にこそ真理があると信じ込み、外部との融和の道を閉ざしている。今回のようなテロは、集団に深い憎悪の蓄積がないとできないはずだ。米国は憎悪を生んだ源泉を見つめるべきなのに、対立姿勢を強めている。対立すればするほど原理主義勢力も強くなる。アフガンへの地上軍派遣は戦争を泥沼化させる。ビンラディン氏の支持者は世界中にいる。各地で報復テロが続発し、米国にとって『勝利なき戦い』になる。」

もう一つ、ネットワーク反監視プロジェクト「グローバルな友情を断ち切るいかなる報復戦争も断じて許さない」も是非ご一読を。

アメリカ同時多発テロ事件その2(2001.9.13)

今日は、FBIが容疑者が宿泊していたボストンのホテルを強制捜査というニュースが映像つきで流れてましたが、そのホテル(The Westin Hotel)は、3年前に世界哲学会議の会場になったところで、とっても見覚えのある画面でした。去年の春に別件で行ったときも、そことつながっているCopley Squareで買い物しましたし、ちょっと事件の生々しさの一端を皮膚感覚で感じてしまいます。そういえば、その時も、泊まってたホテルの周辺一帯が、地下の火事で停電して、夕食食べようと入っていたホテル近くのRoyal Seafoodの本店から、Westin Hotel近くの二号店に行かされ、ホテルに帰ってきたときも、フロントでペンライトもらって、11階の部屋まで非常階段のぼったことがありましたが、あれもテロでは、という噂がありました。その二日前には、朝、ホテルでボヤ騒ぎがあって、非常階段下ってるときは、下から消防士さんたちが駆け上がってくるところでした。外に出て周りの人に聞いたら「放火かも」なんて言ってたりして、やっぱりアメリカは物騒だなぁと実感した覚えがあります。

ところで昨日、「イスラム系の人々に対する差別も激化するかも」と書きましたが、悲しいことに米国では現実になってしまったようです("hate crime"と呼ぶらしい)。犯人ではない人々を「イスラム系」というだけで無差別に暴行するなんて、それじゃテロリストの行為と同じなのに。どうか、殺害とかそういうことには至らないで欲しいですが、考えてみると当地では、ほんの数10年前まで、「黒人」というだけで多くの人々が、ごく普通の「白人」市民に暴行され、殺されることもあったのでした。。。(日本でも関東大震災の時にはデマで朝鮮出身の人々が暴行されましたが、今回と同じようなテロ事件が日本であったら、同じようなことが起こるのでしょうか?)

さて、事件から二日たって、テレビもかなり通常モードに落ち着いてきました。その一方で、NATO(北大西洋条約機構)が集団的自衛権行使を決め、日本も「アメリカを断固として支持する」と小泉首相がいつものごとく威勢のいい(だけの?)声明を出し、すっかり「報復戦争」正当化のムードができあがってきてしまいました。「アメリカ国民の90%以上が報復支持」なんていうアンケート調査結果も報道されています。それが、アメリカ政府にとって、(犯行グループのリーダーとされている)ラディン氏をタリバン政権に引き渡させるための「脅し」なのか、とにかく戦争したいのかは分りません。けれども、第二次世界大戦以来、現代的戦争の犠牲者は圧倒的に民間人のほうが多いこと――死者の軍人・民間人比率は、第一次大戦で95:5、第二次大戦で52:48、ベトナム戦争で5:95――を考えたら、「アメリカ国民の90%以上が報復攻撃支持」なんていうのはとんでもなく野蛮な話です。おまけに「民間人に被害が出ても報復賛成66%」なんていう結果もあるそうですから、相当にアメリカはヒステリックになっているようです。今度も、きっと米・英軍は劣化ウラン弾を使うのでしょうし、もしも地上戦もあれば、アフガン市民も、多国籍軍の兵士たち――たいていは本国で割を食っている階層でしょう――も、イラクやコソボ同様の深刻な後遺症まで心配されます。事件の被害者やその家族、友人が激して、「復讐」を果たして欲しいと思う――自分も同じ立場ならそう思うでしょう――のは人情ですが、そうでない人々までそうなるのは、ただの集団ヒステリーでしかない。

ちなみにこれは、「国民国家」というフィクションが作り出す悲劇的な反応なのかも知れません。自分自身や家族、友人などが作る「親密圏」に属さぬ他者という点では、大多数の米国民にとって、事件の被害者も報復攻撃による被害者も、同じくらい遠く、同じくらい近しい他者だといえます。そこに「自国の市民が犠牲になるのは許せないが、敵の市民は犠牲になってもいい」という線引きを生んでしまうのは、国民国家という虚構がいかに深く人々の意識を支配しているかを物語っているように思えます。

この昔からある国民国家というラベルによる線引き=市民の分断の上に、さらに上塗りされているのが、「悪魔のイスラム原理主義勢力」対「正義の西側自由世界」という有害な構図です。そうやって守りたいわれわれの世界の「自由」ってやつが、どれほどそれ以外の国々や、「自由世界」内部の多くの「負け組」(にさせられている)人々に酷いことをしているかという根本的問題が、この構図ではあっさり見えなくなってしまいます。結局は、大義に名を借りた不正義に対して、これまた大義に名を借りた不正義で応酬するだけの「戦争」の継続であり、解決しなければならない問題、本当に救われなければならない人々は、相も変わらず不正義のなかに放置され、あるいは本来なら手を取り合って一緒に不正義と戦うべき人々が、「イスラム」と「西側世界」というラベルのもとに分断され、反目させられることになってしまいます。その点では、「テロリスト」対「(アラブ圏も含む)国際社会」というのも五十歩百歩でしょう。昨日も書きましたが、グローバリゼーション下のわれわれの世界は、本当は「お金」を武器にいつでも戦争しているわけで、今回の事件を「国際平和に対する重大な挑戦」なんて形容するのはとんでもなく的はずれなのですから。ほんとうの「戦線」はどこに引かれているのか、それを分りやすい偽りの戦線で覆い隠そうというのが、ブッシュ大統領をはじめとする「自由世界」の指導者たちが今やっていることなんですよね。(もしかしたら「米国民の90%以上が報復支持」というのも、情報操作の一環かもね。)月並みなことですが、われわれ「国民」は、「分りやすい構図」に騙されちゃいけないし、それによって、自分たちが抱えている「闇」、誰かを踏みつぶして生きているという現実に蓋をしちゃいけない。個人のレベルでは、「なぜ自分の家族が・・・」という不条理さは、まさに受け入れがたく乗り越えがたい不条理であり、"calamity"であるけれども、マクロには、テロリストに人材と支持や共感、一定の大義名分を与えてしまうような別の悲惨な状況を拡大再生産し、放置すればいつか誰かがテロの犠牲者にならざるをえないような構造的要因の上に乗っかってわれわれは生きているのですから。少なくとも、人々の哀しみや怒り、苦しみや同胞愛など「人情」をあおり立て、真実を覆い隠す方向に動員していく鼻息の荒い国家の力に対し、しっかり踏みとどまらなくちゃいけません。

もう一つ。「これはテロでなく、新しいスタイルの戦争だ」ということが、テレビでもいろんな論者がいい、ここでも昨日書きましたが、どうも同じことをブッシュ大統領のような為政者がいうとニュアンスが違ってくるように思います。つまりテロリスト個人ないし組織に対する報復攻撃ではなく、「戦争」だと規定することによって、「これは戦争なのだから『敵』の民間人すら巻き込んでも仕方ない」というムードを作り出し、国家の正当な(!!)権利行使として、報復の遂行とその大規模化を正当化するイデオロギーになっているような気がします。冷戦体制崩壊後も何年かおきにどこかと戦争してて、戦争行為そのものに対して寛容(=鈍感?)になってるアメリカの市民にとっては、そういう効果は十分にあるのではないでしょうか。

追記1:
さきほど分ったのですが、貿易センタービルの事件で日本人行方不明者のなかに、どうやら大学時代の友人が含まれていたようです。名前と年齢、それから勤め先を新聞で見て「まさか・・・」と思っていたのですが、テレビニュースで顔写真が映されたのを見たら、悪い予感的中でした。いつ撮った写真なのかは分りませんが、大学の頃と顔つきは全然変わっていませんでした。今でも大学時代の声や口振りも思い出せるような仲間の一人でしたが、どうか、万に一つの奇跡を祈るのみです。

追記2:(9/15)
そういえば。先日ある集会に行ったとき、今は(確か)南米関係の支援・救済活動をしているペルー日本大使館占拠事件で人質になっていた元外交官の男性がいました。人質になっている間に、テロリストの青年たちと話すうちに「彼らこそグローバリゼーションの被害者だ」と思うようになり、今の仕事を選んだのだとか。今回の事件でも、たとえばウォールストリートのエリート証券マン(ウーマン)――グローバリゼーション戦士たち――やその家族・友人のなかから、いつかテロへの憎しみと怒り、哀しみと恐怖を乗り越えて、本来の「戦線」に(もちろん断固として非暴力的・平和的に!)加わっていくなんていう個人の奇跡――道理じゃなくて、あくまで「奇跡」ですが――の物語があったらなぁ、と、結構、僕は真剣に夢想しています。

アメリカ同時多発テロと忘れちゃいけない狂牛病(2001.9.12)

"STS"に直結する話題ではないですが、とんでもないことが起きてしまいました。アメリカ同時多発テロ。はっきりいってこれは新しい「戦争」のスタイルの登場でしょう。

でも、ちょっと考えてみると、今回の犯行主体がどこの誰であれ、アメリカはずっといつもどこかと戦争してるようなものです。日本ではほとんど報道されないイラクへの定期的爆撃とかありますし、昔からの中南米への介入もあります。また湾岸戦争やコソボでの民間人攻撃による死者、その後の劣化ウラン弾使用による後遺症の深刻さなど、アメリカ(および他の先進国)による世界の犠牲者は現在進行形で増え続けています。(湾岸戦争では10万人以上の民間人が死んだという推計もありますし、その後のイラクへの経済封鎖では、医薬品不足で、劣化ウラン弾の影響と見られる白血病やガンに苦しむ子供たちが、何の手当も受けず死に続けています。) アメリカ自体が巨大なテロ国家、「ならず者国家」だという面は確かにあるんですよね、露骨に。あるいは、グローバリゼーションのもとで、アメリカを中心とする先進国の金融機関や企業、そして政府が、第三世界や、あるいは先進国国内にもたらしている貧富の差の拡大による犠牲も深刻でしょう。イスラエル−パレスチナ問題もあまりに根深い。

もちろんだからといって、今回の事件で多大な人命が犠牲になったことの大罪は微塵たりとも帳消しになりませんが、要は、一般には見えにくい、もしくはあまりに日常的になってしまっているだけで、経済的にも軍事的にも世界は常に戦争状態にあり、時折、テロという見えやすいかたちで戦線が可視化するだけだということ、そして、この日常的戦争状態を作り出しているのは、アメリカを中心とする歪んだグローバル経済なのだという現実認識は、もっておいたほうがいいのかもしれません。

それにしても、映像を見ても映画みたいだし(たぶんイマドキの特撮のほうがすごいでしょうし)、なんだかリアリティを掴みかねてしまいます。この出来事の「意味」がどれほど大きいのか、どれほど世界にとって、われわれにとって深刻なものなのか、比べうる前例がないだけに測りかねてしまう・・・

これぞまさに「歴史的事件」の歴史性そのものなのでしょう。

出来事そのものは、日常の意味の唐突な「破れ目」としてまず現われ、その現実的な帰結が明らかになるにつれて、既存の意味が書き換えられ、出来事の意味とその大きさがだんだん分ってくる。

ブッシュ大統領をはじめ世界の首脳は、皆「自由と民主主義に対する重大な挑戦」という言葉を繰り返していますが、おそらく現実は、彼らがいうのとは別の意味で「自由と民主主義に対する重大な挑戦」になるように思います。エシュロンをはじめとするハイテク通信傍受システムや、日本で言えば通信傍受法のような個人監視・管理システムがますます強化される、少なくとも、この機に乗じてそういう動きを正当化したい鼻息の荒いオジサンたちの声がますます強くなるでしょう。米国内はもちろん、世界各国でイスラム系の人々に対する差別も激化するかもしれません。もちろん日本でも。間がいいというか悪いというか、なんと石原東京都知事はワシントンに滞在中でしたし、帰国後の彼の発言はますますナショナリスティックで人種差別的なものになるのは間違いありません。

「世界恐慌」とか、見えやすい出来事の帰結が大したことないとしても、そういう見えにくいところでの帰結は、見えにくいだけに余計に恐いですね。

ついでにいえば(まさに「ついで」になっちゃうところが問題なのだけど)、この事件ですっかり「狂牛病」問題が世間から見えなくなってしまいそうですね。実は、狂牛病発病が疑われている牛が発見されるよりも前の9月9日号の『週間文春』でも記事があったのだけど、農水相は、EUが進めていた世界各国の狂牛病のリスク評価の結果を、「日本のリスクが高すぎる。評価基準が不適切。」ということで拒否していたんですよね。欧州で感染源となった肉骨粉の発病があった国からの輸入量は数10キロくらいで、影響はほとんどないはず、というのが理由らしいのだけど、『週間文春』の記事によれば、イギリス等で流通禁止になった肉骨粉は、ここ数年はアジア諸国とかに出回っていて、そういう第三国経由で日本に入ってくるものは、農水相が主張する評価対象にはなっていないのだとか。真相はまだまだ分りませんが、場合によっては、数々の薬害と同じようなことが、国際レベルで起きていて、過去の欧州と同様に、「日本の牛肉は安全です」といっていたのに、あと何年かしたら人間でも感染者がみつかるなんてことになりかねません。

暴風雨のようなド派手な事件の裏で日常的にすすむ深刻な事態にも、しっかり息を鎮めて注意を払わないといけないですね。(テロ事件=見えない日常的戦争についても。)

それにしても11月のはじめに学会でボストン行く予定なのですが、うーむ、恐いなぁ・・・