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ハンセン病国賠訴訟、控訴断念!!! (2001.5.23 その2) |
いやー、一発逆転というか起死回生というか、マスコミの予想に反し、そして患者さん・元患者さんらの願いどおりに、「控訴断念」となってくれました、ハンセン病国賠訴訟。下の記事を書いてから帰宅して、夕方のニュース見てたら速報が・・・。「控訴断念」の報を受けて歓喜する原告団の人々の映像は、思わず涙がにじんでしまいました。この国にも「正義」、要するに「筋を通す」ってことがありうるんだ、という一瞬でした。所詮、世の中真っ暗闇、不正義の支配こそが現実というものだ。ジュディス・シュクラールがいうように、不正義は世界の中心にある除去不可能な特質である(1)。しかし、だからこそこういう瞬間は尊いものだ。首相の判断に「支持率維持」という計算がたとえあったにしろ、とにかく、あれほどの不正義を受けつづけた人々が救われることがこの世にはありうる、という出来事の経験は、政治というものにおける希望をつなぐ力を持っている。
(1) Judith Shklar, "Giving Injustice Its Due", Yale Law Journal 98 (April 1998). cf. S.K.ホワイト『政治理論とポスト・モダニズム』(有賀誠・向山恭一訳, 昭和堂, 1996), 第VII章「正義再考」。
とはいえ、福田官房長官が発表した「政府声明」を見ると、必ずしも正義が本当に貫かれたとは言いがたい点が残っている。たとえば5月11日の熊本地裁の判決に対しては、相変わらず「本判決には、別記に示すような国政の基本的なあり方にかかわるいくつかの重大な法律上の問題点があり、本来であれば、政府としては、控訴の手続きをとり、これらの問題点について上級審の判断を仰ぐこととせざるを得ないところである」という評価が下されている。今回の控訴断念の決定を行った小泉首相を初めとする閣僚や与党三党代表の個人的な胸の内はともかく、法人としての国は、何ら反省していないし、今回の判決のポイントも理解していないようなのだ。声明では、判決の問題点として、次の二点が挙げられていた。
これに対し、熊本地裁の判決はどうだったか。ポイントは、国会議員の不作為が「故意の憲法違反」に相当するかどうかだ。
まず1に関連するところでは判決は、まず「国会議員の立法行為(立法不作為を含む)が国家賠償法上違法となるのは、容易に想定し難い特殊で例外的な場合に限られる」と断ったうえで、
をあげ、新法の隔離規定の存続による人権被害の重大性と司法的救済の必要性を鑑みれば、何も立法上の措置をとらなかった国会議員の「不作為」は、国家賠償法上違法となりうる「容易に想定し難い特殊で例外的な場合」に相当すると判断している。さらには、上記の事実関係については、国会議員が調査すれば容易に知ることができたものであること、また63年頃には、患者団体による新法改正運動があり、国会議員や厚生省に対する陳情も活発化していた事実を挙げ、国会議員の「過失」を指摘している。筆者は法律の専門家ではないから正確なところはわからないが、要するにこれは、「故意の憲法違反」そのものではなくても、「例外性」の点ではそれに相当する「重大な過失」としたということではないか。その点で、「最高裁判例」とややずれているのかもしれないが、「想像しがたい例外性」という点では、それに並び得るものとすることは十分合理的ではないだろうか。
次に2の「除斥期間」についてだが、これについては判決では、問題とされるべきは「40年前(1960年頃)」の不作為ではなく、その後96年の新法廃止まで30数年間、やればできたはずなのに何もせず、ひたすら被害を生み継続させてきたこととしている点が決定的だ。つまり、除斥期間の起算日を40年前ではなく5年前の新法廃止時点にしているのである。実際、患者・元患者の人々は、新法の存続によって、この間(そして今もなお)ずっと人権侵害の被害を受けつづけていたのだから、この判断は実に的を得たものだろう。政府声明はこの点を全く無視している。
ちなみに読売新聞の報道によれば、厚生労働省健康局のある幹部は「何十年前もの責任をとらされるのはたまらない」とため息をついたという。まぁ、所詮は2-3年で配置換えになる役人個人の感想としてはそうなのかもしれないとも思うが、組織としてそんなことをいうとすれば、結局は何も反省していないし学んでいないということになるだろう。また法務省では、「どういうことか分からない。これが政治判断というものなのでしょう」とのたまわった幹部がいたという。いいかえれば最高裁まで行かなければすべて法的には恣意的な「政治的判断」だとでも考えてるのだろうか。さらには「事務方の判断が、政治判断で覆った例は聞いたことがない」なんてことをいった官僚もいたというが、これぞ言語道断の極みだろう。それって、完全に三権分立を否定してるじゃないか!!ほんと「役所に対するシビリアンコントロール」の必要を痛感する。上のような問題点を含む「政府声明」も、結局のところ、これら役所とのぎりぎりの綱引きの結果なのだろう。
ところで最後に、今夜の一連のニュースを見て思い出さずにはいられなかったのは、先日の「水俣美容関西訴訟」の大阪高裁判決に対する国の上告のこと。これだって「官の論理」剥き出しの不合理の塊みたいなものだと思うが、テレビでも新聞でも、ハンセン病訴訟に比べると報道の数も少ないように思う。なんとかこちらも、「上告取り下げ」をしてくれないものだろうか。
5月11日、「ハンセン病国賠訴訟」で、熊本地裁による「国会が適切な立法をしなかった(不作為の)責任や政府の患者隔離政策の違憲性」を広く認めた判決に対して、国はついに控訴に踏み切ることになりそうだ。先月27日に、同じく国の責任を認めた「チッソ水俣病関西訴訟」の大阪高裁の判決に対する控訴に続く「国の論理」のごり押し。一人、医師でもある坂口厚生大臣だけが、当初からと同様に「控訴すべきでない」と頑張っているとのことだが、あくまで「個人的意見」扱いされる様子。(ちなみに彼は、今回の件で辞意もほのめかしているとのこと。)支持率80%近い小泉内閣といえど、所詮は法務官僚には勝てないのか・・・
国の方針は「控訴したうえで和解を目指す」とのこと。和解条件となる救済策は、(1)療養所を対処した元患者も含めて対象とする「特別給与金制度」の設立、(2)元患者らに対する根強い偏見をなくすため、ハンセン病に関する正しい知識や、過去の差別の歴史についての反省を盛り込んだ新聞広告を掲載するなどが考えられているらしい。とはいえ、この新聞広告でも、控訴する方針のため、「謝罪」の要素は含めず、元患者の人権回復に焦点を絞るとのこと。要するに、とにかく徹底して国の責任は否認するという態度を貫くということだ。
確かに、これらの救済策は、ぜひとも患者さんたちにとって必要なものだろう。しかし、考えて見ればいずれも、もっとずっとずっと昔に実施されていて然るべきものであり、今更これを「和解条件」として持ち出すこと自体が、人を馬鹿にしている。
さらにいえば、法的責任の確定を避けるために控訴するだけでなく、新聞広告でも「謝罪」すらしないというのでは、本当の意味で「人権回復」とはなりえないだろう。原告の患者さんたちが一番望んでいることは、責任を問われるべき者がちゃんと責任を認め、「正義」が貫かれることによる、人間としての「存在」の承認、「誇り」の回復、「生きてきた意味」の発見ではないのか。自分たちはなぜ、誰のせいで、こんな境遇に追いやられつづけてきたのか、その答えが満たされることは、患者さんたちにとっては自己の存在の核心を構成するものだろう。その答えを求める声を無視し、踏みにじることこそ、最大の「人権蹂躙」ではないのか。
小泉首相との面会を求めて首相官邸前に集まった原告団に対して、首相側近(肩書きは忘れた)が「ここは法治国家です。こんな集団の圧力で・・・」とのたまわった映像をニュースで見た。詰め掛ける記者団に「私も寝てないんだ」と叫んだいつぞやの雪印社長に輪をかけて悪質なセリフの語り主のような人々には、そういう人間の尊厳に対する「感覚遮断装置」が備わっているのだろう。
ハンセン病国賠訴訟については下記サイトも参照:
熊本日日新聞「特集:ハンセン病訴訟判決」
知って!ハンセン病国賠訴訟
ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会
高松宮記念ハンセン病資料館
ニュース特集:ハンセン病訴訟 読売新聞 Yomiuri On-Line