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“STS”とは何か

平川秀幸 (大阪大学   京都女子大学現代社会学部)

最終更新日: 2001年5月15日


1. 科学・技術についての学際的・分野横断的研究としてのSTS

2. 知識社会学との異同

3. 実践的活動としてのSTS (5/15 加筆・文章再構成)

4. 知識政治学からSTSを考える(1): 遺伝子組み換え作物をめぐるリスク論/規制科学論

5. 知識政治学からSTSを考える(2): 一般市民の科学理解 (5/15 5.4に加筆)

6. 問題の拡張的再定義としてのSTS (準備中)


「STSとは何だろうか。」 日本ではまだ馴染みのない研究伝統であるため、専門外の人から常に尋ねられる問いであるとともに、我々の業界で繰り返される問いかけだ。

1. 科学・技術についての学際的・分野横断的研究としてのSTS

 STSとは、“Science, Technology and Society”または“Science and Technology Studies”の略で、日本語ならそれぞれ「科学技術社会論」、「科学技術論」となる。単に「科学論(Science Studies)」と呼ぶこともある。いずれも、それ自体が社会的活動の一つである科学・技術(Science and Technology; ST)の営みや、それ以外の一般社会との関わりのなかで発生する諸問題を扱う科学社会学を中心にしたものだが、前者のほうが一般社会とのかかわりをいっそう強調する表現になっている。

 STSをどのように呼ぼうとも、その最大の特徴は、学際性(interdisciplinarity)もしくは分野横断性(transdisciplinarity)にある。専門分野(discipline)の区分で表せばSTSには、科学社会学を中心にして、次のような分野が関わっている。

科学史/技術史 科学・技術の歴史を扱う。
科学哲学/技術哲学 科学・技術の哲学的・理論的問題を扱う。
科学技術政策学 科学技術政策(科学・技術のための政策)や、科学・技術と他の政策(たとえば環境政策や公衆衛生政策などの公共政策)とのかかわりを扱う。
科学計量学(scientometrics) 科学論文生産量や引用関係、内容分析を定量的に扱う。
科学コミュニケーション学 専門家と素人のあいだの科学情報に関するコミュニケーションや科学ジャーナリズムの諸問題を扱う。
科学人類学 異文化集団のかわりに実験室ではたらく科学者集団を観察対象にした人類学的・民俗誌的研究。実験室研究(laboratory studies)ともいう。

他にも、科学・技術活動の経済学的側面や一般経済とのかかわりを扱う科学技術経済学、科学と司法の関わりを扱う科学技術法学など、基本的には、既存の人文・社会科学の分野のなかで科学技術にかかわるテーマを扱うすべての分野がSTSの範疇に入るといってよい。

 また分野ではなく、テーマ別で示せば、たとえば筆者の研究にかかわる「知識政治学」では、科学技術政策(ST Policy = Policy FOR ST)や、科学・技術と政策一般との関わり(ST AND Policy)だけでなく、科学や技術という活動やその内容(知識やテクノロジー)そのものがはらむ政治性(権力作用)― ST AS Politics and Power ―が扱われ、そこには、社会学、政治学、行政学、法学、哲学などさまざまな分野の知識が分野横断的に動員される。なお知識政治学の概要については、筆者も含めた研究グループが、理論的議論と事例分析をまとめたテキストを企画中だが、ハーバード大学J・F・ケネディ行政学大学院の科学・技術と公共政策プログラム(Science, Technology, & Public Policy Program)、とくに「科学・技術の法的・政治的・文化的研究」コースの紹介と、その指導教授であるシーラ・ジャザノフ(Sheila Jasanoff)が担当する「科学、権力、政治」「法と生命科学」「環境政治」のコース・シラバス(2000-2001年度)が参考になるだろう。

 これと関連が深いテーマでは「リスク論(risk studies)」も興味深い。リスク論は元来は、原子力発電施設や航空機、化学物質などにかかわる工学的な安全管理の方法論として生まれ発達したものだが、1980年代に社会学的に科学・技術のリスクにアプローチする研究が登場した。なかでもドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck)の『リスク社会(risk society)』(邦訳:『危険社会』、法政大学出版局)は、その後の社会学的リスク論の展開に大きなインパクトを与えた。もともと社会学的なリスク論は、STSというよりは、むしろ社会学一般のなかの一分野として出発したといえるが、ベックのこの著作は、不十分ながらも当時のドイツ語圏の科学哲学や科学社会学の成果を取り入れている点が注目に値する。

 その後は、たとえばジャザノフをはじめとする人々によって、リスク規制政策における意思決定をサポートする「規制科学(regulatory science)」や、司法の場での証拠確立をサポートする「鑑識科学(forensic science)」とよばれる科学研究に関する研究が進められてきた。近年ではジャザノフとそのハーバード大学のグループによるGlobal Environmental Assessment Projectでは、温暖化対策や生物多様性保護など地球環境政策の交渉・立案プロセスにおける科学研究のありかたについて、科学社会学者、政治学者、行政学者などによる分野横断的な研究がすすめられている。

 リスク論に関係が深いところでは、科学・技術の論争を分析する「論争研究(controversy studies)」と呼ばれる研究群もある。そのエッセンスをひとことで表せば、「『同じ』問題に対する正しい答え方に関する不一致は、そもそも正しい問題の立て方とは何なのかに関するより深い不一致を反映している」ということである。いいかえれば、一見すると純粋に専門的な科学的・技術的な論争であっても、その不一致の背景には、しばしば社会的・文化的な対立が存在しているということだ。たとえば地球温暖化の誘因となる温室効果ガスをめぐる南北間の対立には、経済的・技術的資源配分の世界的な不平等に関する根本的な利害関心が反映されている。こうした科学・技術論争の性格を、論争研究の草分けであるドロシー・ネルキン(Dorothy Nelkin)は、主にアメリカの事例をもとに以下の5類型に分類している。

  1. 科学理論や研究活動に含まれる社会的・道徳的・宗教的要素をめぐる論争
  2. 環境的価値と政治的・経済的価値の優先度の対立をめぐる論争
  3. 産業活動が個人に及ぼす健康被害をめぐる論争
  4. 個人の選択の自由と社会や共同体の目標とのあいだに生じる軋轢をめぐる論争
  5. その他: 1992年に中止になったアメリカの超伝導加速器(SSC)建設や、ヒトゲノム計画、宇宙開発のようなメガサイエンス・プロジェクトの社会的意義をめぐる論争や、分野間の公平な研究開発予算の配分をめぐる論争、バイオテクノロジー分野での産学協同や知的所有権の是非をめぐる論争、科学研究に伴う事故や失敗に関する論争など。

 STSが扱うテーマは、リスクのような比較的見えやすいものだけではない。たとえば「フェミニズム科学論」と呼ばれる研究群では、一見無関係のようにも見えるジェンダーと科学・技術の問題が扱われている。それは、単に女性科学者の数が少ないとか、その背景には科学者社会にも一般社会同様の男女差別があるという比較的分かりやすいタイプの問題だけでなく、一見客観的で社会的価値観を一切含まないようにみえる自然科学の知識や、テクノロジーに潜むジェンダーバイアスやその政治性が論じられている。ある科学的な概念や技術が、一般社会に普及するにつれて、人々の考え方や行動規範をどのように変えたり形作ったりするのかや、反対に一般社会のものの考え方や価値観、期待がどのように専門的な科学研究の現場でのテーマの選択や問題設定、隠喩の選択に影響を与えるのかといったことが分析されるのである。日本語でも読める例著には、ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ―自然の再発明』(高橋さきの訳、青土社)、エヴリン・F・ケラーの『ジェンダーと科学』(幾島幸子・川島慶子訳、工作舎)や『生命とフェミニズム:言語・ジェンダー・科学』(広井良典訳、勁草書房)などがある。

 このような研究伝統は、より広くは「科学のカルチュラル・スタディーズ」と呼ばれており、たとえばネルキンとスーザン・M・リンディー(Susan M. Lindee)の『DNA伝説-文化のイコンとしての遺伝子』(紀伊国屋書店)では、「遺伝子」という概念が、科学者の発言やパフォーマンス、マスメディアや広告などの言説を通じて、専門的定義を越えた意味あい―「遺伝子本質主義」―を社会のなかで獲得し、親子関係や犯罪観、などさまざまな領域における人々のものの考え方や行動様式にどんな影響を与えているかが豊富な事例をもとに分析されている。

 もちろんSTSが扱うテーマも動員される専門分野も、これらだけに限られるものではない。潜在的には、科学・技術がかかわるすべての社会事象がSTSの対象となり、関連するすべての分野がその研究に必要だ。STSの研究対象でもある自然科学や工学の分野からのアプローチもSTSには不可欠だ。STSの学際性やテーマの広がりを知るにあたっては、以下の文献が役に立つ。

Sheila Jasanoff, G. E. Markle, J.C. Petersen & T. Pinch (eds.). Handbook of Science and Technology Studies, London: Sage Publications, 1995.

David J. Hess. Science Studies: An Advanced Introduction, New York: New York University Press, 1997.

金森修・井山弘幸『現代科学論』、新曜社、2000年。

金森修・中島秀人編著『科学論の現在』、勁草書房、近刊(2002年2月発売予定)

 また科学技術政策を扱う欧州連合第12総局がまとめた、欧州におけるSTI(Science, Technology and Innovation)研究における研究・修学ガイドThe European Guide to Science, Technology, and Innovation Studiesが参考になる。日本では、東京大学や東京工業大学、京都大学などに「科学史・科学哲学」のための学部・大学院の専門的コースがあるが、広くSTSを扱ったプログラムをもったところはない。研究者個人の裁量のもとで、研究室単位でSTSの教育・研究が行えるといったレベルである。(ただし筆者の出身校である国際基督教大学では、全学共通プログラムの一つとしてSTSが位置づけられ、教育体制の整備が始まっている。)しかしながら、筆者も所属するSTS NETWORK JAPANという団体には、大学研究者や大学院生・学部生のほか、中高の教員や企業人、行政関係者なども含めてさまざまな人々が所属し、情報交換や研究報告会、シンポジウムなどが活発に行われている。また、ここ数年は、欧州科学技術研究学会(EASST: European Association for the Studies of Science and Technology)やアメリカを中心にした国際科学社会学会(4S: Society for the Social Stdies of Science)など海外のSTSの学会での報告も増え、2000年9月末に開かれた両学会の合同会議には、筆者も含め10数名が参加している。

2. 知識社会学との異同

 ところで社会学には、第一次世界大戦後のドイツで始まった、マンハイムやデュルケムらに代表される「知識社会学」とよばれる分野が存在するが、それと科学社会学との異同は以下の点にある。

 まず、両者の共通点は、知識を、時代や集団、文化など歴史的・社会的文脈によって多かれ少なかれ規定されたものとみなすことにある。これはマルクス主義の「イデオロギー批判」の伝統を受け継ぐものであり、一見、党派性や歴史的・文化的偏りを免れたかにみえる知識や言説が、いかに特定の集団の社会的・文化的脈絡によって内容が規定されているかという「存在拘束性」を明らかにすることによって、それら知識や言説のいわば「擬装された客観性」を暴き出すという「批判性」を旨としている。

 しかしながら、デュルケムらの知識社会学では、この「知識」のなかで西欧近代科学だけは、唯一、歴史や文化による存在拘束性を免れた客観的知識とみなされ、社会学による批判的分析の対象からは外されていた。これに対し、科学社会学では、科学知識も社会学的分析・批判の対象とされる点が、知識社会学一般と決定的にちがうのである。

 なお科学社会学では、その創始者ロバート・R・マートン(Robert M. Merton)が、学位論文「17世紀イングランドにおける科学・技術・社会」とそれに引き続く一連の研究では、西欧近代科学そのものの知識内容(認知的内容)の発展と、それをとりまく社会的・文化的構造との相互関係を分析するという姿勢をとってはいた。ところが第二次世界大戦後は、科学社会学の研究は、マートン自身も含め、科学知識それ自体は確証された知識とみなして社会学的分析の対象から外して、いわばブラックボックスに封じ込め、科学者集団の社会構造や行動規範、褒章制度など、いわゆる「構造・機能主義的」な社会学の方向へと収束してしまったという経緯がある。別のいい方をすれば、科学知識の中身の分析は、社会的文脈との相互関係から切り離され、科学理論や方法論の論理的分析を主とする科学哲学や、概念史・理論史を扱う科学史の側に引き渡され、科学社会学は科学の社会的側面だけを扱う「科学者の社会学」に特化されてしまったのである。(科学の内容を社会的文脈から切り離して扱うやり方は、「インターナル・アプローチ」または「内在主義」と呼ばれる。)

 これに対し現在のSTSの中核にある科学社会学は、1962年に出版されたトーマス・クーン(Thomas Kuhn)の『科学革命の構造』(みすず書房)に代表されるいわゆる「新科学哲学」の影響を受け、70年代に、いわばその初心にかえるかたちで科学知識の存在拘束性を再びテーマにした「科学知識の社会学(SSK; Sociology of Scientific Knowledge)」に端を発するものである。

 SSKは、新科学哲学以前の英米の科学哲学(ウィーン学団の論理実証主義やポパーの批判的合理主義)が、科学の客観性・非存在拘束性をなかば自明の前提とし、いかに科学はその客観的知識を生み出すのかの説明や正当化に終始してきた「客観主義科学論」であったのに対し、競合する科学理論の選択や、その社会的受容も、歴史や文化に拘束された「相対的なもの」と見なす点で「相対主義的科学論」と呼ばれることもある。

 なお、実験・観察による経験的結果や論理的推論の結果など「認知的要因」だけでは科学理論の真偽を確定することはできず(理論の経験的決定不全性)、利害関心などの社会的要因によって科学理論は決定されるというような「社会決定論」は、初期のSSKには確かに見られ、ある程度の影響力をもった考え方ではあったが、必ずしもその後の科学社会学全体にとって重要なものではなかったことは強調しておきたい。

 しかし、だからといってかつての科学哲学や知識社会学のように、科学知識の客観性・非存在拘束性を全面的に肯定もしくは前提するような素朴な立場に与したわけではない。実際、社会的要因が科学理論の形成に影響を与える例は、ケースバイケースでみていけば、リスク論やフェミニズム科学論の分野では枚挙にいとまがない。また、客観主義的科学哲学からは科学社会学に対する厳しい批判がなされたが、その理由の一つは、科学理論が社会的要因によって影響されているといいたてることは、科学知識もたとえばナチスの人種差別的なイデオロギーと同様のものでしかないというのと同じであり、論理としておかしいだけでなく、科学に対するある種の道徳的汚辱だという意識があったといっていい。しかし、後に知識政治学の説明で述べるように、必ずしも社会的要因が科学研究にかかわることが、その成果やその社会的影響にとってマイナスのことばかりではないことも事実だ。現在の科学社会学もしくはSTSでは、認知的要因と社会的要因の科学知識へのかかわり方はケース・バイ・ケースで見ていくべきだという、バランスのとれた穏健な見方が普通である。

 ちなみに知識の存在拘束性を明らかにしようとする研究態度は、社会学では「社会構成主義(social constructivism)」とも呼ばれている。(社会学一般では社会構築主義(social constructionism)が一般的だが、STSでは社会構成主義が用いられている。)これは、狭くは先に述べたような社会決定論的な考え方を示す場合もあるが、一般にはそうではない。ジャザノフによる次のような定義が、広い意味での社会構成主義の考え方をよく表している。

構成主義的なアプローチは今日の社会科学のほとんどの領域で目にすることができ、リスクや規制、健康と疾病、統治制度、社会運動、国家間関係など多岐にわたって応用されています。それらの研究に共通しているのは、私たちがそれに基づいて思考し、世界を組織化しているカテゴリーは社会的な達成物であり、人々の集団によって集合的に保持されているものだという信念です。この信念とあいまって、ある方法論的な傾向があります。確立された境界や分類に対する懐疑主義、現在当然視されている事柄がどのようにしてそう見なされるようになったのかを問い質す傾向、そして観念や信念は社会生活の進歩にとって重要であり、それゆえ利用できるあらゆる道具立てを用いて調査すべきだという考え方へのコミットメントがそれです。(Sheila Jasanoff, “Is Science Socially Constructed: Can It Still Inform Public Policy?”,Science and Engineering Ethics, Vol.2 Issue 3, 1996: 263-276.)

 また近年では、どうしても「社会から科学へ」という一方向的な社会決定論的ニュアンスの伴う「社会的構成(social construction)」という概念に代えて、上述の「バランス」を反映させて、科学と社会、自然のあいだの作用の相互性・互酬性をあらわす「科学・社会・自然の共生成(Co-production of Science, Society and Nature)」が徐々に使われ始めている。(なおここで社会や科学が「自然」を生成するとは、自然のイメージの生成・変形でもあるし、テクノロジーを通じての自然の物理的改変も含意している。)ついでにいえば、ある程度は、先に上げた共著『科学論の現在』のなかで論じたつもりだが、このような見方は、科学哲学の伝統的な問題軸であった「実在論か反実在論か」といった認識論的問題設定に対する新しい答えというよりは、そもそもそうした問題設定そのものを科学論から廃棄することを促すものだと筆者は考えている。このポイントは、たとえば以下の著者らの議論によく現われている。とくにRouseのものは必読である。

Joseph Rouse. Knowledge and Power, Cornell U. P., 1987.
  邦訳:成定薫他訳『知と権力』、法政大学出版局、2000年。

Joseph Rouse. Engaging Science, Cornell U. P., 1987.

Andrew Pickering. The Mangle of Practice, Chicago U. P., 1995.

Bruno Latour. Science in Action, Harvard U. P., 1987.
  邦訳:川崎勝・高田紀代志訳『科学が作られているとき』、産業図書、1999年。

Bruno Latour. We Have Never Been Modern, tr. by C. Potter, Harvard U. P. 1993.

Bruno Latour. Pandora's Hope, Harvard U. P., 2000.

Michael Lynch. Scientific Practice and Ordinary Actions, Cambridge U. P., 1993.

3. 実践的活動としてのSTS

 ところでSTSでは、アカデミックな研究を行うだけでなく、現実の社会問題に取り組み、解決に導くような実践活動も重要だ。STSのルーツの一つは、科学史(History of Science)、科学哲学(Philosophy of Science)、科学社会学(Sociology of Science)の三分野―総称して"HPS"―におけるアカデミックな研究伝統である。しかし同時に重要なのは、主に1960年代に世界中で顕著となった公害や環境破壊、ベトナム戦争の激化や核戦争の脅威の高まりを背景にして高まった科学・技術の発展に対する深刻な疑いや反省に根ざした「科学批判」の伝統だ。確かに、それまでの歴史のなかですでに科学・技術は核兵器やさまざまな大量殺戮兵器を生み出すなど、その影の側面は広く知られていた。とはいえ、第二次世界大戦後の世界では、やはり科学・技術の発展は原則としては人類社会にとって善であると素朴に信じられていたといえる。いわゆる「科学万能主義」の信仰だ。けれども核兵器も含めた兵器体系の高度化は留まるところを知らず、世界中で公害や環境破壊が深刻化するにつれて、科学・技術がもたらす災厄は、その発展の単なる不幸な副産物ではなく、現在の科学・技術の研究開発と社会のありように潜む根本的な問題点の表れではないかということが疑われ始めたのである。

 こうした従来の科学・技術や、それに支えられ駆動されてきた近代化のあり方に対する疑義や異議申し立てとして現われてきたのが、「ラジカルサイエンス」や「民衆のための科学(Science for the People)」と呼ばれるさまざまな科学者運動であった。そうした流れから、今日でも非常に影響力のある「憂慮する科学者同盟(Union of Concerned Scientists)」のようなNGOが育ってきた。日本でも、物理学が核兵器を生み出してしまったというポスト・ヒロシマ的な贖罪意識と責任感にもとづき、「物理学者の社会的責任」サークルが組織され、サーキュラー『科学・社会・人間』を発行しながら今に至っている。アカデミックな研究伝統でも、とくに70年代に登場した先の「科学知識の社会学(SSK)」の問題意識の一端には、同時代に共有された科学批判があった。

 運動という面では、60年代末から70年代半ばに行われた英米の理工系大学の一般教育プログラムの改革運動は、STSのより直接的なルーツとして重要だ。一つは73年にイギリスで始まった「社会的文脈における科学(Science in the Social Context)」、通称"SISCON"というカリキュラム改革プログラムがあった。「科学と哲学」や「科学の社会学」など伝統的なテーマのほか、「科学・技術と政治」、「科学・技術と環境」、「科学・技術と戦争」など実際的な問題関心に根ざしたイシューをテーマにした教科書シリーズが編纂されている。また60年代末のアメリカでは、マサチューセッツ工科大学(MIT)やスタンフォード大学など一流校の理工系学部の全学共通プログラムとして、その名もズバリ「科学・技術と社会プログラム(STS Program)」がスタートしている。なお日本では、英米のような制度化された科学教育プログラムは未だにどの大学にもないが、少なからずの大学や中高の理科教員が、個人的もしくはネットワークをつくりながら、STS教育を実践しており、またSTS教育を専門とする研究者がいる大学もある(たとえば神戸大学発達心理学部や茨城大学教育学部)。

 このような教育面での実践的活動に加えて重要なのが、60年代のオランダの学生運動をルーツとする「サイエンスショップ」という活動だ。2001年1月26-27日にベルギーのLeuven市で開かれたサイエンスショップとCBRに関する国際会議“Living Knowledge: Building partnerships for public access to research”で用いられた定義によれば

「サイエンス・ショップは、市民社会が経験する懸念に応えて、独立で、市民参加に基づく研究サポートを提供する。」("A science shop provides independent, participatory research support in response to concerns experienced by civil society.")

というものであり、基本的には、大学を拠点にして、地域住民に対する科学的・技術的サービスを行う組織であり、教員の指導のもと、大学院生(場合によっては学部上級生)が主体となって活動している。現在ではデンマーク、イギリス、フランス、オーストリア、ドイツ、ルーマニアなど欧州各国でサイエンスショップが開かれている。またサイエンスショップの活動は必ずしも自然科学や工学に限られるものではない。イギリスでは、社会学の分野で、リバプール・ホープ大学、リバプール大学、バーミンガム大学がCoBaLT(Community Based Learning Teamwork)という連携プログラムを運営し、その教育メソッドのビデオ教材も開発している。オランダでの状況については、オランダ・サイエンスショップ事務総局にウェブサイトを尋ねられたい。

 サイエンスショップと同様の活動は、アメリカやカナダにもあり、大学やNGO/NPOをベースにした「コミュニティ・ベースト・リサーチ(Community-based Research; CBR)」と呼ばれている。地域の環境問題の調査や解決、裁判での証言活動などで、地域住民をサポートし、住民と専門家の協力関係をコーディネートする組織(CBRセンター)が、全米で数百あるといわれている。CBRについては、その情報センター(Clearing House)を兼ねたLoka研究所に、全米および国際的なCBRのネットワークの情報が集積され、インターネットでも公開されている。20センターのケーススタディも含む全米のCBRの活動状況をまとめた報告書Community-Based Research in the US: An Introductory Reconnaissanceをはじめとする文書群は必読である。また99年には韓国の全州(Chonju)にある全北国立大学(Chonbuk National University)にも韓国最初のサイエンスショップが誕生している。先日(2001年5月10-13日)に韓国で開かれた日韓中台による東アジアSTS会議で関係者から聞いたところによれば、同大学学長が子息からサイエンスショップのことを聞き、地方国立大学に求められる地域貢献の一環として開店したそうだ。他にもソウル大学の学生の中にもサイエンスショップ設立の動きがあるという。これらはいずれも、昨年10月に亡くなられた原子力資料情報室の高木仁三郎さんの言葉を借りれば、「市民科学」の実践の一つである。

 そうした市民科学の実践としてのサイエンスショップ/CBRの重要な特徴は、何よりもそれが「市民参加型の研究」だということにある。上記のロカ研究所の報告書によれば、この傾向はCBRのほうがより強く、次の特徴を持つという。

  1. 研究活動が、コミュニティ・グループがかかえる問題や必要と密接に結びついており、研究結果が、建設的な社会変化を達成しようとする実際的な目的に直接利用される。
  2. コミュニティ・メンバー(とくに草の根運動家やコミュニティ組織、労働者など)が、「コミュニティ・アドバイザリー・ボード」を形成し、問題のフレーミング、研究目的、結果の評価など、積極的な役割、イニシアティヴをとっている。
  3. コミュニティ・メンバーによる研究への関与は、しばしば研究自体の実施も含む。たとえばアメリカ・ボストンにあるJSI環境衛生センターのディレクター、グレッチェン女史が関わったマサチューセッツ州ウバーンでの水質汚染による白血病増加の件では、当初、住民自らが自発的に疫学調査を行い、これがやがて職業専門家の協力や行政、企業の対応の変化をもたらした。このようなコミュニティ・メンバー自身によって行われ、問題に対して責任を負っている集団に対応策をとるよう求めていく研究活動は、「民衆疫学(popular epidemiology)」と呼ばれている。
  4. 専門家(大学教員・研究者など)とコミュニティ・メンバーのあいだの相互学習や協同作業を通じて、問題解決が達成される。逆に、「専門家にお任せ」では、コミュニティ・メンバーにとっての問題点や望ましい解決法、目標などの理解、あるいは当事者故に精通している事実認識などと、専門家のそれとの乖離が生じ、うまくいかないことが多いという。
  5. コミュニティ・メンバーが、自ら研究したり、研究や技術開発の成果を維持するために必要な専門技能の訓練を、サービスとして受けることもある。

また参加型研究の意義・利点・効果は以下の点にある。

  1. CBRではしばしば、コミュニティ・メンバーや専門家、行政、企業など各アクターのあいだの新しい社会関係や信頼関係、および意思決定や行動における高い社会的効率性が、予期しない副産物としてもたらされる。
  2. 一般的な科学・技術は、一方で大きな便益を社会にもたらすとともに、しばしば環境や健康、社会的・政治的秩序に対してこれまた大きな悪影響を伴う。これに対しCBRは、そうした負の影響が少なくすることができるだけでなく、そのようにして発生した問題自体により肉迫して直接的な解決をもたらすこともできる。
  3. 2.の背景には、成功しているCBRセンターでは、ローカルなコミュニティの問題に関わりながらも、それに対してよりマクロな社会分析の枠組みから取り組んでいることが功を奏している。またCBRの結果は、対象地域を越えた一般性をしばしば持ちうる。
  4. 専門家や学生にとってもCBRに関与する正の効果がある。学生にとっては、自分の学問や研究の能力・知見を実社会の問題に適用でき、かつ研究者の市民精神を養うるまたとない機会である。職業的専門家にとっては、ときにCBRへの関与が、自らの専門的研究の内容・テーマにフィードバックされることもある。

 ちなみに先にふれたベルギーでの国際会議“Living Knowledge: Building partnerships for public access to research”には、オランダ、ドイツ、イギリスなどEU諸国とアメリカ、カナダを中心に、南アフリカ、イスラエル、日本(筆者)から総勢120名ほどが参加している。EUをスポンサーにした同会議では、サイエンスショップ/CBRのEUレベルおよび国際レベルのネットワーク構築のためのEUからの助成金獲得のためのプロポーザルについても話し合われた。EUの研究事務総局(Research Directorate-General)からも、科学・社会局長(Director of Science and Society)のRainer Gerold氏や、「科学・技術に対する市民の意識喚起のためのイニシアティヴ」の責任者であるStephen Parker氏が出席していた。閉会講演でのParker氏のスピーチでは、EUでは、研究開発戦略の中心を社会におくこと、そのなかではリスク管理の問題や予防原則の重要性、科学・技術の倫理的影響と研究の自由の拮抗の問題、市民との対話の必要性が強く求められているといったことが、印象的であった。また同会議に合わせて発行されたサイエンスショップの国際ジャーナルLiving Knowledge: Journal of Community Based Researchの第0号がオンラインでも読める(1)

(1) サイエンスショップについては、筆者が、藤垣裕子氏(東大)による駒場STS研究会で発表したときのレジュメ「日本で『サイエンス・ショップ』を作るには」も参考にされたい。(本文5.4も参照。)

 また日本では、もともとはデンマークで始まった一般市民(素人)によるテクノロジー・アセスメントの制度「コンセンサス会議」の日本における普及をすすめている「コンセンサス会議/科学技術への市民参加を考える会(AJCOST)」というグループがある。こうした活動に携わる人々のなかには、EASSTや4SなどSTSの国際学会に所属する者も多く、年会での報告も行われており、STSの重要な一翼を担っているといえる。

4. 知識政治学からSTSを考える(1): 遺伝子組み換え作物をめぐるリスク論/規制科学論

 ここまでの説明で、STSの学際性・分野横断性や、研究と実践の両面性についてはある程度見通しを与えられたと思われるが、では、より具体的にいって、STS的な研究アプローチとはいったいどんなものなのだろうか。当然ながら、これを網羅的に示すことは筆者の手にあまる課題なので、筆者の専門テーマである知識政治学の領域から二つ例をあげてみよう。一つめは、リスク論/規制科学論だ。

4.1. 不確実性のもとでの科学と政治: リスク管理における予防原則・科学的合理性・社会的合理性

 リスク評価に用いられる規制科学の一番の特徴は、「無視できない不確実性」と「科学と政治の密接な相互作用」である。実験室内部の多かれ少なかれ理想化された条件のもとで対象を研究する科学研究(アカデミック科学またはリサーチ科学)とは違って、規制科学では、実験室外部のいわば「なま」の事象を扱うため、実験や観測、調査、分析が難しく、研究結果の不確実性が極めて高いのである。また規制政策の策定や、それに伴う裁判過程と結びついているため時間的な制約も厳しい。このため規制政策では、通常期待されるような科学的確実性や厳密性には程度に限界があり、リスク評価における科学的判断に、リスク管理上の政治的・価値的判断が関わる度合いも非常に大きくなる。そもそもリスク管理には、何を避けるべき危険(エンドポイント)と見なすか、何をリスクから守るかという極めて社会的で、公共の議論に開かれた政治的意思決定を必要とする判断が含まれており、これがリスク評価におけるさまざまな科学的判断の形成にも深く関わっている。科学と政策というと、科学者が確実で厳密な答えを出し、政策立案者や裁判官は、その答えに忠実かつ自動的に従うことが合理的だという「テクノクラティック(技術官僚主義的)」なイメージがあり、政治的・価値的判断がそこに入り込むことは「科学的合理性」を歪めることでしかないと考えられがちだが、規制科学の現実は、そのような単純なイメージでは割り切れないのだ。実際、かつて70年代にアメリカでは、テクノクラシーティックなイメージに基づいた「科学裁判所」という構想が持ち上がったことがあるが、現実の規制政策における科学研究の高度の不確実性や、科学研究と政治的・社会的判断との複雑な絡みあいに対する認識が深まるにつれて、この構想は頓挫している。現在のリスク評価・リスク管理のパラダイムは、全米研究評議会(NRC: National Research Council)が1983年に発表した通称「赤本」と呼ばれる報告書Risk Assessment in the Federal Government: Managing the Process (National Academy Press, 1983)が与えたものであり、そこでは、リスク評価とリスク管理の役割を明確に区別する一方で、前者における科学的研究と後者における社会的・政治的判断との相互作用に関する認識の重要性も喚起されている(参照)。さらにクリントン政権下でまとめられたリスク評価及びリスク管理に関する米国大統領・議会諮問委員会編,『環境リスク管理の新たな手法』 (佐藤雄也・山崎邦彦訳, 化学工業日報社, 1998)では、リスク評価からリスク管理に至るプロセス全般におけるさまざまな利害関係者の積極的関与と合意形成という政治プロセスの重要性が強調されている(参照)(1)

(1) リスク評価・リスク管理(およびリスクコミュニケーション)については、他にも同じくNRCのImproving Risk Communication (National Academy Press, 1989: 邦訳『リスクコミュニケーション:前進への提言』, 林裕造・関沢純訳, 化学工業日報社1997年)やScience and Judgment in Risk Assessment (National Academy Press, 1994)が重要。日本語で読めるものには、中西準子『環境リスク論―技術論からみた政策提言』 (岩波書店, 1995)、.D.Graham他編『リスク対リスク-環境と健康のリスクを減らすために』 (菅原努監訳, 昭和堂, 1998)、伊東隆志『化学物質のリスク管理』 (化学工業日報社, 2000)、日本リスク研究学会編『リスク学大事典』 (TBSブリタニカ, 2000)、吉川肇子『リスクとつきあう―危険な時代のコミュニケーション』(有斐閣選書, 2000)、またインターネット上の資料としては中小企業総合事業団の「化学物質のリスクアセスメントテキスト」がある。

 しかしながら、このようにリスク評価・リスク管理では、科学と政治のあいだに不即不離の相互関係があると指摘することは、「だからリスク評価の科学は信用できない」と批判することではない。そのような形での批判は、それこそ科学と政治の関係についてのテクノクラティックな考え方を前提にしたものでしかない。ここで論じたいのは、両者の相互関係があること自体は当然の事実として前提したうえで、では実際にはどのような相互関係があり、そのなかで科学研究はどんな政治的機能を果たし、どんな政治的効果(イデオロギー効果)を生んでいるのか、そしてどのような相互関係や政治的機能が望ましいのかという問題である。

 そしてこの問題を考えるために取り上げたいのが、遺伝子組み換え作物のリスクをめぐる「予防原則(precautionary principle)」と「健全な科学(sound science)」という二つのリスク管理の考え方の対立である。ここで「予防原則」とは、危険性に関する科学的証明が不確実であることを予防策・規制策を控える理由にすべきではないとする考え方であり、70年代初めに西ドイツで生まれ("Vorsorgeprinzip"という)、国際的な環境政策にも組み込まれてきたものだ。その背景には、環境政策や公衆衛生政策の分野で、何らかの規制措置を行政がとるための根拠―危険性や被害と原因の因果関係の証明―に厳しい科学的確実性を求めすぎることは、結果として被害を拡大させ、多くの犠牲者を生み出す危険があるという認識である。たとえば水俣病では、チッソからの排水が病気の原因だというレベルの因果関係は、かなり当初から疫学的にはっきりしていたにもかかわらず、国や企業、そしてその弁護に立った科学者・医学者が、原因物質の特定とその生体機序の解明まで踏み込んだ厳しいレベルの因果関係の証明を被害者側に要求したため、被害が拡大・深刻化し、補償を求めた裁判闘争を無用に長引かせてしまったことは有名だ(チッソ水俣病関西訴訟熊本日日新聞社)(2)。また水俣病の例でもそうだが、被害の原因となる側は、資金力など研究資源が豊富な国や大企業であり、(東大や東工大のような)エリート大学の研究者が証人に立つことになりやすいのに対し、被害を訴え、その因果関係の証明を負わされる側は、漁民のような社会的・経済的弱者や、研究資源に乏しい地方大学の研究者であるという、科学的研究基盤の非対称性がある。また、そもそも原因究明に必要な情報の多くが、企業や国に握られ、企業秘密を盾に情報公開されないという情報の非対称性なども、原子力発電関係の裁判では常に存在している(3)。確かに、危険性の証明と安全性の証明、因果関係の存在証明と不在証明は、純論理的には対称的だ。しかし、このような社会的な非対称性や高い不確実性という条件のもとでは、「危険性の存在や因果関係の証明に厳密な科学性を要求する」という立証責任(burden of proof)のあり方は、環境や人命にとって有害な結果をもたらしやすいという「負の政治性」をもってしまうのである。

(2)疫学的レベルでの因果関係の推定が公衆衛生に大きく寄与した最初の例は、疫学の祖ジョン・スノーだ。まだコレラ菌の存在が知られていなかった19世紀半ばにコレラがロンドンで流行したとき彼は、ある給水会社が給水している地域が他よりもずっと多くの患者を出していることに注目し、この会社の給水のなかにコレラの原因があると推定した結果をロンドン市に報告し、その結果、市が給水会社に施設の改良を勧告している。なお前章のCBRの実践例として2000年3月に筆者が訪問した米国ボストン市のJSI環境衛生センターは、このスノーの功績にあやかって設立された環境公衆衛生コンサルタント会社John Snow Inc.内のNPO部門である。そのルーツは、ボストン郊外の町Woburnの工場廃水による地下水汚染と小児白血病他の被害に関する住民の疫学調査活動(民衆疫学: Popular Epidemiology)である。

(3)最近の例は、福島第一原発へのMOX燃料の使用差し止め仮処分申請に対して福島地裁が下した判決に見ることができる。裁判を通じて被告の東京電力は、MOX燃料の製造データの公開を拒みつづけ、そのことは判決でも非難されていたにもかかわらず、判決の結果は申請却下であった。そして原告側は、この圧倒的な情報不足のなかで、MOX燃料の危険性の証明義務を負わされていたのである。(「美浜の会」関連ページ)

 これに対し、科学がはらむ負の政治性を極力弱め、正のものに転換させるための考え方が、危険性ではなく安全性を証明する側、被害と原因の因果関係の存在ではなくその不在を証明する側に、より重い立証責任を与えるという予防原則の下位原則「立証責任反転の原則(Reverse Onus Principle)」である。論理的には「危険である証拠がない」は「安全である」ことの証拠ではないが、行政や産業界の論理や行動様式では、結果的には両者が等置されてきた。立証責任を反転させることによって予防原則は、この従来の論理の転換を迫るものなのだ。もちろん、場合によっては予防策をとることによって別のリスクが高まる可能性があるため、「予防策自体の安全性証明」(予防原則の自己適用)も必要であるのはいうまでもない。とはいえ予防規制の対象となる技術や活動が、これから導入される新規のものであり、それらの開発コストの回収以外には特段の導入メリットや緊急性もない場合には、予防原則はとくに重視されるべきだろう。

 また予防原則では、立証責任の反転の前提に、危害の原因となる技術的行為や物質の使用から利益を得ている既存の産業経済活動よりも、人々の健康や生命、自然環境の保護を優先するという価値判断への積極的なコミットメントがあるという点で、「社会的に合理的であるとはどういうことか(短期的経済利益か環境・健康か)」を問うことが、そのまま「科学的に合理的であるとはどういうことか」と直結していることも重要だ。 いいかえれば、「異なる立証責任にもとづく二つの科学的合理性のうち、どちらが社会的に合理的なのか」が問われているのである。もちろんここで「社会的合理性」は、決して「経済か環境・人命か」の二者択一で捉えることはできないことにも注意しなければならない。上で「既存の」と強調しているのは、環境や人命、生活の質の価値と調和する方向に早期から技術開発をすすめ経済を回すことによって、結果的に経済的価値を高め、被害補償などによる経営コストの増大を回避させることもありうるからだ。実際そうした誘導策(インセンティヴ形成)を行うことは、リスク管理の重要な要素である。その意味で、異なる科学的合理性(立証責任)の真の対立点は、経済か環境かではなく、どちらが経済と環境・人命・生活を含めた社会全体の持続可能性を高め、維持することにつながるのかという点にある。その意味で予防原則は、技術開発プロセスの後に個別対応的に行われる水際的なリスク管理の原則ではなく、究極的には現代の産業経済構造の問題、とくに次々と新しい技術や物質を開発し、自然と社会に導入する「技術革新」を基盤にした現代資本主義経済の問題点をあぶり出し、持続可能な社会の実現に向けて産業経済や研究開発の構造にビルトインされるべき社会的組織化の原理と考えられるべきだろう。

 予防原則についてもう一点重要なのは、立証責任を反転させ、「安全性を証明する」といってもそれは、現実的には100%の安全性(ゼロリスク)ではないということだ。常にわれわれの知識とその探求に与えうる時間的・物質的資源は有限であり、しかもあらゆる行為には「意図せぬ帰結」の可能性があるからだ。またすでにわれわれが利用している技術や食している食品にも多かれ少なかれリスクはあり、にもかかわらずそれらが受け入られているのは、一つにはそもそもリスクがあることを消費者が知らされていないということも大きいといえるが、基本的には、そのリスクを負うのに値するベネフィットがあるからにほかならない。(そもそもベネフィットが何もなければ、安全だろうが危険だろうが利用されない。)

 とはいえ、このようにいうことは「何にでもリスクがあり、それを許容することでわれわれは生きている」という事実から「だから新しい技術のリスクも受け入れよ」という結論を引き出すことでも、技術革新を通じて絶え間なく新規なリスクを生産し続ける産業経済の現状を無批判に肯定することでもない(4)。ここでの論点は、実際の安全性証明で重要なのは、「ゼロリスクとしての安全性」ではなく、その技術のベネフィットや必要性の評価を加味したうえで評価されるリスクの「受容可能性(acceptability)」であるということ、そしてその判断は科学的であると同時に極めて社会的であり、原理的に公共の議論に開かれた民主的な政治的意思決定を必要とするということだ。ちなみにEU第12総局の助成で行われた欧州STS研究者による調査によれば、各国の遺伝子組み換え作物規制で採られた受容可能性のベースラインは、「従来の高インプットな農業と同程度」が支配的でありながらも、いくつかの国では「有機農業と同程度」(オーストリア)、「従来の農業の環境インパクトを改善し、将来の持続可能性政策の選択幅を偏らせないこと」(デンマーク)、「国内の生物多様性と従来の食品に影響を与えないこと」(イタリア)というように異なっていた(Susan Carr, "EU Safety Regulation on Genetically-Modified Crops", a summary report to the EASST Workshop: Food, Agriculture and Biotechnology: Recent Controversies, STS Research and the Policy Process, on 8-9 February 2001, at the National Council for the Environment and Sustainable Development, Lisbon.)。この例が示しているのは、受容可能性に関する判断は、基本的に、「何を守りたいのか」に関する社会の価値観に依存するものであり、それを社会的に正統化したり、既存の正統性に挑戦するには公共的議論が不可欠だということである。

(4)実際、近年日本では、90年代を通じての「安全神話」の崩壊以降、原子力などの分野の開発者や推進官庁サイドが「100%の安全などない。何にでもリスクがある」ということを強調するようになってきているが、これは、ようやく「絶対安全」の繰り返しとその裏返しとしてのリスク軽視からの脱却であるかに見えて、むしろ「だから受容しろ」という受容を強制する論理として使われる傾向がある。推進サイドによるそうした「脱ゼロリスク宣言」が胡散臭く思わざるをえないのは、科学的には、一部の専門家の意見や専門知識しか用いていないこと、社会的には、何が受容可能なのかや、そもそもその技術は必要なのかどうかに関する民主的な議論に開かれていないために、科学的にも政治的にも正統性がないからである。

4.2. 遺伝子組み換え作物のリスク論争における「健全な科学」の政治性: 科学的合理性の一面化と硬直化

 以上のような予防原則の考え方に対しては、当然ながら産業界を中心にさまざまな批判があり、しばしば激しい論争を生んでいる。その一例が、遺伝子組み換え作物のリスクをめぐる「予防原則」と「健全な科学」の対立であり、その最たる舞台は、生物多様性条約のもとで遺伝組み換え生物(GMOs: Genetically-Modified Organisms)の国際取引に伴うリスクの管理をあつかうバイオセイフティ議定書(カルタヘーナ議定書)の交渉(2000年1月29日モントリオールにて締結)だ。そこでは、アメリカをはじめとするGMOsの輸出大国が、予防原則の採用を主張した欧州連合(EU)や途上国グループに対し、「輸入規制の根拠には十分な科学的厳密性が必要であり、これを欠いた予防原則は非科学的で政治的・恣意的なものである」と非難し続けていた。より正確には、国連食糧農業機関(FAO)と世界保健機構(WHO)が設立した食品規格委員会(通称コーデックス委員会)が策定する国際規格よりも厳しい規制には、厳密な科学的根拠が必要だということだ。いいかえれば、前者は、予防原則の採用を、危険性証明から安全性証明への立証責任の転換という「科学的合理性の再定義」として理解するかわりに、危険性証明のみを「科学的である」とする「科学的合理性の一面化」と、規制科学にリサーチ科学・実験室科学並みの確実性を要求する「科学的合理性の硬直化」を行ったうえで、予防原則を非科学的と断じているのである。輸出国側は、このような一面的で硬直的な科学的合理性をさして「健全な科学」と呼び、農産物も含めた貿易自由化の推進機関であるWTO(世界貿易機関)の枠組みにおいても、「健全な科学に基づかない規制は不合理な非関税障壁とみなす」というかたちで表明されている。このため議定書交渉では、予防原則を重視する議定書や生物多様性条約全体の枠組みと、WTOの枠組みをどう調整するか、どちらを優先すべきかが争われていた(5)

(5)GMOsと経済グローバリゼーションの問題については、2000年9月22-23日にハーバード大学J. F. K.行政学大学院で国際会議「グローバル経済におけるバイオテクノロジー―科学と予防原則」が開かれており、カナダのNGOである「持続可能な開発に関する国際研究所(IISD)」が発行する電子ニュースサービスLinkageでその報告が読める。これは、とくに途上国に対する農業バイオテクノロジーの影響に焦点を当てた同大学院の「科学・技術・技術革新プログラム」のサブプログラム「バイオテクノロジーとグローバリゼーション」の一環として開かれたもので、関連文書資料も公開されている。またEUの予防原則に関する考え方については、欧州委員会の2000年2月の報告書"Communication on the Precautionary Principle"がある。また専門誌Journal of Risk Research(vol. 3. issue 3, July 2000)が、Susan Carrら欧州のSTS研究者による特集号「予防原則―EUにおけるGM作物」を組み、最新号(Vol. 4. issue 2, April 2001)でも予防原則を特集している。また環境政策における予防原則一般については、C. Raffendperger & J. Ticker (eds.). Protecting Public Health and Environment: Implementing the Precautionary Principle (Island Press, 1999)がある。これと関連してリスク評価における不確実性の問題を扱った論文集にJohn Lemons (ed.). Sceintific Uncertainty and Environmental Problem Solving (Blackwell Science, 1996)がある。また岩波の『科学』掲載の拙論「リスク社会における科学と政治の条件」(1999年3月号(Vol.69, no.3), 211-218頁)も挙げておきたい。

 いうまでもなくこのような対立の背後にあるのは、GMOsの貿易を促進し、利益を拡大したいという輸出国やその背後にある農業バイオテクノロジー企業(アグリビジネス)の利害関心である。しかし、先にも指摘したように、ここで問題とすべきは、経済利害関心の存在そのものではない。予防原則を主張する側にも環境や健康の保護、あるいは(WTO交渉でとくに論争となっている)「農業の多面的機能の保護」という思惑があり、さらには自国の農業者の利益確保という関心もからんでいるだろう。また、いかなる政策にも無限の費用(コスト)がかけられない以上、政策実施の費用対効果などの経済的な考慮は、リスク管理には多かれ少なかれ含まれてくるものだ。また、上述のような科学的合理性の一面化と硬直化を行う「健全な科学」の要求は、リスク評価・リスク管理の本来の精神をひどく矮小化していることにも注意しなくてはならない。先に述べたように不確実性は、リスク評価・リスク管理の基本的前提であり、規制科学では、さまざまな仮定や推定、モデルの外挿をしながらリスクを定量的に評価するのが普通だ(6)。予防原則とは、不確実性が極めて高く、しかも予期される被害が甚大だと推測される場合に採られるリスク管理のアプローチの一つであり、必ずしも通常のリスク評価・リスク管理と相容れないものではない(7)。GMOs問題に限らず一般に、科学的証拠を重視し、定量的なリスク評価にもとづいたリスク管理("science-based"または"risk-based"と呼ばれる)を開発・普及させ、「健全な科学」という考え方のベースになっている米国の枠組みでも、たとえば環境保護庁(EPA: Environmental Protection Agency)の科学諮問委員会(SAB: Science Advisory Board)では、定量的リスク評価をベースにしながらも、過度の確実性の追究による被害の拡大・対策の遅れを防ぐための予防原則的な考え方の必要性も訴えている(拙論「米国環境規制政策における『専門的インプット』のあり方」SABの説明およびSABのWebサイトを参照。)。いいかえれば「健全な科学」にも、予防原則的なリスク管理のアプローチと並存しうる穏健なバージョンと、予防原則と鋭く対立する過激なバージョンがあり、議定書交渉で前面化しているのは後者なのである。また米国国内で見ても、EPAが穏健な健全な科学であるとすれば、EPAによる規制に影響を受ける産業界は過激な健全な科学を要求することは普通である。

 結局のところGMOsをめぐるリスク論争で真に問われ、また論争を激化させているのは、健全な科学と予防原則のどちらが科学的に合理的かという問題ではない。それぞれの科学的合理性によって守ろうとしている環境や人命、経済などに関する社会的価値のうち、どちらが守るべきものなのか、どちらが社会的に合理的なものなのかという問題なのである。そして知識政治学として考えるべきことは、このような社会的論争において、科学的合理性と社会的合理性がどのように絡みあい、そのなかで科学研究がどんな政治的機能を果たし、どんな政治的効果を生んでいるのかである。これを見るため、さらに「健全な科学」の政治性について論じよう。

(6)不確実性を前提にしたリスク評価の考え方については、木下冨雄「不確実性・不安そしてリスク」(日本リスク研究学会編『リスク学大事典』, TBSブリタニカ, 2000, p.13ff)、関沢純「不確実性と信頼性の評価」(ibid. p.234f)、中西準子『環境リスク論』(岩波書店, 1995)の第5章などを参照。

(7)たとえばドイツの社会学者Ortwin Rennらは、リスクの概念を形づくる「被害発生の確率」と「被害の大きさ」の組み合わせをもとにリスクのタイプを分類し、それらにギリシャ神話のキャラクターをあてはめたうえで、リスク管理のアプローチを分類し、その一つに予防原則を位置付けている(Ortwin Renn & Andreas Klinke. 1999. "Precautionary Principle and Discursive Strategies: Classifying and Managing Risks", draft paper presented at the "Precautionary Principle Symposium, Washington D. C., 1999")。

4.3. 「健全な科学」における視野縮小化(1): 問題設定の視野縮小化

 さて、議定書交渉での「健全な科学」の要求がもつ政治的機能には、上のような科学的合理性の一面化と硬直化に加えて、大別して二種類の「視野縮小化」というべきレトリックが含まれていることも重要だ。

 一つは、リスク評価を行う際の「スコーピング」もしくは「フレーミング(問題設定)」における視野縮小化だ。その最たるものが、GM作物の輸出国側が主張する「健全な科学」がもっぱら含意しているのは、GM作物の食品としての安全性や栽培時の環境影響を扱う自然科学であり、GM作物の貿易や使用に伴う輸入国側での社会経済的影響(地域農業・食糧経済や小規模経営農家の経営基盤へのインパクト)など食糧安全保障上の問題を扱う社会科学や、宗教・倫理的問題を扱う人文科学は除外されているというものだ。GM作物問題では、マスメディアなどでも多くの場合、前者のタイプの影響ばかりに焦点があてられるが、実は議定書交渉で途上国やNGOsが訴えている問題群のなかでは、後者のタイプの問題がかなり大きな比重を占めているのである。とくに懸念されているのは、WTO-グローバリゼーション体制下で推し進められている農業貿易の自由化や、種子の遺伝子組み換えに特許(生物特許)を認める貿易関連知的所有権協定(TRIPs協定)や植物新品種保護同盟条約(UPOV条約)など農業の商業化・工業化のプレッシャーのもとで、企業による種子や農薬・除草剤など高価な生産資材の外部インプットを主体にした農業の工業化/モノカルチャー化と、自給作物から換金作物への転換といった農業の商業化が世界規模でいっそう進み、食糧の生産・配分システムにおける南北間の不平等がさらに拡大されるとともに、農業生態系の均質化・不安定化や農村共同体の経済基盤や文化基盤の崩壊がさらに加速してしまう危険である(cf. 2001a. 平川秀幸「生物多様性条約から見るグローバリゼーションとローカル・ノレッジ」,京都人類学研究会,2001年2月2日,京大会館。 )。

 しばしばGM作物の開発者たちは、「GM作物こそ21世紀の食糧不足を解決する鍵だ」といってそのメリットを主張する。しかし、実際には途上国で現在起きている食糧不足の原因は、単なる生産量の不足というよりは、むしろ過剰な農業の工業化・商業化と食糧システムの不平等構造や、それに伴う貧困なのであり、「食糧問題」とは、「北側における過剰生産・消費と南側における過酷な食糧不足の構造的で必然的な並存」の問題なのである。過剰な農業の工業化は、かつてアジアで展開された「緑の革命」がそうだったように、一時的には増収につながるが、長期的には、過剰な水消費と農薬・化学肥料の使用による土壌劣化と農業生態系の破壊、モノカルチャー化による農業生態系の多様性の縮小と不安定化と、地域の食生活を支えてきた農産物の多様性の衰退、そして外部インプットされる種子や生産資材の購入コスト高による小規模農家の離農など、地域のさまざまな農業-経済-共同体-生態系システムの衰退をもたらしてしまう。おまけに、種子や生産資材を外部インプットに頼るシステムでは、それらの購入に必要な現金収入をうるために多様な自給作物の生産を縮小して、換金作物の生産への転換が促進され、その結果、食糧を手に入れるためにさらに現金収入を求めるという悪循環をもたらす。そのうえ換金作物は、とくに国際市場での価格競争にさらされることによって、それから得られる収入は不安定にならざるを得ない。しかも、換金作物化・商業化は、いわゆる「アグリビジネス」と呼ばれる巨大多国籍企業が、種子や生産資材などインプットの面で農業システムをコントロール下におくだけでなく、流通・加工部門も統合し(いわゆる「垂直統合」)、栽培契約によって特定の種子と生産資材の使用、農作物買い入れのみを指定する場合には、モノカルチャー化のいっそうの促進・拡大につながる。(Cf. Miguel A. Altieri & Peter Rosset. Ten Reasons Why Biotechnology Will Not Ensure Food Security, Protect the Environment and Reduce Poverty in the Developing World, Food First, October 1998; 日本語訳「バイオテクノロジーが食糧安全保障に役立たず、環境を保護せず、途上国の貧困を縮小しない10の理由」.)

 またGMOsに限らず、バイオテクノロジーの分野では、生物多様性の宝庫である南側諸国に存在する生物資源から成分抽出したり遺伝子操作することによって高付加価値化・特許化された商品を開発し、それをもとの国々で販売することによって独占的に利益をうるといういわゆる「バイオパイラシー(biopiracy: 生物学的海賊行為)」が懸念されている。なぜこれが「海賊行為」なのかといえば、そうした商品の開発には、地元の生物資源だけでなく、その食品や医薬品としての利用法や効能に関する地元の伝統的な土着知識(indigenous knowledge)の助けなしにはありえないにもかかわらず、地元社会には何ら見返りがないどころか、かえって従来よりも高額な商品を買わざるをえない―もしくは買えない―状態に人々を追い込んでしまうからだ。たとえばインドでは、古来から殺虫剤などの無料の共有資源として使われてきた「ニーム」という木に関する日米企業の特許取得をめぐって、バイオパイラシーの危惧が高まり、裁判も起こされている。そして、こうした傾向に拍車をかけているのが、先のWTOとTRIPs協定/UPOV条約にもとづく貿易自由化・グローバリゼーション・生命商品化なのである。ついでにいえば、世界銀行と国際通貨基金(IMF)が累積債務国に適用する「構造調整プログラム(SAP)」によって通貨切り下げが行われているために、先進国の企業が途上国で特許をとることはその反対よりもずっとコストが低くたやすいという不平等も存在している。しかもSAPに基づく政策では緊縮財政と輸出振興が進められるため、農業保護や貧困層に対する福祉の切り詰めと国際的換金作物への転換はますます加速される(cf.戸田清「生物多様性と伝統的知識を守るために」、市民フォーラム2001編『WTOが世界を変える?―身近な矛盾からグローバル化が見える』、市民フォーラム2001、1999年)。ちなみに生物多様性条約第8条j項では、伝統的知識や農法は、生物資源の利用法に関する豊かな宝庫であるだけでなく、その持続的な利用法に関する叡智を体現しているという点で、積極的なその保護・振興と担い手の権利保護を求めており、これをテーマにしたワークショップ「伝統的知識と生物多様性」も開かれている。(これに関する生物多様性条約締約国会議(COP)の立場はここに表明されている。)

 こうした問題は、GM作物だから起きる問題ではないが、その開発・普及が、現行の農業・食糧システムと貿易システムのなかで多国籍企業を主体に推し進められている限りは、「GM作物でも引き続き起こる問題」だ。「健全な科学」の範囲を自然科学だけに限定し、GM作物のリスクの範囲(scope)を食品としてのリスクや栽培時の環境影響に限定してしまうことは、「食糧問題の解決」にはつながらないどころか、かえってますます取り返しのつかない事態に追い込まれていくのを黙って見過ごすことになりかねない。GM輸出国側による「健全な科学」の要求は、こうした危険への訴えを封殺し、問うべき問題を議論の場から締め出すことによって、WTO体制化のグローバリゼーションを一方的に後押しする政治的イデオロギーとして機能しているのである(8)

(8) GM作物のリスクやベネフィットをどのような問題設定で扱うべきかに関するこのような見解の相違・対立は、2000年9月から11月に社団法人農林水産先端技術産業振興センター(STAFF)が開いた「遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議」でも、自然科学・工学系の専門家と社会科学系の専門家との間に見られた。これについては、筆者による報告書Provisional Report on the GM Crops Consensus Conference in Japanの"2.3. Boundary Work of Framing"を参照されたい。またSTSでは、この問題設定範囲の線引きのような行為を“boundary work”と呼ぶ。

4.4. 「健全な科学」における視野縮小化(2): 「リスク」概念の認識論的・文化的・政治的次元に対する視野縮小化

 「健全な科学」というレトリックがはらむ視野縮小化は、「リスク」という概念そのものの考え方にも深く関わっている。第一に重要なのは「リスク」と「不確実性」は違うということだ。工学的な概念としてのリスクとは「望ましくない出来事が起こる確率に結果の大きさをかけたもの」であり、したがって、どのような結果がどのような被害程度で生じるのかや、その生起確率が定量的に知られていなければ意味がない概念だ。そして「不確実性」とは、この結果と生起確率に関する知識に含まれる不確実性のことである。いいかえればそれは、危険事象に関する「無知」の程度を表しており、場合によっては「完全なる無知」を表している。定量的なリスク評価では、このような無知の程度としての不確実性の度合いも、評価全体の信頼性の尺度として定量的な見積もりの対象になるのだが、完全なる無知の場合には見積もりようがない。先にも述べたように予防原則とは、不確実性が非常に高く、我々の無知が深刻であると判断される場合に選ばれるリスク管理の手法に他ならない。GMOsに関する「予防原則か健全な科学か」の論争では、何らかの見積もりが可能な不確実性だけでなく、「完全なる無知」の存在をどれだけ重視するのか、いいかえれば危険事象に関する未知の領域の広がりがどれくらい大きいのかという認識論的問題も問われているのである。

 このような認識論的問題を考える上で重要なのは、前節で述べた「問題設定の視野縮小化」は、一般に、リスク評価における見ための確実性を高め、安全性証明に対する立証責任を軽くする効果をもちやすいという傾向だ。GMOs論争での「健全な科学」の要求者は、反対者に対し高いハードルの危険性証明を負わせると同時に、自らの側では、野外実験なども含めたリスク評価によって食品や作物としての安全性が証明されていると主張している。しかしながら前出のSusan Carrらの報告書の指摘によれば、リスク評価にかかわる専門分野を狭く限定することは、不確実性を小さく見せる効果をもつ。同分野(たとえば分子生物学や遺伝学)の研究者は同じ専門言語や理論モデルを共有しているからだ。このため、他分野(たとえば生態学)の研究者が議論に加わった場合には、それまで評価対象になっていなかった事柄の不確実性や無知に光があてられるため、専門分野が限定されていた場合よりも全体として不確実性が高まるのである。つまり、「健全な科学」の要求者(GMOsの開発者や輸出国)が主張する安全性証明の確実性は、専門分野の限定によって作り出された社会的構築物であるという面がかなりあるのだ。さらには、上にあげたような社会科学的分析を必要とするGMOsの社会経済的インパクトの評価まで含めて考えれば、GMOsの安全性の社会的構築性はなおいっそう高まり、その分、実際に悪影響がないことを示す立証責任のハードルも高くなるといえるだろう。

 こうした認識論的問題に加えて重要なのは、リスク概念に含まれる文化的な次元の問題だ。一つには、そもそも「リスク」という概念自体が、非常に価値観の文化的違いをはらんだ概念だということがある。たとえばラングドン・ウィナー(Langdon Wiener)が『鯨と原子炉-技術の限界を求めて』(紀伊國屋書店、2000年)で指摘しているように、他文化に比べて一般に米国人は、リスクを、それを積極的に引き受けることで何か新しいベネフィットを手に入れるという点で、フロンティア精神を体現するプラスの価値をもつものと考えている。「リスクを引き受ける(taking risk)」ことは勇気ある行為なのであり、そうしないのは臆病者なのだ。またジャザノフによれば、米国の政治文化では、政治的論争の決着の手段として過剰なまでに科学に訴える割合が欧州諸国よりも強い。反対にイギリスをはじめとする欧州諸国では、とくに近年、当初人間への危険性が軽視され規制が遅れた狂牛病の例があったため、政府や政府の規制機関・規制科学者に対する消費者/市民の信頼が低下しており、GMOsについても、その未知の危険性を軽視し、安全性を声高に叫び、積極的な開発・普及を訴える声に対して非常に懐疑的になっている。

 GM作物の規制をめぐる米国とEUの対立の場合には、両地域での「農業の文化的意味」の違いも影響している。害虫抵抗性トウモロコシ(Bt-corn)を例に米欧の「健全な科学-予防原則」の論争を分析したLes LevidowとSusan Carrによれば、米では農地は一種の工場のように考えられており、野生区や自然保護区から明確に区別されるのに対し、欧州では、化学肥料・農薬を使いながらも、農地は環境の一部と見なされ、その美的価値や野生生物の生息地としての価値、地域遺産としての価値ももっており、さらにはこの違いが、規制方法に対する環境NGOsの要求が米国より欧州のほうが厳しいという違いも生んでいるというのである(Les Levidow & Susan Carr, "Sound Science or Ideology?", FORUM for Applied Research and Public Policy, Fall 2000: 44-50)。(この点では、WTO農業交渉では日本もEUとともに「農業の多面的機能の保護」を訴えている。)

 このようなリスク概念に含まれる文化的次元の問題は、さらにその政治的次元の問題にもつながっている。この点でとくに思い出して欲しいのは、技術のリスクや安全性の評価は、社会が、その技術のベネフィットや必要性をどう評価し、何を受け入れ可能なリスクと見なすかという「受容可能性」のベースラインの採り方に依存しているという4.1節での論点だ。「健全な科学」の要求者から見れば、上のような文化的違いや、前節のような社会経済的影響をGM作物のリスク評価の枠組みに取り入れることは、「恣意的」に見えるかもしれない。しかしながら安全性というものが実は、リスクの受容可能性の判断に依存し、しかもその判断は根本的には社会の価値観や、その違いを調停する政治的意思決定に依存している以上、リスク評価の問題設定を自然科学的・工学的な範囲に限定することのほうが、かえって恣意的である。いいかえれば「健全な科学」の問題設定の範囲をそのように限定すること自体が、科学的であると同時に一つの政治的な選択なのであり、これを端的に「科学的か非科学的・政治的か」の二分法で判断することは政治的な意味で恣意的な専断なのである。

 この点は、先に注(8)でふれた「遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議」での専門家同士の意見の対立にも深く関わっている。先に筆者は、社会経済的影響やモノカルチャーの弊害などの問題は「GM作物だから起きる問題ではないが、GM作物でも引き続き起こる問題」だと述べた。実は、コンセンサス会議での社会科学系と自然科学系の専門家の意見の対立は、「GM作物でも起こる問題だからこそ社会経済的影響やモノカルチャーの問題も考慮すべき」という見解(社会科学者)と、「GM以外の場合にも起こる問題なのだから、特別GM作物のリスク評価に含める必要はない」という見解(自然科学者)の対立であった。そして、この見解の相違を生んでいるのが、GM作物のベネフィットとリスクのバランスを考慮し、リスクの受容可能性を評価するためのベースラインの違いなのである。つまり、前者は、「商業的・工業的・モノカルチャー的な現行の農業・食糧システムの改善」をベースラインとしていたのに対し、後者は、農業・食糧システムの全体的な現状の改善はGM作物の課題ではないとしたうえで、生産性増大や効率化やビタミンなど特定栄養素増量による高付加価値化、農薬・除草剤の散布回数減少による従来の農薬・除草剤の環境負荷の低減といったベネフィットや、GM作物の殺虫毒素に対して抵抗性を獲得したスーパー害虫の発生やアレルギー物質の生成など環境や人体へのリスクといった、前者から見ればミニマムな範囲でベースラインを考えていたのである。このような見解の相違は、部分的には、これらのベネフィットやリスクの評価はどれほど正しいのかという科学的問題ではある。しかし、それ以上に大きいのは、何を望ましい農業・食糧システムのあり方と考えるのか、新規に導入する農業技術は、現状に対してどんな貢献をすべきなのか、どんな危険を避けるべきなのかという価値判断や、この判断をいったい誰がどのようにすべきなのかという「政治的正統性」の問題なのである。

 リスク概念の政治的次元については、さらに、行為者の視点から見た「リスク」と「ハザード」の違いにも注意しなければならない。通常のリスク評価・リスク管理の工学的定義では両者は、「ハザード」が「被害の大きさ」を意味しているだけであるのに対し、「リスク」は、被害の大きさに、その被害が発生する可能性(確率)を表しているというように、リスクの予測・推測・不確実性の要素の有無によって区別される(cf. 伊東隆志『化学物質のリスク管理』化学工業日報社, 2000)。これに対し、行為者の視点から見た場合には、リスクとは、リスクを伴う行為の主体でありその行為を積極的にコントロールできる主体でもある「リスク行為者(risk taker)」にとっての「能動的危険」であり、ハザードは、たとえば純粋な自然災害のように、自らの行為とコントロールを超えたものによって引き起こされ被る「受動的危険」を表す(9)。このため、同じテクノロジーの危険性であっても、それを利用し利益を得る積極的な主体である行為者にとっては「リスク」であっても、そうでない大多数の人々にとっては単なる「ハザード」に過ぎないという違いが生まれる。さらには、そのテクノロジーのベネフィットや必要性が、リスク行為者以外の人々にとってどれだけ大きいのか、誰が利益を得て誰が損をするのかということも、人々にとってある危険がリスクとハザードのどちらに分類されるかに大きく影響しうるだろう。この点でもまた、「リスク」という概念には、リスク行為のコントロール権を誰が持つのか、誰が利益を得、誰が誰にそれを配分するのかといった政治的問題が含まれていることが見えてくる。

(9)行為の能動性・受動性によるリスク/ハザードの分類については、大塚善樹氏(広島経済大学)による「知覚される危険性の4類型」を参照。またリスク知覚の専門家と非専門家(素人)の有意味な違いについては吉川肇子『リスクとつきあう―危険な時代のコミュニケーション』(有斐閣選書, 2000)および中西準子『環境リスク論』第6章、日本リスク研究学会編『リスク学事典』第7章などを参照。

 リスク行為のコントロール権とあいまって重要なのが、リスク概念が伴う「責任」(liability)の観念だ。英語で“at one's own risk”といえば、「自らの責任において行うこと」であり、慣用的には「するべからず」という含意ももつ言い回しだ。つまりリスクのある行為を行う場合には、実際に危害が生じたときに「誰が責任を負うのか」を明確にすることが社会的には不可欠なのだ。ここでも問題は非常に政治的なものなのである。実際、バイオセイフティ議定書交渉の係争点の一つは、この責任問題だったし、先にふれた「遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議」で、全国480人近くの応募者からランダム抽出された市民パネル18人が提起した問題の一つも、そうだった。たとえ現時点では非常に安全だと判断されたものだとしても、未知の長期的悪影響や、現時点での知識の誤りが将来明らかになるかもしれないという可能性を考慮すれば、どんなものであっても責任問題は重要である。なお責任問題では「製造物責任法(PL法)」が重要だが、日本の現行のPL法(1994年成立)では、未加工農林畜産物については、基本的に自然の力を利用したものであり、高度に加工された工業製品とは生産形態が著しく異なるため、「製造物」の範囲に含められていない。GM作物・食品の場合には、一方で、高度なGM技術によって加工されたものであることから、製造物責任を問われる対象になるともいえるが、他方で、いわゆる安全審査における「実質的同等性」の考えに従えば、GM作物と非GM作物の本質的違いはないということになり、責任対象外になる可能性もある。なおアメリカ、フランス、ルクセンブルク、フィンランドなどの欧米諸国では、未加工農林畜産物も製造物に含めており、ドイツでは1990年に成立した遺伝子工学法によって、GM技術によって生じた危険に対して無過失責任を課すことを定めている(早川孝彦「遺伝子組み換え食品の光と影」、村田幸作・清水誠編著『遺伝子組み換え食品がかわる本』、法研、2000年)。

 いうまでもなく以上のような文化的・政治的問題に対する視野は、工学的なリスク概念には含まれていないものだが、現実のリスク評価・リスク管理の枠組みの中では当然考慮に入れなければならないものである。先に参考文献としてあげたリスク評価及びリスク管理に関する米国大統領・議会諮問委員会編『環境リスク管理の新たな手法』で、リスク評価・リスク管理のプロセス全体にわたる利害関係者の参加の重要性の強調は、このことを反映している。ところがバイオセイフティ議定書交渉のような場で要求されるような過激な「健全な科学」は、このようなリスク論争の文化的・政治的次元に関する公共的討議を抑制する方向で働く「リスク評価・リスク管理の非政治化(apoliticization)」のための政治的イデオロギーにもなっており、先の不確実性の軽視・立証責任一面化とともに、本来のリスク評価・リスク管理の考え方に大きくそむくものになっているのだ(参考図表)。一見「科学 vs. 政治」という対立に見える論争のなかで本当に争われているのは、結局のところ、どんな社会的価値や経済活動が望ましいのか、それを実現するにはどのようなかたちで科学研究や技術開発をリスク管理に活かすべきなのか、そしてリスク管理のための「健全な科学」と真に呼べるものがあるとすれば、その「健全さ」とはいったい何なのかという問題なのである。


 以上のようにGM作物の「リスク」をめぐる科学と政治は複雑なものであり、先に述べたような「科学的判断に基づく政治的判断」という単純なイメージや「厳密な科学的決定か、恣意的な政治的決断か」といった二分法では、科学的にも政治的にも重大な過ちをまねく怖れがある。科学と政治はしばしば別ちがたく結びついており、「社会的に合理的であるとはどういうことか」を問うことと、「科学的に合理的であるとはどういうことか」を問うことが直結しているのである。一般に人文社会科学では、科学と政治のことを論じる場合でも、科学的合理性の内実にまで踏み込まず、科学を、その中身が問われない「ブラックボックス」として扱ってきたのが実情だ。科学研究が行われ、政策立案過程などさまざまな場面で用いられる様を観察し、科学的な合理性と社会的な合理性が交錯する現場に深く分け入るところに、STS的研究の真骨頂がある。

5. 知識政治学からSTSを考える(2): 一般市民の科学理解(PUS)

 STS的アプローチの特色を物語る知識政治学テーマのもう一つの例は、科学・技術の専門家とその素人(とりあえず「一般市民」と呼ぶことにする)とのあいだのコミュニケーションや相互作用に関する「科学コミュニケーション」だ。科学コミュニケーションについては、「一般市民の科学理解(Public Understanding of Science; PUS)」と呼ばれる研究および運動の伝統が80年代半ば頃からあり、大別して次の三つの系統がある。

  1.  一般市民の科学への態度・素養(リテラシー)・理解度に対する統計的調査
  2.  一般市民の認知様式に関する認知心理学的なアプローチ
  3.  構成主義に基づいた社会学的・人類学的研究

 これらのうち(3)がSTS的なPUSであり、これを「社会学的PUS」と呼ぶことができ、(1)、(2)と対立もしくは補完関係にある。社会学的PUSから見た他の二つの問題点は共通しているので、ここでは社会的に最もプレゼンスの大きい(1)と社会学的PUSとの違いについて述べよう。

5.1. 啓蒙主義的PUSと社会学的PUS

 (1)のタイプのPUSは、80年代半ば以降にイギリスのロイヤルソサイエティや全米科学財団(NSF: National Science Foundation)がすすめてきたものであり、一般市民に対する科学的概念や方法に関する「科学的素養(科学リテラシー)」の啓蒙・普及の必要性をもっとも重視している点で、「啓蒙主義的PUS」と呼ぶことができる。その背景には、理工系進学者数が減少し、現在の日本と同様のいわゆる「理科離れ」が目立ったことなどから、一般市民の科学的素養を高めることによって、理工系学生が増加したり、科学技術振興への一般からの支持が増え、ひいては国の技術水準と経済競争力の向上につながるだろうという期待や、個人が、たとえばリスクのような科学・技術にかかわる諸問題に関する個人的または公共的な意思決定を合理的に行う助けになるだろうという期待があった。こうした考えは、英米に限らずどこの国にも見られるものであり、勢力的にはPUSの主流派をなしている。

 このような主流派PUSが、しばしば―というよりは大抵は―科学・技術を「理解する」イコール「受容する」といういわゆる「パブリック・アクセプタンス(PA: Public Acceptance)」の図式にはまりがちであることは、改めて強調するまでもないだろう。たとえば日本の科学技術庁(現・文部科学省)発行の『科学技術白書』でも必ず述べられているのが、「科学技術を振興するためには国民の理解が必要である」ということだ。あるいは原子力発電所など、リスクの伴う施設の立地・建設をめぐっても繰り返されるのは、「ご理解いただく」イコール「受け容れていただく」であって、「理解したからこそ受け容れない」という選択は「まだまだご理解いただけていない」、「もっとご理解いただくよう努力しなければならない」としか判断されない。先に、主流派PUSの背景には、「個人の合理的判断を支援する」という期待があると述べたが、「何が合理的な判断なのか」を決めるのは、往々にしてその判断対象である技術の開発や利用に利害を持つ専門家や行政担当者でしかないのだ。

 このようないわば「合理性の独占」は、昨年住民投票に成功した吉野川可動堰問題でも、行政側がとってきた態度に一貫して見られたものだ。なかでも中山元建設大臣が、住民投票をさして「民主主義の誤作動」だといい、堰建設のような高度に技術的で専門的なことは、専門家に任せておけばよく、素人に過ぎない住民は黙っていろとでもいわんばかりの態度をあらわにしたことは、これをよく物語っている。実をいえばこの問題では、吉野川シンポジウム実行委員会の中心メンバーが当初から問題にしていたことの一つは、「果たして建設省の技術的判断は、技術的・環境的・経済的に合理的なのか」、「建設省がいう『専門家』は専門家足りうるのか」ということであり、この合理性や、専門家集団の能力のいわば「正統性(legitimacy)への住民グループの問いかけ自体を、「素人呼ばわり」することによって黙殺してきたのが建設省だったのである。ポパーの批判的合理主義がいうように、「科学的である」ということが「批判に開かれている」ということならば、非科学的なのは建設省のほうだとさえ言えるだろう。

 さて、主流派PUSの推進者がいだく上記のような期待がどれほど現実味があるのか、またそういう期待を抱くこと自体の是非はどうかは置いておくとして、知識政治学もしくは社会学的PUSの観点から見て、主流派PUSのもっとも大きな問題点は、次のようなその前提にある。すなわち、専門家にとって「一般市民」は、科学的素養を欠き、教育や科学ジャーナリズムによって科学的素養を注ぎ込まれなければならない空虚な器のような存在だという見方がそれだ。いうなれば専門家と彼/彼女らのあいだにあるのは、科学的素養が多い少ないの落差だけであり、両者の有意味なコミュニケーションは、この落差にそって専門家から素人に知識が流れていくだけの一方通行にすぎないということだ(1)

(1) ここで述べた主流派PUSの問題点は「程度問題」であり、社会的状況に依存したものであることに注意されたい。文部科学省が準備を勧めている初等中等教育の新指導要領では、まったく系統性なく理数系科目の内容が3割も削減される。別に経済ナショナリズムにコミットせざるとも、その経済的影響は大いに懸念せざるをえないし、ましてや近年多発している技術の安全性・品質管理の低下をなお一層推し進める懸念は誰にとっても大きいだろう。こうした状況では、STSの論点も相応に変えねばならない。

 こうした主流派PUSの一面的な見方を、PUSの「欠如モデル(deficit model)」と呼び、その一面的で一方的な知識観やコミュニケーション観を批判しているのが、PUSの現場に社会学的なアプローチで迫るイギリスのブライアン・ウィン(Brian Wynne)やアラン・アーウィン(Alan Irwin)たちである。その内実をもっともよく伝えているのは、『科学を誤解する?―市民による科学・技術の再構成』(Alan Irwin and Brian Wynne eds. Misunderstanding Science?: The Public Reconstruction of Science and Technology, Cambridge University Press, 1996)という論文集であり、フィールド調査などをもとに、欠如モデルからは見えない「素人」の科学コミュニケーションにおける能動的な役割や、専門家が判断する合理性には還元できない素人なりの合理性に光をあてている。またアーウィンは、イギリスの経済・社会研究カウンシル(ESRC: Economic & Social Research Council)の新規開拓プログラムの一つとして、ロンドンの科学政策支援グループ(SPSG: Science Policy Support Group)によるPUSプログラムを1998年2月から1999年4月まで展開している。

5.2. 社会学的PUSの論点(1): 「ローカルノレッジ」の重要性

 社会学的PUSのもっとも重要な論点とは何か。一つは、専門的訓練を受け、企業や大学、役所で働くいわゆる「専門家」がもつ科学・技術の知識だけが知識のすべてではなく、いわゆる「素人」と分類されてしまう人々もまた、それぞれの地域での生活や職業の経験に基づいた固有の知識や、彼/彼女らが置かれている社会的文脈に即した判断の合理性を、さまざまなかたちで持ち合わせているという認識だ。

ちなみに「素人」がもつ固有の知識は、しばしばクリフォード・ギアツにならって「ローカルノレッジ」と呼ばれ、そうした知識をもつ素人のことをウィンたちは「平(ひら)専門家(lay experts)※」(local expertsともいう)と呼び、いわゆる専門家である職業的専門家(professional experts/credential experts)に対置している。(※ 素人(lay person)を表す"lay"は元来は、キリスト教の聖職者に対する平信徒を指すものだった。)またローカルノレッジは、「地域的知識」や「局所的知識」といわれることもあるが、より広くは必ずしも物理的な空間性を含意しない「局在的知識」という表現のほうが良いだろう。職業固有の知識や技量(skill)のようなものは、空間的に局在してもいるともいえるが、その職業固有の経験の脈絡に局在しているといったほうが適当だと考えられるからだ。

 これに対しいわゆる科学・技術の場合には、少なくとも建前としてすべての職業人や生活者の共通の教養として、公教育を通じて非局在化されている。とはいえある一定水準より高度な専門知識は、やはりその専門的訓練を受けたごく一部の専門家の職業(研究や開発)の文脈に局在しており、「専門家」と称される人々の集団のなかでさえ、それがひろく共有されることはほとんどないという点で、ローカルノレッジの一つだといえる。また科学・技術の知識は、その適用範囲の広さ―一般性や普遍性―が特徴だと通常は考えられている。しかし後にも述べるように、科学・技術の専門的知識は多くの場合、実験室内の理想化された条件のもとで生み出され獲得されたものであり、それがそのまま複雑で多様な実験室外の世界にはあてはまならないことが多い。実験室生まれの知識を、個々に多様な条件をもった具体的状況に適用する場合には、膨大な数の仮定をもうけたり、既知のことからの外挿を行ったりするなどして、不確実性が大きくなる。あるいは、とりわけ科学知識をテクノロジーに応用し、具体的な機械やテクニックとして実用化する場合のように、具体的状況の条件を実験室と同じかたちに改変してしまういわば「世界の実験室化」というやり方は、実験室同様の精度の高い予測や解析、コントロールを可能にするものではある。しかし、そうやって実世界を実験室化する行為が、実世界のより広い脈絡のなかでどのような帰結を生むかは予測もコントロールも困難だということは、公害や環境問題のことを考えれば分かりやすいだろう。この点でも科学・技術の専門知識もまた、それが生み出された実験室の脈絡に局在したローカルノレッジの一つだといえるだろう。(この論点については前出のRouseのKnowledge and Powerを参照されたい。)

 しかしながら科学・技術の専門知識とローカルノレッジには次のような違いも存在する。まずローカルノレッジは、その担い手の生活や職業に結びついたものであり、その内容は、担い手たちの生活・労働環境の事物と多様に連関している。それは単なる知識ではなく、事物やそれにかかわる人々との「係わり」を映し出すものだといえる。さきに吉野川可動堰問題で住民の人々は、堰に関する専門知識を身につけ技術論争を建設省とやったと述べたが、実は彼/彼女らの知的実践はそれだけに留まらない。「365日のかかわりから始めよう」というスローガンのもとですすめられたのは、遊び場や住民の交流の場、生活の基盤としての吉野川と地域の人々の多様な係わりを再認識し、川との付き合いや触れ合いを新たに創造していくことだった。つまり「吉野川について知る」ことは「吉野川とつきあう」ことそのものなのであり、そこには人々の関心や必要、意味づけが反映されている。これに対し科学・技術の専門知識はどうか。確かにそれもまた、実験室の物質的環境や学界という社会環境との係わりのもとにある知識であることには変わりはないが、しかしこの係わりは、その知識が適用される個々の具体的係わりからは切れた疎遠なものである。この具体的係わりの疎遠さこそ、状況の違いを超えて科学・技術の知識やテクニックを広く適用可能にする秘訣でもあると同時に、具体的状況や人々の関心やニーズとの乖離の源なのである。

 さて、社会学的PUSの先の論点に戻ろう。おそらく最もドラステックにその意義を物語っており、社会学的PUS研究の範例とされているのが、ウィンが調査したイギリスのセラフィールド近郊の酪農家が遭遇した事例だ。セラフィールドは、日本と関係が深い核燃料の再処理施設など核施設を多く保有する場所だが、1986年のチェルノブイリ原発事故の直後、局所的な雷雨に見舞われたその近郊の酪農地帯が高濃度の放射能汚染地域(いわゆるホットスポット)であることが調査によって判明した。直後はその影響は無視できるとした政府は、6週間後には、汚染された牧草を食べたその土地の羊が出荷されて汚染が広がらないように、3週間の出荷停止令を発令した。「3週間」というのは、国の専門家チームの現地調査によって、放射性セシウムは、アルカリ性粘土質の土壌に直ちに吸収・固定され、牧草が吸い上げることないと判断されたためである。しかしながら3週間を越え、やがて2年が経っても汚染濃度は下がらなかった。なぜか。実をいうと、専門家チームの判断のもとにある「アルカリ性粘土質の土壌」という前提が間違っていたのである。現地の土壌は酸性泥炭質だったのだが、専門家チームはそれを実際に調べることなく勝手にアルカリ性粘土質だと仮定し、それに基づいて予測を立てたのである。より詳しくいえば、現地調査を行ったチームの専門家は物理学系だけであり、土壌の化学特性検査に関する専門知識や機材も持っていなかった。彼らに唯一利用可能だったのが「アルカリ性粘土質の土壌における放射性セシウムの挙動モデル」だけだったのである。

 ウィンの研究は、この一連の出来事を経験した地元の酪農家からのインタヴューに基づいている。インタヴュー調査から第一に分かったのは、実は現地の土壌に関する知識は、酪農家としての経験から酪農家たちはもっていたということ、そして、それにもかかわらず現地調査にきた専門家たちは、そうしたローカルノレッジを持った「平専門家」たちをただの無知な素人と見なして、何の相談もせず、勝手に調査し、勝手に非現実的な予測を述べたという事実だ。しかも、物理学の専門家でしかない彼らは、羊飼いの専門家である酪農家たちに何の伺いも立てず、羊がどんな草を食べるか、牧草地のどんなところでどれくらい食べるかに関する判断を下し、それに基づいて酪農家たちに羊の食餌方法まで指示したというのだ。また科学者たちのフィールド調査の方法は、それまでもっていたイメージとは違ってかなり雑然としており、牧草地の植生や地形とは無関係にあてずっぽにサンプルを集めているだけのように農家たちには見えた(2)

(2) 酪農家たちは、牧草地にはあちこちに窪みがあるため、周りよりも雨水が多くたまり、放射能の強いホットスポットができやすい場所があることに気づいていたが、専門家たちの調査はそうした違いを考慮していないように見えたのである。また調査結果も「平均値」しか公表されなかかったため、酪農家たちのこの疑いはさらに強まることとなった。ちなみに「平均値」によって、測定値の重大な変異(ばらつき)が隠されてしまうという事例は、このような危険事象の調査ではよくあるようだ。たとえば今年(2001年)初めに明らかになった有明海ノリ被害で農林水産省が開いた第三者委員会では、委員会に提出された諫早湾の干拓堤防閉め切り後の環境庁による潮流速度の測定結果は「平均値」しか示されていなかった。それを見る限りでは閉め切り前との差はあまりなかったのだが、実際には潮の満ち引きによる潮流速度の最大値・最小値を閉め切り前と後で比べると最大40%もの違いがあったことが分かっている。(京都新聞, 2001年3月26日1面。)

 このような事実には、いかに科学的知識といえども、やはり先に述べたようなローカルノレッジの一つに過ぎないかがよく示されている。たしかに科学者たちが前提とした「アルカリ性粘土質の土壌」というモデルが現地にあてはまるものだったなら、その予測は成功しただろうがそうではなかった。また調査対象が実験室のものならば、実際にアルカリ性粘土質の土壌を用いて、予測どおりのを結果を出せただろうが、現実相手にはそんなわけにはいかない。また、調査にかかわった科学者たちはあくまで物理学系の専門家であり、土壌の化学的な性質やその調査については素人の一人に過ぎなかったという事実は、科学知識というものは、科学者なら誰でももっている共通の知識ではなく、あくまで特定の専門教育を受けた一部の専門家に局在したローカルなものであるという、当り前ではあるが、しばしば見落とされる事実を示している。サンプル調査についていえば、やはり実験室ならば、首尾よく条件をコントロールすることもできただろうが、複雑な現地の環境でそれは難しかったのだ。科学知識を、具体的な現実の状況にこまかく適用することは、不可能ではないにしても、とても難しいことなのであり、それが成功するには、職業的な専門家の専門知識と地元の人々のローカルノレッジをうまく橋渡しし、両者が相互学習する必要があるのだ。

 しかしながらこの事例は、単に専門家の側の「無知」と素人の側の「有識」という、通常の専門家-素人関係の逆転だけを物語っているわけではない。ウィンは、両者のあいだの「知識に対する態度の違い」を指摘している。それは、専門家にとって知識とは、物質世界の予測やコントロールの能力を高めるものであり、知識を獲得するとはこれらの能力を獲得することに他ならないのに対し、酪農家たちにとっては、人間の知識による自然の予測やコントロールにはいつでも自ずと限界があり、人間が自然を支配するよりも、人間が自然に適応するようにすることが智恵だと考えていたという違いだ。後者の点から見れば、断言的な専門家たちの主張は、ひどく傲慢に見えるものなのだ。また酪農家にとっては、牧草地の土壌や羊のことについて専門家から何も相談されず、終始調査の蚊帳の外に置かれつづけたことは、羊飼いの専門家としての彼らの誇りを傷つける「アイデンティティ・リスク」をはらんでいたことをウィンは指摘している。この種のリスクは、当然ながら専門家たちの視野には入っていないものだ。

5.3. 社会学的PUSの論点(2): 科学知識と「信頼」

 ウィンの事例が示すもう一つ重要な論点は、以上のような専門家と素人とのギャップが、専門家や政府に対する酪農家たちの「不信」を大いに育てたという点にある。たとえば、当初の汚染濃度低下予測が間違っていることが公にされたとき、専門家たちも政府の役人も誰一人、間違った予測で酪農経営に多大な損害を被った酪農家に対して何らわびることもしなかった。明らかに誤っていたのに誤りもせず、改めて高圧的な命令を下した役人やその命令に根拠を与えた専門家の姿は、酪農家たちの常識的な倫理観からすればひどく傲慢で、彼らの言うことは信用してはならないとしか見えなかったのである。さらにいえばこの不信の背景には、1957年に起きたセラフィールドの炉心火災事故の経験があった。実をいえば酪農家たちは、1986年に検出された放射能汚染は、実はチェルノブイリ事故によるものだけではなく、セラフィールド事故のものも含まれており、政府は、約30年昔の事故の影響の事実をうやむやにするために今回の事故を利用しているのではないかと疑っていたのだ。しかもセラフィールド事故の事実は、軍事がらみでもあったため長年秘密のベールに隠されつづけていたのである。またチェルノブイリ事故の後の汚染濃度のセラフィールド事故との関係を否定する政府に対し住民が、「それならチェルノブイリ以前の放射能汚染調査のデータを公開しろ」と求めたところ、現地のデータの代わりに全く関係のない土地のデータを出すという一幕もあった。

 このような専門家や行政に対する人々の不信が、リスクなど科学的情報の伝達と理解を必要とする科学コミュニケーションの大きな障害になることは、いわゆる「リスクコミュニケーション」の分野ではよく知られたことである。しかしここで重要なのは、しばしば見られるように、そうした不信を、「素人」の側の無知ゆえの「感情的反発」と理解してはならないということだ。というのは、不信や信頼は、リスクが懸念される技術や行為の主体や、それに関する情報の提供者の個人ないし組織としての社会的信頼性に関する倫理的・道義的判断の結果であることが多いのであり、その判断は、全く無根拠な情緒的反応であるどころか、理性的な社会人としては、極めて合理的な判断だともいえるからだ。

 たとえば遺伝子組み換え食品(GM食品)に対して欧州で広まっている否定的態度は、しばしばGMメーカーやアメリカ政府によって、GMに対する科学的理解を欠いた感情的反応と揶揄されることが多い。しかし、とくに1998-9年に、消費者のみならず、大手マーケットから英国王室のチャールズ皇太子まで巻き込んだ反GMキャンペーンが燃え上がったイギリスの国民の場合には、それ以前に、人に対する狂牛病の影響に関する専門家の誤診という手痛い経験があり、専門家や政府の判断を鵜呑みにすることは不合理なことになりやすいという判断が、GM問題でも働いたといわれている。ありていにいえば、20世紀後半を生きてきた人間にとって、政府や政府お抱えの専門家が言うことは眉につばをつけて聞かないといけないというのは、極めて健全な社会常識であって、何の疑いも抱かず素直に専門家や政府の言うことを聞き入れるのは、たとえそれが結果的に正しいものであったとしても、愚かであろう。

 ここで重要なのは、『科学を誤解する?』所収の論文“Science and Hell's Kitchen: local understanding hazard issue”でアーウィンらが指摘しているように、当該のリスク事象に関する非専門家である一般の人々にとっては、その事象に関する専門的でテクニカルな事実に関する議論よりも、その事実の背後にある社会的・産業的プロセスに関する広範な議論のほうが大きな関心事だということだ。そしてそれは、単に素人は、専門的知識がないために、リスクや科学・技術に関する専門的な内容よりは、(その上辺である)社会的背景に関心を寄せるのだというふうに理解してはならない現象だ。実際、多くの専門家はそのように考え、「素人は上辺ばかり見ている」と文句をいうものだが、実をいえば、社会的プロセスを専門的内容から切り離し、「上辺に過ぎない」とみなすこと自体が、社会的脈絡全体から見ればその一部に過ぎない専門家集団に固有の見方だともいえるからだ。

 最も重要なポイントは、何が科学的情報の「有意味な内容」なのかということ自体が、社会的文脈に応じて変わりうるということだ。いいかえれば、非専門家にとっては、専門的事実の背後にある社会的プロセスまで含めて「科学的情報」なのであり、両者を切り離して「事実」の部分だけに「科学的」のラベルを貼ることは恣意的選択でさえあるということだ。そして、そう考えられる理由には大きく分けて二つの論点がある。

 一つは情報の「中身」に関する論点だ。つまり、その分野の専門家ではない人々にとって科学的情報の重要性や意味は、彼/彼女らの行動やそのための判断材料として有用かどうかで縁取られるということである。要するに「専門家が伝えたい知識」と「市民が知りたい知識」は必ずしも一致しないのである。たとえばある化学物質の健康リスクを懸念し、もしもそれが有害であれば何らかの運動を起こしたい人々にとって重要な情報とは何か。もちろんその物質が実際に有害であるか、有害であるとすればどれくらい有害なのかは必要な情報だが、化学の専門知識は必ずしも重要ではない。彼/彼女らが第一に欲しているのは、その物質による被害を避けるための行動をとるべきかどうか、とるとすればどんな行動かを判断するための情報だからだ。アーウィンによれば、人々が第一に求めるのは、彼/彼女らが置かれた状況のなかで、自らの生活に対するコントロール可能性を高めたり、状況を変えるための力となりうる情報だ。情報の重要性や内容の選択は、この行動可能性によって判断されるのである。また、当該の事柄についての職業的な専門家以外の多くの人間は、それぞれの生活や職業における活動に専念しているのであり、専門家と同等の知識を身に付ける時間と労力を割くことは極めて難しい。もちろん、自ら努力して「専門家」になってしまう例はたくさんあるし、そうなれば独力で判断を下すことが容易になるが、すべての人にそれを期待するのは空想的だ。しばしば専門家は、素人はちゃんと理屈を理解しようとしないで結果ばかり知りたがると嘆くが、それはいささか傲慢な期待ですらある。リスク回避行動のための判断材料という点では、より詳しく信頼できる情報を得るには、どこの誰にコンタクトすればいいのか、どのように運動を組織したり、どのように議員に働きかけたらいいのかといった知識のほうがずっと重要なのだ。また、問題となっている化学物質に関する専門的な情報が必要な場合にも、人々が必要とするのは、彼/彼女らが生活する個々の具体的な状況のなかでのその化学物質の振る舞いであって、実験室の理想化された状況での振る舞いではないし、また細かく細分化された専門分野の個別知識ではなく、具体的状況に係わるすべての知識が必要とされるのだ。同じ化学物質をめぐる情報でも、ひとたびそれが具体的な状況や社会的文脈のなかに置かれると、必要とされる中身は違ってくるのである。

 もう一つ重要な論点は、上でもふれた「信頼できる情報を得るにはどの情報源にコンタクトすればいいか」という「情報源の信頼性」の問題だ。上でも述べたように、大多数の人々は自ら当該分野の専門家になる時間的・労力的な余裕はない。誰にとっても利用可能な時間や資源は有限だという「機会費用」の壁があるからだ。そうなると、自ら独力で情報の信頼性を判断できない人々は、「どの組織や個人が信頼できる情報源なのか」を判断しようとする。さきに一般市民は、事実よりも、事実の背後にある社会的・産業的プロセスに関心を寄せるというアーウィンの指摘にふれたが、それはまさにこの情報源の信頼性を判断するためだ。仮に専門的な中身を理解しようとする場合でも、いったいどこの情報源の専門的情報がより信頼できるのかが分からなければどうしようもない。そして、情報の信頼性を判断するために情報源の信頼性を吟味することは、実は専門家と呼ばれる人々においてもありふれたことである。専門家といえども、よその分野については素人であるし、自分の分野の事柄でも、よほど重要なものでなければ、自ら推論や実験を検証することはない。たとえば権威ある学術誌に掲載された論文だからということや、その論文著者の所属する機関が信頼できるところだからその内容を信頼するということはかなりある。もちろん、やろうと思えば自ら検証できる能力を持っていることが専門家の品質証明であるし、実際、自らの研究の決定的な部分に他者の成果を利用しようとする際には、その成果が本当に信頼できるものかを吟味できなければならない。とはいえ機会費用は誰にとっても限られているのだ。いわゆる職業的な専門家とそれ以外の人々のあいだの最大の違いは、おそらく前者には学術誌等における「ピアレヴュー(peer review: 専門仲間による評価)」によって集団的に情報の品質管理が、完全ではなくともかなりの程度なされており、信頼できる情報源が比較的確定しているのに対し、後者の場合にはそうした「情報源の格付けメカニズム」が存在しないことだろう。

5.4. 社会学的PUSの論点(3): 専門家と一般市民の協力関係、相互学習、エンパワメント、媒介的専門性の重要性
  ― 生きた「科学リテラシー」とは?

 最後にもう一点、社会学的PUSにおいて重要な論点を述べておこう。それは、科学コミュニケーションとは、情報のやり取りだけでなく、より積極的に専門家が、一般市民を、科学・技術活動の主体的担い手としてエンパワメントし、両者が協力して市民が抱える問題に取り組む実践まで含まれなければならないということだ。先にのべたサイエンスショップやコミュニティ・ベースト・リサーチ(CBR)は、そうしたコミュニケーションの実例だ。実際、これらの実践では、単に科学・技術の専門知識のみならず、これこれの問題ならばどこの研究機関や専門家、弁護士に相談すればいいかに関するネットワークやデータベース、運動を組織したりロビー活動するためのノウハウを提供している。筆者が2000年3月に取材したアメリカ・ボストンにあるJohn Snow Institute環境衛生センターというNPOは、ボストン大学所属の公衆衛生の専門家以外に、そうしたデータベースやノウハウに関するスペシャリストからなる六名のスタッフによって運営されていた。そうした実践の中でこそ、相互学習を通じて職業的専門家が持つ専門知識と、市民(=平専門家)がもつローカルノレッジや問題関心、ニーズとの橋渡しが行われ、実質的な信頼関係が構築されうるし、反対に、相互学習と信頼の構築が、両者の協力が成功する条件でもある。とくに相互学習については、アメリカのCBRの活動状況をまとめたロカ研究所の報告書Community-based Research in United Statesが、CBRの最も重要な特徴であり、成功の必要条件であると指摘している。

 そのような相互学習において特に重要なのは、「問題の翻訳」というサイエンスショップ/CBRの媒介的働きである。なぜなら、大多数が科学・技術の素人であるクライアントが依頼してくる問題は、基本的にはそのままでは専門家がその専門分野の知識や方法論を用いて扱えるような形では定式化されていないため、ともすれば依頼を受けた専門家が、自分の専門の慣れ親しんだ観点から問題を不適切に定式化し、クライアントが望むものではない答えを返すということになりかねないからだ。いいかえれば、専門家と市民の媒介者としてのサイエンスショップ/CBRの運営者にとって絶対不可欠の「専門性」とは、クライアントがどんなイシューについて、何をどのように問題視しているのか、どんな解決を望んでいるのかを的確に把握し、専門家が理解でき、専門的取り扱いが可能なかたちに翻訳する能力、「媒介的専門性」なのである。

 「現代のように科学・技術が生活の隅々に行きわたった社会では、その便益とリスクを理解し、的確な判断をするために、誰もが科学リテラシーを身につけなければならない」とよくいわれる。しかし、先にものべたように、誰もが科学的リテラシーを身につけられるわけではないし、そもそもこれだけ広範で多様な科学・技術について、どんな科学リテラシーをどれほど持てばいいのかは、今のところ全く明らかではない。市民に必要な「科学リテラシー」とはそもそも何なのだろうか。これを考えるには、少なくとも、社会学的PUSの研究調査やその成果を、専門家の視点に偏りがちな従来の啓蒙主義的なPUSのなかに取り込み、活かしていく必要があるだろう。この点で、啓蒙主義的PUSと社会学的PUSは相補的だといえる。

 また近年日本では、科学・技術の専門的内容を分かりやすく一般の人々に伝え、また後者の問題関心や期待を前者に伝える「インタープリター」が必要だという意見をよく見かける。しかし多くの場合それは、マスメディアや講演会、あるいはインターネット等を通じた不特定多数の専門家と不特定多数の一般市民のあいだでの「具体的コンテクストを欠いた翻訳」にすぎず、科学・技術が、真に市民の懸念に応え、望まれる解決に寄与する「生きた知識」になるには、あまりに漠然としすぎているように見える。いったい誰のための科学コミュニケーションなのか。そもそも上のような科学的リテラシー論の言い回しには、裏返せば「科学的リテラシーをもたないで損をしたとすれば、それは自己責任ですよ」というネオリベラリズム的な勝手さ、要するに結局は弱者の泣き寝入りを強要するかのような響きすら感じなくもない。大多数の人々は科学・技術について弱者であらざるをえない現実がある以上、CBRやサイエンスショップのような市民のエンパワメントを担う組織やそのネットワークがもっと増えなくてはならないだろうし、それに積極的に協力する大学等の職業的専門家の数も増える必要がある。

 さらには以上のような実践をするには、当然ながら財政的な支援も不可欠である。原子力問題の分野で市民に情報提供や専門家との協力関係の構築をすすめてきた原子力資料情報室と高木学校では、2000年秋に亡くなられた元代表の高木仁三郎さんの遺言に従い、市民による研究調査活動を支援するための「高木基金」を創設している。国が職業的研究者に与える科学研究費(科研費)に対するいわば「草の根科研費」の創設だ。今後、こうした基金の創設はますます必要となってくるだろう。またアメリカでは、NGOや地域住民の研究調査活動を支援する助成金を連邦政府の省庁が設けているケースがある。たとえば環境保護庁(EPA)には、実施・応諾確証局(Office of Enforcement and Compliance Assurance)環境正義課(Office of Environmental Justice)が用意している「小規模コミュニティグループのための環境正義助成金」Environmental Justice Grants to Small Community Groups (総額$2,000,000 -$2,500,000、一件上限$20,000)や、地域コミュニティグループと大学研究者との共同作業を支援する「環境正義に関するコミュニティと大学のパートナーシップ助成金」Environmental Justice Community/University Partnership Grants Program (一件上限$250,000)、汚染予防・毒物局「環境正義汚染予防助成金」(EJ Pollution Prevention Grants)、廃棄物・緊急対応局のSuperfund Technical Assistance Grants for Citizen Groups at Priority Sites (総額$1,000,000 - $2,000,000、一件上限$50,000)などがある(助成金リストはこちら)。また他省庁も含む助成金リストは、調整局(GSA)のインターネット・サイトや、EPAを含む独立行政官庁のものについては、保健省(DHHS)のサイトにある「連邦国内助成カタログ(Catalog of Federal Domestic Assistance: CFDA)」に公開されている。EPAだけでも50近いプログラムがある。またロカ研究所のインターネットサイトにも、各省庁が提供している助成金の簡単なリスト(1999年11月現在)がある。行政機関からの助成金には、その採択過程の透明性や中立性・公平さの点で注意しなければならない点があるのはもちろんだが、少なくとも地方自治体レベルでこういう制度を設けることは重要だろう。


Last updated: May 15, 2001

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