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これらについて以下では、日本の状況とも比較しつつ、米国システムのポイントと、その問題点をまとめる。
日本と比較した場合に顕著な米国システムの特徴は、第一に、行政手続法(APA)や連邦諮問委員会法(FACA)など明確な手続き規則によって、規則策定など意思決定プロセスを厳格にコントロールし、その手続き的な正当性を確保しようとする姿勢である。
ドイツのテクノロジー・アセスメントの研究にも携わっている環境社会学者O. Rennによれば、公共政策に専門家・専門知識が活用される形態には、国家間に違いがあり、おおむね、
① 対抗型(米国)、
② 信託型(英国、南欧)、
③ 合意型(日本)、
④ 協調組合型(北欧)
の四形態があるという(Renn 1995)。しばしば科学論争が法廷に持ち込まれ、厳しい対決関係が目立つ米国にみられる①の特徴は、公共の監視に対してオープンであり、政策選択の根拠の科学的妥当性が強く要求され、明確な手続き規則に従って運営される。これに対し②の信託型では、王立協会やアカデミーなど特定の専門家集団の閉じたサークルに問題が一任され、手続き規則がない。③の合意型は、密室で合議が行われ、手続き規則は流動的であり、日本の審議会制度はこれにあたるとされている。④の協調組合型は、利害団体ごとに専門家を雇い、その専門家同士で議論を闘わせるもので、北欧に見られるタイプだという。ただし近年は、米国は、コンセンサス志向という点で合意型の要素を取り入れ、日本では公開性が重視され始めていることが指摘されている。
米国の諮問委員会制度の基本精神は、「最良の専門家による最良の判断」である。これは、今回の全米科学アカデミー(NAS)での聞き取り調査でも強調されていた。もちろんこれは、いずれの国でも同様であろう。しかし米国ではこの精神を実現するために、上のような法的枠組みのもとで、かなり徹底して意思決定の公開性を保つことによって、プロセスの透明性、科学的見解や利害関心のバランス、委員会の独立性を確保する努力をはらい、その結果として社会的な信頼性を得ている点が注目に値する。情報公開(透明性)一つをとっても、連邦公報やインターネットを駆使して公表されている文書の数には目を見張るばかりである。日本でも近年、審議会議事録や行政文書が数多くインターネットで公開されるようになり、またSteinとRennが高く評価しているように(Stein & Renn)、原子力部門の委員会などが公開で行われるようになってきている。とはいえ、審議プロセスの公開性・透明性については米国の徹底振りにはまだまだ及ばないといえる。またさまざまな公開シンポジウムや公聴会などに召集される「専門家」の専門的資質や利害関心のコミットメント、あるいは司会のあからさまな誘導的行為に対する疑義は根深いのが現状だろう。
また委員の人選で、候補者の学術的評価や専門性が重視されるのは当然ながら、非公式なガイドラインでありながらも、民族性やジェンダー、出身・居住地・所属先の地理的分布に関するバランス(EEEG基準)まで考慮する点も重要だ。科学的見解や、学術的および社会的な利害関心の相違を考慮しているところも同様である。ジャザノフによれば、委員会は、さまざまな専門的能力とさまざまな利害を代表する意見が結びついた場であり、実際、大部分が大学研究者から構成されるEPAのメンバーには、産業界や環境衛生NGO所属の専門家も含まれている。
このようなバランス重視の根底にあるのは、全米科学アカデミー(NAS)の訪問調査から明らかになった、専門家もまた一般の人と同様に、科学的見解やそれとしばしば結びついた価値判断が端的に中立的であることはなく、委員会全体としてバランスをとることによってしか中立性は保たれないのだ、という専門家観である。これに従いNASでは、専門委員会委員の選出にあたって、ノミネートされた専門家一人一人の「バイアス・チェック」が行われている。候補者は、過去にどのような機関や団体から研究助成金をもらっているか、過去にどのような方面のどの雑誌で、どのような内容の文章を書いているかなどを、「ノミネーション・パッケージ(Nomination Package)」という書類にまとめて提出しなければならないのである。これに基づいてNASのスタッフは、バイアスをもった人を排除するのではなく、委員会全体としてバイアスのバランスがとれるように、"EEEG"の観点も含めて、いろいろな立場の人を選ぶのである。また、いわゆる「声の大きな人」は、委員会メンバーとしては、討論・審議のうえで問題があるので、委員会からは外すが、その代わりに、委員会の審議結果に対する外部レヴューを行なう人としては最適なので、そちらの役に回ってもらうのだという。今回の調査では確認できなかったが、このような方式と同様のバランス調整が、EPAでも行われているものと推測される。FDA(食品医薬品管理局)での人選方式ではノミネーション・パッケージ方式が採用されている(IOM 1992)。
ジャザノフによれば、「『中立的な』専門家というのはせいぜい都合のいい作り話に過ぎない。さまざまな観点をバランスさせることが、委員会の不偏性という外観を確保したい省庁にとっては本質的なことなのである」(Jasanoff 1990, p.93.)。今回のインタビューでもジャザノフは、米国の科学諮問委員会制度の第一の哲学は、「最良の専門家による最良の判断を得ること」だが、同時に「政治的に受け入れ可能な最良の専門家の判断を得ること」が暗黙の前提なのであり、「科学の中立性」や「専門家であること」が一方で強調されながらも、その背後では、何が政治的に受け入れ可能か、何が中立的でバランスのとれた状態なのか、何が適切な代表なのかという政治的イシューが常に問題となっていると指摘していた。もちろんこうした緊張関係は、どこの国でも存在している。しかしながら米国では、この緊張関係が「科学・専門家の中立性」という見かけに隠されることなく、上述の法的枠組みを根拠に、表立ってその問題を争うことが可能になっているところが、とくに日本の状況と比較した場合に特筆に価するだろう。Rennらの指摘によれば、米国市民がおおむね諮問委員会に信頼を寄せるのは、専門家そのものや政府・行政に対する信頼というよりも、むしろ諮問委員会法(FACA)のような制度に対する信頼に基づいているのだという。
下表は、「専門家イコール中立的」という「中立性の神話」がある場合とない場合では、科学的判断と政策判断の結果の妥当性や、人々がそれによせる信頼の程度に大きな違いが生じうることを示したものである。もちろん、神話がないからといって、いつもうまくいくとは限らないし、信頼があればいいというものでもない。
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いろいろなバイアスを持った人を集め、委員会全体でのバランスをとる。 | とくにない。(「専門家=中立的」と考えているから、そういう方法を用いる必要を認識していない。) |
科学的妥当性 |
科学的見解のバイアスがチェックされやすく、高い妥当性が確保されやすい。 | 「中立性」という装いのもとで科学的見解のバイアスが見過ごされ、誤った事実認識が、何ら批判や修正を受けることなく政策根拠に使われやすい。 |
政策的妥当性 |
価値的偏り(バイアス)がチェックされやすく、高い妥当性が確保されやすい。 | 価値的偏り(バイアス)が見過ごされ、特定の立場の価値や利害にのみ奉仕する政策が生まれやすい。 |
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社会から信頼されやすい。 | 専門家と行政に対する不信の増大。 |
以上のような諮問委員会制度がはらむ政治的次元の問題に加えて、より専門的次元に属する問題もジャザノフは指摘していた。それは、レギュラトリー・サイエンスが扱う問題は、専門分野ごとに分化して行なわれる通常の学術的な研究に比較して、非常に複雑で混迷した議論にならざるをえないだけでなく、比較的短い期間に膨大な量の文献をレヴューせねばならないことや、有能な専門家ほど仕事が集中し、十分な時間をとれないという問題である。この点でも「何が最良の専門家の判断か」という問題は、常に未解決の緊張をはらんだものになっているのである。
さまざまな専門的能力とさまざまな利害を代表する意見が結びついているのは、諮問委員会だけではない。規制政策に専門的インプットを行う源もまた多元的であり、全体として、さまざまな科学的見解と利害の代表が行なわれ、クロスチェックを通じてのチェック・アンド・バランスの体制になっているといえる。専門家といえども、科学的見解は一様ではなく、潜在的には常に論争があり、価値判断や利害関心の相違に基づく対立関係もあるとすれば、科学的妥当性を高めるメカニズムは、究極的には、システム全体レベルでの相互批判、クロスチェックによるバランス確保しかない。
もちろんこの体制が、自動的にベストな結果を生むわけではないし、そもそも何がベストな結果かが、この体制の中で常に問われ争われている問題である。しかしながら、政策形成への専門的インプットが、ほぼ行政機関内部の審議会からのものに限られ、議会や法廷など、公にクロスチェックし、議論を闘わせる場が少ない日本の状況と比べると、大いに注目すべき特徴だろう。
このような違いが生じていることには、次の二つの要因があると考えられる。一つには、Rennらが指摘しているように、学術会議など日本の専門家団体が、政府に対する独立の助言組織として積極的に機能してこなかったことがあるといえるだろう(Stein & Renn)。第二に、米国と比べると、環境衛生NGOや市民・住民グループの科学的キャパシティが、全般的にまだまだ未成熟だということがある。大学等の研究者との協力関係も、希薄なのではないだろうか。これらについては、米国のようなNGOや市民向けの研究・調査助成制度が日本でも必要であろう。
ところでジャザノフによれば、確かに米国では、規制政策立案過程への利害関係者や市民参加が重視され、奨励されてはいるものの、では、いったいどのグループが、政策立案過程の場で市民一般の関心や必要、利害を代表しているのかという問題は、常に未解決の大問題なのだという。この点は、近年徐々に市民参加が進められてきている日本でも今後重要な問題となってくるであろう。
日米のレギュラトリー・システムを比較してもう一つ注目すべき米国の特徴は、科学的・技術的な論争も含めた紛争の解決の場、チェック・アンド・バランスが機能する場として、法廷が大きな役割を担っていることである。ジャザノフによれば、「対決型」という米国レギュラトリー・システムの特徴は、何よりも、法廷が規制政策策定の最終的なステージになっていることにあるという。そこでは、先にも述べた専門家と利害の結びつきや、異なる立場や科学的見解のあいだでのクロスチェックの重要性が、最も明確に意識されており、これに比べると省庁ではむしろ、科学的判断や専門家の中立性が素朴に信じられている面が強いとも指摘していた。(ただし近年では、裁判所でも、科学の中立性を素朴に想定する考え方が現れてきており、クロスチェックの必要性・意義を認めない傾向があり、問題であるとジャザノフは指摘していた。)
ジャザノフによれば、法廷が規制政策の専門的論争の解決の場であることの利点は、第一に、争われている問題が明確にされ、米国市民にとって重要な徳である「公の日の光のさらざれた裁定の場("Day in Court")」が与えられることである。さらには、陪審員制ゆえに、専門的議論が非専門家である陪審員の目にさらされることによって、専門家が気づかない社会的・技術的に問題のある議論の前提があらわにされることも法廷論争の利点だという。
しかしながら同時に、次のような問題点も法廷はかかえている。一つは、法廷ではどうしても原告と被告が対決的になり、論争の収束・合意形成に時間と資源があまりに多く費やされがちになるということがある。第二に、法廷論争では「勝てば官軍」という結果になりやすく、必ずしも真によい結果が得られるとは限らないという問題もある。(ただし、法廷論争に持ち込まれなければ、より頻繁にこの問題が発生する度合いは大きくなる。) 第三に、一般に訴訟には多くの費用がかかるため、誰もが法廷論争にもちこめるわけではないという問題もある。さらにいえば、科学について素人である陪審員や裁判官が、どこまで専門的な内容を理解した上で判断を下せるのか、という問題もある。
とはいえ、やはり法廷は、規制政策、レギュラトリー・サイエンスの正統性の追及にとって良いものであるとジャザノフは指摘している。
また、92年以降のレギュラトリー・システム改革(補遺2参照)では、訴訟の数を減らし、円満に利害調整を行うために、利害関係者間の対話が重視されているが、それにもかかわらず訴訟数は全体として減少してはいないことを示す調査結果もあるとジャザノフは指摘していた。この点でも、法廷が規制政策策定プロセスの中で果たしている役割の重要性が伺われる。
他方、日本の状況はといえば、原子力発電所建設の差し止め請求裁判に見られるように、法廷は、行政の手続き上の正当性を審査するのみで、技術的内容の是非については判断を差し控える傾向がある。チェック・アンド・バランスがはたらく場として法廷が機能していないのだ。また日本では、行政を相手どった裁判では、原告適格の部分で門前払いをくらう割合が高く、法廷という公の科学論争のための場自体が開かれにくいという面もある。また、そもそも米国は、いわゆる訴訟社会であるのに対し、日本ではそうではないという違いもある。
先にも述べたように、規則策定にあたって手続き規則による法的コントロールを明確に定め、専門的インプットが多元的・多重的な米国の規制システムが、そのまま「内容」の面でもベストな結果を出しているということはできない。
そもそもインプットの多元性といっても、とくに環境衛生保護を志向する団体や市民の立場からのインプットに関しては、まだまだ不十分なものでしかないのが実情だろう。
実際、本調査の一環で訪れたコミュニティ・ベースト・リサーチを実施しているNGOでも、そうした不満が聞かれた。また遺伝子組み換え作物の安全性をめぐっては、環境保護庁(EPA)や食品医薬品管理局(FDA)のリスク評価に基づく米国政府の見解は、欧州連合諸国や第三世界諸国と鋭く対立している。たとえば6.3.(2)で言及したように、環境保護庁の科学諮問委員会(SAB)には予防原則的な考え方があるとされている。しかし、遺伝子組み換え作物をめぐる国際的な論争のなかでは、欧州連合や第三世界諸国こそが予防原則を重視し、これに対し米国は、論争相手の主張を「健全な科学(sound science)」に基づかない政治的主張だと斬って捨てる傾向が強い。また、全米研究評議会(NRC)のリスク評価・管理のパラダイムでは、リスク問題の社会的側面も重視することが盛り込まれているが、たとえば生物多様性条約バイオセイフティ議定書交渉での論争を見る限り、米国をはじめとする遺伝子組み換え作物輸出大国は他陣営から社会経済的影響の考慮が足りないと批判されている。仮に、SABなどピアレヴュー組織において、かなり徹底したかたちで専門的見解や利害の「バランス」が考慮されているとしても、そこに参加する専門家集団の見解が、全体的に見て開発者よりに重心が寄っている可能性も疑えないわけではないだろう。米国システムに幻想を抱くことは決してできない。
しかしながら、国際的利害が絡まない国内の状況では、少なくとも異議申し立てや紛争解決のための場として法廷が大きな役割を果たしている点は、やはり注目に値するだろう。不確実性や可謬性、更新可能性という科学知識に常につきまとう限界性を考えれば、本論のテーマである「専門的インプットの正統性」とは、根本的には、そうした異議申し立ての可能性が、少なくとも制度的に保証されていることだといえるからだ。もちろん自ずと司法システムにも限界はあるのは当然だが、できるかぎりそのポテンシャルを引き出す努力には価値があるだろう。
なお今回の調査では、規制政策への専門的インプットのあり方が主眼におかれ、これ以外の面での一般市民や利害関係者の役割については調べることができなかった。今後の重要課題としたいところである。また、専門的インプットの面でも、環境保護団体や産業界からのインプットの実態についてより詳細な調査が必要だろう。