好きな言葉 = 「異種混淆」、「呉越同舟」、「同床異夢」。。。
なぜかといえば、それが「社会」だから。
そんな社会の中で、どうやったら殴りあわずに共存できるかを考えること。それが政治であるはず。
(反対に、同質的な社会、意見や思想が一致した社会というのは悪夢である。なぜならそんな社会は、一致しない者たちの存在の否定の上、他者を殴り倒したうえでのみ成り立つのが必定であるから。)
「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。」(6.44)
「科学上のありとあらゆる問題に解決が与えられたとしてもなお、人生の問題はいささかも片付かないことを我々は感じている。
もちろんそのとき、すでにいかなる問いも残っていない。まさにこれこそが解答なのだ。」(6.52)
(L.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』, 法政大学出版局、198頁)
「希望の組織化」 (高木仁三郎)
「マイナーを記述してはならない。マイナーは記述する側であって、記述されるものではない。社会運動にとってこのことは大変重要なことだ。なぜなら、マイナーだけが、社会運動の意義を正しく評価するからである。マイナーな性、呼び名を持たない民族、ある固有の身体、切断された系、デタラメな文法、etc. 運動の正当性は、マイナーに依拠している。運動がマイナーを束ねるのではない、マイナーが運動を評価するのである。」
「またこのことは、社会運動の横領である住民参加型行政との緊張の中で語られている。女、子供(若者)、老人、その他諸々のマイナーが、運動に奉仕するべき資源として束ねられたとき、私たちは、さらに呼び名のない民族へ潜行することを余儀なくされる。そうした仕打ちを受けながら、しかしけっしてマイナーを手放すことはできない。なにが正当でなにが不当かを認知するのは、一人のデタラメなマイナーである。消費と労働と国家それぞれを評定し正当性を与えるのは、愛と生産と社会である。なにかが「わかる」ということに意義を与えあるいは却下するのは、なにかを「わからない」力である。この序列を転倒させてはならない。つまり、ある動員に従うか拒否するかに、なんの言い訳もいらないということだ。」
(矢部史郎・山の手緑『無産大衆神髄』, 河出書房新社, 「あとがき」より)