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都市型保守vs都市型リベラル

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なんで、あそこまでデタラメで無内容の発言(?)を繰り返しても、またその政策の行く先によって一番ボラれるのは自分たちであるはずなのに、コイズミ支持者はますます熱狂的に指示に傾いていくのか、いつも不思議に思う。「人生いろいろ」とかホザいても、へたれマスゴミが「ワイドショー化」して全力でバックアップしちゃうってのもあるんだろうけど、「不安な現在と未来に耐えきれず、(一見)明快でスカッとしたものを求めてしまう」というある種の心理機制もあるんじゃないかと思ってた。

そのあたりを、今日のMIYADAI.COMのエントリーは、うまいこと説明しているように思う。以下、その抜粋。

MIYADAI.COM民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)

要するにコイズミ支持者というのは、伝統的な自民党支持層であったバラマキ政治=日本的再配分政治に依拠してきた「旧保守=農村型保守」に代わって90年代以降台頭してきた「新保守=都市型保守」であり、それは、「過剰流動性と生活世界空洞化で不安になって『断固』『決然』の言葉に煽られる『ヘタレ保守』」だというのがポイント。 彼らがコイズミを支持してしまうのは、そういう威勢のいい言葉が「気持ちいい」という「カタルシス」からだというのが宮台さんの診断だ。

で、これに対抗していくにはどうしたらいいかってことなんだけど、宮台さんは、「バラマキ政治を続けたら未来はない」というかねてよりの小泉首相の主張そのものは、「完全に正し」く、「財政赤字を積むバラマキは、もの言えぬ子孫からの収奪で、倫理的に許されない。すぐにやめるべきです」と積極的に支持した上で、次のように述べている。

■でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。
■だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

ちなみに理論社会学の若手、鈴木謙介さん(Soul for Saleブログ主)は、以前、宮台さんは、社会の過剰流動性の耐えられなさに対する「タフネスさ」を志向していると指摘していた。これに対し鈴木さんは、そうしたタフネスに自分はコミットできないといい、その理由として、「やはり人はタフネスへの志向に耐えられないだろう」、「(タフに決断・意思決定をできる主体としての)エリートもまた、無意味なタフネスに耐えかね、結果としてより悪い帰結を導くことになるのではないか」ということと、「タフネスへの志向が、まさに性急な『もう、そうするより仕方がない』という決断を迫り、結果として真の「次善の策」が選択できなくなるのではないか」という危惧を挙げている。

こういう危惧は、少なくとも一般論として、小生も共有するところだ。(文壇エリートだった小林秀雄が、戦争支持の評論を書いたのを、親友であった不遇の天才詩人・中原中也に批判されて、「こうせざるをえないんだぁ~」と決断主義的に応えた――雄々しく思考停止した――という、昔、読んだエピソードを思い出した。)

とはいえ、上記の記事で宮台さんがいってるのは、そういう勇ましそうでいて実はヘタレな決断主義的タフネスではなさそうだ。過剰流動性の情け容赦なさ、希望のなさにブルらず、安易な「決然」にもなびかないタフネスというのは、「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」という、ラクさを下敷きにしたものとして考えられてるんじゃないだろうか。そしてそれは、「希望をもつ力」、「ビジョンを描く力」というタフネスであるように思う。記事の最後は、こう結ばれている。

「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。

まぁ、あとは、旧保守=バラマキ未来収奪政治――もちろん税収の大きい都市から田舎への所得再分配というのはそれなりに必要だが――にも戻れず、このままではジリ貧なだけの地方・農村をどう元気にするかというヴィジョンが必要だということだろうか。

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コメント(4)

はじめてお便りします。私は2003年の12月まで日本にいなかったので、特にイラクの人質事件以来の、小泉首相の言葉とそれに対するマスコミの反応には驚きました。/

米国に賛同してイラクに派遣しためにこのような事件が起こったという流れが、自己責任という言葉の乱用によってとつぜん逆流したり、イラクの状況はわかるはずがないのもかかわらず、自衛隊の行くところは非戦闘地域だったり、権力のトップにいて反対者を火あぶり同然にしようとする者が、ガリレオになったり。/

記者というのは健全な建前の裏に、嘘があるのなら見抜けるけれど、表に出てきた言葉自体がほとんど意味をなしていない場合は、裏を暴きようがないということなのかなとも思います。/

主張自体問題ないのだが、現実とのつながりがねじれているのだと思います。言葉にのみ反応すると、正しいように聞こえてしまいますし、現実との関係を検証するのはなかなか難しいことです。これは、言論が現実を反映するという近代精神の大前提の逆をついていて、なかなかポーストモダンです。/

小泉首相の言葉は思考や議論を不可能にするような言葉だと思います。/

ところで、小泉を新保守とするのはいただけません。なぜなら、保守は何かを守ろうとしているはずですが、小泉首相は何か守るべき者があるでしょうか。郵政改革さえ、それに効果があると若い頃に見つけて切り札として使っているにすぎないと思います。といってもちろん革新でもない。

小泉首相の諸政策で、それなりに一貫しているのは郵政だけですから、郵政で、おこらせて、郵政だけで戦う必要があったのではないですかね。それに、皆で引っかかった。/

要するに、ニヒルなのではないでしょうか、それがまた、ニヒルな現代に現代とうまく波長があっていて、この、無意味で、革新でも保守でもなんでもないところが、現代人の無意識の層に呼応するのではないでしょうか。

ryoさん、コメントへのお返事、大変遅くなり失礼しました。

>小泉首相の言葉は思考や議論を不可能にするような言葉だと思います。

私も、そのとおりだと思います。でも、本来、記者ならば、報道のプロとして、小泉さんが喋る言葉以外のたくさんの情報源や知識から、現実を提示すべきなんですが、今のマスコミはそういう使命をすっかり放棄しているような見えます。毎日、何かあると、首相の「一言」(ほんとに一言、ワンフレーズですね)を、何のツッコミもすることなく無批判にとってくるだけのぶら下がり記者には、怒りすら感じます。まぁ、あれは記者個人の資質の問題だけでなく、記者クラブ制の構造的欠陥の表れでもあるんでしょうけど。

>ところで、小泉を新保守とするのはいただけません。なぜなら、保守は何かを守ろうとしているはずですが、小泉首相は何か守るべき者があるでしょうか。

「保守主義」が何を意味するかというのは、政治学的にいろいろありますが、宮台さんが「新保守」という場合には、小さな政府=>富の再分配の否定=>弱者切捨て・地方切捨て、という新自由主義的な経済的価値と、「伝統の維持・尊重」などの文化的価値観――この「伝統」はでっちあげられたものであることが多いですが――を指してのことだと思います。(この点で旧保守は、文化的価値は新保守と同様でも、経済的価値は、再配分の大きな政府志向で、むしろ左派的でした。)

>要するに、ニヒルなのではないでしょうか、

ニヒリズムというのは、当たっていそうですね。信じられる確かなもの、足場をみんな失ってしまって(これが宮台さんのいう「過剰流動性」の状況ですね)、ナショリナリズムや「官から民へ」など、分かりやすいく見えるもの、確からしく見えるもの、「決然」としたものに、安易にすがりつき熱狂してしまうということが起きているのではないでしょうか。エドモンド・バーク(18世紀のイギリスの政治思想家)の定義したような「保守主義」の考えからすれば、そうした「熟慮/思慮(prudence)」を欠いたものこそ、保守主義の敵なんですが。。(その意味で、新保守は保守主義的ではないですね。)

私も、昔の自民党はは左派的だったと思います。以下現状について少し長くなりますが私の考えをもう少し詳しく述べます。

同性愛結婚や堕胎に対して原理主義的キリスト教の価値を持ち出して反対するブッシュにしても、靖国に着物を着て参拝する小泉にしても、伝統の維持尊重などの文化的価値観を強調する立場をとっているので新自由主義的価値と伝統の維持尊重などの文化価値という対立の図式は部分的にしかなりたたないのではないでしょうか。そこで、新保守という言葉がでって来るのでしょうね。しかし、守るもの待たず、攻撃に特化した小泉政治を新保守というのは、小泉的なナンセンスを含んでいます。

新自由主義は、変化に不満を持つ層に対しては伝統の維持尊重などの文化的価値を主張することで支持を得、現状維持に不満を持つ層に対しては、経済的な合理性を伝統的な構造から解放することで、支持を得ます。しかし、経済的な合理性を伝統的な構造から解放してしまえば、伝統の維持尊重はあり得ないわけです。これは従って無意味なのですが、新保守という言葉を使うと、その無意味性を隠蔽してしまうように思います。この辺のところで、じつは小泉の罠にはまっているのではないでしょうか。

新保守というと、サッチャー、中曽根、リーガンを思い起こしますし、社民党などははっきり、小泉は遅れてきたサッチャーだと言いますが、それなら、遅れてしまったのだから、早くサッチャーイズムを実現して国を強くしなければならぬという論法も成り立つわけです。実はこれらの新保守と新自由主義は、本質的に違うと思います。新自由主義は保守でも革新でもなく、新原理主義だと思います。これはポーストモダンというか、近代の矛盾を極めた新たな専制の形式です。

この点に関して次のような考察をしてみました。

小泉氏は何なのか。もし、党首であるならば様々な党員を代表し、それによって党員をまとめていかなければならないが、小泉氏は自分の主張を党の議員やその他の党員に押し付けて、それに反する者を党から追い出すのであるから、党を代表しているとは言いがたい。

一歩譲って大統領に比することはできるか。大統領は国民の代表であり、国会によって定められた憲法の精神を体現してなければならない。フランスのシラク大統領であろうが、ブッシュであろうが、それなりに、憲法に記されている、自由や人権や民主主義の精神を体現するという名の下に自分の行動を正当化している。全く恣意的ということではない。小泉氏に憲法の精神を尊重してという言葉はない。

彼は自分の主張が憲法精神や党員の主張を超えて、国家国民のためであるということのみをもって、自己を正当化している。党員や憲法に拘束されず、超然として国民や国家のために統治する主体は、帝国憲法下の天皇の役割ではなかろうか。

そう考えてくると、2002年の施政演説で小泉首相が昭和天皇の御歌を引用し、また、自分を信長に例えることの必然性が見えてくる。彼は、信長が望んだように、天皇になって代わり、天皇として行動し発言するからこそ、昭和天皇の御歌を自らの施政演説に取り込んだのであって、天皇の権威を利用しようとしたどころではない。彼に従う党員もいまや、彼を党首として、つまり、自己の主張を代弁する人間として見ているのではなく、彼が天皇的に体現している日本を実現すべき手足となって働いている。

つまり、ブッシュは自分を神だと思っているようだし、小泉が靖国を参拝するのは単なるジェスチャーではなく、信長のように、天皇に取って代わろうとしているのだと思います。国民の代表としてではなく天皇として靖国をするのは、狂気ではありますが、それなりの合理性があります。そして、この点については小泉首相はブッシュ以上だと思います。とにかく、彼らの主張は市場原理主義であるとともに、文化原理主義でもあります。そして、この矛盾するはずの両方がそれぞれに固有の効果を上げて政治すなわち言論の場を否定しています。どちらかだけを見ると間違えます。過去にはヒトラーの例がありますが、状況が違います。いはば、インターネット時代のヒトラーとでも言うべきでしょうか。

さて、宮台さんは、「旧保守=農村型保守」「新保守=都市型保守」「都市型リベラル」とい図式を提示されましたが、以上に見たことから考えると、小泉政治はこのような図式では処理できない政治(政治の否定)ではないでしょうか。現実には「旧保守=農村型保守」「新自由主義=都市型原理主義的専制」「新保守(民主党)都市型保守」という図式で理解すべきだと思います。(保守党の改革勢力と、革新の保守勢力がよってできたのですからそれ以外ありません。)新保守にくらべて、原理主義的専制の方が変化を訴える力は強いので、刷新ばかり強調すると負けます。民主党は、ここで、(新原理主義と言っても何のことかわからない人も多いでしょうから)専制による見た目重視のトカゲのシッポ切りの切り捨ての改悪か、民主主義のルールに則った、政権交代による根本からの改革か、と主張すれば良かったのだと思います。そうすると国民新党を応援することになる可能性があるのでさけたかったのでしょうが、選挙協力をするわけでもないし、主張が類似する部分は類似させても良いのです。

勢いで書いたので、すこし補正させてください。

新保守主義と新自由主義との違いは私が勝手に名付けていることです。新保守主義と呼ぶ勢力も、政策的には新自由主義を取りますので、レーガンとサッチャーはどちらも新自由主義と呼ばれています。そこで、まどるっこしい表現になりますが、表現を変えます。

新保守主義は、旧来の新自由主義、国家的新自由主義もしくは新自由主義的保守と変える。
新自由主義は、新型の新自由主義、超国家的新自由主義もしくは原理主義的新自由主義と変える。

裏にある発想は、新自由主義の政策そのものは国民国家の枠組みで作られたものだが、その枠組みが消耗し、文明の対立という枠組みの中に置き換えられた時、新自由主義は原理主義化する、もしくはその原理主義的正体を露呈するというものです。この変化を正しく把握するためには、原理主義的なパラダイムと保守的なパラダイムを峻別しなければならないという立場から上の投稿をしました。たとえば、フランスで、EU憲法が批准されなかったことの要因の一つには、この憲法が新自由主義的な側面を持つのではないかという危惧があったからですが、この際フランスの保守性が有効に働いて、原理主義化を抑制していると考えています。

この説明はまどるっこしくて大変わかりにくいですね。近代的な概念では捉えきれない状況が発生してきているので少し正確に言おうとすると、こうなります。すみません。


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このページは、hirakawaが2005年8月27日 21:47に書いたブログ記事です。

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