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ファスト風土化とマイホームタウン

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ゼミ生たちの卒論指導も終わり、本屋に行くヒマができたので、ジュンク堂にて『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理』(三浦展・洋泉社)をようやく購入。先日、中学の同窓会で帰省し、繁華街のあまりの衰退ぶりを目の当たりにしてからずっと気になっていた本だ。

それで早速、仕事の合間などに少しずつ読んでいるのだが、読み進めていくうちに、頭の中に懐かしい歌がよみがえってきた。浜田省吾の「マイホームタウン」だ。

小生が高校3年だった1982年、バブルの前、プラザ合意の3年前で、1ドルが240円だった頃に発表されたアルバムPROMISED LANDに収録の曲。シングルカットされて、当時の高校生御用達の深夜ラジオ「ミスDJ」でもよく流れていた。浜省の個人的経験を反映してもいる「故郷脱出願望」を基調にしつつも、それが描き出す「郊外」の憂鬱さの風景は、『ファスト風土化する日本』が描き出す現在の日本の地方の風景と、23年の時を隔てて重なりあい、しかし、バブルの隆盛と崩壊、グローバル化の驀進をはさんだ23年間の決定的ともいえる「ブレ」を感じさせるものになっている。

「いつでもどこでも同じ」ファストフードをもじったという「ファスト風土化」――ジョージ・リッツァの『ファストフード化する社会』からの連想でもある――が意味しているのは、日本全国どこに行っても、同じような大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、カラオケボックス、パチンコ店が立ち並び、地方からその土地固有の地域性、風土が消滅した全国一律の大衆消費社会化である。それは、市街地の外側、かつての農村部に、国道など主要道が作られ、その沿線(ロードサイド)に大型ショッピングセンターその他のチェーン店が建ち並び、そのまわりに新興住宅地(ニュータウン)が広がる光景(地方農村部の郊外化)であり、それにともなって、「シャッター商店街」の出現など、中心市街地が没落していく光景である。市役所など行政組織や病院、学校なども郊外に移転し、それによってますます市街部が衰退するというところも多いらしい。今のところ我がホームタウン太田市は、市役所や大きな病院は中心部に残っているものの、郊外に大型ショッピングセンターが現われ、市街地が衰退しているという光景は、まさに当たっている。(実際、太田市も本書にはときどき登場する。)

そうしたファスト風土化について、本書のもっとも重要なポイントは、ファスト風土化は、単に地方の個性ある町並みや景観を変容・破壊しただけでなく、コミュニティや人々の生活、家族のあり方、人間関係のあり方、人々の心までも変容させてしまったのではないか、とくにここ10年ほどの地方での犯罪発生率の増大は、そうした社会的・構造的背景があるのではないかということにある。この「仮説」の論証は、いま読んだところまでで見る限りは、必ずしも十分なものではないが、とても興味深い洞察である。小生の分析的好みとしても、犯罪問題を、個人の心や家族関係、人間関係だけに還元する――問題を個人やその家族に背負わせる「リスクの個人化(自己責任化/自業自得化)」につながる方向――のではなく、それらと社会環境との関わりのなかに置いてみることは有益だと思う。

それで、浜省のマイホームタウンとファスト風土化の関係だが、先に書いたように、両者には大きく重なる部分があると同時に、無視できないブレがある。それは、次のような同曲の出だしの歌詞にもある。

パワーシャベルでけずった 丘の上いくつもの
同じような小さな家 どこまでも続くハイウェイ
彼等はそこを名づけた 希望が丘ニュータウン
赤茶けた太陽が 工業地帯の向こうに沈んでく

この三行目までは『ファスト風土化・・・』が描く地方都市と同じだが、同書が描く現代では「赤茶けた太陽」が沈んでいくのは、郊外やロードサイドに立ち並ぶジャスコなど大型ショッピングセンターやカラオケボックス、パチンコ屋、ファミリーレストランのかたまりの向こう側となる。(同書によれば、ジャスコなど大型ショッピングセンターは、元は工業団地予定地だったところや撤退した工場の跡地に立てられることが多いという。バブル以降の不況にあえぐ現在の地方都市では、工業団地というのは、いささかノスタルジックな風景なのだろう。)

俺はこの街で生まれ 16年教科書を
かかえ手にしたものは ただの紙切れ
同じような服を着て 同じような夢を見て
瞳の中 少しづつ死を運び込むような仕事に 追われている

ここでは3行目が、おそらく現代的ではない。いまや少年や青年たちは「夢」をもってるだろうか?少し前に、少年たちが同級生の親の金、?億円を盗み出し、飲み食いや遊びで使い果たしたという事件があった。そのとき妻と話していたのだが、犯人の子たち――たしか元・珍走団メンバー――は、そんなお金は自分たちがいくら頑張っても手にできないし、使いまくるなんてできないと「知って」いて、そんな夢も希望もない未来なんて考えたくもないから、ちょっと考えれば、すぐに警察に捕まって余計に未来を手放してしまうようなこともしてしまうんじゃないだろうか。「今夜誰もが夢見ている いつの日にか この街から 出て行くことを」と浜省は歌ったが、この少年たちには、どこに行こうと出て行く先などなかったのではないだろうか。

この点で興味深そうなのが、武田徹さんが今日の日記で紹介している山田昌弘氏の新著『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』だ。こっちはまだ読んでないので、Amazonにある内容紹介をコピペしておく。

職業・家庭・教育、そのすべてが不安定化しているリスク社会日本。「勝ち組」と「負け組」の格差が、いやおうなく拡大するなかで、「努力は報われない」と感じた人々から「希望」が消滅していく。
将来に希望がもてる人と、将来に絶望している人の分裂、
これが「希望格差社会」である。

再び浜省に戻ろう。

ドアをひとつ閉ざすたび 窓をひとつ開けておく
夢と挫折の中を 人はさまよってる
それが彼らのやり方 だけど人の心まで
積み重ねてロッカーの中 ファイルすることなんてできないさ

これの「現在」の姿については、戯言@デルピエ朗さんがうまく言い当てていると思う。

残念ながらこの歌が発表された22年後の今の日本は自ら進んで管理・ファイル・統制・監視・数字化されることを良しとする社会になった。もしくは飽きれたほどの無関心。

もう一つ、現在と82年の大きな違い。

彼女は昼間オフィス・レディ まるでエンジェル
でも土曜のよるは着飾り踊るよディスコ
真夜中ひとり 帰り道の暗がり
誰かがナイフを光らせ 彼女の背に
NO NO NO NO NO !

これも今とは違う。「現在」をもし歌うとすれば、被害者は、いたいけな小学生の少女、せいぜいが女子中学生や高校生だろう。

ちなみにアルバムPROMISED LANDのなかでマイホームタウンの次に入ってる「パーキング・メーターに気をつけろ!」は、ナイフを刺し、「どうか彼女を助けて 俺のナイフがあの娘の背に・・」と叫ぶ犯人の青年の唄だ。なぜ刺したのか、「わからない わからない」と青年はいうが、その理由は簡単だ―「愛していた それだけさ」。この「彼」は、汗まみれで一日10時間働くいわゆるブルーカラー。そんな彼が素敵なOLの「あの娘」を食事に誘ったが、冷たくあしらわれてしまった。そして翌日、その彼女が別の男と腕を組んで歩く姿を目撃する―「嵐のようなジェラシー」。実にわかりやすい犯行理由だ。それは、宮崎勤事件が起きる6年前の歌の世界の話。今は、「冷たくあしらう」ほどの自我も育っていないだろう少女たちが、歪んだ性欲によって誘拐され殺される。殺す側も、デートの相手として、つまり人間関係を結ぶもう一人の生身の人間として相手を見たりはしない。自分より生活の「ランク」が上の彼女とつきあいたいなんていうささやかな上昇志向すら存在しない。あるいは少年や少女が殺人者となってしまうこともある。それは「パーキング・メーターに気をつけろ!」のようなラヴソングでは歌えない世界。

ついでにいえば、82年には、プルーカラーの「彼」を冷たくあしらった「OLの彼女」たちも、今では次第に派遣社員など不安定な非正規雇用の対象、「負け組」にすべり落ちていってたりする。こうした「中流の崩壊」、「階層化」、さらには上昇志向すら非現実的なものとする「階層固定化」のことは、『ファスト風土化する日本』の第六章に出てくる。

こんな時代に、もう一度「マイホームタウン」を歌うとすれば、それはどんな歌になるんだろうか?

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コメント(2)

 生きている実感が希薄になっていることが、目の前の問題だと思っています。
 寒いから火をおこして暖まるとか、お腹が空いたから、冷たい水に手をつけて支度すると言ったことが今はありません。スイッチ一つで部屋は暖まり、温かい食事もとることができます。
 テレビやパソコンのディスプレーからは、居ながらにして多くの情報を得ることができます。
 ゲームで人間関係まで擬似体験できるのですから。

 ゲーム機が発売された年に生まれた子が成人しています。これから親となり子供を育てていくわけですから、不安は増します。

winter-cosmosさん、コメントありがとうございます。

生きている実感の希薄さというのは、想像力、とくに他人の立場への想像力や共感力の希薄さにもつながっていそうですね。なにしろ自分が生きている実感がないわけですから。

ファスト風土化を考えるときも、「生きている実感の喪失」とどう関係しているのかを見ないといけませんね。(おそらく、かなり関係していそうな気がします)

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このページは、hirakawaが2005年1月17日 02:50に書いたブログ記事です。

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